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■■ Japan On the Globe(434)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

           人物探訪: 井深大 〜 日本人の創造力

            「日本は科学技術が劣っていたために戦さに敗れたの
            だから、これからは科学技術で国を立て直すしかない」
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■1.「これからは科学技術で国を立て直すしかない」■

     昭和20(1945)年8月、終戦の数日後、井深大は東京・日本
    橋の大通りを歩いていた。長野県須坂町に疎開していた「日本
    測定器」を、東京に戻すためであった。

     そこに米軍の完全武装の自動車数十台の行列にぶつかった。
    それを人垣越しに眺めつつ、井深は「日本は科学技術が劣って
    いたために戦さに敗れたのだから、これからは科学技術で国を
    立て直すしかない」と痛感した。

     戦時中、井深の日本測定器は陸海軍の期待に応える成果を次
    々に生み出していた。たとえば、昭和18年11月には周波数
    選択継電器を開発し、これを使って海軍は航空機搭載用の磁気
    による潜水艦探知機を開発した。台湾、フィリピン方面を担当
    する海軍901航空隊は、この探知機を用いて、多数の潜
    水艦を撃沈するなど、大きな戦果を納めた。

     こうした実績を買われて、井深は軍官民合同の科学技術委員
    会の委員を委嘱され、ここで当時、海軍技術中尉に任官したば
    かりの盛田昭夫と知り合った。二人は、お互いの人柄と技術者
    としての見識に惹かれて、終生の友人となる。その二人が技術
    者として語り合った結論は、「どんなにあがいても、この戦争
    には勝てない」だった。

■2.「技術の力で祖国復興に役立てよう」■

     翌21年5月、ソニーの前身である「東京通信工業」が誕生
    した。社長には、占領軍による公職追放で文相の職を離れた前
    田多門を迎え、井深が専務、盛田が取締役についた。創立式で、
    井深は『会社設立の目的』を披露した。そこには次のような一
    節があった。(漢字、かなづかいを一部修正)

         技術者達に、技術する事に深く喜びを感じ、その社会的
        使命を自覚して、思い切り働ける安定した職場をこしらえ
        る。

         大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわな
        い。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社
        のできないことをやり、技術の力で祖国復興に役立てよう。
        [1,p75]

     しかし、実際の事業の方は、部品材料の入手難、資金難から
    苦難の連続だった。電気座布団を作ったり、陸軍の通信機材を
    改良してNHKに放送用設備として納めたり、と試行錯誤が続
    いた。しかし、井深の理想である、新技術を開発して世の中の
    ために尽くしていこう、という機会はなかなか訪れなかった。

■3.「われわれの作るものはこれしかない」■

     昭和22(1947)年秋、NHKに駐在していた米軍将校からテ
    ープレコーダーを試聴させて貰い、「われわれの作るものはこ
    れしかない」と思った。

     日本では誰も手がけていないテーマで、資料も文献もない。
    その難題に大学を出たばかりの新人社員たちとともに取り組ん
    だのである。約3年にわたる悪戦苦闘の末に、国産初のテープ
    レコーダー「G−1型」を発売したのが昭和25(1950)年8月。
    週刊誌が20円の頃、小売価格16万円というから、今で言え
    ば2、3百万円というところか。高すぎてまったく売れなかっ
    た。

     井深と盛田は、用途も考えず「少々値段が高くても、こんな
    便利なものが売れないはずはない」と考えていたのが、間違い
    だったと悟った。そこで、どうすれば消費者が喜び、需要を喚
    起できるのか、と考えた。

     早速、小型軽量の普及機を作り、営業マンに全国の小中学校
    を回らせて、いかにテープレコーダーが視聴覚教育に役立つか
    をデモンストレーションさせた。それが大きな反響を呼び、問
    い合わせや注文が殺到し始めた。

     また、戦後、占領軍の統制下にあった電波が民間にも開放さ
    れることになり、全国的にラジオの民放開局ブームが起こった。
    ここでも東通工のテープレコーダーが大きな役割を果たした。

■4.「ラジオに挑戦してみようじゃないか」■

     昭和27(1952)年3月、井深はアメリカにおけるテープレコ
    ーダーの普及状況、メーカーの対応を調べるために、3ヶ月ほ
    ど渡米した。ニューヨークで、道路は車にあふれ、夜はネオン
    の洪水になる様子を見て、「これはたいへんな国にきたものだ」
    と驚いた。

