[トップページ][平成17年一覧][地球史探訪][210.73 満洲事変・日華事変][222 中国]

■■ Japan On the Globe(403)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

          地球史探訪: 戦乱の中国大陸
                        〜 久しく合すれば必ず分す
                    日本が反省すべきは、かくも混沌たる
                  中国大陸の内戦に直接介入した事である。
■■■■ H17.07.17 ■■ 33,189 Copies ■■ 1,690,692 Views■

■1.三国志の歴史法則■

     中国との関係を考える上で忘れてはならないのは、「三国志
    演義」の冒頭にある次の「歴史法則」だろう。

         天下久しく分すれば必ず合し、久しく合すれば必ず分す

        (天下が久しく分裂すれば必ず統一され、久しく統一され
        ていると必ず分裂する)

     広大な中国大陸では様々な地方勢力が相争い、そのうちの勝
    者が天下統一を果たす。やがてその勝者が力を失うと、また天
    下は分裂して、地方勢力が戦いあう状態に戻る。

    「三国志演義」は3世紀に後漢が滅びて、魏、呉、蜀の3国に
    分裂し、相争う様を描いているが、中国大陸ではその後も、統
    一と分裂が繰り返された。随、唐、宋、元、明、清と並ぶ統一
    王朝の間には、かならず大規模な戦乱の時代があった。

     明の末期は流賊が荒らし回り、疫病が大流行し、飢饉が全国
    を襲って、飢えた民衆の間では人肉食が日常的に見られた。満
    洲人とモンゴル人を主体とする清の八旗軍が北京をはじめ、各
    地の都市に入城した時、民衆は乱世の救世主として、熱烈歓迎
    した。民衆にとっては支配者がどこの民族であろうが、治安を
    回復してくれれば、それで良かったのである。

     この清の滅亡後も、各地の軍閥が抗争し、中国大陸は乱れに
    乱れた。そこに介入したのが、ロシアを含む西洋列強と日本で
    あった。

■2.相次ぐ天災、飢饉、反乱■

     清帝国は18世紀末に最盛期を迎えたが、その後は人口過剰
    とそれに伴う自然破壊で、飢饉、流民、反乱、内戦の自壊プロ
    セスに陥っていった。日本人とは違って、もともと植林を行わ
    ない漢民族のこと、エネルギー源として樹木を乱伐し、その結
    果、降雨が多ければ洪水、少なければ干魃に苦しめられる。

     1810年の山東大干魃、河北大洪水、湖北霜害で900万人が
    死亡し、翌年には2千万人が餓死した。1849年の大飢饉では
    1375万人、1876〜78年の大飢饉では1300万人が餓死している。
    [1,p106]

     こうした災害のたびに、大量の農民が土地を失って流民と化
    し、その一部が盗賊となって、他の土地を襲う。さらに新興宗
    教が興って、流民を吸収しつつ、大規模な反乱を起こす。

     1851年から14年間、猛威を振るった太平天国の乱は、推定
    死者数5千万とも言われる世界史上最大規模の内戦だった。キ
    リスト教と道教的土俗信仰が結合したカルト集団で、満洲王朝
    打倒を旗印に、「戦死することは昇天することである」と民衆
    に信じ込ませて、北京に迫った。こうした新興宗教による反乱
    が何度も繰り返された。

■3.排外と暴動■

     清帝国がアヘン戦争で大英帝国に屈した後、香港割譲などを
    約した江寧条約(南京条約)が結ばれたのが1842年[a]。これ
    以降、列強が中国の各地を蚕食していく。

     しかし、西洋列強の侵略が中国に貧困と不安定をもたらした
    という中国被害者史観は正しくない。中国の貧困と混乱は18
    世紀末から始まっていた人口過剰−自然破壊−天災−飢饉−流
    民化−内乱という自壊プロセスによるもので、西洋列強の侵略
    はそれに乗じたものに過ぎない。

     1899年頃に発生した義和団の乱も、太平天国の乱と同様、カ
    ルト集団が起こした大規模な内乱だった。義和拳という拳法を
    習得すれば、銃弾も跳ね返すことができるという迷信で大量の
    流民を引き入れ、当初は「反清復明」(満洲人の清を打倒し、
    漢人の明を復活させる)などのスローガンを掲げていたが、清
    国軍に弾圧されるや、「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅ぼす)
    と一転させた。

