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-----Japan On the Globe(222)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     人物探訪:コロネル・シバ
       _/_/                   〜1900年北京での多国籍軍司令官
_/ _/_/_/         義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍
_/ _/_/          の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。
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■1.唐突な日英同盟締結の背景■

     ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英
    同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ
    ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに
    帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日
    本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側
    の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、
    イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の
    スピードで同盟締結の運びとなった。
    
     イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい
    う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ
    リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半
    年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日
    本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には
    マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。
    
■2.義和団の地鳴り■

     1885(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる
    獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列
    強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉
    により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ
    げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり
    とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威
    海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香
    港島対岸の九龍をとった。
    
     こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の
    結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても
    傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を
    滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒
    を襲うようになっていった。
    
     1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キ
    ロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。
    北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一
    方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊
    400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの
    25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。
    
     6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊され
    た。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。
    すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間
    がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■3.籠城計画■

     北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メート
    ルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
    6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス
    公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
    
     日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であ
    った。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参
    していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。
    日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力
    を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論を
    リードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得てい
    た。
    
     柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合
    う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示
    し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
    別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、とい
    う形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持って
    いった。
    
■4.義和団の来襲■

     6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部
    隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備
    部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上さ
    れた。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国
    人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。
    
     13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。
    おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。
    しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
    14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト
    教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲
    鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千
    人を数えた。
    
     15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグ
    ドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救
    出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
    困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると、
    柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を
    提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価してい
    た。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。
    
     この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地
    域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいてい
    た柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、
    日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつ
    き、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍
    と共に自衛に立ち上がった。
    
■6.清国軍も攻撃開始■

     6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京
    退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵
    にいきなり銃撃され、即死した。
    
     20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と
    攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲ま
    で持ち出して、公使館区域を砲撃した。
    
     最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリー
    とベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正
    面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻
    撃を受けると、そちらに移動してしまった。
    
     北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間
    が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北
    辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下
    ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてき
    た。
    
     区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、
    粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オース
    トリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵
    達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、
    「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保
    護に帰ってしまった。
    
■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■

     王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
    義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。
    
         数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
        は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
        でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
        を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
        れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
        バ(柴中佐)である。・・・
        
         この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
        彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、
        前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをす
        べてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒し
        ていることを感じる。[1,pp481]

     この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津
    からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は
    3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退す
    るという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使
    は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタ
    リア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス
    人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。
    
     6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃
    が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
    弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。
    午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げ
    ながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待っ
    てから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は2
    0余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
    この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大
    いに鼓舞した。

     イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次の
    ように記している。
    
         王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援
        軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中
        佐である。・・・
        
         日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士
        官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇
        気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに
        つづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
        
■8.安藤大尉の奮戦■

     王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼
    りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が
    激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵
    との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦
    が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こ
    うということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、
    今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめてい
    た軍議はすぐにまとまった。
    
     イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が
    乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。
    最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容さ
    れていたのである。
    
     安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、
    たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き
    刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出し
    た。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、3
    0余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に
    避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは
    讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。
    
     後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ
    上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
    
         戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバ
        ックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮
        した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあっ
        たばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
        
         当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、
        この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生
        として、みなの目に映るようになった。
        
         日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の
        賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接
        的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
        人だけである。[1,p500]

■9.コロネル・シバ■

     救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京
    にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千
    の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、
    ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城し
    ていた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。
    
     14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、
    北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナル
    ド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、
    守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そ
    して公使は最後にこう付け加えた。
    
         北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰す
        べきものである。
        
     柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、
    嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々から
    も認められた誇らしい感情を味わっていた。
    
     柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪
    を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍
    の間でも評判となった。
    
     柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズ
    の記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広
    く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めた
    マグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し
    進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりか
    ら、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したので
    あろう。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(187) 皇太子のヨーロッパ武者修行

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 村上兵衛、「守城の人−明治人 柴五郎大将の生涯」★★★、
   光人社、H4
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■匿名希望の方より

     いつも配信を心待ちにしています。読者の人々の反応を読む
    につれ、私と同じ思いでこの記事を読んでいる人が、この日本
    にもいるのだと思うと、勇気が満ちる思いです。

     自分なりに日本人であることのアイデンティティーを問う旅
    が、海外生活から始まったことは意味のあることだと思います。
    外から自分の派生した場所を見つめ、学校教育ではなく自分な
    りに元から歴史を辿りなおしてきました。そして今は日本人で
    あることに、誇りさえ感じます。そして日々、日本人として何
    かを世界に向かって発信して行かねばと思っています。

     自分の国、祖国、育ててくれた地域と先人たち、先祖、祖父
    祖母、父母、そういう流れがあるから今の自分がある。そして
    自分からまた子供たちへ、その子供たちへ・・・。家族の愛と
    切り離せないものがあると思います。愛する人たち、家族たち
    という最小単位の絆の先には、愛するものを守るべき自分の国
    に対しての誇りがなければ、生きる希望すら危ういのではない
    でしょうか? 今の日本の社会には、そうした認識の欠如から
    来る精神の病が蔓延している気がするのです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     祖国の名誉をかけて奮戦した柴中佐たちの気概を受け継ぎた
    いものです。
    
■「コロネル・シバ」について

     今回も柴中佐の素晴らしい功績,そして,その結果が日英同
    盟にも結びついていったという話に深く感銘をうけました。国
    に対する誇りを持ち,そして,愛する国を辱めないために,無
    駄死にをするのではなく全力を尽くす姿勢‥柴中佐率いる日本
    軍の姿には感動を覚えます。こういったことを教育の場で教え
    るべきです。(匿名希望)

     日本軍守備隊長「芝中佐」以下の日本軍の働きが、基になっ
    て日英同盟が結ばれましたが、この日英同盟のお陰で日本は日
    露戦争に勝つことが出来ました。もし芝中佐以下の働きが無か
    ったら日本の運命はどうなっていたでしょうか。ひょっとして
    今頃ロシヤの一地方になっていたかも知れません。日本の真の
    歴史を知り、日本人としての自覚を持つ人が増えれば、日本の
    将来もきっと明るいものになると信じております。
    (熊野さん)
    
     20世紀初頭、欧米人が、東洋人をひとしく「黄色い肌の
    猿」と蔑視していたことは、確かに許されることではありませ
    んが、しかし、偏見や差別、蔑視をはねのけ、見直されるよう、
    勇気と誠実さを、行動で示してみせれば、認めさせることは出
    来るのだ、それこそが、もっと大切な事だと、痛感しました。
    こういう話こそ、教科書に載せて欲しいものです。(Sさん)

     アメリカ映画『北京の55日」というのがあって、そこに出
    てくる柴中佐は、チャールトン・へストン演ずるアメリカ海兵
    隊将校の忠実な補佐役として描かれており、日本人として面白
    くなかった。誰かお金持ちがスポンサーになって、史実に忠実
    な『北京の55日』を製作できる日が来ないものでしょうか。
    (田口さん)

■ 編集長・伊勢雅臣より

     柴五郎中佐のような働きこそ、国際社会で評価される貢献で
    すね。

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