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     _/    _/_/      _/_/_/  国柄探訪:共生と循環の縄文文化
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       _/  _/    _/  _/  _/_/                           23,476部 H12.04.16
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(134)  国際派日本人養成講座
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■1.三内丸山遺跡の衝撃■

     約5500年前から1500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄
    えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人の
    イメージに衝撃を与えた。高さ10m以上、長さ最大32mも
    の巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたク
    リ林が生い茂る。新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに
    穴をあけて、首飾りを作る、等々。

     縄文時代といえば、従来は、たとえば次のように描写されて
    いた。
    
         今から2400年前、水田による稲作が北九州に伝わった。
        中国の稲作が、おもに朝鮮半島南部から、人々の移住とと
        もに伝わったのである。米づくりが始まると、人々は採集
        や狩りのくらしから、計画的に食料を生産するくらしに変
        わり、定住して生活するようになった。[1,p36]

     すなわち、文明化されたシナから稲作が伝わる前は、日本人
    は定住もせずに、狩りをしたり、貝や木の実を採集して、原始
    的な生活を送っていた、というのである。
    
     最近の考古学的発見から、このような原日本人のイメージが
    どのように修正されつつあるか、見てみよう。

■2.大規模な木造建築群■

     三内丸山遺跡の大きさは、約35ヘクタール。平均直径6〜
    700mもの巨大な円形状の土地である。ここに約100棟の
    掘立柱建物、約580棟の竪穴住居が、整然と配置されていた。
    
     掘立柱建物は、直径2m、深さ2mの巨大な柱穴に、クリの
    巨木を立てたもので、柱の高さは10m以上と推定されている。
    柱の間隔は、すべて4.2mと一定で、縄文時代に長さの単位、
    尺度があった可能性がある。長さが10m以上のものが何棟も
    あり、最大のものが32m、床面積100坪である。
    
     建物は、祭祀施設などの可能性が考えられているが、よくわ
    かっていない。これだけの敷地に約1500年にわたって継続的に
    人が住んでいた。最盛期の人口は500人規模であったと推定
    されている。[2,p34-44]
    
■3.全国規模の大量生産と交易ネットワーク■

     発掘された面積は遺跡全体の15%に過ぎないが、それでも
    出土した土器や石器はダンボール箱約4万箱におよぶ。現在ま
    でに発見された土器では日本の縄文土器が1万6500年前と世界
    最古であるが、土器の先進地域として、ここでも多種多様な土
    器が大量に見つかっている。
    
     出土したなかには、直径が30センチほどもある見事な漆塗
    りの皿もあった。今でも東北地方は漆が盛んだが、現代にひけ
    をとらない漆の技術がすでに5千年前からあったことは、専門
    家を驚かせた。
    
     通常は一集落から数点しか発見されない土偶が、約600点
    も出土した。骨角器の針も大量に見つかった。これらはここで
    大量に生産され、周辺のムラに供給されていた可能性が高い。
    
     さらに広域の交易が行われていた証拠として、新潟県のヒス
    イ、秋田県のアスファルト、岩手県のコハク、北海道の黒曜石
    などが出土している。[1,p35]
    
     ヒスイは日本では新潟県の糸魚川上流の姫川でしかとれない。
    その原材、半製品、完成品が、中部地方、関東地方、そして、
    今回の青森県の三内丸山遺跡で見つかっている。出土遺跡の分
    布状況から、新潟から青森まで500キロ以上もの距離を日本
    海をこえて、直接持ち込まれたと考えられている。
    
     太平洋上の御蔵島、八丈島など、伊豆諸島には、前期から縄
    文人の活発な進出が見られるが、その狙いの一つはゴホウラと
    いう貝だったと言われている。縄文晩期には、これら南西諸島
    産のゴホウラの製品が北海道まで運ばれている。縄文人は激し
    い黒潮をつききる高度な航海術をもっていたのである。
    [2,p68]
    
■4.おしゃれな縄文人■

     興味深いのは、これだけ遠方から集められた材料が、装飾品
    などに使われたことだ。白や緑、黒のきれいな石は、リング状
    に加工され、ピアスとして耳を飾った。
    
     ヒスイ、コハク、動物の歯、貝などは、穴をあけてビーズ状
    にして、首飾りや腕飾りを作った。硬玉製大珠やイノシシの牙
    などはペンダントにされた。
    
     一枚板から切りだした櫛、骨格器でかわいい飾りをつけたか
    んざしやヘアピンも見つかった。樹皮を十字に編んだポシェッ
    トも出土した。これらの高度の加工技術から、専門的な技術者
    の存在が考えられる。
    
