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-----Japan On the Globe(200)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     国柄探訪:暗き夜を照らしたまひし后ありて
       _/_/      
_/ _/_/_/        ライ救済事業に尽くした人々の陰に、患者たちの
_/ _/_/        苦しみを共に泣く貞明皇后の支えがあった。
-----H13.07.29----34,862 Copies----289,348 Homepage View----

■1.ハンセン病訴訟決着■

     熊本地裁は、5月11日、ハンセン病の元患者らの訴えを認
    め、らい予防法を放置して患者を隔離し続けた国に損害賠償を
    命じた。そして小泉首相の決断で控訴が見送られた。
    
     ハンセン病は感染力がきわめて弱く、戦後は医薬品が進歩し
    通院で完治するようになったため、判決によれば、遅くとも昭
    和35年以降は患者を隔離する必要がなかったが、らい予防法
    に基づく隔離政策が続けられた。法律の廃止が遅れた理由は
    「実質的に療養所の出入りを自由にしたが、世間の目が厳しく
    完治しても退所できる人は少ない。法律があるから対策費を増
    やせるという事情もあった」という。[1]
    
     聖書や仏典にも記述のある古代からの難病の解決がまた一歩
    進んだ事を喜びたい。これを機に、この病苦に侵された人々を
    救うために、わが国で今まで救済事業に尽くされた人々の努力
    の跡を偲んでみたい。

■2.今の世で一番悲惨で気の毒なは、、、■

     明治33年5月、皇太子(大正天皇)妃として入内(じゅだ
    い)された節子(さだこ)妃(後の貞明皇后)に、美子(はるこ)
    皇后(明治天皇お后、後に昭憲皇太后)は次のように語られた。
    
         今の世で一番悲惨で気の毒なは、ライを病む者ではない
        かと私は思います。この人たちを中国では天刑病と言うら
        しいが、彼の者らにだけ刑罰をくだすような無慈悲を天が
        なさろうはずがない。けど肉親までが忌み嫌い、家から放
        り出し捨てられ、社会からもまだ見捨てられています。病
        む身でありながら住む家もない流離(さすらい)の身では、
        その日の糧を乞うて乞食になり果てるより仕方ないでしょ
        う。・・・
        
         幼いころに物見の台から都大路小路をよう眺めました。
        施薬院の前に行列を作り、うずくまっていた者の哀れな姿
        が忘れられません。その多くはライ病患者であったと聞い
        て、よけい忘れられんようになりました。手足がくさり落
        ち、いざり歩かねば仕方ない。はては目も見えぬ。息をす
        るのも苦しいという、不治の病苦だけでも、並大抵でない。
        私は入内前、后さんになることは、あの人らの苦しみを軽
        うしてあげられるのやないかと、浅はかな娘ごころで嬉し
        う思いましたんやが。
        
     施薬院とは、天平(西暦729〜749)の昔、貧苦病苦に悩む人々
    を救うために、光明皇后が設けられた施設である。99人の乞
    食の垢を皇后自らのお手で洗われ、百人目に全身くずれ血膿だ
    らけのライ者があらわれると、皇后はその者も丹念に洗った上
    で、血膿を唇で吸って病苦をのぞかれたと言い伝えられている。
    
     この光明皇后の再来の如くに、節子妃は春子皇后の御言葉を
    聞いて以来の50余年、救ライ事業に御心を注がれた。

■3.患者達の和歌に■

     大正4年11月、大正天皇のご即位とともに皇后となられた
    節子妃は、光田健輔(みつだけんすけ)を引見された。
    
     光田は多摩のライ療養所、全生病院の院長として、ライ患者
    の収容・治療と、治療法研究に打ち込んでいた。明治30年に
    開かれた第一回国際ライ会議では、ライは伝染病で、患者を隔
    離する以外に伝染を食い止める以外に方法はないと結論が出て
    いた。ヨーロッパのライ学者からは、日本人はライ病者を路上
    に捨てると言われており、国家として恥ずかしいことだが、そ
    う言われても仕方のない現状だった。欧米のキリスト教伝道師
    たちが、療養所を作り始めていたが、光田は国家的事業として
    ライ患者を収容・治療することが必要だと考えていた。
    
     光田を後押しする渋沢栄一男爵に連れられ、二人は宮城の門
    をくぐった。節子皇后はそれまでに何度も女官名で金一封を全
    生病院に送られていた。
    
         ありがとう。よう来てくれました。かねてから私は、こ
        の世でライを病む者ほど気の毒な人々はおらぬと思ってお
        ります。聞くところによると光田は、ライ患者の治療を終
        生の仕事として貢献してくれているとか、ありがたく尊い
        ことと、私からもお礼を言います。
    