     米国滞在中、ウエスタン・エレクトリック社から「トランジ
    スタの特許を望む会社には売っても良い」という情報が出され
    ているのに接した。井深は「大学、高専出の若い技術者たちを
    伸ばすには、テープレコーダーの次の目標が必要だ。それには
    トランジスタの実用化がいい」と思い立った。しかし、何に使
    うか。井深は盛田にこう提案した。

         トランジスタを作るからには、広く誰もが買ってくれる
        大衆製品を狙わなくちゃ意味がない。そんなことを考える
        とラジオがいちばんいい。盛田君、僕等はラジオに挑戦し
        てみようじゃないか。

     WE社で実用化されたトランジスタは低周波用のもので、ラ
    ジオ向けの高周波トランジスタができるのは、まだ先のことと
    言われていた。ラジオに挑戦するのはたいへんな冒険であった
    が、井深は「よそにないものをつくる」という夢に賭けたので
    ある。

■5.「それだけはやめておけ」■

     井深はニューヨークにいる知人に頼んで、WE社との交渉を
    開始して貰った。最初、WE社は名もない日本の小企業と見く
    びって相手にしなかったが、東京通信工業がテープレコーダー
    を独力で開発したユニークな会社であることを知ると、特許を
    許諾しても良いと言ってくれた。

     井深が再び渡米して正式調印をした際に、WE社の技術者は
    「何に使うつもりか」と聞かれた。井深が「ラジオに使う」と
    答えたら、「それだけはやめておけ」と言われた。WE社でも
    トランジスタの生産を始めて3年になるが、歩留まりが悪く、
    民生用といったら、せいぜい補聴器にしか使えない、という言
    い分だった。当時、補聴器などに使われていたトランジスタの
    ベースは0.3ミリ程度の厚さだが、ラジオ用には0.05ミリ
    以下でないと使い物にならない。それを作る技術はまだWE社
    にもなかった。

     しかもWE社から与えられたのは特許使用権のみで、ノウハ
    ウ提供は工場見学と、設備の図面も写真も載っていない教科書
    のみ。工場見学の後で、思い出しながら描いたスケッチをもと
    に、一連の設備を作り上げた。

■6.「悩み」と「陽気」■

     設備ができて試作を始めると、いかに大変な仕事か分かって
    きた。1キロ2千円近くするゲルマニウムを使って、何度試作
    をしても、なかなか良いものができない。

         試作に着手して6ヶ月ほどたった頃でしたが、すでに設
        備投資を含めて、1億円くらいつぎ込んでいたでしょうね。
        銀行にはラジオのことは一言もいわず、テープコーダ(弊
        誌注:「テープレコーダー」の登録商標)が売れてますか
        らといって金を借りたが、あの頃がいちばん苦しかったで
        すね。

      しかし、井深はそんな悩みを決して表情には出さず、陽気
     に振る舞うことが多かった。

         苦しいときの自分の役割は、私なりに心得ているつもり
        です。何かに行き詰まったり困ったことがおきると、違っ
        た角度から攻めちゃどうかとか、某君は分野が違うから新
        しい見方ができるかもしれない、アレを呼んで来い、とか、
        それを現場や会議の席でやるわけ。そんなことをワァワァ
        やっているのを、ハタで見ると、陽気に見えるんじゃない
        ですかね。

      この「陽気」の陰には、次のような信念があった。

         僕等がトランジスタやったときなんか、百個つくって使
        えるのが、5、6個なんて珍しくない。最初はそれぐらい
        歩留まりが低いと、ほかではなかなかやらないからこそ、
        うちでやる価値がある。その歩留まりをこつこつとあげて
        いく、地味な努力がものを言うんだから。[2,p177]

     歩留まりがやっと5パーセントになったとき、井深はトラン
    ジスタ・ラジオの生産開始を命じた。その無謀さにみな驚き、
    時期尚早と反対したが、井深はそれを押し切った。

     昭和29(1954)年10月にゲルマニウム・ラジオの試作第一
    号を公開した所に、アメリカから「世界初のトランジスタ・ラ
    ジオ発売」という情報が飛び込んできた。

     これはたまたま出来た特性の良いトランジスタを選んで組み
    立てたもので、初めからラジオ用のトランジスタを作ろうとす
    る井深のアプローチとは本質的に異なっていたが、世界初を奪
    われたショックは大きかった。しかし、それを上回るものを作
    ろうという意気込みが、開発メンバーの間で盛り上がった。

