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■■ Japan On the Globe(282) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 孤高の代議士・斎藤隆夫

         国民の声なき声を代弁して、斎藤隆夫は議会で軍部批判、
        政府批判の声を上げ続けた。
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■1.「斎藤君が起った。」■

     昭和11(1936)年、陸軍青年将校たちによるクーデター・二
    二六事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会にお
    いて、歴史的な「粛軍演説」を行うべく斎藤隆夫は登壇した。
    1m50センチそこそこの痩せた小さな背丈で、若い頃の肋骨
    を6本もとる大手術の結果、首が右側に傾いて、それを小刻み
    に振るくせがあった。およそ風采の上がらないその姿は「ねず
    みの殿様」というあだ名をつけられていた。その演説は、翌日
    の新聞にこう報道された。
    
         斎藤君が起った。決死の咆哮1時間25分−−非常時を
        缶詰にした議事堂はゆらいだ。議員も傍聴人も大臣も、あ
        らゆる人の耳は震えた。7日の非常時議会は遂に斉藤隆夫
        氏の記録的名演説を産んだのだ。・・・・ 場内の私語がぱっ
        と消えた。広田首相、寺内内相に質すその一句毎に万雷の
        拍手が起る。民政も政友も共産も与党もない、煮えくり返
        る場内から拍手の連続だ。・・・・
        
         傍聴人も身を乗り出して聴覚を尖らせて居る。・・・・ 4
        時28分! 熱気を帯びた拍手、斎藤さんは壇を下りた。
        後方の議席に帰る途中、両側の議員は手を差し伸べて斎藤
        さんと握手した。声もない。沈黙、感激の握手の連続だ。
        
     斎藤の演説内容が報道されると、内地は言うに及ばず、上海、
    満洲、台湾、朝鮮からも続々と電報や郵便が寄せられた。ほと
    んど異口同音に、全国民の言わんと欲しながら言い得なかった
    事を、国民に代わって議会で吐露してくれた事を、心から看取
    するという内容であった。

■2.軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬ■

     その演説の一部を聴いてみよう。斎藤は、青年将校たちが国
    家改造を論じ、革新運動に加わっている点を批判した。
    
         軍人の政治運動は、上は聖旨に背き、国憲国法が之を厳
        禁し、両院議員の選挙被選挙権までも之を与えて居らない。
        是は何故であるかと言えば、つまり陸海軍は国防の為に設
        けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に
        服従し、国家一朝事有るの秋(とき)に当っては、身命を
        賭して戦争に従わねばならぬ。それ故に、軍人の教育訓練
        は専らこの方面に集中せられて、政治、外交、財政、経済
        の如きは寧ろ軍人の知識経験の外にあるのであります。
        
    「上は聖旨に背き」とは、明治15年に明治天皇が下された
    「軍人に賜はりたる勅語」の中での「世論に惑わず政治に拘わ
    らず、只ゝ一途に己が本分の忠節を守り」との一節を指す。軍
    人がこの教えを破って、政治運動に加わったら、どうなるか。
    
         政争の末、遂には武力に愬(うった)えて自己の主張を
        貫徹するに至るは自然の勢いでありまして、事茲(ここ)
        に至れば、立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武
        人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運
        動は断じて厳禁せねばならぬのであります。
        
     斎藤が守ろうとしたものは、国民の声を政党が代弁して、国
    政を導く立憲政治であった。それを滅ぼしかねない軍人の政治
    介入に反対して、斎藤は一人立ちあがったのであった。
    
■3.正しいと思ったことは、、、■

     斎藤隆夫は明治3(1870)年、兵庫県出石郡の貧しい農家に生
    まれた。20歳の時、汽車賃もないので東海道を歩いて上京し、
    苦学して早稲田専門学校行政科を卒業。しばらく弁護士として
    働いて留学資金を貯め、32歳にして米国エール大学の法科大
    学院に入学して2年あまり学んだが、病に倒れて帰国した。
    
     留学中、7月4日の独立記念日には東部の百数十校の大学生
    2千名あまりが集まる宗教大会があり、日本人学生15名も招
    待されていた。例年、日本人学生は「日本帝国万歳」を唱える
    習わしになっていたが、斎藤は一人「反対」を唱えた。米国の
    独立祭において「日本帝国万歳」では無意味のみならず侮辱の
    意を含む、米国万歳を唱えるべし、と主張した。果たしてその
    通りにすると、米国人学生たちは大歓声をあげた。
    
