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■■ Japan On the Globe(532)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

       地球史探訪: 天才・ユダヤと達人・日本(下)
                     〜 助け合うアウトサイダー
                 人種差別の横行する国際情勢の中で、ユダヤ人
                と日本人は助け合って、危機を乗り越えた。
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■1.非キリスト教、非白人の競争者■

     ユダヤ人と日本人が西洋文明のアウトサイダーでありながら、
    驚くべき成功を収めると、西洋人は憎悪と恐怖を抱くようになっ
    た。両民族がキリスト教徒でないこと、そしてヨーロッパ人種
    でないことの2点が、それに拍車をかけた。

         長い間道徳とキリスト教が同義だった西洋人にとって、
        非キリスト教であるユダヤ人と日本人は不道徳な敵と写っ
        た。・・・異教徒が良きキリスト教徒を凌駕するには不正
        しかないというのが一般的な前提だったから。ユダヤ人と
        日本人が財産を築いた場合には、不適当ないし違法な商習
        慣によるものだと信じられた。[1,p101]

         ユダヤ人と日本人がよそ者扱いされた最大の理由は、彼
        らがヨーロッパ人種とは違う、劣等人種に属すると考えら
        れたからだった。人種差別主義は19世紀に一般化し、一
        見すると科学的、生物学的な事実がその根拠とされた。当
        時の人種差別主義の考えかたにしたがえば、西洋文明はア
        ーリア人種による業績であり、アーリア人は他のあらゆる
        人種よりすぐれていた。セム族や東洋人種が西洋世界に入っ
        てアーリア人と競い合い、伝統的に白人種のために確保さ
        れてきた諸分野でこれを凌駕していこうなどということは、
        西洋文明を危険に陥れるものとみなされた。[1,p102]

     人種差別主義者は、西洋文明が外からは得体の知れない日本
    人によって、また内からは狡猾なユダヤ人によって、二重の攻
    撃を受けていると主張するようになった。

■2.日清戦争で日本を助けたマーカス・サミュエル■

     19世紀末には、ヨーロッパ全土が反ユダヤ主義の波に覆わ
    れていた。フランスでは金融恐慌が起こり、金融界を牛耳るユ
    ダヤ人への憎悪が高まっていたのを背景にドレフュス事件が起
    こった。ユダヤ人砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスが、ドイ
    ツに通牒したという冤罪事件である。

     またオーストリアでも、後にヒトラーに影響を与えた反ユダ
    ヤ主義者カール・ルエガーが皇帝の不認可にも関わらず、何度
    もウィーン市長に再選されていた。

     同時期に勃発した日清戦争は、世界に成功者としての日本を
    印象づけ、その成功に対する妬みと警戒をもたらした。ドイツ
    皇帝ヴィルヘルム2世は従兄弟にあたるニコライ2世への書簡
    で初めて「黄禍」という言葉を使い、黄色人種による西欧文明
    への脅威を警告した。

     この日清戦争の際に、一人のユダヤ人が日本に重大な貢献を
    している。今日の巨大石油資本の一つであるロイヤル・ダッチ
    ・シェルのルーツであるシェル社を創設したイギリス系ユダヤ
    人マーカス・サミュエルである。

     ロンドンの貧しい行商人の子として生まれたマーカス・サミュ
    エルは明治5(1872)年、16歳の時にたった5ポンドを手に横
    浜港に降り立った。そして日本の貝殻でボタンや小物玩具を作っ
    てイギリスに輸出して成功する。「シェル」とは日本の貝殻な
    のである。貿易商として成功した後、サミュエルはインドネシ
    アでの油田開拓に成功した。

     サミュエルは明治27(1894)年から翌年にかけての日清戦争
    で、食料・軍需物資の調達・輸送で日本軍を支援した。明治
    30(1897)年に日本政府が銀本位制から金本位制に転換する際
    にも、日本国債を売って、資金調達に助力してくれた。これら
    の功績によって、サミュエルは明治天皇から旭日大綬賞を授け
    られている。

