[トップページ] [平成12年一覧][人物探訪][210.75 大東亜戦争][223 東南アジア][319 国際親善(アジア)]


-----Japan On the Globe(165)  国際派日本人養成講座------------
          _/_/   
          _/     人物探訪:篠崎護〜昭南島の大和心
       _/_/      
_/ _/_/_/        日本軍占領下のシンガポール、粛清に怯える華僑
_/ _/_/        住民を護ろうと篠崎護は立ち上がった。
-----H12.11.19  30,561部--------------------------------------

■1.シンガポールの日本占領時期死難人民祈念碑■

     シンガポールの市庁舎前の広場の一角に、高さ120mの白
    い尖塔が建っている。筆者が訪れた時には、その中心の台座の
    部分に真新しい花束が一輪捧げられていた。大理石の礎石には
    「日本占領時期死難人民祈念碑」という字が刻まれている。
    「死難人民」とは日本軍が占領中に粛清した華僑住民が中心だ
    ろう。その数、5千人から7万人まで諸説あるが、相当な規模
    の犠牲者が出たことは、日本軍側の資料でも間違いない。
    
     この事件を「日本軍の残虐さ」だけで片づけてしまうのでは、
    何にもならない。誰が、なぜ、このような事件を引き起こした
    のか、その過程でどのような人々がどのように振る舞ったのか、
    事実をもっと良く見てみたい。そこには批判すべき人間や、逆
    に尊敬すべき人間の様々なドラマが窺われるであろう。
    
■2.華僑の抗日行動■

     イギリス軍降伏の4日後、昭和17(1942)年2月19日、街
    角に日本軍司令官の名で次の布告が張り出された。
    
         昭南島(シンガポールの日本名)在住華僑18歳以上5
        0歳までの男子は、きたる2月21日正午までに左の地区
        に集結べし。(以下略)        大日本軍司令官

     華僑たちは、恐れていたことがついに来たと悟った。山下奉
    文司令官率いる第25軍がシンガポールに入ると、マレー人や
    インド人は歓迎の態度を示したが、逆に一部の華僑たちは恐れ
    をなした。長い間蒋介石の重慶政府に莫大な財政援助をなし、
    反日運動を積極的に行い、戦争が始まると華僑義勇軍を組織し
    て日本軍と交戦していたからである。
    
     特に日本軍を悩ましたのは、マレー共産党員を中心とする約
    3千の抗日華僑青年の一隊であった。英軍からゲリラ戦の特訓
    を受けた華僑達は、進撃する日本軍を背後から襲い、多大の被
    害を与えていた。
    
     英軍降伏後も、華僑ゲリラは隊服を捨てて市民の間に紛れ、
    方々で放火や集積弾薬の爆発事件を引き起こしていた。国際法
    違反のゲリラ戦に、ロンドン・タイムス特派員イワン・モリソ
    ンは、「この軍事的闘争の結果としてシンガポールの中国人が
    日本軍によって過酷な報復をされるであろうことを憂慮する」
    と書いている。

■3.華僑ゲリラ掃討作戦■

     シンガポール攻略に成功した第25軍はスマトラおよびビル
    マに分かれて直ちに進撃せねばならなかった。シンガポールは
    がら空きになる。その前にゲリラを掃討して治安を確立してお
    く必要があった。
    
     山下奉文軍司令官からは「速やかに市内の掃討作戦を実施し、
    これらの敵性華僑を剔出処断し、軍の作戦に後顧の憂いなきよ
    うにせよ」との指示が出された。山下はシンガポール攻略にあ
    たって、「焼くな、奪うな、犯すな」を厳守すべし、との命令
    を下し、また占領後も市内には憲兵隊のみを入れて治安維持に
    当たらせ、戦闘部隊は市外にとどめて不祥事の発生を予防する
    ほどの配慮をする人物であったので、この命令があくまで国際
    法違反の華僑ゲリラを対象としたものであったことは疑いない。
    
     しかし、18歳以上の華僑男子は約20万人いる。その中か
    らどうやって「敵性華僑」を見つけだすのか。ゲリラを掃討し
    ようとすれば、一般市民に累が及ぶことは避けられない。ここ
    に市民同胞を盾にしたゲリラ戦が国際法で禁じられている理由
    がある。
    
