[トップページ] [平成11年下期一覧][人物探訪][210.759 大東亜戦争:和平への苦闘]
_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (101) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成11年8月21日12,199部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 人物探訪:鈴木貫太郎(下) _/_/ 〜聖断を引き出した老宰相〜 _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ _/_/ 1.平和を求める意思 _/_/ 2.太平洋は「平和の海」 _/_/ 3.天皇の名によって始められた戦争を _/_/ 4.スティムソンの感動 _/_/ 5.私自身はいかになろうとも _/_/ 6.護持すべき「国体」とは _/_/ 7.常に汝国民とともにいる _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.平和を求める意思■ 昭和20年6月8日、首相・鈴木貫太郎は第87回臨時議会を 召集した。これには日本はドイツとは違って、激しい本土空襲の 只中でも毅然として議会尊重の原則を崩さない近代的立憲君主制 国家であることを海外、特に主要交戦国であるアメリカに示す狙 いがあった。[3,p85] そしてもうひとつの狙いは、首相就任後の最初の施政方針演説 により、日本の和平意思を世界の報道機関を通じて、表明するこ と。しかもこれは国民の戦意を維持したまま、講和の落とし所を 暗に示そうという綱渡りであった。 鈴木は施政方針演説で、「今や我々は全力をあげて戦い抜くべ きである」という決意を示しつつ、特に次の二点を訴えた。 [4,p279] 私は多年側近に奉仕し深く感激いたしておるところであるが、 世界においてわが天皇陛下ほど世界の平和と人類の福祉とを冀 求(ききゅう)遊ばさるる御方はないと信じている。 万邦をして各々その所を得さしめ、侵略なく、搾取なく・ ・・実に、わが皇室の肇国いらいの御意志であらせられる。 鈴木は、支那事変の時などは、健康を害されるまでに心労を重 ねられた天皇に、侍従長として8年間お仕えしてきた。その鈴木 にとって、これはゆるぎない確信であった。この点がわが国の基 本姿勢であることを確認した上で、鈴木はさらに続ける。 ■2.太平洋は「平和の海」■ 私はかつて大正7年練習艦隊司令官として、米国西岸に航海 しており、サンフランシスコにおける歓迎会の席上、日米戦争 観につき一場の演説をいたしたことがある。 その趣旨は、日本人は決して好戦民族にあらず、世界中でも っとも平和を愛する国民なることを歴史の事実をあげて説明し、 日米戦争の理由なきこと、もし戦えば必ず終局なき長期戦に陥 り、まことに愚なる結果を招来すべきことを説き、太平洋は名 の如く平和の海にして、日米交易のために天の与えたる恩恵な り、もしこれを軍隊輸送のため用うるがごときことあらば、必 ずや両国とも天罰を受くべしと警告したのであります。 鈴木は、日米が戦うことの無意味さを説いた。しかし、米国が 無条件降伏を主張する限り、日本は戦いを継続するしかない。 わが国民の信念は七生尽忠である。わが国体を離れてわが国 民は存在しない。敵の揚言する無条件降伏なるものは、畢竟す るにわが一億国民の死ということである。われわれは一に戦う のみである。 鈴木のメッセージを読んで、心理作戦課のザカリアス大佐は部 下にこう言った。 鈴木は戦争のことを語っているが、かれが実は平和のことを 考えているのだ、ということをこの演説は明瞭に示している。 ・・・鈴木は、もうわれわれの無条件降伏要求に条件をつける 材料のないことを覚悟している。それでいて、なお降伏を受け 入れることを鈴木がためらっているのは、将来の天皇の位置が 不明だからだ。[4,p286] 本誌99号で述べたように、天皇制存続を認めるという条件を 提示して、日本に降伏への道を開き、日米双方での犠牲を早く食 い止めようという主張が、米政府、軍部、マスコミなどで幅広く 起こり、実際に、天皇制容認条項がポツダム宣言の原案に入れら れた。鈴木の和平への意思は明確にアメリカに伝わっていたのあ る。 ■3.天皇の名によって始められた戦争を■ しかし、原爆使用を決意していたトルーマン大統領は、「ジャ プは降伏しないだろう」と思いつつ、ポツダム宣言から天皇制容 認条項を削除した。[JOG99号] そしてトルーマンの思惑通り、日本政府はポツダム宣言を受諾 できないまま、8月6日に広島に原爆攻撃がなされた。