     明治30(1897)年には横浜元町でシェル社を設立し、これが
    後にロイヤル・ダッチ社と合併して、ロイヤル・ダッチ・シェ
    ルが成立するのである。

     サミュエルは明治35(1902)年にイギリスに戻り、ロンドン
    市長となっているが、この年に結ばれた日英同盟にも陰で尽力
    してくれたのではないか、と推測する向きももある。[2,p239]

■3.日露戦争の資金調達を支援したジェイコブ・H・シフ■

     ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から「黄禍」の手紙を受け取っ
    たロシア皇帝ニコライ2世も、ユダヤ人・日本人憎悪の代表的
    人物であった。国内の革命不安の元凶としてユダヤ人を非難し、
    ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐待・虐殺を黙認した。

     同時に日本人を憎悪し、ユダヤ人の蔑称である「ツィード」
    を日本人にまで使っていた。日本人を悪魔の民族と見なし、ロ
    シアはなんとしても日本が世界の強国になるのを阻止しなけれ
    ばならない、と考えるようになった。日本人をサル呼ばわりし、
    日本と戦って短期間で勝利すれば、国内の政情不安を抑えるこ
    とになる、とも主張した。

     実際に、日清戦争で勝利した日本に対して、ロシアはドイツ
    ・フランスとともに三国干渉を行って、遼東半島割譲に横やり
    を入れ、その後、半島南端の旅順・大連の租借に成功する。
    1900年には全満洲を占領し、1903年には韓国領の竜岩浦(鴨緑
    江河口)を軍事占領し、要塞化を進めた。

     朝鮮半島までロシア領にされては、日本の独立維持は不可能
    と、ついに日本はロシアに宣戦布告したのだが、ここでもユダ
    ヤ資本が日本を助けてくれた。米国のユダヤ人社会の指導者に
    してアメリカ最大の投資企業の一つであるクーン=ロエプ商会
    代表ジェイコブ・H・シフであった。シフは、ロシアにおける
    ユダヤ人虐待・虐殺に激怒しており、同胞を助けたいと、日本
    の支援に立ち上がったのだった。

     日本政府は欧米での戦争債起債で戦費を調達したのだが、シ
    フは自ら多額の購入をするとともに、他の米国銀行にも掛け合っ
    て、その販売を助けてくれた。シフの協力がなければ、日本は
    資金的に行き詰まり、日露戦争の帰趨もどうなっていたか分か
    らない。[a]

     日露戦争勝利の翌年、明治39(1906)年にシフは日本を訪れ、
    明治天皇から旭日章を授与された。外国人で旭日章を授与され
    たのはシフが最初である。その後、日本銀行が後楽園で歓迎会
    を開くなど、朝野の大歓迎を受けた。
    
■4.「イスラエル国軍の父」■

     後に「イスラエル国軍の父」と呼ばれるヨセフ・トルンペル
    ドールは、日露戦争の際にロシア軍の捕虜として大阪に収容さ
    れ、そこでユダヤ人としての自覚に目覚めた人物である。

     トルンペルドールは当初はロシア社会に溶け込もうとしてい
    た。医者になろうとしたが、ロシア社会での差別のために歯医
    者にしかなれなかった。

     24歳の時に日露戦争が勃発。トルンペルドールは志願して
    ロシア軍に入った。軍隊の中でも差別はあったが、ユダヤ人で
    もロシア兵として立派に戦えることを示すために、必死に戦っ
    た。1904年の旅順での戦いの折、日本軍の砲撃により左手を失
    うが、片腕でも戦えると戦列復帰を願い出た。

     翌年1月、旅順陥落とともに日本軍の捕虜となり、2万8千
    人のロシア兵捕虜とともに大阪の高石市にある収容所に移され
    た。トルンペルドールは所内で新聞発行を許され、「大国ロシ
    アを負かした日本とはどんな国なのか」と興味を持ち、数カ月
    で日本語を習得した。日本の軍政や国民の識字率の高さに驚き、
    敵国捕虜を手厚く待遇する武士道精神に感銘を受けたという。

■5.ユダヤ人としての覚醒■

     収容所には500人のユダヤ人同胞がいた。ここではロシア
    社会とは違って、自由にユダヤ教の礼拝を行い、ユダヤの習慣
    を守って暮らしていくことが許されていた。

