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________Japan On the Globe(247)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     人物探訪:南方熊楠、大英帝国に挑む
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_/ _/_/_/         学問で日本国の名をあげようと、天才・南方
_/ _/_/          熊楠は世界の学問の中心地ロンドンに上陸した。
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■1.奇妙な日本人を紹介します■

     大英博物館の考古学・民族学部長、そして後に博物館長とな
    る英国学士会の長老オーラストン・フランクス卿のもとに、そ
    の奇妙な日本人青年が現れたのは、1893(明治26)年9月の
    事だった。
    
     靴底の厚みがレンガほどもあるくたびれた皮の長靴を履き、
    傍に寄ればぷーんと臭いそうな垢じみたフロックコートを着て
    いる。大きな目は一種の異様な光を湛えている。持参したある
    日本人からの紹介状も、また異様なものだった。
    
         上は天文地理から、下は飛潜動植物、蟻、蠅、せっちん
        虫にいたるまでの智識をふまえた奇妙な日本人、南方熊楠
        (みなかた・くまぐす)を紹介します。クマグスの研究の
        なかでも蘚苔・藻・菌・粘菌は殊にすぐれ、かつて科学雑
        誌「ネーチュア」に発見した新種、ピトフォア・エドゴニ
        ア・ヴォーシュリオイデス、ならびにグァレクタ・クバー
        ナを発表したる事あり
        
     グァレクタ・クバーナは、熊楠がキューバ島で発見した地衣
    類(こけ)の新種で、「白人の領土内でアジア人の手によって
    発見された生物学上の世界最初の発見」として、学会の話題を
    呼んだ。皮の長靴はキューバのジャングルを歩き回った時に、
    吸血虫から身を守るために求めたものだった。

■2.馬小屋の大学者■

     フランクス卿はその汚いなりに顔をしかめたが、話を始める
    と、熊楠の異様な熱気を帯びた話しぶりに、ぐいぐい引き込ま
    れていく思いで、時間がたつのを忘れてしまった。
    
         君はすばらしい学者だ。また訪ねてきてくれたまえ、ミ
        ナカタ君。
        
     熊楠は大英博物館での資料閲覧を許され、時にはフランクス
    卿の助手として、東洋の仏像や仏具の整理を手伝ったりした。
    
     熊楠の生家は、和歌山でも有数の富裕な商家だったが、この
    頃は実家からの送金も途絶えていたので、生活は貧窮を極めた。
    馬小屋の二階の安下宿は、階下から立ちのぼってくる馬の小便
    の臭いが立ちこめ、座る場所もないほど書物と植物標本が部屋
    を埋めて尽くしていた。へこんだベッドに、壊れた椅子、便器
    の横には食器が散乱して、掃除などもう何年もされていないよ
    うだった。
    
     食事は一日一食がやっとだったが、パンでも肉でも自分が噛
    み砕いて栄養をとると、残りを可愛がっていた猫にやっていた。
    しかし、その猫もあまりの貧乏生活に愛想をつかしたのか、家
    出をしてしまう。
    
     たまに金が入ると、街角の居酒屋をはしごして、飲んだくれ
    た。ぼろ靴にすり切れたフロックコート姿で歩くと、近所の犬
    が驚いて吠えかかってくるのにはさすがに閉口した。

■3.日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる■

     明治元年の前年(1867)に和歌山で生まれた熊楠は、幼い頃か
    ら異様な神童だった。小学校の頃には、友人の家にあった和漢
    三才図会(図入りの漢文による百科事典)を読みふけっては、
    暗記した文章と絵を、家に帰ってから描き写した。全105巻
    の筆写を5年で終えた。中学に入ると、漢訳一切経3千3百巻
    を筆写したり、欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけり、か
    と思うと、2日も3日も寝食を忘れて、山中で昆虫や植物の採
    集をしていた。
    
     その後、東京大学予備門(後の旧制1高)に進んだが、教室
    の中の学問には飽き足らなかった。世界を駆けまわり、世界中
    の学問をし、大自然を観察し、天地のいのちの不思議を知る−
    それが熊楠の夢だった。おりしも、イギリスの植物学者バーク
    レーらが6千種もの世界最初の標本集を刊行したという新聞記
    事を読み、
    
         男と生まれたからには、バークレーたちを超える7千種
        の菌類を集め、日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる
        