さらに、 日本政府が和平交渉仲介を依頼していたソ連が、9日未明、突如 宣戦布告し、満洲になだれ込んだ。 9日の深夜より、緊急の御前会議が開かれた。「天皇の国法上 の地位を変更しない」という条件のみをつけて受諾しようという もの、東郷外相ら3名。阿南陸相ら3名は、さらに占領、武装解 除、戦犯処置に関する合計4条件での受諾を主張した。 このまま鈴木が前者に賛成すれば、4対3の多数決で決議でき る。しかし、鈴木はあえてそうせずに、静かに真っすぐに陛下の 前に進み、大きな体を低くかがめて礼をして言った。 遺憾ながら3対3のまま、なお議決することができません。 この上は、まことに異例でおそれ多いことでございますが、御 聖断を拝しまして、本会議の結論といたしたいと存じます。 後に昭和天皇は次のように述べている。 いまや何人の権限を犯すこともなく、また何人の責任にもふ れることなしに、自由に私の意見を発表して差し支えない機会 を初めて与えられた。・・・私と肝胆相許した鈴木であったか ら、このことができたのであった。[3,p252] 鈴木が多数決の形をとらなかったのは、それでは軍の強硬派が 納得すまいと考えたからであろう。小堀桂一郎氏は、この点につ き、さらに次のように述べている。[3,p258] 老宰相から見れば自分の息子のような・・・愛する天皇に対 し、天皇の名によって始められた戦争を、天皇の本心からの言 葉で収拾していただきたいと---密かに願ってゐたである。 そのお言葉は次のようなものであった。 ■4.スティムソンの感動■ 空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、 文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していない ところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を 子孫に伝えることである。今となっては、一人でも多くの国民 に生き残っていてもらって、その人たちに将来再び立ち上がっ たもらうほか道はない。・・・私は涙を飲んでポツダム宣言受 諾に賛成する。[4,p350] 聖断は下った。しかしこれは立憲制度下ではまだ天皇の個人的 見解の表明にすぎず、そのまま国家の意思となるわけではない。 鈴木はこれをもって最高戦争指導会議の議決とし、さらに閣議の 承認を得て、国家の意思決定とした。 日本政府はスイス、スウェーデン両中立国を通じて「天皇の国 家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のも とに」ポツダム宣言を受諾すると回答した。 スティムソン陸軍長官は、「日本がこのような苦境に陥っても、 なお、天皇制の保証を求めている」と、しばし言い知れぬ感動に 浸った。米政府内の調整の後、「最終的の日本国の政府の形態 は・・・日本国国民の中に表明する意志により決定されるべきも のとす・・・」という回答が返された。[4,p356] ■5.私自身はいかになろうとも■ 日本の提案に対して、明確な保証は与えていない連合国の回答 に、大本営は受諾絶対反対を唱えた。鈴木は、再度の御前会議招 集を決定した。「もう二日だけ待ってほしい」との阿南陸相の要 望を、鈴木は毅然として断った。 今日を外したら、ソ連が満洲、朝鮮、樺太ばかりでなく、北 海道にもくるだろう。ドイツ同様に分割される。そうなれば日 本の土台を壊してしまう。相手がアメリカであるうちに始末を つけねばならんのです。[4,p373] 8月14日午前10時50分、二度目の御前会議が開かれた。各人 の意見陳述の後、天皇が静かに口を開かれた。 国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、 先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、 国民全体の信念と覚悟の問題であると思う。そのまま、受諾し てよいと考える・・・国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持 ちもよくわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は 国民の生命を助けたいと思う・・・[4,p380] これが最終的な決定となった。二度の御前会議での天皇のご発 言をもとに、終戦の詔勅が作られ、翌8月15日天皇御自身がラジ オで国民に直接呼びかけるという異例の玉音放送がなされた。