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________Japan On the Globe(270) 国際派日本人養成講座_______ _/_/ _/ 地球史探訪: もう一つの開戦 _/_/ 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅 _/ _/_/_/ 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍 _/ _/_/ 航空部隊が襲いかかった。 _______H14.12.08_____39,836 Copies_____653,796 Views________ ■1.英国東洋艦隊の英姿■ 1941(昭和16)年12月2日、英国の誇る最新鋭戦艦「プリ ンス・オブ・ウェールズ」が高速戦艦「レパルス」を伴って、 シンガポールに入港した。埠頭に出迎えた大勢の観衆の中には マレー駐屯陸軍司令官パーシバル中将の姿もあった。中将は後 にこう書いている。 ジョホール水道の東水道に大きな艦が英姿をあらわし、 投錨するのを目撃したわれわれのいい表しようのない感激 艦隊司令官トム・フィリップス司令官は、本国出発の際に艦 隊のシンガポール到着を派手に宣伝せよという命令を受けてい た。日本を牽制・恫喝するためである。そのためシンガポール 駐在の各国報道関係者が招待され、新鋭艦が公開されるという 準戦時下では信じられないようなことまで行われた。 ロンドンからはチャーチル首相がプリンス・オブ・ウェール ズなど多数の艦艇からなる東洋艦隊がシンガポールに入港した と、世界中にラジオ放送をした。 1938年末から始められた米英両国の太平洋共同作戦計画では、 「対日戦生起の場合、イギリスはシンガポールに艦隊を派遣し、 アメリカはハワイに艦隊を集結して作戦する」という基本方針 が確認されていた。東洋艦隊派遣は、いよいよ迫りつつある対 日戦の準備であった。 ■2.不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ■ プリンス・オブ・ウェールズは、英国の最新鋭戦艦として設 計されたキング・ジョージ5世型計5隻のうちの2隻目で、こ の年3月31日に完成したばかりだった。これが「不沈艦」と 呼ばれたのは、その防御の堅さからである。舷側は最大15イ ンチ(40センチ近く)の分厚い鋼板を腹巻きのようにめぐら している。 ウェールズは完成後、5月21日にはドイツが誇る世界最大 最強の戦艦「ビスマルク」とデンマーク沖で砲撃戦を展開した。 この時、僚艦・巡洋戦艦「フッド」はビスマルクの38センチ 砲を浴びて、わずか4分半で轟沈。ウェールズも数発の直撃弾 を浴びて火災を起こしたが、沈没の危険はまったく感じられな かった。 また対空防御にしても、40ミリの対空機関砲「ポムポム 砲」48門の発射弾数は一分間に6万発。この弾幕を突破でき る攻撃機はまずあるまいと考えられていた。 ■3.出撃■ ウェールズのシンガポール到着の前日、日米交渉決裂の通知 を受けて、日本軍の攻撃が始まる可能性があると警戒配備が発 令され、3日から偵察機がマレー半島周辺の哨戒を開始した。 12月6日夕刻、ベトナム沖を廻ってマレー半島に接近しつ つある日本軍の大船団をオーストラリア軍の偵察機が発見した。 英軍司令部は、日本船団が英軍の攻撃を誘発して開戦の口実を 作ろうとしているという可能性もあるので、日本船団の行き先 がはっきりするまで、偵察を継続することとした。しかし悪天 候のため、その後の情報が得られない。 12月8日午前1時30分、マレー北端、タイとの国境近く にあるコタバルに日本軍が上陸を開始。ハワイ真珠湾攻撃と同 時刻であった。ここにある飛行場を占領すれば、航続距離の短 い陸軍機を活用して、マレー半島への侵攻作戦が一挙に有利に なる。 日本軍上陸の報を受けた英艦隊司令部は、日本船団を撃滅で きれば、上陸軍を潰滅させ、日本軍の出鼻をくじく事ができる、 と考えた。8日20時25分、プリンス・オブ・ウェールズ、 レパルスの2戦艦は、駆逐艦3隻を率いて、静かにシンガポー ル港を出撃していった。 ■4.日本の航空戦力■ 英艦隊は出撃に際し、航空兵力は伴わなかった。