     窮乏の原因を、中国国内に目立ってきた外国人のせいにする
    のは、流民たちの暴動エネルギーを結集するのに効果的であっ
    た。この排外暴動の中で、華北一帯の250人以上の白人キリ
    スト教宣教師とその家族、2万人以上の中国人キリスト教徒が
    殺害された。

     この暴乱を今日の中国政府は「愛国運動」だと讃えるが、実
    態は民衆の不平不満のエネルギーが、水が低きに流れるように、
    もっともぶつけやすい対象に集中したに過ぎない。そのメカニ
    ズムは昨今の反日暴動と同じである。

■4.民衆暴動に乗じた宣戦布告■

     1900年春には動乱が北京にも及び、11カ国の北京駐在公使
    が清国政府に義和団鎮圧を要請したが、清国政府の守旧派は義
    和団の勢いを利用して、外国勢力を駆逐できると考えたらしく、
    何の手も打たなかった。そのため北京在住の各国居留民と3千
    人の中国人キリスト教徒が公使館地域に籠城した。

     清国の総理衙門(外務省)は「中国の全国民は激昂しており、
    各国人を保護できない。24時間以内に天津へ撤退せよ」との
    要求を突きつけてきた。すでに北京城外は暴徒があふれる無法
    地帯だったので、公使団が要求を拒否すると、今度は清国正規
    軍が公使館区に攻撃をしかけてきた。清国の列強各国に対する
    宣戦布告である。

     各国の公使館付き将兵が連合して防衛に当たったが、その中
    でも獅子奮迅の活躍をしたのが、柴五郎中佐率いる日本将兵だっ
    た。柴中佐はこの活躍で欧米各国から相継いで勲章授与され、
    「コロネル・シバ」として、世界的に有名となった。[b]

     また日、英、米、仏、独、露、伊、オーストリアの連合軍が
    天津から出発し、北京を占領して、各国居留民を救出した。そ
    の最終的な総兵力は3万3500だったが、その中核となった
    のが日本軍1万3千だった。

     7月15日、清国政府は北清事変に関する最終議定書を結ん
    だ。清国は事件の元凶の処罰、賠償金の支払い、公使館区域お
    よび北京と海港を結ぶ交通要所での列国の駐兵権を認めた。

     すなわち、清国は内乱状態の中で、外国公使館の安全すら守
    ることができないので、各国がそれぞれ軍隊を置いて、自国民
    を守る権利を与えたのである。現在で言えば、イラクに多国籍
    軍が駐留しているのと同様である。

■5.三国志の世界■

     1911年の辛亥革命で清国政府は瓦解したが、日本のように数
    年で明治新政府誕生とはいかず、中国統一を目指す各軍閥や革
    命派の内戦が続いた。1933年までの22年間だけでも700回
    を超える内戦があった。孫文、蒋介石、毛沢東なども、この内
    戦の主要な役者である。

     1930年の中原大戦は、国民党内の内戦で、独裁を目指す蒋介
    石が、今まで味方に取り付けていた広西軍閥、西北軍閥、山西
    軍閥などを次々とつぶしていった戦いであった。

     この戦争に双方から動員された兵力は150万人。戦死者は
    約40万人、雑役に駆り出された農民は130万人に上ってい
    た。国民党の内戦は7年続いたが、死傷者は3千万人を超えた
    という。[2,p176]

     国民党内戦の後は、ソ連の支援を受けた共産党と、国民党と
    の国共内戦となる。1949年の中華人民共和国樹立の式典で毛沢
    東は、国共内戦で国民党軍の8百万人を消滅したと誇らしげに
    語った。

■6.軍閥の民衆搾取■

     軍閥間の内戦のもと、一般民衆の搾取ぶりも凄まじかった。
    張作霖支配下の満洲の財政を見ると、1929年の歳入は1億21
    百万元、歳出は1億48百万元で、27百万元の赤字だった。
    歳出の7割近くは軍事費である。

     歳入の大部分は塩税とアヘン収入だったが、歳入不足を補っ
    たのは、財産家の恐喝、誘拐、財産強奪だった。さらにそれだ
    けでは不足したので、民衆から5年先の税金まで徴収した。

