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■■ Japan On the Globe(428)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

                 国柄探訪: 男たちの大和

                「彼らが命を懸けてまで守ろうとした未来に、
                私たちは生きている」
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■1.映画が終わっても誰も席を立たない■

     映画が終わり、スクリーンが暗くなっても、誰も席を立たな
    い。話し声もしない。あふれ出た涙のままでは、明るい廊下に
    出られない、とみな思っているのだろう。

     私の席の隣に座っていた母親と中高生とおぼしき男の子二人
    は、映画が始まる前にはお喋りがうるさかったが、上映中は身
    じろぎもせずスクリーンを見つめ、今は押し黙ったまま席に座っ
    ている。『男たちの大和』はそんな映画だ。公開わずか12日
    で100万人突破という東映史上最速記録を作ったのも不思議
    ではない。

     ある女子大生はブログで次のように書いている。[1]

         さやかは、戦争とかそぉゆうの話が大っ嫌いで、、、
        小学校や中学校の修学旅行とかで広島&長崎に行くパター
        ンが多いじゃないですかぁ〜。あれ、ほんといややったん
        です(。 ̄x ̄。)

         戦争なんてなんですんねんやろ〜。国のために死ぬ…!?
        なにそれ!! って感じやったしぃ。。。
        
         南京大虐殺記念館も行ったことがあって、、、
        日本人ってなんでこんなひどい事をするん!?自分が日本
        人である事が恥ずかしいわぁ〜。。。って何度も思ったこ
        とがありました。。。

         でもそれも今日までです。さやかの考えをおもいっきり
        変えたこの映画。。。自分があほらしく感じました。。。
        なんでワンパターンの考え方しかできなかったんだろうっ
        て、、、

         映画の中でこういう台詞がありました。「我々が死ぬ事
        によって日本は負ける。失敗を知り、我々が死ぬ事によっ
        て日本は新しく生まれ変わる事ができるのだ!!」っと言っ
        ていました。(たしかこんな感じ(^^;;でした)

         さや、そのとき「なるほどなぁ〜」って思いました。
        今の日本があるのはこの人たちのおかげで成り立ってるん
        だぁ〜って。。。教科書で勉強する歴史があほらしく思え
        ました。。。

     映画とは若干異なるが、原作のハイライトシーンから、大和
    の男たちがどのような気持ちで、戦いに臨んだのか偲んでみよ
    う。

■2.「呉の夜空を仰ぐのもこれが最後なのだろうか」■

     昭和20(1945)年3月28日、戦艦「大和」は呉軍港に係留
    されていた。4日前の24日、連合艦隊司令部から「出撃準備
    命令」が出され、25日から28日まで全乗組員に交代で上陸
    が許可された。すでに米軍の侵攻が始まっている沖縄に出撃す
    るらしい、という噂が飛び交っていた。

     上陸の数日前には「長男である者、または、自分が一家の中
    心とならねばならない事情をもつ者は申告せよ」という指示が
    下されたが、ほとんどの者が「後顧の憂いなし」と答えた。

     15分隊工作科の舌崎(したざき)省悟18歳は27日の夕
    刻に上陸し、呉の吉浦にある実家に向かった。班長は親兄妹に
    別れをしてこいよと言っていた。満天の星空を見上げながら、
    呉の夜空を仰ぐのもこれが最後なのだろうか、と不安がかすめ
    た。

     家に着いた時は7時を過ぎていた。「よォ、今着いたか、み
    んな待っとったぞ」と兄が飛び出してきた。居間には夕食の用
    意が整っていた。皆、これが最後の上陸になる事を知っていた。
    「おまえ、元気でがんばれよ」と兄がとっておきの配給のビー
    ルをついでくれた。父は黙っていた。母も言葉少なだった。

■3.総員3332名、一人残らず戻ってきた■

     食事を終わって、風呂に入ると、もう10時過ぎだった。
    「大和」ではゆっくり風呂に入れないので、たっぷり水の使え
    る家の風呂は天国だと思った。風呂から上がって、畳の上に思
    い切り体を伸ばして寝そべった。母は舌崎のそばから離れなかっ
    た。

     蒲団に入ってうとうとしかけた時、警戒警報のサイレンがなっ
    た。舌崎は飛び起き、急いで軍服を身につけた。それを見た母
    が「もう行くんか」と声をかけた。「ああ、行く」と答えると、
    母は疲れた顔で「元気でな。体に気をつけて。みんなと仲良く
    しなさいよ」と言った。舌崎は家を飛び出し、走った。灯火管
    制のために、舌崎の生まれ育った吉浦の町は真っ暗で、天上に
    光る星と月の明るさだけだった。