マレー半島 には81機の英第一線機が配備されていたが、日本陸軍航空部 隊の8,9日の攻撃でわずか10機に減っていたし、シンガポ ールの航空部隊は、その防衛からはずすわけにはいかなかった。 また不沈艦プリンス・オブ・ウェールズなら、日本の航空攻撃 などものともしないと考えていた。当時世界最強と言われたド イツ空軍でも、2年3ヶ月もイギリス艦隊と戦って、戦艦はお ろか、一隻の巡洋艦すら沈めていないのである。 イギリスの主力雷撃(魚雷攻撃)機ソードフィッシュでもド イツ戦艦ビスマルクを攻撃した際にもその速度を弱めることし か期待されておらず、実際に魚雷を3発命中させたが、その行 動力を奪うにも至らなかった。有色人種の日本人がドイツやイ ギリス以上の航空戦力を持てるはずもない、と見くびっていた 点もあるだろう。 一方、日本海軍は、サイゴンなどベトナム南部に約100機 の陸上攻撃機(陸攻)を集め、航空戦力で英艦隊を撃滅しよう という当時の常識からはかけ離れた戦術をとろうとしていた。 日本最新鋭の一式陸攻は最高速度は428キロ、航続距離4 200キロ。ソードフィッシュの最大速度220キロ、航続距 離1650キロとは比較にならない、当時世界超一流の性能だ った。しかし、性能追求の陰で防弾能力が犠牲とされ、被弾す ると炎上しやすいために、後に「ワンショット・ライター」 と呼ばれるほどだった。 不沈艦プリンス・オブ・ウェールズと日本の航空戦力の対決 の時が迫っていた。 ■5.爆撃開始■ 南シナ海は美しく澄み渡っていた。赤道近い南の太陽を反射 して、濃い緑色にギラギラ輝いている。12月10日12時、 マレー半島中部から100キロほど東、日本軍の索敵機から英 国艦隊発見の報に接し、ベトナム南部から南下して最も近くを 飛んでいた白井大尉引きいる中隊8機は、各機2発づつ搭載し ている250キロ爆弾を1発づつ、2回の攻撃で爆撃する戦術 に出た。イギリス側の資料では、次のように記録されている。 1万フィート(3千m)の高度で9機編隊(実際は8 機)が近づくと、両戦艦はただちに対空砲火を浴びせかけ た。日本機のまわりには点々と砲弾が炸裂したが、訓練不 足のためか効果があがらず敵はゆうゆうと飛んでいた。 下からはゆうゆうと見えただろうが、日本機の方はそれどこ ろではなかった。ウェールズだけで、毎分6万発の対空砲火を 浴びせられるのに、5艦全部の砲火が白井中隊8機に集中した。 炸裂する砲弾の衝撃で、機体が揺れ動いた。爆煙で下の戦艦 が見えなくなるほどだった。爆弾投下までの2、3分が2、3 時間に感じられる。白井中隊8機は、艦隊後尾で30ノット (約時速55キロ)の高速でジグザグ航行するレパルスに8発 の爆弾を投下した。 日本軍の技量はきわめて高く、高度3千mの高さから10m 角の標的に、2度に1度はかならず命中させる機が1個中隊に 1,2機はあった。しかし、30ノットでは爆弾が届くまでに 敵艦は400mも移動する。 8発の爆弾はコバルト色の海面に吸い込まれるように落下し ていき、敵艦の周囲に巨大な水柱が上がり、中央の1発は見事、 後甲板中央に命中炸裂した。しかし、白井中隊の2機が被弾し て、帰投した。残る6機で再度、爆撃を行い、今度も舷側に大 きな水柱が上がったが、命中弾はなかった。 時に12時45分。日本海軍初めての戦艦爆撃であった。命 中した一弾は甲板を貫通して格納庫内で爆発し、兵員数名が死 傷したが、戦闘に支障を与えるほどの効果はなかった。しかし、 日本軍の正確な爆撃技術に、英艦隊はドイツ空軍とはだいぶ違 うと肝を冷やしたであろう。 ■6.魚雷攻撃開始■ 白井中隊が第一回目の爆撃を終えて体制を立て直している時 に、サイゴンを出発して近くを飛行中だった中西二一中佐率い る2個中隊16機が駆けつけた。まず石原薫大尉率いる中隊が、 ウェールズ左舷から6機、右舷から3機に別れて、魚雷攻撃に 入った。ウェールズに乗艦していたCBSの従軍記者は次のよ うに語っている。 日本機は超低空で突っ込んできた。魚雷を発射した瞬間、 翼をひるがえして、われわれの機銃の真正面に胴体をさら した。逃げ切るかと思ったが、優雅な形で水面に落下した。 海面に衝突したとたん、巨大なオレンジ色の炎の塊と化し た。その色は、大空の紺碧、南海の深い緑色に映えてあざ やかだった。 日本機の襲撃ぶりは、驚嘆すべき低空肉薄攻撃で、搭乗 員の姿がはっきり見えた。 左舷からの不気味な白い泡の航跡を引いて突進する5本の魚 雷、そのうちの2本が艦尾と煙突後方に命中した。