     留学生活の後半では肋膜炎を患って市内の病院で手術を受け
    たが、これが失敗で一時は重態に陥った。幸いエール大学病院
    に移って一命はとりとめたが、手術の失敗に対して、はじめの
    病院に法律的な戦いを挑んだ。人種差別に固まった白人社会の
    中でも主張すべき権利は主張しなければならない。正しいと思
    ったことは、たとえ一人になっても主張し続ける気概を斎藤は
    持っていた。
    
     帰国後、43歳にして衆議院議員選挙に出馬し、当選。国会
    議員の知識と道徳を向上させることによって、立憲政治の理想
    を追求しようとしたのである。

■4.近衛文麿の「薄志弱行」■

     斎藤の演説に、広田弘毅首相も寺内寿一陸相も言葉を失った
    が、軍首脳部の一部を退陣させただけで、軍人の政治介入を止
    める抜本的な措置はとらなかった。軍部は翌12年7月、政府
    を無視して支那事変を引き起こした。時の首相は国民の人気の
    高い近衛文麿だったが、斎藤はその政治責任を追求した。昭和
    16年に発表した「近衛文麿公を論ず」ではこう述べている。
    
         事変の当初に当たりて近衛内閣が声明したる現地解決、
        事変不拡大、此の方針が強行せられたならば、事変は今日
        の如く国を賭する大事件とはならなかったのであるが、裏
        面に如何なる事情があったとするも、畢竟するに公の薄志
        弱行が其の声明を裏切りて、今日の事態を惹き起こしたの
        である。
        
     事変勃発当初、参謀本部の作戦部長・石原完爾は早期収拾の
    ために、近衛首相と蒋介石の会見を計画した。近衛は一度は命
    を捨てても良いから支那に行こうと決心したのであるが、書記
    官長・風見章から、蒋介石との話がまとまったとしても、陸軍
    を従わせる事ができないのでは、近衛公の面目はもちろん、日
    本の面目も丸潰れになる、と説得されて、簡単に諦めてしまう。
    
    「不拡大方針」などと大見得を切り、命を捨てても、などと決
    心しても、簡単に投げ出してしまう点を、斎藤は「薄志弱行」
    と批判しているのである。「裏面に如何なる事情があったとす
    るも」というのは、当時、近衛のブレーンとしてソ連のスパ
    イ・尾崎秀實などが、日本と蒋介石を戦わせ、共倒れにさせよ
    うと暗躍していた点を指しているのかもしれない[a]。そうし
    た謀略に簡単に乗せられてしまうところにも、近衛の「薄志弱
    行」があった。

■5.「聖戦の美名に隠れて」■

     近衛内閣は事変収拾の見通しのつかないまま、昭和14年1
    月に退陣し、その後も支那事変は泥沼化していく。昭和15年
    2月2日、斎藤は時の米内光政内閣に対して「支那事変処理に
    関する質問演説」を行った。斎藤の演説があるというので、傍
    聴席は超満員。斎藤が登壇するや、大臣席も傍聴席も静まりか
    えった。
    
         吾々は申すに及ばず、全国民の聴かんとする所も固(も
        と)より茲(ここ)に在るのであります。一体支那事変は
        どうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続
        くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居
        るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴か
        んと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くこと
        が出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであろう。
        
     斎藤の堂々の論陣に、議場は拍手の連続、傍聴席からは感極
    まってすすり泣きの声さえ聞こえてくる。斎藤は欧米のキリス
    ト教国を指して、
    
         彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけ
        れども、一たび国際問題に直面致しますと、基督(キリス
        ト)の信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉
        強食の修羅道に向かって猛進する、是が即ち人類の歴史で
        あり、奪うことの出来ない現実であるのであります。
        
         此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦
        の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰
        く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き
        雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機
        会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありました
        ならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出
        来ない。
        
     斎藤の目指した政治は国際社会の現実を見すえ、国民の声に
    耳を傾けながら、冷静かつ戦略的に国家の繁栄と国民の幸福を
    追求していく事であった。「聖戦の美名に隠れて」現実的見通
    しも戦略もないまま、ずるずると戦線を拡大していく事は、ま
    さしく本来の政治の放棄であった。

