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■■ Japan On the Globe(440)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         人物探訪: 海外貿易の志士、森村市左衛門

                 ノリタケ、TOTO、日本碍子、日本特殊陶業、
                INAXを生んだ凛乎たる精神。
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■1.明治11年、ニューヨークに「森村ブラザース」開店■

     明治11(1878)年11月、ニューヨーク6番街の一角に森村
    豊(とよ、25歳)と日本人従業員2人だけの「森村ブラザー
    ス」が設立された。

     豊をアメリカに送り込んだのは兄・森村市左衛門(この時は
    まだ市太郎と名乗っていた、39歳)。福沢諭吉から、ニュー
    ヨークで最初の日本人商会を開いた人が海外貿易をめざす若者
    を募っているので、慶應義塾を卒業した豊を送ったらどうか、
    と話があったのである。

     市左衛門は妻のかんざしまで売り払って、渡米の費用を作り、
    二人で「森村組」を創設して、そこから豊を送り出した。豊は
    ニューヨークに渡り、3ヶ月の商業学校に通ってから、しばら
    く日本の古美術品などを売って経験を積んだ後、「森村組」の
    ニューヨーク支店として、「森村ブラザース」を創設したので
    ある。

     兄・市左衛門は東海道本線も全通していない時代に、名古屋、
    京都、大阪まで風呂敷包みと天秤棒を担いで行き、骨董品、陶
    器、人形類などを仕入れては、自分で荷造りし、新橋駅まで荷
    車で運んで、アメリカに送り出した。

     その荷を豊がニューヨークの駅で受け取り、荷ほどきから売
    り込みまですべて自分でやった。下宿しようにも金がないので、
    店に寝泊まりし、パンを囓るという生活だった。

■2.「貿易業は国家の死活にかかわるほど重要だ」■

     市左衛門が福沢諭吉の話に乗ったのは、「貿易業は国家の死
    活にかかわるほど重要だ」と考えていたからである。そう思っ
    たのは、幕末の頃、日米修好通商条約批准のために渡米する使
    節団の御用で、日本の小判を当時の国際通貨であるメキシコ
    ・ドルに換金する仕事に携わった時だった。この頃、国際貿易
    の知識に乏しい幕府は割の合わない為替比率を押しつけられ、
    外国商人たちは100ドルで買った日本の小判を、金として売
    り払うだけで150ドルも得ていたのである。[a]

     市左衛門は後に、この時の思いをこう書いている。

         国家の命脈ともいうべき黄金をして、かくのごとく容易
        (たやす)く外国に流通せしめ、こんご武器購入のためと
        か、兵艦製造のためとか、そのつど黄金を払い出すことと
        ならば、ついにわが金銀はことごとく外国に吸収せられて、
        ふたたび国内に正貨を見るべからざるの悲境に陥るべし。
        みすみすこれを打ち捨てておかば、一国の独立もとうてい
        保ちがたく、臍(ほぞ)を噛むもまた及ばざらん。[1,p35]

     そのためには、少しでも日本の物産を海外で売って、外国の
    金を得なければならない、というのが、市左衛門が海外貿易を
    志した理由だった。

     たしかに、日本は開国以来、ずっと輸入超過だった。明治元
    年から12年までの輸入額は3億21百万円余と、輸出の2億
    46百万円余の1.3倍になっていた。そこで政府が輸出奨励
    金を提供すると、それをあてにした貿易会社が次々と誕生した。

     日本の美術品などの販売は、はじめのうちこそ、順調だった
    が、こうして輸出奨励金を受けた諸会社が、やたらと日本から
    品物を持ち込んでは売れ残り品の叩き売りを始めると、森村ブ
    ラザースは苦境に追い込まれた。

     それでも市左衛門は輸出奨励金を受け取らなかった。その理
    由をこう書いている。

         自分はかねてより人の世話になるのが大嫌いで、いかに
        困窮したときでも、決して憫(あわれ)みを人に請うたこ
        とはなかったが、福沢先生と交際(つきあ)ってからます
        ますこの決心を固くした。先生は常に自分に向かってこう
        言われた。一国の独立は畢竟(ひっきょう)個人の独立に
        あるのだ[b]。個人として人の世話にならなければ立てな
        いようなしみったれで、どうして国家の独立が保てるもの
        かと。[1,p75]

