[トップページ][平成19年一覧][地球史探訪][210.4 キリシタン宣教師の野望]
■■ Japan On the Globe(498)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪: 冷戦、信長 対 キリシタン(下) 〜 信長の反撃 信長の誇示する軍事力を見て、宣教師たちは 日本の植民地化を諦めた。 ■転送歓迎■ H19.05.27 ■ 34,326 Copies ■ 2,500,728 Views■ ■1.信長の富国強兵策■ ポルトガル・スペインが、マカオやフィリピンを植民地化し、 なおかつ宣教師たちが九州のキリシタン大名を交易や軍事援助 を通じて後押ししている様を見れば、彼らの最終的な狙いが日 本の植民地化にあることを信長は見通していたであろう。天下 統一を進める信長にとって、思わぬ伏兵がいたのである。彼ら の布教を許したことを「我一生の不覚也」と言ったのは、この 故であった。 しかし、そこは天才・信長。宣教師たちの野望を打ち砕くた めの反撃を展開した。それは現代流に言えば富国強兵策であっ た。 当時、各地を支配する領主や貴族、寺社は、自領内において 商工業に携わる者には同業組合として「座」を組織させ、その 独占を認める代わりに、多額の上納金を徴収していた。また、 領内に多くの関所を設けて、物資の流通や人の往来に「関銭」 を課していた。たとえば琵琶湖から京都、大坂の淀川沿いのル ートには6百カ所以上もの関所があったという。 そこで信長は、こうした「座」や「関所」を撤廃し、自由競 争と効率的な流通を促進することによって、商工業の発展を加 速するという経済改革を断行した。特に「楽市楽座令」では、 低額の税金を払えば、誰でも一定区域内で自由に商工業を営め るようにしたため、多くの優れた商工業者が信長の勢力圏に集 まり、経済が急速に発展した。 この「楽市楽座」制は当時、ヨーロッパ各地で行われていた 商工業・交易流通振興策によく似ており、信長が宣教師たちか ら仕入れた知識を活用したものではないか、という説がある。 ■2.壮麗なる都市・安土■ 特に信長が本拠地とした安土城の城下町では、税金課役の免 除、往来の安全の保証など、様々な特典を与えたので、全国各 地から商工業者が集まって大変な賑わいを見せた。 信長の政策を目の当たりにした宣教師フロイスは著書『日本 史』において、次のように記している。 信長はあらゆる賦課、関銭や通行税を廃止し、おおいな る寛大さで、すべてに自由を与えた。この好意は民衆の支 持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主 君にもつことを喜んだ。・・・ 信長は安土に一つの城と新しい町を建設したが、その規 模は日本最大のもので、位置の優れていること、住民が立 派であること、建築の壮大であること比類がない。一般住 民の住む山麓の町は、長さ5.5キロメートルに及び、道 路は広くまっすぐについていて町に美観を添え、5、6千 人の住民がある。安土から京都までの77キロメートルの 間は、平坦な道が作られ、道路の両側に木を植え、川には 非常に大きな橋が架けられた。 信長は交易の振興策として、道路の拡張整備にも力を注いだ。 これは軍隊の移動や軍需物資の運搬を効率化する軍事戦略でも あった。 ■3.ヨーロッパを抜いた鉄砲技術■ こうした「富国」政策からあがる潤沢な税収を用いて、信長 は「強兵」政策を実行した。その第一は、常時、戦闘可能な職 業軍人集団による「常備軍」を創設したことである。 従来の戦国大名は農民を兵員としていたため、農繁期には戦 いが出来なかった。そこで信長は農民と兵員を完全に分けて、 常時戦闘ができる軍隊を作った。そして専業の職業軍人たちに は、高度な武器を操るための訓練を施した。 第2は新兵器の採用である。ポルトガル人が日本に火縄銃を 伝えたのは、天文12(1543)年だったが、それからわずか6年 後には信長は鉄砲5百挺を、近江の鉄砲鍛冶屋に生産させいる。 しかも、銃の性能自体も格段に改良させた。ポルトガルの火 縄銃は雨に弱いという欠陥があったが、雨よけの付属装置が考 案されて、雨中でも射撃できるようになっていた。 また弾丸の威力を増すために口径が広げられ、引き金の機構 を改良して、弾丸が発射されるまでの時間が短縮された。これ により、騎馬武者など高速に移動する対象への命中率も向上し た。 命中精度も改善され、1580年代に信長が使用していた鉄砲は 100メートル以上の命中距離を誇っていた。ヨーロッパでは 半世紀後の30年戦争で用いられていた小銃の命中距離は50 メートルほどに過ぎなかった。 装備された鉄砲の数も、ヨーロッパとは桁違いだった。天正 3(1575)年に武田軍の騎馬武者隊を撃破した鉄砲隊は、3千挺 もの規模だった。この12年後にフランスのアンリ4世の軍隊 が持っていたのは、25名の鉄砲隊と300名のピストル隊の みであった。 しかも、鉄砲隊が3交替で次々と一斉射撃を行う戦法を開発 した。この一斉射撃法がヨーロッパで広く普及したのは、長篠 の戦いから半世紀も後のことであった。 ■4.宣教師を驚嘆させた鉄製軍艦■ 天正6(1578)年には、信長軍は大阪の石山本願寺を海上封鎖 したが、その救援に来た毛利水軍を、大砲を搭載した鉄製軍艦 6艘で打ち破った。