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■■ Japan On the Globe(407)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            人物探訪: 米内光政(上)
                        〜 日独伊三国同盟の阻止

                 日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せては
                ならない、と海相・米内は戦った。
■■■■ H17.08.14 ■■ 33,250 Copies ■■ 1,725,267 Views■

■1.「金魚大臣」■

     昭和12(1937)年2月2日、米内光政・連合艦隊司令長官は
    林銑十郎内閣の海軍大臣に任命された。身長180センチ近く、
    色白で体格も姿勢も良い米内は、見かけ倒しの「金魚大臣」と
    あだ名された。海軍兵学校時代には125人中68番という平
    凡な成績で、盛岡生まれの東北人らしく無口だったので、「ヨ
    ーナイ・グズ政」というあだ名を貰っていた。

     ただ部下として仕えた人々からは、私心のない理想的な上司
    として敬愛されていた。68番という成績ながら、連合艦隊司
    令長官まで登り詰めたのも、海軍内での声望が高かったからで
    ある。

     しかし、米内本人は、海軍軍人の本懐である連合艦隊司令長
    官に2ヶ月前になったばかりなのにと、不満であったようだ。
    同期の友人に「娑婆の連中はな、大臣になるとよほどえらいと
    思って祝電をくれたりするが、おれは大臣など俗吏だと考えて
    いるよ」とこぼしたほどである。

     この鈍才が、これから何代もの内閣の海軍大臣として戦争へ
    の流れを押しとどめようと孤軍奮闘し、さらに国家滅亡の寸前
    に終戦を実現させようとは、誰も予想できなかったろう。
    
■2.「反乱軍は許すべからず」■

     いや、予想ではなく、期待をしていた人が一人はいた。昭和
    天皇である。米内の突然の海相指名の陰にも、天皇のご意向が
    あったようだ。

     伏見宮・軍令部総長から海相就任を命ぜられた時、米内は自
    分の性格や経歴から不向きであると固持したのだが、伏見宮の
    異様に熱心な説得に根負けしてしまった。米内を直接知らない
    伏見宮が、なぜ、執拗に海相就任を迫ったのか。宮中からの意
    思があった、とすれば、その謎が解ける。[1,p85]

     前年の昭和11年2月26日、二二六事件が勃発した。陸軍
    の青年将校21名が、1400余名の兵を独断で動かして政府
    首班や重臣へのテロを敢行し、同時に首相官邸などを占拠した
    事件である。この時、決起部隊を賊軍とするか義軍と見なすか、
    判断しかねていた川島陸軍大臣に対して、昭和天皇は「すみや
    かに暴徒を鎮圧せよ」と命じた。

     この時、米内は横須賀鎮守府の司令長官であり、「反乱軍は
    許すべからず」との訓示を即座に出し、所管の特別陸戦隊約2
    千人を26日夕刻、霞ヶ関の海軍省に送り込み、反乱軍と対峙
    させる態勢をとった。海軍はテロ部隊を反乱軍と見なすという
    方針を明確に示したわけで、陸軍や政府、国民への影響は大き
    かった。

     米内への期待は、この時に昭和天皇のご心中に芽生えたもの
    と思われる。

■3.ドイツからの三国同盟提案■

     陸軍大将・林銑十郎の軍部内閣は、選挙で大敗北を喫し、わ
    ずか4ヶ月で倒れた。替わって6月に登場したのが、第一次近
    衛文麿内閣である。米内は海相として留任した。

     お公家さん内閣として清新なイメージとともに登場した近衛
    は、国民の間にも期待を呼び起こしたが、実際には政治的見識
    も決断力もなく、陸軍、および世界共産革命を狙うソ連スパイ
    尾崎秀實の操り人形として、日本を戦争と全体主義への道に導
    いていく。[a]

     就任1ヶ月後には蘆溝橋事件をきっかけに、日中両軍が衝突
    し、近衛内閣は不拡大方針を打ち出しながらも、ずるずると中
    国全土での戦いに引きずり込まれていった。

