[トップページ][平成18年一覧][地球史探訪][160 宗教][210.4 キリシタン宣教師の野望]
■■ Japan On the Globe(435)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪: 島原の乱 〜 持ち込まれた宗教戦争の種子 欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が 突然、日本の地で芽を出した。 ■転送歓迎■ H18.03.05 ■ 33,399 Copies ■ 1,971,482 Views■ ■1.「立ち帰った」キリシタンたち■ 寛永14(1637)年10月、島原有馬村の二人の百姓が、天草 へ行き、そこで「天の使」として布教を始めた益田四郎という 16歳の少年(天草四郎)に帰依して、キリシタンが礼拝する 絵像を持ち帰り、村人を集めて布教を始めた。 四郎は習わぬのに文字を読み、キリシタンの講釈を行い、ま た海上を歩いて見せたという。そして、次のような檄文が流布 されていた。 キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウ ス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、御踏 みこみなされ候間、その心得あるべく候。 島原・天草地域は、30年ほど前まで有馬晴信、小西行長と いうキリシタン大名に統治され、領民の多くはかつてキリシタ ンであった。二人の百姓の布教で、10月23日の一晩だけで 7百人あまりの男女がキリシタンに「立ち帰った」という。 翌日、代官がこの二人を捕らえ、島原城に連行して処刑した。 しかし、キリシタンたちは集会を止めず、殺された二人を「天 上し(天国に行き)、自由の身になった」と礼拝した。この集 会を解散させるために赴いた代官たちを、キリシタンたちは殺 害し、「代官、僧侶、神官らを殺害せよ」と近隣の村々へ触状 を回した。 これに呼応して、各地で立ち返ったキリシタンたちが、代官 はじめ、僧侶、神官、果ては行きがかりの旅人までを惨殺した り、磔(はりつけ)にした。「島原の乱」の始まりである。 ■2.キリシタン大名・有馬晴信■ そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗した のは、現実的な理由であった。近隣を支配する強大な龍造寺隆 信に対抗するために、キリシタン大名の大友純忠と同盟する事 を決意し、そのために改宗を願い出た、とルイス・フロイスは 『日本史』に記している。 洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャ ーノに伝えられ、晴信は領内の寺社を破壊し、領民を改宗させ るという約束の上で、洗礼を受けた。ヴァリニャーノは晴信に 兵糧と鉛、硝石などの軍事物資を提供して、支援を行った。 晴信は約束通り、領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求 し、どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国か ら出て行くように命じた。 晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊 し、仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を 没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超 える人々が改宗したという。 晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、 インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。 ■3.持ち込まれた悪習■ こうした仏教・神道迫害は、他のキリシタン大名の領地でも 広く行われた。そのために天正15(1587)年、豊臣秀吉は伴天 連(バテレン)追放令を出した。その理由は、第一に宣教師に よる信仰の強制、第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶へ の迫害、第三に宣教師たちの牛馬の肉食、第四にポルトガル人 による奴隷売買であった。 日本の在来信仰では、領主が権力や武力を用いて、特定の信 仰を領民に強制するようなことはなかった。最初に来日したイ エズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、いちはやくこの点 に注目し、日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗 派を選ぶのであり、「誰に対してもある宗派から他の宗派に改 宗するように強要することはしません」と報告している。 [1,p207] 同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを 舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリック が戦った「30年戦争」が起こった。いわゆる宗教戦争の最大 のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略 奪、住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセン トが失われたという。