     呉の第一上陸場に着いた時は、夜中の1時近かったが、警報
    で他にも急いで戻ってきた連中が大勢いた。「大和」へのラン
    チ(小艇)に乗り、何時だろうかと腕を見て、実家に時計を置
    いてきたのを思い出した。形見のつもりだった。

     こうして総員3332名は一人残らず、特攻出撃前の「大和」
    に戻ってきた。一人の落伍者もなく、という所に、当時の乗組
    員の覚悟がよく現れていると思う。

■4.病院を脱走して戻ってきた内田兵曹■

     逆に戻らなくとも良いのに、無理に戻ってきた兵員が一名い
    た。内田貢・兵曹である。昭和19(1944)年10月26日のレ
    イテ沖海戦で、左舷9番機銃の射手を務めていたが、海面で炸
    裂した至近弾の破片を大量に胸に浴び、右目を失った。

     呉海軍病院に入院していたが、「大和」が出航するらしいと
    聞いて、そうや山本長官から拝領した短剣を「大和」の自分の
    ロッカーに入れとったと思った。

     内田は柔道部の猛者で、山本五十六・連合艦隊司令長官が
    「大和」に乗っていた頃、内田は毎晩のように按摩をした。昭
    和18(1943)年2月に連合艦隊司令部が戦艦「武蔵」に移った
    ときに、山本は「きみには長いこと世話になったね」と短剣を
    内田に授けた。その鞘には「五十六」と銘が彫られていた。

     その短剣を取りに行こうと、3月28日の早朝、呉病院を脱
    走したのである。軍服は病院の中にあったものを黙って拝借し
    た。眼帯にマスクをし、弾の破片の残っている足の激痛をこら
    えながら、上陸桟橋まで歩いていった。衛兵の前を通る時は、
    無理してしゃんと歩いた。

■5.「わし、戦闘配置、ないものな」■

     大勢の兵員に紛れてランチに乗り込んだが、誰も怪しむもの
    はいなかった。ランチの中で泣いている兵員がいたが、内田は
    なぜ泣いているのか、不思議だった。

    「大和」に乗艦すると、顔見知りの鬼頭兵曹がいた。小声で声
    をかけると、鬼頭は「おまえ、生きとったんか。わし、もうあ
    かんと思っていた」と驚き、内田を片隅に引っ張っていって
    「おまえ、なんでこんなところに、、、」と当惑しながらも、
    「とにかく、こっちに来い」と最下甲板で身を隠せる小部屋に
    連れて行った。

     その夕刻、「大和」は出航してしまい、内田はこの小部屋に
    隠れていた。4月6日夕刻、特攻作戦の内容が全員に知らされ、
    鬼頭は「内田、どうする。えらいことになった」と言った。内
    田は湿った声で「わし、戦闘配置、ないものな」と答えた。
    「おまえ、そんな体して何を言うとる」

     運命というか、何なのか、自分の気持ちは説明できなかった
    が、内田はこうして愛する「大和」の仲間たちと運命をともに
    することとなる。途中で、病人などが下船する機会があったが、
    鬼頭はもう内田に、お前も降りろ、とは言わなかった。

■6.満天の星空に、高くそびえる艦橋■

     内田が舞い戻った3月28日夕刻、「大和」は出航し、山口
    県防府市の沖合に錨を降ろした。特攻出撃の電報命令が届いた
    のは、4月5日午後3時であった。

        第二艦隊「大和」以下ハ、水上特別攻撃隊トシ、沖縄ノ敵
        泊地ニ突入シ、所在ノ敵輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ

    「総員集合、前甲板」の命令が下り、有賀艦長が全員を前にこ
    の命令を読み上げた後、こう結んだ。「出撃にあたり、いまさ
    ら改めて何も言うことはない。乗員各員が捨て身の攻撃精神を
    発揮し、日本海軍最後の艦隊として、全国民の輿望にこたえる
    よう。」

     日没後の6時、「酒保開け。各分隊、酒を受け取れ」との指
    示が艦内スピーカーから流れた。やがて、あちこちの兵員居住
    区から宴のざわめきが聞こえてきた。

     司令部通信参謀付きの渡辺光男は、宴の続くガンルーム(士
    官次室)を抜け出して、甲板に出た。満天の星空に、高くそび
    える艦橋を見上げた。まさに王者の風格だ。この艦橋が俺の先
    頭配置だと、渡辺は思った。そして明日か明後日には、敵機が
    飢えた鷹のように襲来してくるだろう。

     渡辺には幼なじみの19才の婚約者がいた。この正月に東京
    から呉まで渡辺の頼んだ軍刀を持ってきてくれた。海軍病院の
    裏手にある小山を1時間ほど散歩しただけで分かれた。渡辺は
    別れ際に、腕時計を外して渡した。