■3.「おれは一生この人のそばを離れない」■

     やがて、輸出奨励金をあてにして生まれた貿易会社は次々と
    泡沫のように消えていったが、森村組はこの不撓不屈の精神と、
    アメリカで得た絶大な信用によって、事業を確立していった。

     その信用とは、たとえば、こんな商売のやり方から生まれて
    いった。後にアメリカ人の店員を雇えるようになった時の事、
    その店員が2個一対の傘立て5ドルを間違えて、10ドルで売っ
    た。その日の伝票整理でこのミスが見つかったので、豊は多く
    貰った金額を返しに行くようにアメリカ人店員に命じた。店員
    が「先方はこの値段を承知して買ったのだから、このままにし
    ておいてはどうですか」と応えると、豊は色をなして怒り、
    「商人の利得には一定の標準がある。一個2ドル半の品を5ド
    ルに売るという無法なことはあるべきではない」と言って、客
    に取りすぎたお金を返させた。

     その店員は一種異様な感動を覚え、「おれは一生この人のそ
    ばを離れない」と誓った。そして日本人の陰口をいうアメリカ
    人がいると、この逸話を紹介して日本人を弁護した。

     兄の市左衛門も、かつて洋服仕立ての事業をしていた時に、
    洋服一着の仕立て違いのために、東京からわざわざ和歌山まで
    謝りに行ったことがある。

     これはまさに近江商人の「三方よし」すなわち「売り手よし、
    買い手よし、世間よし」(商取引は売る方にも、買う方にも、
    そして社会全体にも利益になるものでなくてはならない)の考
    え方を地で行く経営である[c]。

     こうした経営で得られた信用を財産として、森村ブラザース
    はアメリカで着実に事業を伸ばしていった。

■4.大量輸出を図る卸専門へ■

     森村ブラザースは明治18(1885)年に転機を迎えた。それま
    での小売り主体から、卸主体に転換したのだった。これは市左
    衛門の次のような判断によるものだった。

         森村組の建前は、たんに利益のみを目的とするのではな
        い。大いに日本商品を海外に出して国家に貢献したい。こ
        の見地から大量輸出を図る卸専門が得策である。

     陶磁器などの見本を提供して、小売りチェーン店から予約注
    文をとる。それを日本で京焼、薩摩焼、会津焼など、各地から
    生地(本焼きをした段階)を仕入れて、京都や東京に設けた専
    属工場で絵付けをする。

     豊は、顧客の要求を絶対に尊重することを徹底し、アメリカ
    人好みのデザインとした花瓶や皿などを作り出した。品質にも
    うるさく、日本に帰国した際には、キセルの雁首で金盛りの絵
    付けをガリガリとこすって、「これで剥げるようなものは皆ペ
    ケだぞ」と職人たちを震え上がらせた。

     顧客の満足を重視する森村ブラザースの商品は米市場での信
    頼を得て、納入先として今日も巨大な小売りチェーンとして有
    名なウールワースなども加わり、市左衛門の志どおり、大量注
    文が来るようになった。

     明治32(1899)年、長男・明六が肺結核で亡くなると、その
    直後に、今度は商用で日本に帰っていた豊が胃ガンにかかり、
    45歳の若さで他界してしまった。市左衛門は「一時はほとん
    ど茫然として左右の手を失ったような気がした」が、「これは
    天が自分に向かって若い者に代わって最後まで働けということ
    をお命じになったのであろう」と再び、精神を奮い起こした。

■5.「米国における日本人商店中最大なるもの」■

     当時の陶磁器の高級品は、ヨーロッパから輸入されていたが、
    きわめて値段が高かった。市左衛門は社内で10年も研究させ
    た結果、十分対抗できる高級品を開発し、大衆の手が届く値段
    で受注を始めた。たちまち大評判となり、百貨店などから注文
    が殺到した。毎年、受注開始してから、2、3ヶ月で締め切る
    ほどの盛況を呈し、アメリカ市場に一大革命をもたらしただけ
    でなく、ヨーロッパの同業者にも一大脅威を与えた。

     日露戦争後は、日本の国力が見直され、アメリカ人の対日感
    情も好転したことから、森村ブラザースの勢いは倍加した。ニュ
    ーヨーク支店の店員は約100名で、そのうちの3分の2はア
    メリカ人であった。これは当時の「米国における日本人商店中
    最大なるもの」で、その広大な店内には陶器や雑貨の見本が幾
    万と陳列されていた。