機関長だっ たローレンス・ゴーディ大佐は、その時、上甲板にいたが、2, 3mも投げ出されて、一時気を失ったと語っている。 後尾に命中した魚雷は、舵を破壊し、方向制御の自由を奪っ た。さらにウェールズは左舷の浸水で13度傾き、右舷に注水 してバランスをとったものの、速力は30ノットから20ノッ トに激減した。 高井貞夫大尉率いる7機の中隊は、4機と3機に別れて同様 にレパルスを挟撃したが、艦長テナント大佐の老練かつ絶妙機 敏な操艦技術で、7本の魚雷をすべて回避した。レパルスは白 井中隊の爆撃でまだ煙を出していたが、「魚雷を発射して敵の 舷側を飛び抜けるとき、後甲板付近の黒い煙をだして燃えてい る火災現場に、多くの兵員が集まって、必死に消火作業をして いるのがよく見えた」と一番槍の大竹兵曹は語った。 ■7.「ただこの一発の命中あるのみ」■ 日本機は第一波の爆撃隊、第二派の雷撃隊とも、驚異的な技 量を示して、北東の空に帰っていった。ベトナム南部の日本軍 基地から900キロも離れた洋上で、日本軍機の猛攻を受ける とは、英軍は予想もしていなかった。13時20分、「敵機の 攻撃を受けつつあり」との知らせを受けたシンガポールの総司 令部はただちに戦闘機1個中隊を派遣した。 しかし、息もつかせず、13時35分、宮内七三少佐率いる 最新鋭の一式陸攻26機が、傷ついたウェールズ、レパルスに 襲いかかった。敵艦からの対空砲火が雨あられと降り注ぐ。 フワーッとした、ぜんぜん重量感のない黄白色の光の弾 丸が、ひっきりなしに、こちらで吸い寄せているかのよう に、真っ直ぐに向かってくる。しかし、機体の鼻さきでス ーッと右へ左へ、あるいは上に下にと流れてしまい、不思 議とあたらない。・・・実際には曲がっていないはずなの だが、そう見えた。([1]の著者、須藤朔中尉) グングン高度を下げる。グイグイ肉薄。副操縦員の壇上 一飛曹が発射把柄(レバー)を握ったとき、私はその手を 二重につかんで「まだ、まだ」と胸のなかでつぶやいた。 生も死もない。ただこの一発の命中あるのみだった。訓練 の時の射程距離、1000メートルよりもさらに半分ほど 突っ込んで発射した。 敵がどう回避しようが、かならず命中する。私はそのま ま直進し「ウェールズ」の艦橋スレスレに反対舷に飛び抜 けた。もう撃ってこない。うそのように静かだった。(宮 内少佐) ■8.レパルス、ウェールズ沈没■ ウェールズには4本、レパルスには5,6本の魚雷が命中し た。 機内では「バンザイ、バンザイ!」を連呼し、だれかれ となく手をにぎりあって「やった、やったぞ」と泣いてい た。「オイ、おれたちは生きているのか?」と一人が発言 したのは、帰路について半時もたってからだろうか。(宮 内少佐) 14時3分、レパルスは左に大きく傾き、急速に沈没してい った。しかしさすがに不沈艦ウェールズはまだ惰性で動いてい た。14時33分、左に傾斜して艦尾から沈み始め、退艦命令 が出された。 フィリップス長官はリーチ艦長とともに艦橋に残り、一緒に 退艦をと願う部下たちに向かって「ノー・サンキュー」と微笑 みながら、首を横にふった。「グッド・バイ。サンキュー。諸 君、元気で! 神のご加護を祈る」とリーチ艦長は大きく手を 振って叫んだ。14時50分、大音響とともに火柱が上がり、 さしもの不沈艦プリンス・オブ・ウェールズは艦尾からマレー の海に呑み込まれるように沈没していった。 15時15分、シンガポールから英空軍機バッファーロー8 機が到着した。そのパイロットはこう書き残している。 3隻の駆逐艦が、小さな破片にかじりついたり、油でよ ごれた海面を泳ぎ回っている数百人の水兵たちを救助する には、何時間も必要とすることはあきらかだった。 日本機がもう一度あらわれて銃爆撃をくわえることが予 想された。海中の水兵たちの誰もがそのことをよく知って いたにちがいない。しかし私が旋回したとき、彼らは手を 振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草 をした。・・・それは私の心をゆさぶった。なぜなら、そ こには人間性を超越したものがあったからだ。 ■9.英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない■ その夜、ロンドンではチャーチル首相が寝入りばなを、電話 で起こされて、ウェールズ、レパルス沈没の報告を受けた。 