    「いよいよだな」と竹内英彦の声がした。竹内は慶応大学から
    学徒出陣でやってきて暗号士をやっている。渡辺とは海を見な
    がら、映画や本の話をする親友だった。二人はお互いに写真を
    入れたお守りを交換し、どちらか生き残った者が、家に届けよ
    うと約束した。

     艦内スピーカーが21時を告げ、宴の打ち切りを命じた。艦
    内の騒ぎはぴたりと収まった。「この期に及んでも艦内の規律
    は寸毫(すんごう)の狂いもなく、出撃に際し、一丸となった
    意気込みを感じ取ることができた」と、副長・能村次郎は回想
    している。

■7.「われわれは死に場所を与えられたのだ」■

     翌6日の午後、草鹿龍之介・連合艦隊参謀長が水上偵察機で、
    「大和」にやってきた。草鹿参謀長は、第二艦隊司令長官・伊
    藤整一が特攻出撃命令に反対を表明していたので、改めて「引
    導を渡しに」来たのである。

    「大和」以下10隻の艦艇と、7000名の将兵を無為に犠牲
    にすることは避けたい、艦自体を浮き砲台とし、不要な人員弾
    薬は陸揚げして本土決戦に備えるのが、もっとも有利な方策で
    ある、というのが、伊藤司令長官の考えであった。

     草鹿参謀長は言った。「要するに、死んでもらいたい。一億
    総特攻の模範となるよう、立派に死んで貰いたいのだ」

     伊藤司令長官は即座に答えた。「それならば何をかいわんや
    だ。よく了承した」

     作戦打合せのために、司令部員と各艦長を招集したが、そこ
    でも草鹿参謀長に対して、「連合艦隊最後の作戦と言われるな
    ら、なぜ、司令長官も参謀長も、日吉の防空壕を出て、この特
    攻出撃の陣頭指揮をとらんのですか」と批判が出た。

     その時、伊藤司令長官はただ一言、万感をこめて言った。
    「われわれは死に場所を与えられたのだ」 これで議論は止ん
    だ。

■8.「総員前甲板集合」■

     第二艦隊は「大和」をしんがりとする一列縦隊となって、豊
    後水道を通っていく。別府湾の沖合を通過した時、艦橋では見
    張り員が「桜だ、桜が咲いている」と声を挙げた。早咲きの山
    桜が、遠く、おぼろに霞んでいた。ここを通過すれば、いよい
    よ敵が待ち受ける太平洋に出る。

     夕刻、「総員前甲板集合」の命令が出て、当直以外の全員が
    前甲板に集まった。航行中のため、有賀艦長は艦橋を離れられ
    ないので、副長の能村次郎が、連合艦隊司令長官の訓示を伝達
    した後、静かな口調で言った。

         いまからのわれわれは水上特攻隊として、沖縄に突入す
        る。二度と祖国の土をふむことはできないと覚悟してほし
        い。乗組員一同は精神を引きしめてがんばり、国のために
        尽くしてもらいたい。

     この時、高角砲発令所長の細田久一は、一瞬、みんなの顔が
    青くなったような気がしたが、すぐに上気した表情に変わった。
    「くそ、やっちゃろう」という気持ちが顔に出たのだと思った。
    これこそ敵を撃滅せんとする大和魂なのだと思った。

     細田は上陸のとき、呉の家に帰り一泊した。妻も子供もいた。
    今度出撃すれば特攻だろうと感じていたが、妻にも誰にも言わ
    なかった。

■9.決意■

     副長の訓示のあと、乗組員は皇居の方角に向かって遙拝した。
    「君が代」斉唱がすむと、副長の音頭で「皇国万歳」を三唱し
    た。

     解散の号令がかかったが、しばらくはだれもその場を去ろう
    とせず、夕闇迫る甲板に立ちつくしていた。四国の海岸の松の
    木が、夕陽のなかにシルエットをつくっていた。

     家郷の方角に姿勢を正して帽子を脱ぎ、頭を下げて動かぬ者
    がいる。両手を高く挙げ、ちぎれるほど振っている者もいた。
    見えない父母弟妹に、妻や子に、恋人に、最後の別れをした。
    みんな、泣いていた。

     測距儀の石田直義班長も、「君が代」を歌いはじめた時、涙
    が出た。最後に家に帰った時のことがまぶたに浮かんだ。長男
    が誕生して一週間目だった。家を出て歩き出したが、もう一度
    家の回りをまわった。息子をもう一ぺん、この腕で抱きしめた
    かった。妻や息子のことが思い出され、涙がにじんだ。