これは約2年間の研究開発の結果、建造さ れたもので、全長26メートル、幅13メートル、海面からの 高さ5メートルの軍船であった。船腹から甲板上の矢倉まで鉄 板で装甲し、3門の大砲と、多数の大型鉄砲を備えていた。 この鉄製軍艦を見た宣教師オルガンチーノは驚嘆して、つぎ のような報告書をポルトガル本国に送っている。 この船は、信長が伊勢の国で建造させた日本国中でもっ とも大きく、また華麗な船で、わが王国ポルトガルの船に 似ている。私も行って実際に見てみたが、日本でこれほど の船を造るということに驚いた。・・・ 船には大砲が3門、搭載されていたが、これを何処から 持ってきたのか、想像がつかない。というのは、われわれ がこれまでに確認したところでは、日本では豊後の王(大 友氏)が鋳造させた数門の小さな砲を除いて他に大砲はな いはずだからである。私は実際に行って、この大砲と仕掛 けを見てきたが、船にはその他に、精巧な大型の長銃が無 数に装備されていた。 ヨーロッパにおいて鉄製の軍艦が初めて出現したのは、この 120年後であった。 信長は「石山本願寺の戦い」に勝利して手に入れた大坂を 「国際貿易港」とすることを構想した。そこに強大な海軍を作 り、その武力を背景に国際貿易を発展させようとしていた。こ れまた、スペインやポルトガルへの対抗策であった。 ■5.信長のデモンストレーション■ 天正9(1580)年7月、信長は正親町(おおぎまち)天皇の勅 命をもって石山本願寺の平定に成功すると、翌年2月には畿内 および近隣の大名と武将を京都に招集し、駿馬を揃えて、天皇 のご臨席のもとに「馬揃えの儀(天覧観兵式)を盛大に挙行し た。 これは中世ヨーロッパの騎士団が国王を歓待するための行事 を日本流にアレンジしたものであった。この儀式には巡察使ヴァ リニャーノやフロイスなどの宣教師たちも招待されていた。こ の儀式は、天皇のもとで国家統一が進み、強力な「国軍」が誕 生しつつあることを、彼らに強く印象づけるデモンストレーショ ンでもあった。 同年夏には、ヴァリニャーノを安土城に招待した。夜になっ て、安土城下の家臣や民衆を総動員して、盛大な盂蘭盆(うら ぼん)行事を挙行した。安土城の天守閣や山腹のお寺に無数の 提灯を吊り下げ、堀には松明を掲げた多数の船が浮かんだ。提 灯や松明の火が空に照り映えて、琵琶湖の水面にも映り、ひと きわ美しい眺めであった。さすがのヴァリニャーノも深く感嘆 した、とフロイスの『日本史』に記されている。 信長は、自らの号令一下で、これだけの壮大な文化行事を遂 行できる民度の高い共同体を、キリスト教で切り崩せるか、と ヴァリニャーノに問いかけたのであろう。 ■6.信長の支那征服策■ フロイスの『日本史』によると、天正10(1582)年、 信長は、事実行われたように、都に赴(おもむ)くこと を決め、同所から堺に前進し、毛利を平定し、日本66カ 国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を派遣して支那を 征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであっ た。 ポルトガルはかねてよりマカオを拠点として、当時弱体化し つつあった明を植民地化する計画を持っていた。信長は、その ようなポルトガルの野望を見通していただろう。もし、ポルト ガルが中国を征服したら、その富と人民を使って、次には日本 を狙ってくる。座して第二の元寇を待つよりは、先手をとって 明を征服してしまおう、というのは、軍事戦略としても合理的 な発想である。 交易面においても、当時はポルトガルやスペインの船がヨー ロッパやアジアの物産を持ち込み、日本で漆器、刀剣、海産物、 銀などと交換するという一方的なものであった。彼らはそこか ら上がる独占的な利益を使って、日本での布教活動を推進し、 キリシタン大名への後押しを行い、最終的には日本の植民地化 を狙っていた。 「楽市楽座」という優れた商工業振興策による税収で全国統一 事業を進めていた信長である。日本から積極的に海外貿易に乗 り出して、ポルトガル・スペインの利益独占を突き崩すことは、 彼らの日本植民地化の野望を阻止することにもつながると考え たとしても不思議ではない。 信長が宣教師たちに「支那征服」の意思をもらしたのは、ポ ルトガル・スペインに対して、いよいよ攻勢に出るぞ、という 宣戦布告であった。 ■7.「日本は征服が可能な国土ではない」■ 信長が支那征服の意思を表明した数ヶ月後、大村純忠・大友 宗麟・有馬晴信の少年使節を率いて、マカオに滞在していた巡 察使ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督あての手紙 で次のように記している。 日本は何らかの服従事業を企てる対象としては不向きで ある。何故なら、国民は非常に勇敢で、しかもたえず軍事 訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからで ある。 