■4.辻政信の越権・偽命令■

     この時に掃討作戦を立案したのが作戦主任参謀・辻政信中佐
    であった。何千人かの華僑住民を集めたシンガポール駅前広場
    を通りかかった辻は、その地域の責任者であった久松憲兵中尉
    に「殺ってしまえ」と命じた。久松中尉からそれを聞いた上官
    の城朝龍少佐は、
    
         残忍な辻のやりそうなことだ。かれは軍の一幕僚ではな
        いか。君らに命令する権限なんかありゃせん。その住民ら
        は即刻退散させよ。
        
    と命じ、この一言で数千人の住民が救われた。辻は後にフィリ
    ピン戦線でも、米軍投降者を一律に射殺すべし、という偽命令
    を前線部隊に与えており、大本営がこんな命令を出すはずがな
    い、と疑った将校たちは、正規の書面での命令を要求したり、
    命令を拒否するので軍法会議にかけよ、と言って偽命令を退け
    た。
    
     しかし、越権とは言え、作戦主任参謀の命令を拒否できずに、
    心ならずも虐殺に加担した将兵も多かったであろう。これが華
    僑住民の大量粛清という悲劇を招いた。山下自身も、辻を「我
    意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にして国家の大をなす
    に足らざる小人なり」と評し、このような者が多くなっている
    のは、陸軍の教育の問題だと述べている。
    
     大量の住民粛清によって日本軍の名誉を傷つけ、大東亜戦争
    の大義名分に泥を塗ったのも、ひとえにこのような人間の責任
    をきちんと追及しなかった組織的欠陥と言えよう。この欠陥は
    現在も厚生省の薬害エイズ、大蔵省の財政破綻、文部省の学力
    崩壊などの諸問題に現れている。

■5.篠崎護■

     シンガポールの日本総領事館に勤めていた篠崎護は、開戦前
    に参謀本部スタッフによる島内偵察に助力したかどでイギリス
    軍に逮捕され、チャンギー監獄に入れられていたが、日本軍の
    シンガポール占領によって解放され、その後は警備司令部の嘱
    託として、現地人保護の仕事を与えられていた。
    
     篠崎は、戦前から知っていた華僑に「この者は戦前より我が
    方と関係ある者に付き、途中通行の安全並びに保護供与あいな
    りたく」という保証証を発行してやった所、それが絶大な効果
    を発揮することが分かり、現地人が我も我もと殺到して発行を
    求めた。篠崎はやがて保証証を印刷して、まとめて慈善団体や
    宗教団体に渡し、各自姓名年齢を書き込むようにさせた。敵性
    華僑にも渡る恐れはあったが、戦乱の直後で世情を安定させる
    には、こうするしかないと判断したのである。
    
     敵性華僑掃討のための検問が始まった時、日本人医師のもと
    で働いていた華僑の看護婦が、父と兄弟が連れて行かれたので、
    何とか助けて欲しいと篠崎のもとに泣きついてきた。
    
     篠崎は看護婦と共に、数千の華僑青年を拘束している検問所
    に行き、その家族の釈放を求めた。そこの責任者の憲兵中尉は
    篠崎の顔見知りで、「やあやあ、ご苦労さんです。どうか連れ
    て行ってください」と簡単に釈放してくれた。篠崎は、後に残
    された数千の華僑たちの哀願を込めた視線を感じたが、それ以
    上はどうしようもない自分の力の至らなさに唇を噛みしめた。

■6.華僑協会による救出■

     篠崎は何とか、もっと大勢の華僑を救う方法はないか、と考
    え、一計を思いついた。それは日本軍に協力するという名目で
    シンガポールの有力華僑全員をメンバーとする組織を作ること
    だった。軍政部長の馬奈木少将に相談すると、少将は華僑粛清
    に批判的であったので篠崎の案にたちどころに賛成してくれた。
    
     篠崎はちょうど、警備司令部に連行されていた華僑長老の林
    文慶博士を説得して会長になってもらい、昭南華僑協会と名付
    けた。篠崎に付き添われて家に帰った博士は、その肩を抱いて、
    「もうわれわれ華僑は安全だ」と叫んだ。
    