     と、我が身に誓った。東大予備門を退学して、明治19
    (1886)年、20歳にしてアメリカに渡る。ミシガン州の農学校
    に入ったが、レベルの低さに失望してここも退学。フロリダの
    食品店で働きながら、近くで植物類を採集しては研究する生活
    を続けた。そこからさらにキューバ島に分け入って採集を続け
    た。超人的な記憶力を持つ熊楠は、この頃には18カ国語に通
    じていた。
    
     しかし、世界一の学問を目指す熊楠には、新興国アメリカは
    物足りなかった。こうして明治25(1892)年、熊楠は世界の学
    問の中心地、大英帝国の首都ロンドンに上陸したのである。

■4.はじめて学問の尊さを知る■

    「いっちょう、やったるか!」 英国で最高の権威を誇る週刊
    科学誌「ネーチュア」が、星宿構成についての論文を募集して
    いる事を知って、熊楠は発奮した。半月ほどかけて「東洋の星
    座」を書きあげて応募した所、世界各国の天文学者や大学教授
    らの論文を抑えて、みごと最優秀の一編として掲載され、また
    その批評がタイムズその他の新聞紙上に大きく取り上げられた。
    
     貧しく学歴もない異邦の青年ミナカタの名が、一躍世界中に
    知れ渡った。それを誰よりも喜んでくれたのが、フランクス卿
    だった。熊楠を自宅に呼び、豪華な祝宴を開いてくれた。この
    時の感激を熊楠は後にこう書きとめている。
    
         英国学士会の耆宿(長老)にして、諸大学の大博士号を
        もつ七十ちかい大富豪の老貴族が、どこの生まれともわか
        らぬ、学歴も資金もない、まるで孤児院出の小僧のごとき
        当時26歳の小生を、かくまで好遇されるとは全く異例の
        ことで、小生、今日はじめて学問の尊さを知ると思い候。
        
     大英博物館では、東洋部図書部長のロバート・ダグラス卿を
    助けて、日本書籍や漢籍の目録作りに没頭した。ダグラス卿は
    熊楠の実力を認めて正規の館員に推薦したが、熊楠は「(雇わ
    れ)人となれば自在ならず、自在なれば(雇われ)人となら
    ず」、自分は勝手千万な男でありますゆえ、と辞退し、無官薄
    給の「嘱託」の地位をもとめた。
    
     その後、「ネーチュア」誌を中心に、ロンドン滞在中だけで
    も52編もの寄稿をして、熊楠の学名は鳴り響いていった。そ
    の間、「ロンドン抜書帳」と名付けて9カ国語の文献を筆写し
    た大判大学ノートが54冊、1万800頁にのぼった。
    
     またオランダ第一の東洋学者グスタブ・シュレーゲルが、熊
    楠の活躍を妬んで、ちくちくと意地悪な批評をしたりするので、
    「売られた喧嘩ぁ買うちゃるぜぇ!」と論争を挑み、和漢洋の
    文献を縦横無尽に駆使して、こてんぱんに論破した事もあった。
    
     欧米での長い学究生活を通じて、東洋や日本の古い歴史や文
    化が、西欧に比べて決して劣るものではないことを熊楠は知っ
    た。個々の学者の学問の深浅こそあれ、盲目的な西洋崇拝は熊
    楠には無縁だった。

■5.「最も博学で剛直無偏の人」■
    
     この頃、国立ロンドン大学総長でイギリス第一の日本通のフ
    レデリック・ディキンスも熊楠の活躍を評価して、総長室に招
    いた。総長室に姿を現した熊楠にディキンスは書き上げたばか
    りの「英訳 竹取物語」を見せた。熊楠はすぐに原稿を読み始
    めたが、「ここのところはちょっと良うないなぁ、、、あれっ、
    これはいかんなぁ」と首をふりはじめた。
    
     ディケンズは顔色を変え、唇をふるわせて「ミナカタ、汝の
    暴言、無礼であろう。日本ごとき未開国からきた野蛮人は、外
    国の長老に礼を尽くすことも知らぬのか」
    
     熊楠も負けてはいない。窓ガラスをびりびり震わすような大
    声で、
    
         何を云うちょるか。日本人が礼を尽くすのは相手が正し
        き老人の場合だけじゃ。わが日本の文学を誤読し、そのま
        ちがいを指摘されても反省も訂正もせず、怒鳴り返すよう
        な石頭の老人をだれが長老と思うか、紳士じゃと思うか。
        相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを
        正しいと心にもない世辞を述べたてるような未開人はイギ
        リスにはいても、日本にはおらん。
        