こうした悲惨な経験から、ヨーロッパで は、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していく のだが、ザビエルの観察に見られるように、これらはすでに当 時の日本社会では実質的には実現されていたものであった。 また、有馬晴信、大村純忠、大友宗麟らキリシタン大名が竜 蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時、副管区長コエリョは秀 吉に遠征を進言し、そうすればキリシタン領主等を全員結束し て、秀吉の味方につけることを約束した。秀吉はこの発言から、 イエズス会がキリシタン大名を糾合して、日本の支配者になろ うとしているのかもしれない、という警戒を抱いた。実際にコ エリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようと いう野望を持っていた。[a] キリシタン宣教師らは、権力者による信仰の強制、宗教を戦 争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだ のである。 ■4.「今から26年後に、必ず『善人』が一人出現する」■ 徳川幕府も慶長18(1614)年、禁教令を出して、「キリシタ ンの徒党」を追放することを宣言した。その理由は、第一に日 本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有すること を企んでいることであり、第二に「神国・仏国」日本の信仰、 道徳、法に反し、罪人を崇めるような非道の行いをしているこ とであった。「非道の行い」とは、僧侶・神官への迫害や寺社 の破壊を指すのであろう。 有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣 教師に領内からの立ち退きを命じ、教会を破壊した。やがて直 純は日向に転封され、大半の家臣を引き連れて移住したが、一 部に牢人となって残ったキリシタンがいた。 寛永14(1637)年、天草に山居していた旧・有馬家家臣の松 右衛門ら5人の牢人は、26年前に追放された宣教師が書き残 した予言を思い起こした。それは次のようなものであった。 今から26年後に、必ず「善人」が一人出現する。その 「幼い」子は習わないのに文字に精通した者である。その 出現の印が天にも現れるであろう。 松右衛門ら5人は当時天草にいた大矢野村の益田四郎が、こ の予言に記された「善人」に間違いないとし、彼を「天の使」 として宣伝した。益田四郎は、キリシタン大名・小西行長に使 えていたと伝えられる牢人の子であった。 ■5.「宗門(信仰)のことで籠城しているのです」■ 従来の歴史研究では、島原・天草での一揆の原因は、キリシ タン信仰の迫害と、同地方の領民を苦しめていた飢饉と重税へ の反発であるとされていた。 しかし、この説では説明のつかない事実がいくつもある。ま ず、キリシタン迫害は一揆の26年も前に開始され、10数年 前にはキリシタン信仰はほぼ終息していた。キリシタン迫害に 対する反発というには、時期が離れすぎている。一揆勢は一度、 信仰を捨てたキリシタンたちが「立ち帰った」ものであった。 また飢饉と重税に対する反発というにも不審な点がある。後 で見るように、一揆勢は、同じく飢饉と重税に苦しんでいる民 衆にキリシタンへの改宗を武力で強制し、改宗を拒んだ村々に は攻撃を加えている。後に籠城した際には、幕府軍から「将軍 や島原藩主に何か恨みがあるのか、その恨みに理があるなら和 談をしても良い」との矢文に対して、こう答えている。 我々は上様(将軍)への言い分もなく、(藩主)松倉殿 への言い分もございません。宗門(信仰)のことで籠城し ているのです。もし我々に憐みをかけて下さるなら、是非 我々の宗門をお認め下さい。 確かに、この地方では3年来の飢饉に見舞われていた。そこ で思い起こされたのは、天草大矢野でかつて旱魃(かんばつ) に襲われた時、キリシタン住民たちが、3日間の断食と十字架 の前での苦行、祈祷を行った所、3度に渡ってたっぷりと雨が 降り、救われたという経験であった。イエズス会宣教師は、こ のことによって「非常の場合はデウスにすがるという必須の信 頼」が生じたと記している。 この事を覚えている百姓たちは、現在の飢饉は、迫害に屈し てキリシタンの宗旨を「転んだ」事に対する「天罰」と捉えた のだろう。こういう意識のある所に、「天草四郎」が出現して、 キリシタンへの「立ち帰り」が一気に広がったと考えられる。 ■6.戦国の遺風■ 10月26日早朝、有馬村をはじめとする7ヶ村の立ち帰り キリシタンらが一斉に蜂起し、島原城下に押し寄せた。戦国時 代の気風が色濃く残る時代らしく、各村は自治的に運用されて おり、一揆方につくか、藩方につくか、判断を迫られた。 島原に近い安徳村(現・島原市)の村民たちは、荷物を牛馬 に載せ、子供たちを抱きかかえて城に避難した。城下町の住民 は藩側に味方するとして、武器の貸与を申し入れた。藩側は警 戒して、人質をとったうえで、武器を貸し与えた。武士だけで なく、こうして百姓が戦に参加するのも、戦国の遺風である。 押し寄せた一揆勢は、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れ た女性を拉致した。城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を 切り、指物にして、城の大手口に押し寄せた。藩方は城に立て こもり、防戦に努めた。 26日の晩には、湯江村、多羅良村、茂木村、日見村、西古 賀村の住民たちが、藩方に加勢すべく、応援を送り込んで来た。 こうした加勢もあって、一揆勢は数日間に渡って城を攻め立て たが、落とすことはできず、それぞれの在所に引き揚げた。 ■7.「百姓は草のなびき」■ 有馬地域の村々に立ち帰った一揆勢は、天草四郎に使いを送 り、今後は四郎を「キリシタン大将」として従う旨を伝えた。 四郎は「自分は大将として方々へ押し寄せ、キリシタンになら ないものは誅伐して宗門を守るつもりであるから、どこへ攻め るにも命令には従ってもらう」と指示し、それぞれの村から従 軍する人数を申し出るよう、指示した。 四郎は、長崎に1万2千ほどの軍勢を送って、キリシタンへ の改宗を迫り、拒否した場合は放火・殺害を行って制圧し、そ れから島原城を攻めるという作戦を立てた。長崎は最も近い幕 府の拠点であった。 そこに唐津藩の軍勢が天草に到着し、本渡で一揆勢と交戦し たが、惨憺たる敗北を喫し、富岡城に籠城した。唐津藩と言っ ても、少数の武士に多数の百姓が付き従うという、これまた戦 国らしい構成だった。一揆方も多数の百姓が牢人に率いられた ものであり、武士対百姓という階級闘争史観では捉えられない 構図であった。 一揆方は勢いに乗って富岡城を攻め立てたが、落とすことは できず、退却した。この様子を見て、今まで一揆勢に荷担して いた村々は、今度は手のひらを返すように退却するキリシタン たちに攻撃を加え、多大な損害を与えた。戦国時代には「百姓 は草のなびき」と言って、各村とも生き残るために優勢な方に 加勢するというのが常態であったが、ここでもそれが見られた。 ■8.戦って死ぬことで天国へ行ける■ 天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ、12月1日に南有 馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した。その人数 は一説に、3万7千人と言われている。ここから翌年2月28 日の落城まで、4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる。 四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうす れば天国へいけるであろう、しかしそれを怠れば地獄へ堕ちる であろう」と籠城の一揆勢に督戦した。戦って死ぬことで天国 へ行ける、という教えである。 幕府軍は当初、強引な攻撃をしかけて、総大将・板倉重昌が 戦死するという大きな被害を受けると、その後は城を包囲して、 兵糧攻めにする作戦に出た。上述の矢文のやりとりも、この時 に行って、懐柔に出ている。この間に、一揆勢からは約1万人 ほどが、水汲みなどで城を出た際に、幕府軍に投降している。 また平戸にいたオランダ船にも、原城を砲撃させた。この作 戦については幕府内からも「外国船を動員するのは、日本の恥」 という批判が出たが、作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次の ように答えている。 拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、 我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から 援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、 その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば、「南 蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き、宗旨 の嘘に気がつくのではないか、と思ったからであり、日本 の恥になるとは思いもよらなかった。 カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを、 プロテスタントのオランダ船が攻撃するというのは、まさに欧 州における両宗派の代理戦争という趣である。 ■9.持ち込まれた宗教戦争の種子■ 2月28日、幕府軍は総攻撃を仕掛け、原城を攻略した。激 しい戦闘で、幕府軍総勢12万人のうち約1万2千もの死傷者 を出した。従来の研究では、籠城したキリシタンたちは皆殺し にされたとされているが、「城中の者の生け捕りは多い」など という報告もあり、投降者も少なくなかった。 翌年の寛永16(1639)年7月、幕府はポルトガルと断交し、 国内での徹底したキリシタン取り締まりを命じた。異教徒を殺 害し、その寺社を破壊することが神に奉仕する道である、など という中世的思想は、イエス・キリストの本来の教えとは異な るものと推察するが、いずれにしろ、それが欧州における悲惨 な宗教戦争の原因であった。 島原の乱は、欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、 日本の地で開花したものであった。それを初期の段階で根絶や しにした徳川幕府によって、以後、江戸日本は「各人が自分の 意思に従って」宗派を選ぶ近代的社会を維持し、2世紀以上に わたる泰平の世が花開くのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(154) キリシタン宣教師の野望 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす ることを、神への奉仕と考えた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 神田千里『島原の乱』★★、中公新書、H17© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.