     また勝手に紙幣を乱発しては、従来の紙幣を無効にして、民
    衆の財産を略奪した。税吏は超過税収額は自分のポケットに収
    められるため、競って苛斂誅求に走った。手っ取り早く蓄財で
    きる徴税局長のポストは売買の対象となり、局長職の競売も軍
    閥にとっては大きな収入源だった。

     張作霖は一時、北京政府の実権を握っていたが、1928年、蒋
    介石の北伐軍が迫ると、奉天に戻る事とし、その途中で日本の
    関東軍に爆殺された。それまで日本は一貫して中国大陸本土の
    軍閥内戦に不干渉の姿勢をとり、戦火が満洲に広がるのを防ぐ
    ことを第一としていた。しかし、張作霖の暴政への民衆の不満
    が高まり、また軍閥内戦への参入で、戦火が満洲に持ち込まれ
    る恐れも強まっていた。

     関東軍は、満洲の権益を守るためには、張作霖を抹殺するし
    かないと考えたのである。ただ爆殺自体は不法な行為であり、
    田中義一内閣は昭和天皇のご信任を失って総辞職した。

■7.「保境安民」の理想■

     その後、張作霖の息子・張学良が実権を握ったが、父の仇と
    して日本を憎悪し、蒋介石の国民党への服従を声明した。1931
    年の柳条湖事件を発端として満洲事変が勃発。三十万とも四十
    万とも言われていた張学良軍は、1万数千の関東軍の一撃で満
    洲から駆逐された。

     満洲事変は日本の中国侵略の第一歩とされているが、実際に
    は張作霖・学良の軍閥政権のもとで苛斂誅求に苦しめられてい
    た満洲全土の民衆は快哉を叫んだ。

     張学良の軍閥勢力が駆逐されて勢いを得たのが、「保境安民」
    派であった。「保境」とは満洲の国境を保って、中国本土の戦
    乱が及ぶことを避け、「安民」とは軍閥支配を駆逐して民衆を
    安んずる事を意味する。遼寧省ではこの「保境安民」を理想と
    する一派が次のように宣言して、独立政権を組織した。

         我が東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、今や
        これらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇の機会に到達した。

     満洲各地でのこうした動きが連合して、清朝最後の皇帝の溥
    儀を元首に戴いて、1932年3月、満洲国が創設されたのである。
    満洲は万里の長城で分断されているように、もともと中国の一
    部ではない。そこから生まれた満洲族王朝である清が故地に戻
    り、中国本土の戦火から絶縁して、平和な国家建設を目指した
    のが、満洲国であった。

    「保境安民」の理想は、日本軍の庇護のもとに実現され、通貨
    の安定、治安維持、産業振興が図られた。毎年100万人もの
    民衆が、戦乱の中国大陸を逃れて満洲に流入したことだけでも、
    保境安民が単なるスローガンでなかった事が分かる。

     満洲国建設を「関東軍の一部の陰謀」と呼ぶこともできよう
    が、その「陰謀」の結果、満洲の3千万の民衆は、中国本土よ
    りもはるかに安定した生活が営めたのである。[c]

■8.日本軍と国民党政府を戦わせる中国共産党の戦略■

     1933年5月、国民党政府との間で停戦協定が結ばれ、長城の
    南側に非武装地帯が設けられて、満洲事変が終わった。知日派
    の汪兆銘が行政院長に就任し、中国と満洲国の間の列車の乗り
    入れ、郵便、通航などの問題が解決されて、両国間の親善は着
    々と進んでいた。

     この機に、蒋介石は中断していた共産党の包囲殲滅作戦に全
    力を傾け、80万の軍勢で15万の共産党軍を攻撃した。追い
    つめられた共産党がとったのは、日本軍と国民党政府を戦わせ
    る戦略だった。

     そのための引き金となったのが、1937(昭和12)年7月7日
    夜の「蘆溝橋事件」である。北清事変の後の議定書で定められ
    た権利により、北京郊外に駐留していた日本軍に銃撃が加えら
    れた事件である。中国公定史観では日本軍の謀略とされている
    が、7月26日に北京城内に帰還した日本軍が銃撃された公安
    門事件、7月29日に通州で邦人居留民(朝鮮人を含む)二百
    余名が虐殺された通州事件、という流れを見れば、真実は明ら
    かであろう。