     この日は喧嘩別れになったが、ディキンスも独りになって、
    冷静に考えてみると、なるほど熊楠の指摘した点はきわめて正
    しい。それに卑屈きわまりない在英日本人の多いなかで、貧書
    生ミナカタは大英帝国の権威に臆することなく、祖国の名誉の
    ために堂々と抗議したのである。その勇気にディキンスは強い
    感銘を受けた。
    
    「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の
    人。」 ディキンスは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、
    終生変わることのない親交を結んだ。

■6.祖国を思う気持ち■

     1894(明治27)年8月1日、日本は清国に宣戦布告。「戦さ
    がはじまったぞ!」。祖国の維新後の最初の対外戦争に、熊楠
    はじっとしていられなかった。募金名簿を作り、真っ先に署名
    して、食うや食わずながらも金1ポンドを投げ出した。安下宿
    2週間分の宿代である。そして「みんな軍資金を出しちゃれ
    ェ!」とロンドン中の日本人に募金を求めた。熊楠のあとに、
    駐英公使や、横浜正金銀行ロンドン支店長などが続き、79名
    から200ポンド近くの募金が集まった。
    
     9月17日、黄海開戦に日本海軍が大勝利をすると、日本人
    40数人が集まって、祝杯を上げた。もちろん熊楠も真っ先に
    駆けつけて、「命やるまで沈めた船に苔のむすまで君が代は」
    などと妙な節まわしの都々逸をえんえんと唸って、皆をしらけ
    させた。
    
     ロンドン暮らし6年目の1897(明治)30年3月16日、熊楠
    は東洋部図書部長ダグラス卿の部屋で、支那の革命闘士・孫文
    を紹介された。孫文は清国政府打倒に失敗し、日本、ハワイ、
    アメリカを経由してイギリスに亡命してきた所を、清国公使館
    に捕まってしまった。ダグラスらは英国の世論を盛り上げ、孫
    文を釈放させたのであった。
    
     同い年の二人は意気投合して、大英帝国の正面玄関で話を弾
    ませた。「ミナカタ、あなたの一生の所期(志)は?」と孫文
    に聞かれた熊楠はこう答えた。
    
         ねがわくは、われわれ東洋人は、東洋の国々にいる西洋
        人をことごとく国境の外に追放したきことなり。
        
     周囲のひしめく英国人をものともせずにこう言い切る熊楠の
    大胆な言葉に孫文は青くなりながらも、心ふるえるものを覚え
    た。満洲王朝下で、西洋諸国に半植民地とされた支那4億の民
    を救う事が孫文の志であった。学問と政治と、道は違えど、そ
    れぞれの祖国を思う気持ちには通じる所があった。
    
     意気投合した二人は毎日のように会っては語り合った。そし
    て有力な日本人に孫文を紹介しては、革命のための援助を依頼
    した。

■7.日本人としての、学者としての誇り■

     孫文が6月にロンドンを去り、その年の11月、熊楠は大英
    博物館でひと騒動起こした。閲覧室で熊楠が小さなくしゃみを
    した所、ダニエルズという閲覧者がやってきて、口汚く熊楠を
    罵り、唾を吐きかけた。人種差別感情もあったのだろう。熊楠
    がたしなめると、それを根にもって、以来、帽子にインクをこ
    ぼしたり、いろいろな嫌がらせをするようになった。
    
     ある日、ダニエルズが、日本が日清戦争後に手に入れた遼東
    半島を三国干渉で手放した事をからかうと、熊楠の顔色が変わ
    った。自分への嫌がらせはともかく、祖国への侮辱は我慢なら
    ない。例のどた靴でダニエルズのスネを蹴り上げ、顔面に頭突
    きを食らわせた。
    
    「げぇっ!」と悲鳴を上がり、ダニエルズの高い鼻がつぶれ、
    血が噴き出した。「これが日本人じゃ、見ちゃれェ!」と5百
    人ほどもいる閲覧室の中で熊楠は絶叫した。
    
     2ヶ月間の入館停止処分が解けて、熊楠は博物館に戻ったが、
    1年後、またしてもダニエルズに唾を吐き、殴りかかるという
    事件を起こしてしまう。かくして再度の追放処分。しかし熊楠
    の学才を惜しむフランクス卿やダグラス卿が博物館の評議員で
    ある皇太子(のちのエドワード7世)などに嘆願して、ようや
    く復館することを得た。
    
     しかし、熊楠の暴行に反感を持つ館員たちは、ダグラス部長
    の部屋でのみ研究を許すという条件をつけた。それをダグラス
    から聞いた熊楠は、静かに立ち上がって、厚意に感謝したあと、
    こう言い残して大英博物館を去っていった。
    
