[トップページ][平成18年一覧][070.15 南京事件]

■■ Japan On the Globe(455)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

          Media Watch: 「南京大虐殺」の創作者たち
    
                  中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち
                
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■1.中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち■

     1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズ
    に次のような記事が載った。

         南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻
        発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・
        南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走るもの
        は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たち
        に目撃された。[1,p106]

     日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが
    12月13日未明。その二日後、15日に南京を脱出したアメ
    リカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した記事である。事
    件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、
    誰でもが事実だと信じてしまうだろう。実際に、現在の日本の
    中学校歴史教科書でも次のように書かれている。

         1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本
        軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本
        軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には
        日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人とも
        いわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたた
        なかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)
        [日本書籍、平成13年版]

     しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじ
    めとする、当時の南京にいた欧米人のジャーナリストの一部は、
    実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが明らか
    にされたのである。[a]でも紹介した亜細亜大学教授・東中野
    修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が明
    かした事実を追ってみよう。

■2.二人のプロ編集者■

     東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝
    処工作概要 1938年〜1941年4月』という資料を見つける。蒋
    介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前か
    ら宣伝戦に総力を挙げていた。そのための機関が「中央宣伝部」
    であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していたのが
    「国際宣伝処」である。この「国際宣伝処」が、南京陥落前後
    の3年間に行ってきた工作を記録したのが、この資料なのであ
    る。冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象
    として何度も登場する。

     中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副
    部長の薫顕光と、国際宣伝処の処長・曽虚白の二人であった。
    薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留
    学し、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経
    験した後、中国に戻って『北京英文日報』などの編集長を長ら
    く務めた。薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南
    京大学教授を経て、上海の『大晩報』の編集長に転じた。

     二人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者
    であった。欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好
    の人材であった。

■3.「国際友人」による「われわれの代弁者」■

     薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要
    だ」と考え、1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強
    化して、曽虚白を処長とする国際宣伝処を発足させた。

     曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝にお
    いては中国人みずから決して前面にでるべきではなく、われわ
    れの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、
    われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と述べて
    いる。

    「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であっ
    た。特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ
    多くの人々の目に触れる。上述の資料では「各国新聞記者と連
    絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、

         われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、
        最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信
        頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この
        工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。
        [1,p45]

     ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが
    発表した宣伝文書」をそのまま自分の記事であるかのように発
    信したりはしないだろう。逆に、国際宣伝処の存在やその工作
    自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。薫顕光と曽虚
    白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者
    が、「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重
    に見極める点にあったのだろう。

■4.「外国人記者を指導した」■

     そのための工作として、国際宣伝処が行ったのは、頻繁な記
    者会見や、講演会、お茶会を開くことだった。『工作概要』で
    は、その実績をこう記録している。

         1937年12月1日から38年10月24日まで、漢口で
        行った記者会見では、軍事面については軍令部より報告し、
        政治面は政治部が担当し、外交面は外交部(外務省)が発
        言して、参加者は1回の会見で平均50数人であった。会
        見は合計3百回開いた。[1,p47]

     また「1938年度は毎日1回お茶会を開く」とあり、外国人記
    者たちとの間で、親密な会話が行われた模様だ。

         通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、
        国民外交協会、反侵略会、新聞同業者の集会などに参加す
        るよう、毎週平均2回、外事課(JOG注:国際宣伝処の一部
        門)から外国人記者に通知し、外国人記者を指導した。各
        集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎
        回平均35人であった。[1,p47]

    「外国人記者を指導した」という表現に、本音が出ているよう
    だ。こうした工作の効果はどうだったのか。

         外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が誠心誠
        意宣伝指導にあたっていることから、そうとうに打ち解け
        た感情を持っている。そのほとんどはわが国に深い同情を
        寄せてくれてはいるが、・・・[1,p53]

     頻繁な接触を通じて、外国人記者たちは中国に「深い同情」
    を寄せてくれるようになったのである。

■5.検閲と洗脳■

     前項の引用文はこう続く。

        しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録すると
        いう気質を持っているので、噂まで取り上げて打電するこ
        とにもなりかねない。含蓄をこめた表現で、検査者の注意
        を巧みに逃れることにも長けている。中国駐在記者が発信
        した電報を各国の新聞が載せれば、極東情勢に注目してい
        る国際人士はそれを重視するものであるから、厳格に綿密
        に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除または
        綿密に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除ま
        たは差し止めにしたうえで、その理由を発信者に説明し、
        確実に了解を得られるようにして、その誤った観点を糺
        (ただ)した。[1,p53]

     外国人記者たちが本国に打電する内容で「妥当性に欠ける」
    ニュースは「削除または差し止め」とされ、「その誤った観点
    を糺」した。これはもう完全な検閲と洗脳である。その検閲は
    次のような方法で行われた。

         あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、
        検査者が本処(国際宣伝処)の「検査済みパス」のスタン
        プを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある
        場合は「○○の字を取り消してパス」のスタンプか、ある
        いは「全文取り消し」のスタンプを押す。[1,p54]

