[トップページ] [平成11年下期一覧][人物探訪][210.759 大東亜戦争:和平への苦闘]


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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (100)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成11年8月14日12,155 部発行
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_/_/         人物探訪:鈴木貫太郎(上)
_/_/        〜聖断を引き出した老宰相〜
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_/_/           ■ 目 次 ■
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_/_/    1.イタリアの分裂、ドイツの壊滅
_/_/    2.120万の日本軍がゲリラ戦を展開したら
_/_/    3.どうか親がわりになって
_/_/    4.目に見えぬ大きな力
_/_/    5.鈴木をよく知る米国人たち
_/_/    6.屍を踏み越えて
_/_/    7.ルーズベルト大統領逝去に弔意
_/_/    8.トーマス・マンの感動
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■1.イタリアの分裂、ドイツの壊滅■

   三国同盟を形成した日独伊は、その降伏の仕方においても、三
  者三様であった。
  
   イタリアは、43年7月、シチリアが連合国軍に占領され、本土
  への空襲がはげしくなると、ムッソリーニは失脚。国王が任命し
  た後継のバドリオ政権は、無条件降伏に基づく休戦協定を連合軍
  と結んだ。
  
   しかし、ムッソリーニはドイツ軍の支援を得て、イタリア社会
  共和国を設立し、なおも戦いを続けた。バドリオ政権はドイツに
  宣戦布告をし、同一民族が連合国側とドイツ側に分かれて、同胞
  相撃つ悲劇が展開された。
  
   ドイツでは、ヒトラーが降伏を拒否して、ドイツ軍を勝ち目の
  ない戦さに駆り立てていた。ヒトラー暗殺計画は何度も試みられ
  たが失敗し、また秘密裡の和平工作も実を結ばなかった。最後に
  はヒットラーは自殺し、他の指導者も自殺、逃亡、あるいは逮捕
  され、ドイツは無政府状態に陥った。軍は無統制のまま、各部隊
  が個別に降伏した。全土が連合軍に分割占領され、その後の東西
  分裂の原因となった。[1,p325]
  
   三国の中では、日本のみが統一を維持したまま、条件付き降伏
  にこぎつけた。内外5百万の軍隊が、わずか一日で降伏を受け入
  れ、矛を納めたのは、世界史にも例のない引き際であった。

■2.120万の日本軍がゲリラ戦を展開したら■

   米国は、日本の敗北は時間の問題だとしても、日本軍が降伏を
  受け入れるかについて、危惧していた。

     中国にいる120万人の日本人は、・・・天皇の命令がない
    かぎり絶対に降伏しようとしないだろう。[2,p160]
    
   マーシャル元帥が、トルーマン大統領に語った言葉である。中
  国大陸に展開されていた120万の日本軍は、国民党・共産党軍
  相手に優位に戦っており、負けたという実感をもっていない。
  
   この一部でも降伏を拒否し、広い中国大陸のあちこちで、山地
  や森林にこもって、ゲリラ戦を展開したら、後のベトナム戦争の
  ように、アメリカ軍ですら手に負えなくなったであろう。
  
   内地にも将兵約3百万人がいた。日本政府が降伏を表明しても、
  二二六事件のように強硬派がクーデターを起こし、戦争を継続し
  ていた可能性は十二分にあった。たとえ天皇の降伏命令があって
  も、強硬派は「天皇は和平派に操られている。君側の奸を討て」
  と主張できる。
  
   内外で降伏が徹底せず、いつまでも戦闘が続けば、ソ連軍がこ
  れ幸いと北海道にまで侵入して、ドイツのような分割占領の憂き
  目にあっていたことであろう。

   内外5百万の軍隊がわずか一日で降伏に応ずるという奇跡を生
  み出したのは、昭和天皇の戦争終結の御聖断であったが、それは
  まさに絶妙のタイミングで、絶妙の方法で引き出されたのである。
  79歳の老宰相、鈴木貫太郎によって。

■3.どうか親がわりになって■

   昭和20年4月5日午後10時、重臣会議の決定に基づき、鈴
  木は昭和天皇から組閣の大命を受けた。鈴木は「自分は武人とし
  て育ってきたもので、政治に関与しないという明治天皇の勅諭を
  終身奉じて今日まで来ました。どうかお許し願いたい」と固辞し
  た。
  