     皇后の慈愛の御言葉に、光田の涙はとまらなかった。渋沢は
    全生病院の患者達の和歌を清書したつづりをお見せした。皇后
    は自らそれを詠み上げられ、周囲の女官達にもお聞かせになっ
    た。
    
        萎え果てし右手に結びしフォークも今は飯(いひ)食(
        は)むに重荷となりし
        つひにつひに母の臨終にも会えざりき初秋の空蒼き遠きふ
        るさと
        ・・・

     詠み終えられた皇后の閉じられた目から涙がこぼれ落ちた。
        
■4.険しい道でありましょうが■

     光田から妻子がいることをお聞きになると、皇后はこう言わ
    れた。
    
         とかく世の中は上つらだけを見ます。皮膚に潰瘍ができ
        手足が不自由になって目も見えんようになる、そのつらさ
        を思いやるより先に毛嫌いし、根強い偏見を持ってみる。
        その人々を治療してくれる得難い医者でありましょうが、
        子供たちが心ないいじめにあうということはありませんか。
        
     長男喜太郎が小学校に上がるようになると、ライ病院の子と
    爪弾きにされ、いじめられて泣いて帰るのが、光田の悩みだっ
    た。父の仕事を誇りを持って自覚させようとしても、小学校1、
    2年の幼さでは無理なことだった。
    
         どうか険しい道でありましょうが、これからも積極的に
        救ライの仕事を進めてください。
        
     という皇后陛下の御言葉とともに、金一封とお菓子をいただ
    いて退出した。
    
     光田は患者達と相談して、その金一封で茶の挿し木を買い求
    めて、病院内に植えてまわった。院内ではお茶にも不自由して
    いたのである。「毎日、見に来る楽しみができた」「受け持ち
    を決めて水をやらにゃあ」。いっとき病苦も忘れた患者達の明
    るい声が弾んだ。
    
     光田が皇后陛下から金一封を賜ったことが新聞に出た途端に、
    学校ではぴたりといじめがなくなった。

■5.もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海に■

     昭和5年9月30日、瀬戸内海の小島、長島に国立ライ療養
    所「長島愛生園」が完成した。光田の長年の活動が国会を動か
    して予算を獲得させ、また反対する地元民を熱い意気込みで説
    得した末の成果だった。
    
     ルネッサンス様式の本館は、藍色の海に良く映えた。色がわ
    らの病舎が緑の中に見え隠れしている。全生病院から移った患
    者81名は、もう一生見ることもないと諦めていた紺碧の海を
    涙ながらに見つめた。
    
     長島愛生園の開設が新聞で伝えられると、全国から入園希望
    が殺到し、開園4ヶ月で、400名の定員は軽く突破してしま
    った。岡山まで来た女性患者が、愛生園は満員だと聞き、絶望
    の余り川に身を投げて自殺するという事件まで起きた。光田は
    募金を集めて、木材を買い、技術を持つ患者たちの手で10坪
    住宅を作るという構想を実行に移した。
    
     昭和の御代となり、皇太后となられていた節子妃は、国立療
    養所の計画を聞かれてから、10年もの間、内廷費をきりつめ
    て貯められた100万円もの金額を、朝鮮、台湾を含む全国の
    療養所に寄付された。この事が、今までライに無関心であった
    人々を目覚めさせた。宮内庁職員たちの寄付による千代田寮
    (6棟)、神戸女学院生徒らによる神女寮(1棟)、など、数
    年のうちに千人以上の患者が収容できるようになった。
    
     皇太后の下賜されたうちの10万円を基金として、ライ予防
    協会が設立され、渋沢栄一が会頭に就任した。初事業は親がラ
    イで入院して難儀している子供たち400人を収容する施設を
    作ることで、喜ばれた皇太后は向こう10年間毎年1万円づつ
    贈られることとした。
    
     皇太后のお誕生日6月25日は「恵みの日」と定められ、毎
    年その前後一週間をライ予防週間とすることが決まった。

■6.めぐみの鐘■

     長島の頂上にある光が丘には、東本願寺から贈られた鐘楼が
    建立された。その鐘には、皇太后の次のお歌が刻まれた。
    
        つれづれの友となりてもなぐさめよ
        ゆくことかたきわれにかはりて
        
     皇太后がお住まいの青山東御所の一角で、かえでの小生えが
    群生しているのを見つけられた。かえでは皇太后に最初に救ラ
    イ事業の大切さを説いた昭憲皇太后のおしるしである。皇太后
    は女官達とともに、かえでの苗を育て、夏は青葉の陰に憩い、
    秋はもみじを楽しむようにと、全国の療養所に2百本ほどの単
    位で贈ることを始められた。その時に一緒に贈られたのが、こ
    のお歌である。
    