     篠崎は捕らわれている有力華僑を協会メンバーとした名簿を
    作成し、それをもとに次々と釈放に成功した。一般華僑達は、
    尊敬する長老・林博士が会長に就任して、有力華僑達が続々と
    釈放され始めた、というニュースに、安心感を抱き、明るさを
    取り戻しはじめた。
    
     しかし、篠崎の成功はつかの間だった。彼の後ろ盾であった
    馬奈木軍政部長が左遷された。これは彼の華僑に対する同情的
    態度を手ぬるいと批判する参謀たちによる陰謀だと噂された。
    後任の渡辺渡大佐は、篠崎に「今後は華僑協会は軍令部で直轄
    するので、手を引くように」と命じた。
    
     渡辺大佐は昭南華僑協会に一千万ドル、マレー半島の他の華
    僑協会に4千万ドルの献金を命じ、憲兵隊による過酷な取り立
    てを行なった。粛清と強制献金と、「今日もシンガポールの華
    僑たちが恨みとして忘れないのは日本軍のこの二つの失敗です。
    」と篠崎は書いている。
    
■7.ああ、これこそ華僑のユートピアだ■

     昭和18年に入ると、米軍の反撃が本格化し、マレー半島で
    の抗日ゲリラ活動も活発化して、シンガポールの食糧事情が悪
    化し、住民30万人のマレー半島疎開を担当するよう篠崎は命
    ぜられた。篠崎はこれを強制疎開ではなく、あくまでも華僑達
    の自主的な移住とすべきだと考えた。
    
     百万エーカーもの土地を与え、日本の憲兵、警察は一切立ち
    入らず、華僑の自治に任される、という案を篠崎が誠意をもっ
    て説明すると、華僑協会幹部達も納得した。シンガポールから
    150キロほど北上したマレー半島東岸の未開の大ジャングル
    が切り開かれ、エンダオ(新昭南)と名付けられた。
    
     18年10月に第一回の移住者が入居し、それが無事に済む
    と、2回目以降は順調に進んだ。移住地の様子を見に来た華僑
    協会会長・林文慶博士は、大きなサツマイモを抱えて喜々とし
    て走り回る子どもたちの姿を見て「ああ、これこそ華僑のユー
    トピアだ」と感嘆した。「昭南で食えなくなったらエンダオに
    行くさ」が流行語になった。
    
     しかしその順調な発展ぶりを妨害しようと、華僑ゲリラたち
    が、エンダオの親日華僑達を標的としたテロを始めた。エンダ
    オの治安部長・黄達三が自宅で射殺され、後任の廬宝儀も車で
    移動中に殺された。
    
     篠崎は密かにゲリラに接触し、月々相当量の食糧を送るから、
    暗殺は手控えるよう要求した。ゲリラの方は、「シノザキを殺
    そうと思えば、いつでも殺せるが、彼が華僑同胞を守ってくれ
    ているので、敵とは思っていない」と言い、その要求に応じた。
    これによって、エンダオは再び平和に戻り、順調に移住者を迎
    えて発展していった。
    
■8.情けは人のためならず■

     日本軍降伏の直後、篠崎が市庁舎で残務整理をしていると、
    目の鋭い華僑青年が訪ねてきた。「おお、陳さんじゃないか」
    と篠崎は叫んだ。陳はチャンギー監獄での篠崎の仲間だった。
    開戦後、保釈された彼は抗日ゲリラ部隊長になっていた。
    
     陳は篠崎が華僑同胞を護ってくれたお返しをしたいと言って、
    戦前のスパイ罪で再び英軍に捕まえる前に重慶に連れて行って
    やろうと、申し出た。篠崎は感謝しつつも、シンガポールは第
    二の故郷であり、ここで死ねれば本望だと言って断った。陳は
    「その覚悟ならもう何も言うまい。幸運を祈る」と言って去っ
    ていった。
    
     果たして英軍が上陸すると、篠崎はジープで野戦保安隊長の
    アイザック少佐のもとに連れて行かれた。またチャンギー監獄
    に逆戻りかと覚悟を決めていた篠崎に、大佐はこう答えた。
    「君が行きたければ、いつでも案内するよ。しかしその必要は
    なさそうだね。君にはとてもたくさんの嘆願書が来ているし、
    それに思いもよらぬ高い所からのもある。」
    