     ザンバラ髪で、毛皮をまとった原始人というイメージは、こ
    れらの発見にはどうにもなじまない。かんざしやヘアピンで髪
    を美しく飾り、耳輪、首輪、腕輪をつけ、ポシェットをこわき
    に抱える−それが縄文時代の日本の女性であった。
    
     このような美への欲求を満たすために、新潟のヒスイや、伊
    豆諸島の貝が、数百キロの波濤を越えて、もちこまれていたの
    である。[2,p65-68]

■5.平和な平等社会■

     丸山三内遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約880
    基が見つかっている。集落のそばに平然と配列されたこれらの
    墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同様だった。
    
     ここから縄文社会が階級差のあまりない、基本的には平等主
    義に立脚した共同体社会であったと見なされている。巨大な建
    物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食
    料貯蔵庫などであったと推定されている。
    
     三内丸山遺跡が発展した今から5千年前、メソポタミアやエ
    ジプトでは、すでに王が出現し、人民を搾取して、巨大な建物
    を造って富めるものと貧しいものの階級があらわれていたのと
    は、著しい対照をなす。
    
     さらに、縄文時代には、人殺しの武器はなかったとも推定さ
    れている。縄文時代は戦争のない平和な平等社会であったよう
    だ。[3,p296]

■6.環境に適した効率的な食システム■

     三内丸山遺跡の周辺には、クリ林が広がり、縄文人はクリを
    主食の一種としていた。クリが人工的に栽培されていた可能性
    も指摘されている。
    
     ヒエも利用されていた。穀類であるヒエは狭い面積で多くの
    収量が期待でき、栄養価が優れ、貯蔵が簡単と、主食として優
    れた食品である。実際にヒエは日本では近世まで非稲作地帯の
    主要穀類であった。世界のヒエの分布から見て、ヒエ栽培は日
    本が起源地であるという説もある。
    
     またニワトコの種子と、その果実が発酵していた事を示す昆
    虫化石が発見され、当時の縄文人達は野生の果実を集めて、酒
    造りを行っていたことが確実視しされている。
    
     さらに年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、
    ニシン、イワシ、アジが、主食や副食として利用されていた。
    肉類では、ウサギ、ムササビなどの小動物が主となっていた。
    
     縄文人は、クリやヒエを主食とし、これに水産資源や小動物
    を幅広く利用していた。季節の変化をよく理解し、身の回りの
    多様な動植物を最大限に利用する効率的な食のシステムを作り
    あげていた。[2,p56-61]

■7.貝塚は貝のお墓■

     他の縄文遺跡では、捕獲されたイノシシやシカ、カモシカな
    どの大型動物の骨も見つかっているが、そうした動物では幼獣
    の骨が極めて少ない。また、シカやイノシシの歯の萌出段階の
    分析では、冬の季節にしか捕獲されていない事が分かっている。
    それらが絶滅しないよう、他の食物の少ない冬に限定し、成獣
    だけを捕った。そこに共に生きる自然への配慮が窺われるので
    ある。[3,p88]
    
     昔の考古学では貝塚とは、貝の捨て場と考えられていたが、
    最近では「貝のお墓」だという説が生まれた。貝は丁寧に並べ
    られて、盛り土をされており、どう見てもゴミ捨て場とは見え
    ない、という。
    
     貝がふたたび豊かな身をつけて、この世に戻ってくるように
    との願いを込めて、貝の霊を丁重にあの世に送る場所が貝塚な
    のである。三内丸山遺跡で見つかった土器塚も、土器をあの世
    に送り返す場所であった。
    
     縄文人の精神の根底には、すべてのものに生命が宿り、それ
    があの世とこの世を循環しているという世界観があった。これ
    が基底となって、聖徳太子が仏教を受け入れた時も、「山川草
    木悉皆成仏(自然のすべてのものに生命が宿る)」という思想
    となり、また現代でも道具が壊れた時、「お釈迦になった(成
    仏した)」と言う。縄文人の共生と循環の世界観は、日本人の
    心の基層をなしているのである。[2,p24-26]

■8.共生と循環の文明■

           縄文文化が自然との調和の中で、高度の土器文化を発
          展させ、一万年以上にわたって一つの文化を維持しえた
          ことは、驚異というほかはない。縄文文化が日本列島で
          花開いた頃、ユーラシア大陸では、黄河文明、インダス
          文明、メソポタミア文明、エジプト文明、長江文明など、
          農耕に基盤を置く古代文明がはなばなしく展開していた。
      