私は受話器をおいた。独りきりであったことに感謝した。 戦争の全期間を通じて、これほど直接のショックを受けた ことはなかった。・・・ベッドのなかで寝返りをうち、身 体をよじったとき、そのニュースの持つ恐ろしさが私の全 身にしみこんできた。 英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない。 ・・・このひろびろとした海域のいたるところで、日本は 主導権を握ったのだ。そして、われわれは弱くて無防備だ った。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(174) 大空のサムライ〜坂井三郎 撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」と ニューヨーク・タイムズは評した。 b. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター 対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させよう というシナリオの原作者が見つかった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 須藤朔、「マレー沖海戦」★★、学研M文庫、H13 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「もう一つの開戦」について 「のんたん」さん 今回の記事では,我が海軍航空隊の活躍が物語られておりま したが,私が思うにこの海戦の意義は軍艦は航空機に勝てない, 水平面を動く船では3次元で移動してくる飛行機に勝てないと いうことであったと思うのです。その事を証明したことに,こ の海戦の意義があるように思えます。 そしてアメリカはその事を理解して,それ以降の戦略を航空 機の能力を最大限行かすと言うことを考えたのに対し,日本は, ついに,敗戦まで大艦巨砲主義を捨てきれなかったという点が 重要ではないかと思うのです。 つまり,刻々変化する状況に対して,如何に素早くかつ適切 に自己変革を遂げることができるか,と言う問題に対し,日本 は今も昔も応えることが出来ていないように思えるのです。 今現在の日本経済や,政界官界を見ても,この「自己変革力 の無さ」が結局自分の首を絞め,没落への道をたどっているよ うに思えるのです。 今,私たちが知るべき事は過去の栄光と同時に悲劇に至った 道を良く研究し,二度と前車の轍を踏まぬようにすることと私 は考えます。それが,靖国神社でお休みになっている英霊の皆 様方の一番の供養になるのではないかと,「くにのいしずえ」 なった皆様を実際的に「この世によみがえらせる」ひとつの方 法ではないかと思うのです。 sinsinさん よく日本は、「最後まで大艦巨砲主義が捨てられなかった」 と言われますが、日本が最初にそれをうち破ったという事実が 今回のメルマガでよく分かりました。事実、大和型戦艦の三番 艦は空母「信濃」に変わりました。このあたりをあえて無視し て大和や武蔵を作ったのは無駄だったというのは自虐的すぎま す。 惜しいのは海軍も日露戦争の時みたいに日高壮之丞を更迭し て東郷平八郎を連合艦隊司令長官にしたような柔軟な人事がで きず、海軍兵学校の年次が一つ若いと言うだけでミッドウエイ 海戦の時に空母が専門の山口多聞司令官が司令長官になれずに 水雷が専門の南雲忠一司令長官が指揮をとるなどのちぐはぐさ が折角の優秀な兵器と兵士を生かせなかった事です。 おそらく真珠湾の時も山口司令官が指揮をとっていたら、後 方の軍需工場や石油基地も徹底的に叩きつぶして、戦局の行方 もどうなっていたかわかりません。 ただ年功序列は平和な時代の行動原理ですものね。日本が本 当に平和を愛する国だったから、あのような戦いになったのだ なと思います。そのような歴史も含めて日本が愛おしいと思い ます。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 現場の優秀さを生かす政治や戦略面でのリーダーシップが大 切ですね。特に戦争中や現在のような変革期には。© 平成14年 [伊勢雅臣]. 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