     また日本国内でもソ連のスパイ・ゾルゲと通じた元朝日新聞
    記者・尾崎秀實が日本と国民党政府とを戦わせるために、世論
    工作を行っていた[d]。 こうした策略に乗せられて、日本軍
    は国民党政府との全面戦争に引きずり込まれていった。

■9.「保境安民」こそ対中関係の原則■

     国民党の副総裁・王兆銘は、共産党こそ真の敵と考え、日本
    と和平を結び、南京政府を樹立した[e]。こうして南京政府、
    国民党政府、共産党の鼎立状態となった。三国志時代の再来で
    あるが、一つ異なる点は、それぞれの背後に外国勢力がついて
    いたことである。

     蒋介石政権に対しては、英米は大東亜戦争勃発前から大量の
    兵器や物資の支援を行い、特にアメリカはフライング・タイガ
    ースと呼ばれる航空義勇軍まで派遣していた。ソ連は中国共産
    党を指導し、国共合作時には大量の顧問団を国民党に送り込ん
    でいた。

     日本が敗れた後、蒋介石政権に漢奸(売国奴)として裁判に
    かけられた王兆銘夫人の陳壁君は次のように述べた。

         日本に通じたのが漢奸なら、国民党はアメリカと、共産
        党はソ連と通謀したではないか。我々の志が間違っていた
        のではない。単に日本が負けただけだ。[1,p231]

     清滅亡後の大動乱を経て、中国大陸は再び、共産党政権によっ
    て統一された。しかし、この政権も民意の支持があるわけでも
    なく、武力と経済発展で多種多様な民族や階級を押さえつけて
    いるだけである。いずれ、各地の不平不満が噴出して抑えきれ
    なくなれば、「久しく合すれば必ず分す」という時代がまたやっ
    てくるであろう。その時には、またすさまじい内戦や飢饉、疫
    病などが起こる恐れがある。

     こうして中国の歴史を巨視的に振り返って見れば、我々日本
    人が反省すべきは、かくも混沌たる大陸の内戦に直接介入した
    ということだろう。アメリカ、台湾、東南アジア、オーストラ
    リアなどの環太平洋の自由民主主義諸国との連帯による「保境
    安民」こそ、対中関係の原則とすべきだと思われる。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(173) アヘン戦争〜林則徐はなぜ敗れたのか?
    世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦っ
   て負けるとは誰が予想したろう。
b. JOG(222) コロネル・シバ〜1900年北京での多国籍軍司令官
    義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった
   柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。
c. JOG(239) 満洲 〜 幻の先進工業国家
    傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以
   上の中国人がなだれ込んだ理由は?
d. JOG(263) 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
    日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日
   の「赤い東亜共同体」が実現する!
e. JOG(140) 汪兆銘〜革命未だ成功せず
    売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の
   国民の幸せのために。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 黄文雄『日中戦争 真実の歴史』★★★、徳間書店、H17

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「戦乱の中国大陸」について 

                                               光宣さんより
     貴殿のメルマガを通読し参考資料を読んでいくと、私(57歳)
    のような団塊の世代以後が、なんと歴史を知らずに生きてきた
    かを痛感している。

     温家宝首相がアメリカの大学で講演した際、「私は日本が侵
    略した際、辛酸な経験をしている。」と言ったそうであるが、
    中国の歴史の流れを見ているとこの発言が、いかに身勝手な発
    言であるかが、容易に理解できる。

     わが国にはこのような際「言わせておけ」など、大人として
    の素養を是とし「発言を慎む」よう求められることが多いが、
    国際社会での出来事には「沈黙」は了解であると理解されてい
    る。

     いかに中国と雖も、厳然たる歴史に基づいて反論すると言を
    失うであろうから、一見些細なような事であっても、大局的に
    みると一つ一つの芽を摘むことの大切さは言うまでも無いと思
    う。

     誰がどの立場で何処で発言すべきは熟慮せなばならぬと思う
    が、正しい史実観を政治家がもっと公言してほしいものである。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     中国の歴史観に関する攻撃を受けて立つためには、まず我々
    自身が歴史をよく学ばなければなりません。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.