           東アジアの一小列島に開花した縄文文化は、こうした
          古代文明のような輝きはなかった。しかし、これらの古
          代文明は強烈な階級支配の文明であり、自然からの一方
          的略奪を根底に持つ農耕と大型家畜を生産の基盤とし、
          ついには自らの文明を支えた母なる大地ともいうべき森
          を食いつぶし、滅亡の一途をたどっていく。
          
           それに対し、日本の縄文文化は、たえず自然の再生を
          ベースとし、森を完全に破壊することなく、次代の文明
          を可容する余力を大地に残して、弥生時代にバトンタッ
          チした。それは共生と循環の文明の原点だった。
          [4,p89]

     環境考古学者・安田喜憲氏の言である。1万年の間、原日本
    人はこの列島の中で、共生と循環の世界観のもとで、豊かで、
    平和な平等社会を営んできたのである。それはユーラシア大陸
    に発生した「自然収奪型文明」とは、まるで性格の異なる「自
    然循環型文明」の基盤となった。

■9.自然循環型文明の最後の砦■

     ユーラシア大陸の自然収奪型文明は、常に森を食いつぶすこ
    とで、新たなるフロンティアを必要とした。四大古代文明の地
    はほとんど砂漠化・荒地化し、ギリシアは禿げ山となった。イ
    ギリスの森は16〜18世紀にほとんど消滅し、現在の森は1
    9世紀以降、人間によって植えられたものである。ドイツの有
    名なシュバルツバルトの森の大半も、人間によって再生された
    ものである。
    
     アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、ワ
    タ、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培が始められた。安
    田氏は花粉分析の手法により、アメリカの大森林が1620年から
    1920年までのわずか3百年間にほとんど破壊つくされたことを
    示した。それはまた森の民、インディアンの滅びとも軌を一に
    している。
    
     気候変化の影響により、やむなく稲作を受け入れてからも、
    日本では森との共生の努力が続けられた。神社にはかならず鎮
    守の森がもうけられ、また森を食いつぶす家畜の数はきびしく
    抑えられた。さらに森を美しく保つことで、栄養分が川から海
    に流れ、漁獲を安定させるという「魚付き林」が維持された。
    
     現在でも、日本の緑被率(森林が国土に占める割合)は67
    %と、フィンランドの69%に続いて世界第2位である。この
    狭い国土で、世界有数の人口密度と工業生産を維持しながら、
    なおもこれだけの森を残していることは、縄文時代からの共生
    と循環の思想が、今なお我々の精神の基底にあるからとしか考
    えられない。
    
        西天城高原の空晴れわたりひめしやらの苗人びとと植う
    
     平成11年5月30日の静岡県における全国植樹祭での天皇
    のお歌である。昭和25年から国土緑化振興のために始められ
    たこの催しも、すでに50回目となった。ヒメシヤラは当地の
    周辺の森に自生する代表的な樹木で、高木となる。静岡県では、
    「山村に住む人だけでなく、都市に住む人達とともにみんなで
    植え、育てる」森づくりを啓発に努め、この日は1万2千人も
    の人々が参加した。美しい国土作りを通じた人々との連帯感が
    うかがわれる御歌である。[5]
    
     自然との循環と共生を大切にする縄文の心は、このような形
    で現代の我々にも脈々と受け継がれている。自然収奪型文明に
    より破壊されつつある地球を救うのは、このような心である。

■リンク■
a. JOG(041) 地球を救う自然観
   日本古来からの自然観をベースとし、自然との共生を実現する
  新しい科学技術を世界に積極的に提案し、提供していくことが、
  日本のこれからの世界史的使命であるかもしれない。

b. JOG(024) 平和と環境保全のモデル社会:江戸 
  鉄砲を捨てた日本人は鎖国の中で停滞に甘んじてはいなかった。
  閉ざれた国土を最大限に生かした高度のリサイクル社会の建設に
  乗り出した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中学社会・歴史的分野、日本書籍、H9.1
2. ★★「縄文文明の発見」、梅原猛・安田喜憲編著、PHP研究所、
   H7.9
3. ★「世界史の中の縄文文化」、安田喜憲、雄山閣出版、H10.5
4. ★★「森の日本文化」、安田喜憲、H8.11
5. ★「平成12年年頭及び最近発表の御製、御歌を拝誦して」、
   折田豊生、国民同胞、H12.2

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