     また、日本では「日本陶器合名会社」という別会社を愛知県
    の則武(のりたけ)の地に設立し、15百人もの従業員が高級
    陶器の製造に携わっていた。

■6.私が50年間、刻苦心労して働いたのは何のためであるか■

     国家のための事業に打ち込んだ市左衛門であったが、その合
    間には、成功によって得た富を国家の為に使おうとした。

     ドイツでの研究で世界的名声を博した北里柴三郎が、ケンブ
    リッジ大学の細菌学研究所長のポストを謝絶して、「日本の公
    衆衛生のために尽くしたい」と帰国した。「日本に伝染病研究
    所を設立したい」という北里の志に共感した福沢諭吉が地所
    ・建物を提供すると、市左衛門は「自分もお手伝いしましょう」
    と一面識もない北里に研究用器具費用として金1千円(現在な
    ら1千万円相当)の寄付を申し出た。これを伝え聞いた人々が
    次々と寄付を申し出て、明治25(1892)年、日本最初の伝染病
    研究所が民間の志によって実現されたのである。

     日露戦争が始まって、すぐの明治37(1904)年7月、東京帝
    国大学に臨幸された明治天皇の「軍国多事のさいといえども教
    育の事はゆるがせにすべからず」というお言葉に感激し、当時
    創設されたばかりの日本女子大学校(現在の日本女子大の前身)
    に、5万5千円(現在なら5億5千万ほど)の寄付を行った。
    この基金をもとに、教育学部が創設された。この寄付に関して、
    市左衛門はこう語っている。

         昨夜いらい私は非常に心の喜びをもっている。たとえ粟
        一粒のようなまことに小さいものといえども、国家のため
        に種を蒔いたと思いましたから、まことに安心をいたしま
        す。これでまず死んでもあまり遺憾はない。私が50年間、
        刻苦心労して働いたのは何のためであるか。国家のためで
        ある。いかにしてこの金を国家のために用いるかというこ
        とは、長く心に問題としていたが、今日その問題を解決し、
        その目的を達することができたことは、私のためにうれし
        いことであります。[1,p181]

■7.「品物に親切をこめてつくりたい」■

     明治42(1909)年、70歳になった市左衛門は、「我社の精
    神」を発表した。自らの死後も、後継者たちが自分の精神を受
    け継いで、事業を展開していって欲しいと思ったのであろう。
    その冒頭は、こう始まっている。

        一、海外貿易は、四海兄弟、万国平和、共同、幸福、正義、
            人道のため志願者の事業と決心し創立せし社中(会社)
            なり。

        一、私利を願わず一身を犠牲にし、後世、国民の発達する
            を目的とす。(以下略)[1,p207]

     2ヶ月後、市左衛門は日本陶器会社の社内誌に「余が部下に
    与えたる処世十戒」を公表した。その一つ、「親切」の項は、
    アメリカ市場での体験がにじみ出ているような内容である。

        親切 神は愛なり。親切がわれわれの生命である。・・・
        舶来品はなんとなく親切にできている、ジャパン製はどう
        も不親切である、などと言われることのないように、品物
        に親切をこめてつくりたい。仕事に対して愛情をもって働
        きたい。事業はこれによって栄え、われわれの光栄もこれ
        によって進むことができる。[1,p209]

■8.市左衛門の後継者たち■

     この市左衛門の事業精神は、後継者達によって見事に発揮さ
    れた。大正3(1914)年、第一次大戦が勃発すると、戦争に巻き
    込まれた欧州諸国はアメリカに輸出する余裕をなくし、アメリ
    カはその分を日本からの輸入に頼ることになった。日本陶器の
    「ノリタケ」ブランドのディナーセットに注文が殺到した。

     同業者が戦争に伴うインフレーションにつけこんでどんどん
    値上げする中で、日本陶器は賃金を抑えるなどして、極力値上
    げを抑制した。そのために注文はますます増大し、ついには各
    顧客の前年受注実績で、納入量を割り振る始末だった。