     「高い所」とは、シンガポール総督夫人レディ・トーマスか
    らであった。夫人はシンガポール陥落直前に赤痢にかかり、重
    症だった所を、篠崎が病院で安静にしていられるよう手配をし
    たため一命をとりとめたのだった。この事を夫人は深く感謝し
    ていて、嘆願書を出してくれたのだった。
    
■9.どうぞ私を代わりに処刑してください■

     英軍は、戦時中日本軍に協力した華僑、インド人、マレー人
    などの民族団体のリーダー達を次々に逮捕した。ユーラシアン
    協会の会長パグラー博士もその一人で、篠崎に協力して、占領
    中の英国籍の民衆を護った人物である。「大英帝国に対する反
    逆の罪」で告訴され、篠崎が主証人として検事の横に座らされ
    た。対日協力者を、日本側の責任者に告発させて、有罪にしよ
    うという老獪な手口である。
    
     起訴の趣旨は、交戦中の敵国の元首である天皇の誕生日に忠
    誠を誓う献辞を朗読したことは、まさに祖国に対する反逆罪を
    構成する、ということであった。篠崎は検事側の質問に答えて
    証言したが、それはあらかじめ検事が作成した質問に、イエス
    としか答えることしか許されていなかったものだ。
    
     「なんという欺瞞だ」、篠崎は猿芝居を続けている自分への
    怒りが込み上げてきた。弁護人による反対尋問に移り、意を決
    した篠崎は、裁判長に発言の許しをもとめた。
    
         私は民族団体の世話をし、命令を出してきた当の責任者
        です。パグラーを動かしたのはこの私です。(中略)彼を
        この状況に追いやったのは私です。もし被告に罪ありとす
        れば、それこそ私の罪です。どうぞ私を代わりに処刑して
        くださいっ。
    
     話しているうちに涙があふれ、最後には高ぶる感情を抑えき
    れずに、証言台に突っ伏して声を放って泣き出した。法廷はシ
    ーンとなったかと思うと、傍聴席からウォーンという感動の響
    きがあがった。
    
     英国憲兵に両側から支えられて退廷する篠崎の体を、傍聴人
    達が撫でたたきして讃えた。1ヶ月後に出た判決は、「被告の
    自然死に至るまで、本裁判を延期して、その拘束を解く」とい
    う大岡裁きであった。この事件は現地の新聞に大きく報道され
    た。篠崎はこう書いている。
    
         このことがあってから英軍兵士の私に対する態度が著し
        く変わり、日本人のことをジャップなどと呼ばなくなりま
        した。

■リンク■
a. JOG(164) 人物探訪:敗者の贈り物
                〜シンガポールの博物館を護った田中舘秀三博士

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「昭南島物語 上下」★★★、戸川幸夫、読売新聞社、H2.7
2. 「シンガポール占領秘録」★★、篠崎護、原書房、S51.8
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
                                            匿名希望さんより

     2年ほど前から、チェコ共和国のプラハで仕事を始めました。
    こちらでの生活に慣れるにつれ、友人も増えてきました。彼ら
    はよく日本のことを尋ねてきました。しかし、私は何一つとし
    て、正確に、胸を張って答えることができませんでした。自分
    の国のことを知らなすぎるのです。
    
     それにひきかえ、彼らは、自分の国の歴史、文化、言葉、習
    慣、全てのことにおいて、熟知しており、自分の国を大変誇り
    に思っているのです。正直言って、大変驚きました。

     ご存知のように、チェコ共和国という小さな国は、大変複雑
    な歴史を歩んできており、度重なる侵略や、不法ともいえる国
    の分断などに悩まされ続けてきました。それもつい最近まで、
    プラハの春だ、ビロード革命だ、と不安定な情勢だったわけで
    す。

     私は日本人として、大変誇りを持っていたつもりでした。し
    かしそれは、あくまで今先進国である、恵まれた国である、と
    いうある種の片寄った優越感であったのかも知れない、と気づ
    いたのです。私は自分の国の歴史や文化に対し、誇りを持って
    いたわけではないことに気づきました。それに引き換え、彼ら
    は、確かにお金は持っていないかもしれません。でも、彼らの
    持つ自信、誇りから生み出される精神的強さは見習うべきもの
    であるのです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     愛国心と優越感とは違う、というご指摘は重要だと思います。
 

© 平成12年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.