■6.衆院での除名決議■

     斎藤の演説が終わると、軍部の中佐クラスが激昂して、「聖
    戦を冒涜する非国民的な演説だ」と政府にねじ込んできた。政
    友会の軍部寄りの一派は、斎藤の発言を問題視して、議員除名
    を唱え始めた。斎藤の所属する民政党では、速記録の一部削除
    で乗り切ろうとしたが、間に合わず一部の新聞には削除前の全
    文が掲載され、さらに外国の通信社はそれをそのまま本国に打
    電した。
    
     ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙は、日本の国策へ
    の影響はないだろうとしながらも、「斎藤氏の勇気は、注意と
    賞賛に値する」と報道した。報道は中国の現地戦線での日本軍
    将兵にも伝わり、「2個師団を失ったぐらいの打撃だ」と言う
    ものもいた。
    
     こうした海外への波及もあって、軍部はますます激昂し、衆
    院では斎藤にたいする懲罰委員会が開かれた。斎藤は懲罰理由
    に対してすべて反論した。民政党は辞職によって事態を収拾し
    ようと説得したが、斎藤は拒否。ついに3月7日、議会におい
    て斎藤議員除名動議が出され、傍聴人を退場させた秘密会議に
    おいて、決議された。
    
     この決議に対して、3分の1の議員が棄権し、なお堂々反対
    票を投じた議員も7名いた。斎藤自身も除名はされたが、自分
    の演説はどこも間違った所はないという信念はごうも揺らがな
    かった。

■7.近衛の「名案」■

     斎藤の除名を期に、政党政治を一挙に解体して「大政翼賛
    会」へ導く動きが本格化する。3月25日には各派有志議員百
    余名による「聖戦貫徹議員連盟」が成立。「聖戦の美名に隠れ
    て」という斎藤の批判の向こうを張ったような名称である。こ
    の連盟は6月に各党に解党を進言し、これに乗った形で、近衛
    文麿は一国一党の運動を推進する決意を表明。7月22日には
    第2次近衛内閣が成立し、10月12日にはすべての政党が解
    党して、近衛を総裁にいただく「大政翼賛会」が成立した。斎
    藤は、この点でも近衛をこう批判する。
    
         浅薄なる革新論から出発して、理論も実際も全く辻褄の
        合わざる翼賛会を設立し、軍事多端なる此の時代に多額の
        国費を投じて無職の浪人を収容し、国家の実際には何等の
        実益なき空宣伝をなして、国民を瞞着して居るのが今日の
        翼賛会であるが、之を設立したる発起人は疑いもなく近衛
        公である。
        
         其の他のことは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき
        門閥に生れ、世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子
        が自己の能力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国政
        燮理(しょうり、国を治める)の大任に当たるなど、実に
        思わざるの甚だしきものである。是が為に国を誤り実毒を
        貽(のこ)す。其の罪は極めて大なるものがある。
        
     大東亜戦争が数ヶ月後に迫った昭和16年10月16日に近
    衛は内閣を放り出し、後継に東条英機を昭和天皇に奏請した。
    その帰りの車の中で秘書官に「東条に戦争をしないという条件
    で組閣させる。どうだ名案だろう」と言ったという。外交とは
    相手国との複雑な利害関係を調整しながら、辛抱強く落とし所
    を探っていくものだ、という事すら、この貴公子は知らなかっ
    た。
    
■8.除名決議をはね返して、■

     昭和17年5月、大東亜戦争下での総選挙が行われた。数え
    73歳という高齢にも負けず、また除名決議をものともせず、
    斎藤は立候補し精力的に遊説を行った。行く先々の演説会には
    多くの聴衆が駆けつけた。
    
     大政翼賛会は議員総数と同数の466名の立候補者を推薦し、
    全議席独占を狙った。東条は陸軍機密費から多額の資金を引き
    出して、翼賛会経由で各候補者に渡したという。一方、「非推
    薦」すなわち大政翼賛会に従わない候補者が、斎藤を含め、
    613名も立候補した。
    
     大政翼賛会は、斎藤の演説用印刷物を「有害」として当局に
    押収させるなど、さまざまな妨害工作を図ったが、斎藤は堂々
    但馬選挙区の最高位で当選した。除名決議の不当を国民の声で
    跳ね返したのである。斎藤と同様に「非推薦」で当選したのは
    85名。本誌121号で紹介した笹川良一もその一人であった
    [b]。議会政治を守ろうという国民の意欲はまだまだ根強かっ
    たのである。
    