■7.トランジスタ・ラジオの登場■

     昭和30(1955)年8月、SONYの商標をつけた本格的なト
    ランジスタ・ラジオの発売を開始した。続けてイヤフォン式や、
    ハンディタイプ、音質を高めたモデルなど、矢継ぎ早に新製品
    を打ち出した。停電でも乾電池で安心して聞けるトランジスタ
    ・ラジオは、台風の多い九州地方では飛ぶように売れた。

     アメリカの大衆科学雑誌『ポピュラーサイエンス』は、ソニ
    ーのトランジスタ・ラジオに注目して、表紙に写真を掲載し、
    さらに記事で性能を紹介して、内外の評判になった。

     昭和32(1957)年3月に発売した世界最小のスピーカー付き
    ポケットラジオ「TR−63型」は、感度が良く、消費電力も
    半分以下となった点が人気を呼び、たちまちヒット商品となっ
    た。

     またこのラジオは、日本の本格的輸出の第一号となった。輸
    出価格は39.5ドルと手頃で、アメリカ市場でも飛ぶように
    売れた。クリスマスが近づくと品薄となって、チャーター便を
    飛ばしたほどであった。

■8.挑戦とどまることなし■

     井深の挑戦は、留まるところを知らない。トランジスタ・ラ
    ジオが軌道に乗ると、次にトランジスタ・テレビを作ろうと思
    い立った。それにはゲルマニウムよりも熱に強く、信頼性も高
    いシリコンのトランジスタが必要だった。

     当時、シリコンの単結晶は、アメリカのデュポンなどが軍事
    用や宇宙開発用にごく少量作っていたが、これでトランジスタ
    を作ったとしても、一個あたり数万円もするような値段であっ
    た。それを大衆向けに使うなど、常識では考えられなかったが、
    井深はあえて挑戦を命じた。

     シリコンはゲルマニウムと違い、地球上の土砂中に無尽蔵に
    存在する。これを国産の技術で大量生産できれば、原料供給を
    アメリカに頼らないで済む。それが日本の発展に必要な道だと
    考えたのである。

     この夢が実現したのは、昭和37(1962)年4月であった。シ
    リコン・トランジスタを初めて民生用に使って、世界初の5イ
    ンチマイクロテレビを発売したのである。

■9.人類全体への貢献■

     こうした経験から、井深は発明とその応用としての製品開発
    に関して、こう言う。

         日本人は発明の価値を高くみすぎているんじゃないか。
        たしかにトランジスタを発明したのは、アメリカだが、そ
        れを使いこなしたのはうちなんです。もとになる発明も、
        何も手を加えなければ単なる発明の域を出ないわけ。

         だから私は、みんなにこういっている。かりに研究者が
        発明にかける努力のウェイトを1とすると、それが使える
        か使えないかを見分けるのに10のウェイトがいる。さら
        にそれを実用化にもってゆくには100のウェイトがいる
        とね。このことを誰も知らない。日本の科学技術政策がそ
        うだし、学者もそうだ。何か一ついいものを見つけられた
        ら、それで日本は繁栄すると思っている。これじゃいつま
        でたっても日本の技術は進歩しませんよ。[1,p165]

     かえって欧米の方が発明を実用化する事の価値をよく知って
    いるのかもしれない。昭和47(1972)年3月、エレクトロニク
    ス関係の世界最大の学会であるIEEE(電気電子学会)が、
    井深にファウンダー賞を贈った。同賞が設けられたから15人
    目の授賞で、アメリカ国外では初めてであった。

     贈られた賞状には「民生用エレクトロニクスへの固体素子デ
    バイス(弊誌注:トランジスタ等)応用において発揮された卓
    越したリーダーシップによって、産業の発展に貢献し、電気電
    子技術者の権威を高めたことに対して」と記されていた。「技
    術の力で祖国復興に役立てよう」という井深の志は、人類全体
    にも大きな貢献をもたらしたのである。

     井深の貢献も手伝って、日本は世界有数の技術大国となった。
    モノづくりの技術をひたすら追い求め、がむしゃらに働いてき
    た成果である。しかし、今後の世界はそれだけでは通用しない、
    と井深は考えた。もっと広く世界に貢献する政治なり、施策を
    打ち出していかないと、輸出で稼ぐだけでは、世界中から袋だ
    たきにあうに決まっている。

     それを防ぐには、日本の指導者層に本当に優れた人材が必要
    だ。晩年の井深はこう考えて、幼児教育、母親教育に打ち込ん
    だのである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(111) 盛田昭夫の "Made in JAPAN"
    自尊と連帯の精神による経営哲学 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 中川靖造『創造の人生 井深大』★★★、講談社文庫、H5
2. 井深大『ものづくり魂』★★★、サンマーク出版、H17

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