   陛下はニッコリと笑われて、「鈴木がそう申すであろうことは、
  私にもわかっておった。しかしこの危急の時にあたって、もう今
  の世の中に人はいない」と言われた。[3,p31]

   4月7日、貞明皇太后へのご挨拶に伺うと、皇太后はハンカチ
  であふれる涙をぬぐいながら、こう言われた。
  
     鈴木は陛下の大御心をもっともよく知っているはずです。ど
    うか親がわりになって、陛下の胸中の御軫念(しんねん)を払
    拭してあげて下さい。また、多数の国民を塗炭の苦しみから救
    ってください。[4,p230]

   鈴木は、日清日露で戦功を上げ、連合艦隊司令長官まで勤めた
  後、昭和4年から8年間、侍従長として、天皇のおそばで仕えた。
  時に63歳、天皇は鈴木の長男と同年であられた。また鈴木の妻、
  たかは、約10年間、幼少の頃の天皇の養育係を務めている。皇
  太后の「親がわり」という異例のお言葉には、このような背景が
  あった。

■4.目に見えぬ大きな力■

   4月6日のニューヨークタイムズは、鈴木内閣の登場を次のよ
  うに報道した。
  
   裕仁、「中庸派」で知られた鈴木提督に組閣を要請
      
  ・・・鈴木は枢密院議長にして軍部過激派の侵略戦争計画の
    反対者とみなされていた。・・・日本問題専門家達は、後継内
    閣は「中庸」の性格になろう、そして合衆国を始め連合国に対
    し和平の打診を試みるのではないか、と予想している。鈴木は
    1936年に日本陸軍の青年将校の叛乱で負傷して以来引退してい
    た人である。[3,p41]

   「青年将校の叛乱」とは、二二六事件のことである。頭部や胸
  部などに4発の銃弾を受けたが、奇跡的に一命をとりとめた。海
  軍時代に3度も死に損なっており、これが4度目だった。
  
     幸運というだけでは説明できない。何かこのほかに目に見え
    ぬ大きな力が、自分の身辺にあって、そのご加護で、当然死な
    なければならなぬような場面に出会いながら、しばしば危ない
    ところをまぬがれてきているように思われてならないのである。
    [4,p24]
    
   と、自伝に書いている。「目に見えぬ大きな力」は、戦争終結
  のために、鈴木の生命を護ってきたのだろうか。

■5.鈴木をよく知る米国人たち■

   二二六事件で襲われた前夜、鈴木は米国駐日大使グルーに招か
  れ、初めてトーキー映画を見るなどして、楽しい一時を過ごした。
  鈴木が首相となった時、このグルーが国務次官となっていた。鈴
  木の人となりをよく知るグルーは、その首相就任自体が、日本の
  和平への意欲を語っているように思えた。
  
   この後、グルーは何度もトルーマン大統領に会って、アメリカ
  側の「無条件降伏」という要求を取り下げる事が早期和平への道
  だと進言している。

   もう一人、鈴木をよく知るものがいた。対日心理戦争を担当し
  たエリス・ザカリアス海軍大佐である。ザカリアスは昭和2年か
  ら5年まで日本に滞在し、当時軍令部長だった鈴木の話をしばし
  ば聞いていた。
  
     鈴木大将が首相に任命され、われわれの最大の希望が実現す
    ることとなった。・・・鈴木大将はよくアメリカを理解してお
    り・・・加えて大将が天皇の側近であることからして、私は大
    将が和平派の指導者になるであろうと確信していたのであった。
    [4,p246]

   ザカリアス大佐は、昭和20年春から13週にわたって日本語
  と英語でラジオ放送を行った。その中で、日本は降伏をすれば、
  大西洋憲章で謳われた「すべての国民がそれぞれの政府の形態を
  選択する権利」を享受することができる、と述べた。これは「無
  条件降伏」とは言っても、この権利までは奪われないとする好意
  的なメッセージであった。[1,p571]

■6.屍を踏み越えて■

   しかし、講和をあせって、イタリアのように分裂し、同胞相撃
  つ悲劇は避けなければならない。かと言って、降伏の時期を逸し
  て、ドイツのように壊滅するまで戦う愚も避けなければならない。
  