     陸軍は、徹底抗戦を続ける蒋介石政権と中国共産党の背後に、
    それぞれ英米とソ連がいると考え、翌昭和13年8月にドイツ
    から持ちかけられた日独伊三国同盟の締結を主張した。

     米内はこの同盟案の第3項を特に問題と考えた。

         ABC(締約3国)の一(A)が、ABC以外の第3国
        より攻撃を受けたる場合においては、他のBCはこれに対
        し、「武力援助」を行う義務あるものとす。

     これでは相手がソ連とは限らず、たとえばドイツが英国と戦
    端を開いた場合にも、日本は自動的にドイツ側に立って参戦し
    なければならない事になる。

■4.米内の「憂慮」■

     昭和13(1938)年8月21日、米内は陸軍大臣・板垣征四郎
    と三国同盟について激しい議論を行った。米内はこう主張した。

         ソ連と英国を一緒にし、これを相手とする日独伊の攻守
        同盟の如きは絶対に不可である。日本が中国に望むのは
        「和平」で、排他独善の意思は持っていない。英国がわが
        真意を諒解すれば、両国の関係は徐々に好転するであろう。

         中国に権益を持っていない他国と結び、最大の権益を持っ
        ている英国を中国から駆逐しようとするようなことは、ひ
        とつの観念論にほかならない。また日本の現状からみても、
        できることでもなければ、なすべきことでもない。よろし
        く英国を利用して、中国問題の解決を図るべきである。

         米国が、現在のところ中国問題に介入しない態度をとっ
        ているのは、中国における列国の機会均等・門戸開放を前
        提としてのことである。もし某々国がこの原則を破るよう
        なことを敢えてしたならば、米国は黙視しないであろう。
        この場合米国は英国と結ぶ公算が強い。

         中国問題について、英米を束にして向うに回すことにな
        り、なんら成功の算を見出しえないだけでなく、この上も
        なく危険である。かりに英米は武力をもってわれに臨まな
        いとしても、その経済圧迫を考えるとき、まことに憂慮に
        耐えない。[1,p149]

     後の歴史は、まさしく米内の「憂慮」の通り展開していった。

■5.「馬鹿を見るのは日本ばかり」■

     米内はさらに「独伊はなぜ日本に好意を寄せるのか」と説く。

         好意というよりは、むしろ日本を乗じやすい国として自
        分の味方に引き入れようとするのか、冷静に考察しなけれ
        ばならない。

         ドイツはハンガリー、チェコを合併して、第一次大戦前
        のオーストリア合併の大国になろうとし、あわよくばポー
        ランドをも併合し、さらに進んでウクライナを植民地とし、
        また中国においては相当な割り前を得ようとするだろう。

         イタリアは将来スペインに幅をきかし、これを本国と連
        結させるために、地中海において優位を獲得し、中国にお
        いてはこれまた相当の割り前を得ようとするだろう。

         我が国としては、すでに事実上満洲を領有した。満洲の
        基礎を強化して、その発展を達成させることは、日本とし
        てさしあたりの急務であり、そのために必要とする経費は
        日中貿易に求めるべきである。・・・このためには列国と
        の協調こそが必要で、このさい特殊国と特殊の協約を締結
        する必要があろうか。

         日独伊の協定を強化し、これと攻守同盟を締結しようと
        するようなことは、それぞれの国がその野心をたくましく
        しようとする(他国を侵略する)ことに他ならない。独伊
        と結んで、どれほどの利益があるだろうか。結んだ場合の
        利害を比較すれば、馬鹿を見るのは日本ばかりという結果
        となるだろう。[1,p149]

     米内は、かつてベルリンやワルシャワに2年半ほど駐在した
    ことがあり、欧州情勢をよく研究していた。ヒトラーの『わが
    闘争』も熟読していて、「ヒトラー一代でドイツが欧州の支配
    者となる『欧州の新秩序』を完成しようとしているが、とんで
    もない妄想だ」との感を強く持っていた。