強 硬派の多い陸軍も、阿南陸相が「承詔必謹」の大方針を打ち出し、 全軍が静かに矛を納めた。 15日の午後、鈴木は辞表を天皇に差し出した。退出しようと する鈴木に、天皇は「鈴木」と親しく呼び止められた。「ご苦労 をかけた。本当によくやってくれた」とやさしく言われた。さら にもう一言、「本当によくやってくれたね」 その夜遅く、鈴木はたか夫人、長男の一らに、その時の様を物 語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。就任以来130日間にわ たる老宰相の苦闘はここに終わった。[4,p390] ■6.護持すべき「国体」とは■ 終戦決定の最終段階で、最大の焦点となった「国体の護持」で あるが、奇妙なことに、天皇だけが常に、大丈夫だ、との確信を 示されていた。 たとえば天皇は、その地位を心配する阿南陸相に対して、「阿 南よ。もうよい。心配してくれるのはうれしいが、もう心配しな くても良い。私には確証がある。」と言われている。「確証」と はただならぬ言葉である。[4,p367] 連合国側の回答に関しても、木戸内大臣に次のように言われてい る。 人民の自由意思によって決定される、というのでも少しも差 し支えないではないか。たとえ連合国が、天皇統治を認めてき ても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思に よって決めてもらって少しも差し支えないと思う。[4,p368] 以下は私見であるが、天皇の国政上の地位は、「国体」という よりも、「政体」と言うべきもので、当時の政体は明治憲法制定 以来たかだか50余年の歴史しかない。皇室の歴史は有史以来、 さまざまな政体のもとで、ほとんど武力も財力も持たずに、代々 の国民の支持によって続いてきた。この歴史を鑑みれば、皇室の 政体は従来から実質的には「人民の自由意志によって」決められ てきたのである。 ■7.常に汝国民と共にあり■ それでは、「政体」とは異なる「国体」とは何か? 終戦の詔 勅にはこうある。 朕ハ茲(ココ)ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾(ナンジ)臣民 ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ常ニ爾臣民ト共ニアリ (私はここに国体を維持することができて、忠良な汝国民の真心 を信じ、常に汝国民とともにいる) これを裏返せば、「国民の真心を信じ、常に国民と共にあり」 ということが、すなわち天皇にとっての国体そのものであったと 言えないだろうか。 爆撃にたふれゆく民のうえをおもひいくさとめけり身はいかなら むとも 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひ て 国柄をただ守らんといばら道すすみゆくとも戦とめけり 終戦時の御製(天皇の御歌)である。「身はいかならむ」とも 「たふれゆく民を思ふ」という御覚悟で、「国民と共にあり」 という「国柄」を守ろうとされた。その胸中のご覚悟こそ国柄を 守れるという「確証」であると言えよう。 8月14日深夜、阿南陸相が鈴木を訪れた。翌早朝、阿南は全 陸軍の責任をとって自刃するのだが、口には出さなくとも別れの 挨拶にきたことは、鈴木にはすぐに分かった。その阿南に鈴木は 言った。 日本のご皇室は絶対に安泰ですよ。陛下のことは変わりませ ん。何となれば、陛下は春と秋とのご先祖のお祭りを熱心にな さっておられますから。 阿南は強くうなずいた。「まったく同感であります。日本は 君臣一体となって必ず復興すると堅く信じております。」[4,p14] 先祖のお祭りとは、先祖の遺志を継ごうという儀式に他ならな い。皇室にとってのそれは、ひたすらに国民の安寧を祈る、とい う「おおみたから」の伝統である[JOG74号]。この御決意がある 限り、「国民と共にあり」、すなわち、阿南の言う「君臣一体」 の国体は、護持しうるのである。 ■ 参考 ■ 1. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、 H7.8 2. 「敗者の戦後」、入江隆則、徳間文庫教養シリーズ、H10.2 3. 「宰相鈴木貫太郎」、小堀桂一郎、文春文庫、S62.8 4. 「聖断 天皇と鈴木貫太郎」、半藤一利、文春文庫、S63.8 5. 「平和の海と戦いの海」、平川祐弘、講談社学術文庫、S5.5
© 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.