     皇太后のお歌を刻んだ鐘は、「めぐみの鐘」と呼ばれ、朝夕
    に鳴り響いて時を告げた。患者として愛生園に住んだ歌人・明
    石海人は次のような歌を遺している。
    
        唱和する癩者一千島山に恵みの鐘は鳴りいでにけり
        そのかみの悲田施薬のおん后いま在ますかと仰ぐかしこさ
        みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生まれてわれ悔
        ゆるなし

■7.プロミンの効果は間違いないのか■

     戦争中にアメリカでプロミンというライ治療薬が開発された
    という情報を得て、光田は戦後まもなくの昭和21年から試用
    を開始した。歴史始まって以来、不治の病とされていた業病だ
    ったが、膿を出していた体が3ヶ月から6ヶ月できれいな皮膚
    に変わった。
    
     昭和22年、昭和天皇が岡山県にご巡幸された時に、光田は
    ライについて、20分間のご進講をした。皇太后からのお話が
    あったのだろう、陛下は「50年間も、よく救ライ事業に尽く
    してくれました」と語りかけられた。生物学者である陛下は、
    ライ菌に関して詳しくお尋ねになり、「プロミンの効果は間違
    いないのか」と聞かれた。
    
         只今、懸命に試用を繰り返しております。10年は見守
        る必要があると存じますが、この治療が進みましたならば、
        不治とされたライが全治し、患者が消滅する日も遠くない、
        前途は明るいと信じます。
        
     光田が、最後に皇太后の長年に渡る数知れぬ恩賜が、社会の
    ライ者への意識を変えることにつながりました、とお礼を申し
    上げると、陛下はうなづかれて言われた。「プロミンが早く皆
    に行き渡るといいね」

■8.暗き夜を照らしたまひし后ありて■

     昭和26年5月17日、皇太后が68歳で崩御された。ご大
    喪の儀には、ご生前から救ライ事業に御心をかけれていたご縁
    で、全国の療養所長が特に参列を許された。入内に際して、昭
    憲皇太后から救ライのお志をお聞きになってから、はや51年
    の歳月が流れていた。
    
     ご追号の貞明皇后は、「日月の道は貞(ただ)しくして明ら
    かなり」という古典からとられた。日月の如く「聡明仁恵にし
    て用を省き治ライに資し幽明の天地に光明をあたえたまえり」
    と説明されていた。
    
     昭和天皇は母皇后の御遺志をしのばせられて、そのご遺金す
    べてを救ライ予防協会に下賜されることとした。政府はこのご
    遺金を核にして「貞明皇后記念救ライ事業募金の運動」を創設
    することにした。戦後の激しいインフレで、手の届かなくなっ
    ていた患者や遺族、未感染児童の擁護を目的としていた。
    
     その年の11月3日、光田は皇居で文化勲章を授与された。
    36年前、貞明皇后に初めて拝謁した日のことがありありと思
    い出された。
    
         患者や私たちと共に泣いてくださる皇后様のお姿を支え
        に、自分はここまで来ることが出来たのだ。そのご仁慈が
        国中の人々を啓蒙し、それが施設の充実になっていったの
        だ。そのお陰があってこその、今日の晴れがましい栄誉で
        はないか。その皇太后様はもうこの世にましまさぬ。
        
     天皇陛下ご臨席のもと、授章式が執り行われ、陛下お招きの
    昼食会を終えて退出すると、光田はその足で貞明皇后が鎮まり
    います多摩御陵に向かった。
    
        暗き夜を照らしたまひし后(きさき)ありてライ絶ゆるこ
        とも聞くべくなりぬ(千葉修)
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(142) 大和心とポーランド魂
b. JOG(120)「心を寄せる」ということ

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「【主張】ハンセン病訴訟 判決を機に偏見なくそう」、
  産経新聞、H13.05.12、東京朝刊、2頁
2. 出雲井晶、「天の声」★★★★、展転社、H4
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
    
■「暗き夜を照らしたまひし后ありて」について
                                            鈴木京子さんより

     200号おめでとうございます。そして今回もまたすばらし
    い内容の記事をよませていただき、思わず涙ぐみました。この
    ようなことを知っている人は少ないと思うのですが、こういう
    ことを知るというのは、大切なことだと思います。

     皇室の方々の人間としての思いやりや、やさしさを(それこ
    そが人間としての高貴さだと私は思いますが)知ることで、国
    の母としての皇后様に憧れ、慕うという自然な心を持ちたいと
    私は思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より
    
     足かけ4年近くで、200号を達成できました。読者の皆さん
    からお祝いと励ましのメールをいただき、ありがとうございま
    した。

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