    「金魚大臣」の腹の中には、世界情勢に関する深い見識があっ
    たのである。

■6.「これ以上、日本が日和見的態度をとるなら」■

     三国同盟案は、何度も五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議
    で議論されたが、米内の頑とした反対で、膠着状態に陥った。
    支那事変の方も一向に解決の手がかりがつかめず、近衛はやる
    気を失って、内閣を放り出してしまった。

     昭和14(1939)年1月5日、平沼騏一郎が大命を受け、米内
    も板垣も留任した。翌日、ドイツはあらためて三国同盟案を提
    案してきた。問題の「自動参戦条項」は、今までと大差ない。

     相変わらず五相会議では米内と板垣が対立し、議論が進展し
    ない間に、ドイツは3月15日、チェコを併合、23日にはス
    ロヴァキアを保護国としてしまった。ドイツと英仏の対立は緊
    迫の度を増していった。

     4月20日夜には、大島・駐独大使はリッペントロップ独・
    外相から「これ以上、日本が日和見的態度をとるなら、ヒトラ
    ー総統の性格上協定の成立は絶望である。また独ソの接近もあ
    り得る」と脅され、その旨を電報で報告してきた。

     米内は「昨日、大島よりの電報にかんがみるに、独側はおど
    したりすかしたりの手段を用いて締結を急ぎおるものと観察す。
    先方が日本の方針にて不同意ならば、協定不成立の結果となる
    もまたやむを得ず」と腹を固めていた。

     この電報を受けて、23日の日曜日に緊急の五相会議が開か
    れたが、米内が中心となって板垣を押し切り、「対ソ戦の場合
    を除いた戦争にはいかなる効果的援助もなし得ない。日本は常
    に参戦、宣戦の決定権を保留する」との結論を出した。

■7.命をかけた反対■

     5月8日、独伊が日本抜きで2国間の政治軍事協定を結ぶ事
    を発表した。焦った大島大使は、3国同盟について最後の決心
    を固めて貰いたい、と伝えてきた。

     翌日、陸軍の青年将校たちは、尋常な議論では米内を抑える
    事はできないと、参謀総長・閑院宮元帥を通じて、昭和天皇に
    直接、三国同盟の聖断を仰ごうとした。昭和天皇は厳然とこの
    上奏を拒否された。

     5月末からは、陸軍に指示を受けた右翼の押しかけが激しく
    なり、海軍省では万一、陸海軍の内戦が始まった場合に備えて、
    横須賀から一個小隊の陸戦隊を派遣させ、食料、武器弾薬、自
    家発電設備まで備えて、籠城戦の準備を行った。

     しかし海軍側でも、心底から三国同盟に反対していたのは、
    米内海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオぐらい
    で、青年将校の間では三国同盟推進派も少なくなかった。山本
    はいつテロリストに殺されるかと密かに遺書を書いていた。

     日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せてはならない、と
    いう昭和天皇の御意思を命がけで守ろうとしていたのは、米内
    ら3人であった。

■8.「勝つ見込みはありません」■

     8月8日の五相会議では、席上、板垣が無留保の三国同盟締
    結を提案した。5月に始まったノモンハンでのソ連軍の満洲国
    侵入に対し、陸軍は一刻も早くドイツと手を結んでソ連を牽制
    したいと焦っていたのである。[b]

     この席上、石渡蔵相が「同盟を結ぶとすれば、日独伊3国が、
    英仏米ソ4国を相手に戦争をする場合がありうる。その際、8
    割までは海軍の戦争になるが、日独伊の海軍は、英仏米ソの海
    軍と戦って勝つ見込みがあるのか」と米内に聞いた。米内は即
    答した。