■9.新日本の建設に向って■

     昭和20年8月、敗戦。9月には大政翼賛会の議会版である
    大日本政治会が解散したが、新たに政党を立てようとするもの
    がいない。数え76歳に達していた斎藤は、老骨に鞭をうって、
    新政党・日本進歩党の創立に向けて動いた。斎藤はこう檄を飛
    ばす。
    
         我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。併(しか)し
        戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其
        の他幾多の制裁を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶも
        のではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其
        の長い間には叩くこともあれば叩かることもある。盛んな
        こともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失
        望落胆すべきものではない。
        
         若し万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を
        喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。そ
        れ故に日本国民は、茲に留意し新たに勇気を取り直して、
        旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁
        進せねばならぬ。是が日本国民に課せられたる大使命であ
        ると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残
        された大問題である。
        
     まことに第2の敗戦と言われる現代日本の我々も傾聴すべき
    言葉である。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
   日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の
   「赤い東亜共同体」が実現する! 
b. JOG(121) 笹川良一(上)
   獄中の東条英機に命をあきらめて国家を弁護せよと叱咤した男 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 松本健一、「評伝 斎藤隆夫」★★、東洋経済新報社、H14
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「孤高の代議士・斎藤隆夫」について 蟋蟀さんより

     私の郷里の偉人が紹介され、どうしても感想が言いたくてメ
    ールいたします。聖戦の空気に支配された時代の政治家斎藤隆
    夫の粛軍演説を現代で例えるとどうなるのでしょうか?「進歩
    的」なマスコミの中国・韓国におもねった「南京大虐殺」「従
    軍慰安婦」「植民地圧政」論に異を唱えること以上に勇気のい
    ることであっただろうと思います。
    
     私が正月に帰省し初詣に行く神社の向いに斎藤隆夫記念館
    「静思堂」があります。お参りをすませ静思堂を眺めるとき、
    この偉大な政治家と彼を選出した郷里の先人たちに思いを馳せ、
    何とも言いようのない活力のようなものが湧き上がります。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     先人たちの生き様に思いを馳せるとき、湧き上がってくる
    「活力」こそ、未来を切り開く原動力でしょう。

■ 勝二さんより

    私は、日本が世界にあって、いろいろな意味で一目も二目も置
    かれる存在、世界から尊敬される国になってほしいと願ってい
    ますが、そのためには一定の発言力がなければダメだ、とも思
    っています。国際社会における発言力とは、国力と言い換えて
    もいいのですが、多くは軍事力と経済力、そして科学技術や文
    化の力、それらを総合した政治力に裏打ちされています。日本
    はここ当分(おそらくあと数十年)軍事力による裏打ちは無理で
    すから、せめて経済力、そして科学技術と文化力で国力を高め
    なければなりません。そのために、製造業においては付加価値
    を高めたり品質≠ナ勝負したりと必死の思いで頑張ってきた
    わけです。
    
     しかし、製造業の世界で太刀打ちできないと悟ったアメリカ
    始め先進諸国は、1985年の「プラザ合意」を仕掛けます。
    製造業で損した分を、金融業で取り返すという作戦です。さま
    ざまな圧力でこれを受け入れざるを得なかった日本は、その後
    一時的なバブルに狂いました。しかし、「土地本位制度」とで
    もいった不動産を担保に融資≠ニいうことが長続きするはず
    もなく、それからは「失われた十年」に代表される空前の苦し
    みに突入しております。それを作・演出≠オたのはアメリカ
    です。日本はこのアメリカの同盟国です。しかも、「兄貴分と
    して立てていかねばならない弟分」の地位から抜け出すことの
    出来ない同盟関係です。このパラドックス、二律背反をどう克
    服するのか、これこそが日本の英知のすべてを賭して考えてい
    かねばならないことだと思います。
    
     国際社会の構造は、いうまでもなく同盟国であろうがなかろ
    うが、いざとなれば陥れ切り捨ててしまう冷酷なものです。自
    分の国の国益がすべてです。そのためにどこの国でも、向こう
    50年、100年を見据えた長期戦略を打ち立て、その目指す
    ところに従って動いているのです。日本が遅れをとらないこと
    を願うばかりです。そのためには外からの力ではなく、自らの
    力で変わることが出来るということを世界に証明すべきでしょ
    う。ここ1〜2年の日本の大変革が、これからの日本を決める
    と思います。出来なければ、日本は世界の中で埋没してしまい、
    「一目も二目も置かれる存在」どころではなくなるでしょう。
    神に祈るような気持ちです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     斎藤隆夫の言うように、国民の「気力」が問われています。

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