        遙かに拝む 宮城の
        空にちかった この決意

     だれかが歌い出すと、みな声をあわせた。暗くなりかけた海
    の彼方に大合唱となって広がっていった。

     3332名のそれぞれの家族や国への思いを乗せて、「大和」
    は最後の決戦に向かっていった。漆黒の海面には巨大な軌跡が
    白く尾をひいていた。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心
    慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生
   者が受け止め、継承する儀式である。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ブログ「音大生☆さやかのオススメ☆」
2. 辺見じゅん『男たちの大和 上下』★★★、ハルキ文庫、H16
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「男たちの大和」に寄せられたおたより

                                          「Sumio」さんより
     私の親しくさせていただいている方に、戦艦大和とともに沖
    縄特攻作戦に出撃した巡洋艦矢矧(やはぎ)の生存者がいらっ
    しゃいます。当時海軍大尉でその後、建築家となり、霞ヶ関ビ
    ル、新宿京王プラザホテル、新宿三井ビル等の設計をし、高層
    ビル設計の世界的権威となったI博士です。

     4年前、日英同盟百周年の年にC. W. ニコルさんとともにマ
    ルタ島とイギリスを旅行しましたが(昨年文藝春秋から出版さ
    れたニコルさんの「特務艦隊」という小説が縁です。)、ロン
    ドンのテムズ川に係留されている巡洋艦矢矧と同時代の巡洋艦
    HMSベルファストを見学したときに、なぜ特攻作戦を行ったの
    か、伺いました。博士のお答えは、「死に場所を探したんだよ」
    でした。まさに、映画で描かれている通りです。そして「アメ
    リカと、やってはいけない戦争をやってしまったんだよ」とも
    言われていました。

     映画では描かれていないようですが、実際に特攻作戦に出る
    に当たっては、新任の乗組員は全員下ろしたそうです。そして、
    巷間沖縄までの片道の燃料しか積まなかったと言われています
    が、確かにそのような案も出たそうですが、実際には帰港でき
    るだけの往復分の燃料を積んで出港したそうです。ですから、
    特攻作戦と言いつつ、次がない特攻攻撃ではありませんでした。

     巡洋艦ベルファストの艦上の高射砲の前で、「その辺りで僕
    のクラスメートが戦死したんだよ」と淡々と言われたときには、
    返す言葉がありませんでした。

     その後のI博士の経歴を考えると、一度死に、そして生き返っ
    た日本の象徴のような方です。

    注:小説「特務艦隊」について
     この小説は、第一次世界大戦の時に地中海まで派遣された日
    本海軍第二特務艦隊を題材にした小説です。河出書房新社から
    復刻された、海軍省の正式記録の「遠征記」を下敷きにしてお
    り、かなり史実に忠実な小説になっています。このうち、片岡
    覚太郎海軍主計中将が書かれた「日記」の部分については、河
    出書房新社から「日本海軍地中海遠征記」として出版さ
    れています。この特務艦隊の一員として、I博士の父上(駆逐
    艦桃艦長)と私の祖父(駆逐艦榊の機関大尉で生存者)は地中
    海まで赴きました。この小説の「著者に聞く」のページを、ぜ
    ひ御一読ください。戦艦大和の至る前の、第一次世界大戦の頃
    の日本海軍の様子がよくわかります。
    http://www.bunshun.co.jp/jicho/tokumu/tokumu01.htm
     また、マルタ島の墓碑については、マルタ観光局のページを
    ご覧ください。
    http://www.mtajapan.com/kaigunmain.html

    JOG(315) 日本帝国海軍、地中海に奮戦す
     第一次大戦、同盟国イギリスの要請に応え、日本の駆逐艦隊
    は地中海でドイツ軍潜水艇と戦った。
                                               卓馬さんより
    「大和1/1セット」を日本出張時に、参観してまいりまして、
    「元気」と「気概」を戴いてきました。マレーシアにも数年に
    一回、海上自衛艦が遠洋航海の途上に、クアラルンプール近郊
    のクラン港に寄航しますので、愚息を連れて見に行きます。護
    衛艦は護衛艦で素晴らしいのですが、やはり「大和」に比せば、
    迫力(存在感)が違います。

     遠洋航海の自衛艦上に日章旗を見る時、私も、子供も非常に、
    日本人としての誇りと、自衛隊に対する感謝を感じずには入ら
    れず、戦前の記事に見る、マレーシア、シンガポールに居住す
    る同胞が帝國海軍の寄航に大歓喜などとありますが、自衛艦の
    日章旗を外地で見る時、この気持ちを垣間見ることが出きます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

    「大和1/1セット」とは、尾道で公開された映画『男たちの
    大和/YAMATO』のロケセットで、100万人もの入場者数があっ
    たどうです。残念ながら、公開は5月7日で終了しました。

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