すでに占領したフィリピンやマカオとは違って、当時のヨー ロッパよりはるかに進んだ銃砲や鉄製軍艦を誇示する信長軍の 偉容に、武力では到底、この国を植民地化することはできない、 とヴァリニャーノは判断せざるをえなかった。 一時は、キリスト教の広がりに危機感を覚えて、今までのキ リシタン保護政策を「我一生の不覚也」と後悔した信長であっ たが、富国強兵策を徹底し、強力な軍事力をアピールすること で、彼らとの冷戦に勝利したのである。 ■8.豊臣、徳川に引き継がれた冷戦■ この手紙には、次のような続きが述べられている。 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思ってい ることのために、日本は時とともに、非常に益することに なるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペ イン国王による明の植民地化である。日本を植民地化する事は 諦めるが、今度は支那征服のために、キリシタン大名の軍事力 を使おう、というしたたかな戦略である。 天正10(1582)年、信長が本能寺の変で倒れると、キリシタ ンとの冷戦は、秀吉に引き継がれた。秀吉はスペイン・ポルト ガルの支那植民地化計画に対して、当初は日本から兵を送るか ら、共同で取り組もうと申し出たりしたが、相手側の警戒で実 現しなかった。その結果、単独で支那征服に乗り出したのが、 後の文禄・慶長の役での朝鮮出兵であった。 さらに秀吉は九州平定の途上、宣教師たちがキリシタン大名 を通じて、神社仏閣を破壊し、領民に信仰を強制し、かつその 一部を奴隷として海外に売りさばいたりしている実態を知って 激怒した。天正15(1587)年に中国・九州平定が完了すると、 直ちに「宣教師追放令」を出し、軍事要塞化されつつあった長 崎を直轄地とした。これによって、宣教師たちの40余年に及 ぶ日本植民地化の工作は水泡に帰したのであった。[a] 秀吉の後を継いだ徳川幕府も、寛永14(1637)年から翌年に かけてのキリシタン勢力による島原の乱[b]をようやく平定し た後、寛永16(1639)年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。こ れは「鎖国体制」と言うより、キリスト教布教をテコとして植 民地化を狙うポルトガル・スペイン勢力との絶縁、と言うべき だろう。宗教を押し売りしないオランダとの交易は続けていた のであるから。 ■9.信長・秀吉・家康の功績■ こうしてキリスト教布教をテコとして、日本の植民地化を狙っ たポルトガルの野望は、信長・秀吉・家康の3人によって阻止 された。この国家的危機に際して、これらの英邁な武将が国家 統一事業を成し遂げた事は、まことに幸運であった。 それ以前の戦国時代のように、群雄割拠のままであったら、 宣教師から軍事的・経済的な後押しを得たキリシタン大名が天 下統一を遂げた可能性もある。そうなると、彼らは自領で行っ たように、日本全国で神社仏閣を破壊し、抵抗する神官僧侶を 殺害し、キリスト教を全国民に強制したであろう。皇室も廃絶 されていたろう。 その結果、わが民族固有の言語も文化もほとんど忘れ去られ ていたであろう。メキシコやフィリピンのように。[c] (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(154) キリシタン宣教師の野望 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす ることを、神への奉仕と考えた。 b. JOG(435) 島原の乱 〜 持ち込まれた宗教戦争の種子 欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、日本の地で芽 を出した。 c. JOG(003) 悲しいメキシコ人 日本がスペイン領になっていたら ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 椛島有三『織田信長の国家戦略』★★★、明成社、H17 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「冷戦、信長 対 キリシタン(下)」に寄せられたおたより 嘉明さんより 前号末尾の「その結果、わが民族固有の言語も文化もほとん ど忘れ去られていたであろう。メキシコやフィリピンのように」 は当に小生の感想そのものでもあります。 小生は現在69才の老エンジニア、98年1月からほぼ10 年近くフィリピンに駐在しております。 フィリピン在留日本人が勝手に「フィリピンの東大」と呼ん でいるUP(University of Philippines)の教授が書いた歴 史教科書の出だしは「1521年7月21日、マゼラン セブ 島に到着。この日、フィリピンの歴史始まる」です。それ以前 については何の記述もありません。あたかもこの教授は自分の 祖先がスペインから来てこの国を作ったと思い込んでいるよう です。当にこれこそスペイン支配350年の賜物です。 ■ 編集長・伊勢雅臣より まるで、アメリカ人が先住民族の歴史を無視するような書き ぶりですね。© 平成19年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.