     電信局は国民党政府に管理されているので、外国人記者たち
    は国際宣伝処の検閲を通った記事しか本国に打電できなかった
    のである。

■6.「竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて」■

     国際宣伝処に「そうとうに打ち解けた感情」を持った記者の
    一人が上述のダーディンであった。薫顕光は次のように記して
    いる。

         11月19日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、
        現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者で
        ある竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んでき
        て、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースをもってき
        た。その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離
        れて漢口へ行くようにという命令を受け、蒋委員長は私と
        曽虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが、突
        然、蒋委員長から、竇奠安(ダーディン)に渡して『ニュ
        ーヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳して
        ほしいという要請があった。[1,p42]

     ダーディンは薫顕光のオフィスに駆け込んできたり、蒋介石
    から直接指名を受けるなど、いかにも緊密な連携関係であった
    事が窺える。

     ダーディンは南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出し
    たのだが、その際に冒頭の記事を書いた。いかにも自らの実体
    験のような描写であるが、よく読むとこの部分は「殺されたよ
    うだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と、伝聞を書い
    ているに過ぎない。

     実はダーディンのこの記事は、南京大学教授で著名な宣教師
    だったマイナー・ベイツが書いてダーディンらに送ったレポー
    トを下敷きにしたものである。ベイツは中華民国政府顧問だっ
    た。

■7.ベイツのレポートを下敷きにしたダーディンの記事■

     ベイツのレポートと、ダーディンの記事を比べてみよう。

    ベイツ: 恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてか
            ら路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺さ
            れたようです。

    ダーディン: 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れて
            から・・・巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも
            射殺されるおそれがあった。

    ベイツ: 市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民
            の死体が多数ころがっていたと報告・・・

    ダーディン: 市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの
            通りでも民間人の死体を目にした。

     ダーディンの記事がベイツのレポートを下敷きにしている事
    は、一目瞭然であろう。そのベイツのレポートも、「即座に殺
    されたようです」「死体が多数ころがっていたと報告」と伝聞
    体でしか、記述していない。

     もしベイツやダーディンが実際に市民が虐殺される様を見て
    いたら、間違いなく自ら見た事実をそのままに伝えていただろ
    う。しかし、実際に陥落後の南京にいたベイツもダーディンも
    伝聞でしか、書けなかったのである。

■8.「お金を使って頼んで本を書いてもらい」■

     ベイツは中華民国政府の顧問であり、薫顕光とも交友があっ
    た。薫顕光の宣伝に協力して、ダーディンらに記事を書かせよ
    うと、このレポートを送ったのである。

     ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に
    出版された『戦争とは何か −中国における日本軍の暴虐』に
    も掲載された。『工作概要』には、中央宣伝部がこの本を対敵
    宣伝物として出版したという記述がある。

     この本の編者は、英国『マンチェスター・ガーディアン』紙
    中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者であったが、戦後出版
    された『曽虚白自伝』では、中央宣伝部がティンパーリ記者に
    「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」
    したという証言が記されている。[b]

     この本は、現在でも「南京大虐殺」を主張する人々が典拠と
    しており、70年近くもプロパガンダとしての影響力を発揮し
    ている。

■9.ベイツへの二つの勲章■

     東京裁判で「南京大虐殺」が裁かれた時、3人の欧米人が証
    人として出廷した。ウィルソン医師は「2万人からの男女子供
    が殴殺された」と述べたが、実際に彼が見たのは病院内の患者
    だけで、「2万人殴殺」の確証は示せなかった。マギー師も日
    本軍の殺人、強姦、略奪を証言したが、自分自身ではどれだけ
    見たのか、と反問されると、「ただ僅か一人の事件だけは自分
    で目撃しました」と述べたに留まった。

     もう一人の証人がベイツであった。ベイツは4万人の不法殺
    害を証言したが、それはベイツ自身がレポートに書いた内容と
    同じであった。しかし、彼は自分が中華民国のアドバイサーで
    あったことも、ダーディンらにレポートを送ったことも、そし
    て『戦争とは何か』の分担執筆者であったことも秘密にしてい
    た。

     一方、「南京事件」を世界に告発したダーディンやティンパ
    ーリは、東京裁判に出廷しなかった。出廷して反対尋問を受け
    たら、彼らの記事が何らの事実に基づいていないことが露見し
    てしまう恐れがあったからであろう。

     ベイツは1938年と1946年、「日本との戦争中の人道的奉仕」
    に対して中華民国政府から勲章を授与された。1938(昭和13)
    年は、ベイツが分担執筆した『戦争とは何か』が中央宣伝部か
    ら出版された年でであった。1946(昭和21)年は、ベイツが東
    京裁判に出廷して「日本軍4万人不法殺害」を証言した年であっ
    た。

     その後、中共政府は被害者数を30万人にまで膨らませて、
    プロパガンダとして使い続けている。「南京事件」は戦時プロ
    パガンダとしては、史上最高の傑作であった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(079) 事実と論理の力
    南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。 
b. JOG(229) 国際プロパガンダの研究
    文書偽造から、外国人記者の活用まで、プロパガンダ先進国
   ・中国に学ぶ先端手法。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』★★、
   草思社、H18

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