     この経験を通じて、トルンペルドールの中に、自分がユダヤ
    人である、との自覚が芽生えた。1年後、帰還を許されたトル
    ンペルドールは建国前のイスラエルの地に移り住んだ。そこで
    は世界各地からやってきたユダヤ人が、いくつもの小さな集落
    を作って暮らしていたが、周辺のアラブ人からの攻撃を頻繁に
    受けていた。

     トルンペルドールはロシア軍での経験を生かして、ユダヤ人
    の軍隊を組織する。2千年前にローマ軍に滅ぼされて以来、初
    めてユダヤ人が持つ軍隊であった。トルンペルドールは北辺の
    集落に住み、アラブと戦ったが、1920年10月、ついに戦死す
    る。

     このトルンペルドールの死が、世界各地のイスラエル建国運
    動に火をつけたのである。
    
■6.ユダヤ人排斥を非難した日本■

     1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来、極端な反ユダ
    ヤ政策により、大量のユダヤ人難民がヨーロッパで発生するよ
    うになった。ユダヤ人に同情的だった英米ですら、進んでその
    難民を受け入れようとはしなかった。

     一方、日本も大恐慌以来、英連邦、アメリカ、オランダなど
    の輸出市場から閉め出され、さらには中国での日貨排斥によっ
    て、経済的に苦境に陥っていた。[b]

     自ら国際社会での人種差別に苦しめられ、人種平等を唱えて
    いた日本人[c]にとって、ユダヤ人に対する迫害は、他人事で
    はなかった。

     昭和13(1938)年3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ
    人約2万人が、シベリアを列車で横断し、満洲国への入国を求
    めてきた。ハルピン特務機関長・樋口季一郎少将はこれを許し
    た。難民の大半は大連、上海を経由してアメリカに逃れたが、
    約4千人は開拓農民としてハルピン奥地に入植した。ドイツは
    同盟国として強硬な抗議をしてきたが、樋口少将は、ユダヤ人
    迫害は「人倫の道にそむくもの」としてはねつけた。[d,e]

     この年の11月7日、ユダヤ系ポーランド青年がパリのドイ
    ツ大使館書記官を暗殺した報復として、ドイツ全土のほとんど
    のユダヤ教会堂が焼き討ちや打ち壊しにあい、7千5百のユダ
    ヤ商店が破壊された。街路が打ち壊されたガラスの破片で覆わ
    れたので「水晶の夜」と呼ばれる。2万6千人のユダヤ人が収
    容所に送られた。

     それから一ヶ月後の12月6日、日本政府は5相会議(首相、
    外相、蔵相、陸相、海相)にて「猶太(ユダヤ)人対策要綱」
    を決定した。ドイツのように極端なユダヤ人排斥は、日本が
    「多年主張し来たれる人種平等の精神に合致せざる」として、
    ユダヤ人を他国民と同様に公正に扱う、という方針を明確にし
    たのである。[f]

■7.ユダヤ難民を救った日本人たち■

     5相会議決定の根回しをしたのが、陸軍の安江仙弘(やすえ
    のりひろ)大佐であった。安江大佐は陸軍内随一のユダヤ問題
    の専門家として、ユダヤ難民保護を訴えていた。後には満洲国
    政府顧問、および満鉄総裁室付嘱託として、満洲・支那在住の
    ユダヤ人保護の活動を続けた。

     海軍においてのユダヤ問題専門家が犬塚惟重(これしげ)大
    佐だった。犬塚大佐は1939(昭和14)年夏から上海に赴任し、
    日本海軍が警備する虹口地区において、世界でただ一カ所ビザ
    なしでユダヤ難民を受け入れた。ここに1万8千人の難民が押
    し寄せ、以前から居住していた住人と含めて、3万人のユダヤ
    人が自由な生活を送ることができた。ドイツからは上海のユダ
    ヤ人を絶滅するよう働きかけがあったが、日本はそれを拒否し
    た。[g]

     安江大佐や犬塚大佐のユダヤ難民保護活動には、米国のユダ
    ヤ資本を通じて、米国との関係改善を図りたいとの思惑もあり、
    実際にその効果もあったが、惜しくも日米戦争の勃発により、
    その狙いは実現されることなく終わった。