         勝つ見込みはありません。大体、日本の海軍は、米、英
        をまとめて向うに回して戦争をするように建造されてはお
        りません。独伊の海軍に到っては問題になりません。

     米内の一言は、軍人として最も言いにくい事を明確に言い切っ
    たものであった。同時に、三国同盟不成立の責任は海軍が引き
    受ける、という覚悟の回答であった。五相会議の一同は、深い
    衝撃を受けた。

■9.「日本の国は救われた」■

     3国同盟に関する1年以上もの議論は突然の結末を迎えた。
    8月19日、独ソ不可侵条約の締結が公表された。大島大使の
    もとに独外相からの連絡があったのは、その二日も後だった。
    ドイツ側からソ連を対象とした軍事同盟を提案しておきながら、
    あまりに信義のない仕打ちであった。

     8月28日、平沼内閣は総辞職した。「独ソ不可侵条約によ
    り、欧州の天地は複雑怪奇な新情勢を生じたので、わが方はこ
    れに鑑み、従来準備しきたった(三国同盟に関する)政策はこ
    れを打ち切り、、、」との声明を出した。

     米内も2年7ヶ月、4代の内閣に及ぶ海軍大臣を辞して、軍
    事参議官(無任所の大将)に転出した。8月30日に宮中に離
    任の挨拶に伺った際、昭和天皇からは「海軍がよくやってくれ
    たおかげで、日本の国は救われた」との異例のお言葉があった。

     昭和天皇のお言葉はすぐに現実となった。9月1日、ドイツ
    はポーランドに侵入。英仏は3日に相次いでドイツに宣戦を布
    告した。第二次大戦の始まりである。ドイツの原案通りに、自
    動参戦条項を入れた三国同盟を結んでいたら、日本はこの時点
    で世界大戦に巻き込まれていたはずである。

     しかし、昭和天皇と米内の戦いはまだまだこれからだった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(263) 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
    日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日
   の「赤い東亜共同体」が実現する! 
b. JOG(355) ノモンハン 〜 大平原での日ソ激戦
    日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、スターリン
   の野望を打ち砕いた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
 (まぐまぐ版では、httpのあとに「:」を補ってください)

1. 生出寿『米内光政』★★★、徳間文庫、H5
2. 豊田穣『提督米内光政の生涯 』★★★、講談社文庫、S61
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「米内光政(上)」について 

                                 「サムライの末裔」さんより
     仕事の関係で現在カナダ、オンタリオ州に在住しています。
    国際派日本人養成講座はこちらでも毎週末いつも楽しみにして
    います。
 
     米内光政大将は、私自身が最も敬愛する歴史上の人物の一人
    なので、取り上げて頂き、本当に嬉しく思います。学校で習う
    歴史では「三国防共協定に続き、三国同盟が結ばれ、日本は戦
    争への道を・・・」といったおきまりの記述で終わってしまう
    のが常ですが、実はその裏でこういった見識を持った人が、し
    かも軍人が、命を掛けて盾となり、日本を守ろうとしていたと
    いう事を多くの日本人に知って貰いたいと思います。

     次号では、おそらく「終戦」がテーマになると筈ですが、昭
    和天皇、鈴木貫太郎首相、そして米内海軍大臣の存在があった
    からこそ、日本は亡国となる一歩手前で救われたというのもま
    た歴史の事実です。今の日本の政治の世界で本当に必要とされ
    るのは、この「私心の無さ」と「しっかりした見識に基づく信
    念」に尽きると思います。
 
     米内光政大将に関連する著作として、三国同盟に体を張って
    いた時代に大臣秘書官を勤めていた実松譲さんの「米内光政」
    (光人社刊)、阿川弘之さんの「米内光政」(新潮社刊)も併
    せて是非お勧めしたいと思います。
■ 編集長・伊勢雅臣より

     天皇を祭り上げながら、そのご意向を無視した人々が多かっ
    た中で、米内提督の存在は際だっていますね。

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