         僕にも日本人としての、学者としての誇りがある。それ
        を失って、膝まで屈してまでここにとどまることはできな
        い。

■8.「帰るか、日本へ」■

     熊楠の実力を知るロンドンの学者たちは、世界最大の工芸美
    術館ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館や大英博物館の
    分館であるナチュラル・ヒストリー館での仕事を世話してくれ
    た。
    
     世界最高の学問の府ロンドンに住みながら、その宝庫・大英
    博物館への道を禁じられ、二つの博物館を掛け持ちして、なん
    とか糊口をしのぎつつ、残された時間で「ネーチュア」誌など
    への投稿を続ける。「お前の学問は、それだけでよいのか」、
    そう思うと、熊楠は言いようのないいらだたしさを覚えた。
    
     唯一の希望はロンドン大学のディキンス総長の世話で、ケン
    ブリッジか、オックスフォードか、いずれかの大学に作られる
    予定の日本学講座の助教授になるという夢であった。しかし折
    からのボーア戦争で、どの大学も予算を切りつめられ、その望
    みは絶たれた。
    
    「帰るか、日本へ」熊楠は決心した。アメリカ放浪6年、ロン
    ドン滞在8年。20歳で日本を出発した熊楠はすでに34歳に
    なっていた。1900(明治33)年9月1日、熊楠を乗せた丹波丸
    はリバプール港を出発した。目指すは故郷・和歌山の地。熊楠
    はそこでまたさまざまな騒動を起こしながらも、南紀熊野の豊
    かな自然のなかで自由人として独自の学問を展開していく。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(043) 孫文と日本の志士達
 中共、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助けた。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 神坂次郎、「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」★★★、新潮文庫、H3
2. 松下千恵、「くまぐすものがたり」★★★、わかやま絵本の会、S62
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「南方熊楠、大英帝国に挑む」について

    「南方熊楠、大英帝国に挑む」を読んで、すがすがしく、涙が
    込み上げてきました。遠い異国で、決して金銭的には恵まれて
    いない生活。 しかし信念を曲げる事なくそして「日本人、学
    者としての誇り」を捨てる事なく学問を探究していった姿。こ
    うでありたいと願う、いやこうでなければならない姿がありま
    した。
     現代であっても外国人に対して卑屈になりがちな日本人(私
    も含めて)ですが、南方熊楠のような人が居たの事を誇りに思
    い、また多くの若い人達に知って欲しいと思います。
                                             (あゆみさん)

     実は、高校生くらいのときに、南方熊楠の展覧会を見に行っ
    て、大変感動したことがありました。なんという博学、そして、
    なんという情熱!その綿々と綴られた大英博物館の写し、一枚
    一枚に込められた闘魂のようなもので、狭い会場の中の熱気も
    なにかただならぬものに思えたほどでした。
     今回はまた、非常に詳細な自伝的回想文によって、いっそう、
    熊楠の人柄が出ていたので、さらに彼の愚直一徹な生き方に、
    また、親近感を持ちました。当時の生活状況や苦を苦とも思わ
    ず、外国の権威にも、堂々と立ち向かう熊楠の姿がまさしく、
    「本物の大志を持った日本人」の自負を切々と感じました。い
    かに熊楠が、天下に誇る大きな人物であったか、改めて驚かさ
    れました。
     明治の人物というのは、本当になにか、常識を超える迫力の
    ある人たちが多いですね。今モスクワに留学中で、ほとほとロ
    シア語で論文を書く難しさを痛感していますが、熊楠のような
    偉大な業績を知れば、その程度で弱音を吐くわけにもいくまい、
    と反省しています。                        (知世子さん)

     今回は我が郷土・和歌山の天才・南方熊楠を取り上げていた
    だきありがとうございます。熊楠が帰国して居を構えた田辺市
    の近くに住みながら南方熊楠を知ったのは今から30年前の高
    校の時です。それも粘菌という植物と動物をの境界のない生物
    の研究者で天才であったけど大変な奇人でもあったというレベ
    ルの話ぐらいで、今から思えば南方熊楠をきちんと紹介してく
    れる先生が一人ぐらい居ても良かったのにと思いますが、さす
    がに平等教育を進める中で一人の天才を取り上げることは眼中
    になかったのかもしれません。            (yunokuniさん)

■ 編集長・伊勢雅臣より

     明治の人物達は、愛国心をバネに学問の世界でのワールドカ
    ップに挑んでいたのですね。

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