     1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドから
    逃げ出したユダヤ難民の一部が、バルト海沿岸の小国リトアニ
    アの日本領事館に押し寄せた。リトアニアもソ連に併合され、
    ユダヤ人迫害が始まったので、日本経由でアメリカやイスラエ
    ルに逃れようとして、ビザを求めに来たのである。

     杉原千畝(ちうね)領事は、ここで6千人ものユダヤ難民に
    ビザを発給し、その生命を救った。またリトアニアだけでなく、
    ウィーン、プラハ、ストックホルムなどヨーロッパの12の都
    市の日本領事館で、ユダヤ難民向けにビザが発給されている。
    1940 (昭和15)年10月6日から、翌16年6月までの10
    ヶ月間だけで、1万5千人のユダヤ人が日本に渡った。[h,i]
    
■8.アウシュヴィッツと広島■

     第2次大戦において、ユダヤ人と日本人は、人類史上希に見
    る悲劇を経験した。ナチスによる約6百万人にもおよぶユダヤ
    人虐殺、および、広島・長崎での原爆攻撃である。

        ・・・アウシュヴィッツ(JOG注:ポーランドの都市、主に
        ガス室により150万人のユダヤ人が虐殺された)と広島
        の悲劇には類似点がいくつかある。どちらも先進技術が採
        用され、一般市民が無差別に殺された。どちらの場合にも、
        こうした恐るべき行為を犯すだけの差し迫った軍事的必要
        性はなかった。そしてどちらの場合も人種差別が前提にあ
        り、犠牲者が人間扱いされず、それがあのような大量抹殺
        を許すことにつながっていた。[1,p130]

     アウシュヴィッツと広島は、成功したアウトサイダー、ユダ
    ヤと日本に対する人種差別の頂点をなすものであった。

■9.天才・ユダヤと達人・日本の貢献■

     ユダヤ人と日本人は、第2次大戦におけるそれぞれの民族滅
    亡の危機を乗り越え、戦後は再び、繁栄を取り戻した。ユダヤ
    人はイスラエルの地にようやく自前の国家を持ち、日本人もか
    つては閉め出された国際貿易の舞台で、リーダー国の一つとし
    て活躍している。

     両民族は、それぞれの悲劇と成功を通じて、それまで自分た
    ちをアウトサイダーとしていた欧米の人種差別主義を打ち砕い
    た。今日の国際社会は、特定の民族をその人種的・文化的特性
    だけでアウトサイダー視するような風潮は影を潜めた。この点
    だけでも、両民族の人類文明への偉大な貢献である。

     その新しい国際社会の中でも、思想・学術・商業などの天才
    を持つユダヤ人と、さなざまな技術の達人・日本人が協力し合
    えば、地球環境危機や国際紛争など、人類を脅かす問題に対し
    ても、さらなる貢献が期待できよう。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(291) 高橋是清 〜 日露戦争を支えた外債募集
    莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、
   との使命を帯びて、是清は出発した。 
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon
b. JOG(486) 経済封鎖に挑んだ日本
    保護主義と植民地主義に屈することなく、戦前の日本は輸出
   市場を求めて苦闘を続けた。
c. JOG(053) 人種平等への戦い
    虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言
   に耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本で 
   ある。
d. JOG(085) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)
    人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に
   同調しなかった。 
e. JOG(086) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(下)
    救われたユダヤ人達は、恩返しに立ち上がった。 
f. JOG(257)  大日本帝国のユダヤ難民救出 
    人種平等の精神を国是とする大日本帝国が、ユダヤ難民救出
   に立ち上がった。 
g. JOG(260) ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐
    日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だっ
   た。
h. JOG(021) 命のビザ
    6千人のユダヤ人を救った日本人外交官 
i. JOG(138) 届かなかった手紙 〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜
    世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと
   文明国だということを知らせましょう。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ベン=アミー・シロニー『ユダヤ人と日本人の不思議な関係』★★★、
  成甲書房、H16 
2. エリ=エリヤフ・コーヘン、藤井厳喜『ユダヤ人に学ぶ日本の品格』★★、
   PHP研究所、 H19

 

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