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■■ Japan On the Globe(304)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪: 日本のルーツ? 長江文明 漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文 明こそ、日本人のルーツかも知れない。 ■■■■■ H15.08.03 ■■ 38,019 Copies ■■ 890,944Views ■ ■1.再生と循環の長江文明■ 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生して いた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア 文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千 年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕 る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」で あった。 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツ につながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、 自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその 武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民と なり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもた らし、大和朝廷を開いた、、、 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類 学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立 証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与える だろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。 ■2.森と川と水田と■ 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの 交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎ つけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市 郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみ ると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、 高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法 で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国 が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期 だった。 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に 囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古 の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また 約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作 を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、 これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であるこ とがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは 根本的に異なっていた。 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が 暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのな しかしい風景とそっくりである。 ■3.平等な稲作共同体■ 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑 作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大 麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはた いした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷 に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階 級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武 力を蓄える役割を持つ。 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイ ネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を 管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要す るので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必 要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンタ ーとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として 発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなった であろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進ま なかったであろう。 ■4.太陽と鳥の信仰■ 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円と して描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙 製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が 描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽 と鳥が信仰されていたのである。 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、 という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければな らない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であっ た。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰 が生まれたのも当然であろう。 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に 生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と 循環を手助けするものこそ鳥なのである。 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神 である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となった のが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であ った。日本サッカー協会のシンボルマークとしてもよく知られ ている。 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷 (えみし)を鎮定した日本武尊(やまとたけるのみこと)は、帰 途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(や ひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去っ たという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、 「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。 ■5.鳥と龍との戦い■ 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民 が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢 民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹( う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江 と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さん びょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは 今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話が ある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄 帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神 とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、 鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示してい ると考えられる。 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やま たのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた 大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、 人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人 は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢 雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の 神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草 薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。[a] ■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■ 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民に とって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を 作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなか ったからである。 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器とし て発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器 を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級 分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下 層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。 収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普 及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴 隷を兵力として動員する事も容易であったろう。 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好 まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いて いた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。し かし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じ なかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に 大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現 れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文 明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝 国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との 戦いにも共通して見られた現象である。 ■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■ 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に 追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国 の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が 立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような 風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡 と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、 急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共 通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品 を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本 の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残し た鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省 の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表し ている。 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省な どの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡 って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見は すべて合理的に説明しうるのである。 ■8.日本列島へ■ 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(にに ぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこ から住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎 (かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫 (このはなのさくやびめ)を后とする。 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、 この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ 架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも 創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したと すれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着 する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長 江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほ どの距離にある坊津町秋目浦であった。 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出 し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであ ろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。そ の笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っ ていたのであろう。 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾り をつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土 している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の 雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県 荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな 船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航 海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。 瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を 渡り、浪速国に上陸されたのである。[b] ■9.幸福なる邂逅■ 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県 の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、 高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並 び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟 から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを 作っていた。[c] 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大 切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲 を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共 生を原則とする「再生と循環の文明」であった。 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊 杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴してい る。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵 抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血 で血を洗う抗争という様相は見られない。 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。 天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ 屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。な んと、楽しくうれしいことだろうか。[b] 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣 言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文 明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂 逅」から生まれたと言えるかもしれない。 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお 考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギ リシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説 上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じて いたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもっ て実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展し て、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」に 秘められた宗教的・政治的理想とは。 b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」 神話にこめられた建国の理想を読む。 c. JOG(134) 共生と循環の縄文文化 約5500年前から1500年間栄 えた青森県の巨大集落跡、三内丸山 遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 安田喜憲、「古代日本のルーツ 長江文明の謎」★★★、 青春出版社、H15 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/© 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.