   降伏に際してこそ、あくまでも戦い抜く覚悟を見せつつ、国内
  が一致団結して、静かに矛を納めなければならない。首相就任早
  早、鈴木はラジオで、国民に呼びかけた。
  
     戦局かくのごとく急迫した今日、私は大命が降下した以上、
    私の最後の御奉公と考えると同時に、まず私が一億国民の真っ
    先に立って、死に花を咲かせるならば、国民諸君は私の屍を踏
    み越えて、国運の打開に邁進することを確信し、、、[4,p231]

   勝利を呼号するような空疎な言葉は出てこない。自分は死ぬ気
  であたるから、国民はその「屍を踏み越えて」行け、と覚悟を求
  めている。戦後、この言葉の真意を鈴木は次のように述べている。
  
     第一に、今次の戦争に全然勝ち目のないことを予断していた
    ので、大命が下った以上、機をみて終戦に導く、そして殺され
    るということ。第二は、わが命を国に捧げるという誠忠の意味
    から、このことをあえていっただけである。
    
   「国運の打開」とは、終戦後に新しく切り開かれる未来のこと
  であろう。「屍をのりこえて」と一見勇ましく見える言葉の裏で、
  決死の覚悟をもって、国民に語りかけていたのである。

■7.ルーズベルト大統領逝去に弔意■

   4月12日、ルーズベルト大統領が急逝した。15日のニュー
  ヨーク・タイムズは、次のような見出しで読者を驚かせた。
  
     JAPANESE PREMIER VOICES "SYMPATHY"
    (日本の首相、「弔意」を表す)

   "SYMPATHY"とわざわざ引用符をつけている所に、記者の驚きが
  現れている。記事によれば、鈴木は次のように述べた。
  
     アメリカ側が今日、優勢であることについては、ルーズベル
    ト大統領の指導力が非常に有効であって、それが原因であった
    ことは認めなければならない。
    
     であるから私は、ルーズベルト大統領の逝去がアメリカ国民
    にとって非常なる損失であることがよく理解できる。ここに私
    の深甚なる弔意を米国民に表明する次第です。
    
     (しかし、ルーズベルト氏の死去によって米国の対日戦の努
    力が変わるとは思えない、と述べた後で)
    
     日本側としても米英のパワーポリティックスと世界支配に反
    対するすべての国家の共存共栄のために戦争を続行する決意を
    ゆるめることは決してないであろう。[5,p80]

■8.トーマス・マンの感動■

   ドイツの文豪トーマス・マンは、当時アメリカに亡命しており、
  ドイツ国民向けの放送で鈴木の弔意表明に関して次のように語っ
  ていた。[5,p150]
  
     これは驚くべきことではないでしょうか。・・・日本はいま
    アメリカと生死を賭けた戦争をしています。・・・だがナチス
    の国家社会主義がわがみじめなるドイツ国においてもたらした
    と同じような道徳的破壊と道徳的麻痺が、軍国主義の日本で生
    じたわけではなかった。
      
     あの東洋の国日本にはいまなお騎士道精神と人間の品位に対
    する感覚が存する。いまなお死に対する畏敬の念と偉大なるも
    のに対する畏敬の念とが存する。これが独日両国の差異である。
    
   彼の祖国では、ヒットラーが「運命は歴史上最大の戦争犯罪人
  ルーズベルトをこの地上より遠ざけた」と声明していたのである。
  
   ドイツ政府当局は、鈴木の弔電に関する不満を駐独日本大使館
  に伝え、それを聞いた血相を変えて、青年将校らが、総理官邸に
  押しかけてきた。鈴木はにこにこ笑いかけて、次のように言った。
  
     古来より、日本精神の一つに、敵を愛す、ということがある。
    私もまた、その日本精神に則ったまでです。[4,p244]
    
 (次号に続く)
  
■ 参考 ■
1. 「敗者の戦後」、入江隆則、徳間文庫教養シリーズ、H10.2
2. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、
  H7.8 
3. 「宰相鈴木貫太郎」、小堀桂一郎、文春文庫、S62.8
4. 「聖断 天皇と鈴木貫太郎」、半藤一利、文春文庫、S63.8
5. 「平和の海と戦いの海」、平川祐弘、講談社学術文庫、S5.5

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