     戦後の景気後退期にあっても、顧客の信頼を掴んだ日本陶器
    は、ひとり繁栄を続けた。販路もアメリカだけでなく、南米、
    欧州、豪州、アジアなどに広がった。当時の「メイド・イン・
    ジャパン」は粗悪品の代名詞だったが、真珠のミキモトと陶磁
    器のノリタケだけは、別格だった。本場の欧米においても、ノ
    リタケのデザインが真似されるほどであった。

■9.「凛乎たる精神を遺しておけば」■

     日本陶器から、便器・洗面器などの衛生陶器を製造する「東
    洋陶器」(現在の「TOTO」)、送電線の絶縁具として使わ
    れる碍子(がいし)メーカー「日本碍子」、自動車用のスパー
    ク・プラグを供給する「日本特殊陶業」が分離独立していった。
    さらに古くから建築用タイルなどを製造していた製陶所に資本
    参加して、「伊奈製陶」(現在のINAX)を設立した。

     TOTO、日本碍子、日本特殊陶業、INAX、それに日本
    陶器の後身であるノリタケは、それぞれの分野での一流企業で
    あるが、その起源を辿ると、みな森村市左衛門にたどり着く。
    各社の成功は、市左衛門の次の言葉の正しさを実証しているよ
    うだ。

         よしや、やり損じても、また儲けなくても、国家のため
        になることならば、ドシドシやってみるがよかろう。自己
        を犠牲にしても、国家将来のため、社会人類のために働く
        という覚悟は、事業を成す秘訣であると私は断言する。

         いやしくも自分が犠牲になる以上は、少なくとも一つの
        精神を後世に遺しておかなければならぬ。尾となって枯れ
        てもよいから、何か一つ凛乎たる精神を遺しておけば、そ
        の人死すとも同志の人が必ずそれを継いでくれるであろう
        から、いつかは成功しないことはないのである。[1,p274]
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(286) 幕末通貨大紛争
    幕末の日本は英米外交団により誤った通貨レートを押しつけ
   られ、すさまじいインフレに襲われた。
b. JOG(379) 文明開化の志士、福沢諭吉
    無数のイギリス軍艦が浮かぶ香港で、諭吉は何を考えたのか。
c. JOG(333) 長寿企業の言い伝え
    数百年も事業を続けてきた長寿企業に学ぶ永続的繁栄の秘訣
   とは。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 砂川幸男『森村市左衛門の無欲の生涯』★★、草思社、H10

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「海外貿易の志士、森村市左衛門」に寄せられたおたより

                                           遠賀太郎さんより
     今回の森村市左衛門様の伝記は拝金主義に血眼になっている
    今の日本の経営者に是非一読していただきたいものです。

     結びの言葉にあります「よしや、やり損じても、また儲けな
    くても、国家のためになることならば、ドシドシやってみるが
    よかろう。・・・尾となって枯れてもよいから、何か一つ凛乎
    たる精神を遺しておけば、その人死すとも同志の人が必ずそれ
    を継いでくれるであろうから、いつかは成功しないことはない
    のである。」
    
     胸が熱くなり、涙が出ました。このような精神の人物が日本
    いたことを誇りに思います。

                                             Yutakaさんより
     森村市左衛門の言動を顧みるにつけ、ホリエモンに代表され
    る現代のビジネスマン達の品性の低さが際立ちます。金が全て
    と公言して憚らなかったホリエモンを初めとするいわゆるヒル
    族と呼ばれる成功者(昔風に言えば成金)は知能は別として、
    その人間性や品性が著しく劣っていることは嘆かわしい限りで
    す。

     何よりも、これらの成金たちは マネーゲームによって資産
    を形成しており、物づくりのように地道にかつ本当の意味で経
    済 活動に寄与する実業ではなく、虚業の世界に生きているこ
    とをマスコミはもっと報道すべきではないでしょうか?

     株にしても投資にしても物を作り販売すると言う実業を支え
    てこそ意味があるのであり、金の為に会社を売り買いすると言
    うことは言わば資本主義の生んだ鬼っ子であって本来は陰でひっ
    そりと行われるべき行為と考えます。マスコミ自体が虚業であ
    り、その虚業がホリエモンを持ち上げると言う不愉快な構図 
    は願い下げにしたいものです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     森村市左衛門の志を継ぐ国民が、次々と現れて来ることを祈っ
    ています。  

© 平成18年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.