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         人物探訪: 横井小楠 〜 明治維新の設計者
    
                 西洋列強が押し寄せる国難に際して、小楠は
                「無私の心」による国内団結を唱えた。
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■1.横井小楠が設計し、西郷が具現化した明治維新■

     勝海舟は、維新後にこんなことを言っていた。

         おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それ
        は、横井小楠(しょうなん)と西郷南洲(JOG注: 隆盛)
        とだ。[1,p81]

         横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまで
        だと心配していたに、果たして西郷は出て来たワイ。[1,p191]

     勝の見方によれば、明治維新は横井が設計し、西郷が実現し
    た、と言える。

     横井小楠は幕末に幕府方の中心人物であった越前福井藩主・
    松平慶永(よしなが、号は春嶽)のブレーンであり、最後の将
    軍・徳川慶喜もその説に感服していた。勝海舟も「自分は小楠
    の弟子である」とまで自称していた。

     一方、吉田松陰も小楠に敬服し、長州藩まで指導に来て欲し
    いと招請している。坂本龍馬も何度も横井を訪れて、その意見
    を聞いている。西郷は、横井の説を勝から聞いて、それをやり
    通さなければ相済まないと、大久保利通に書き送っている。明
    治に改まってからも、小楠は17歳の明治天皇に国政の理想を
    説いた。

     要は、幕末から明治維新にかけての中心人物たちが、幕府方
    と薩長方を問わず、誰もが師と仰いだ人物が小楠なのである。

■2.エリートコースからの転落■

     小楠とは後につけた号で、通称は平四郎といった。平四郎は
    文化6(1809)年に熊本・肥後藩士の次男として生まれ、10歳
    で藩校・時習館に入学すると、めきめきと頭角を現した。29
    歳には寮長として塾生を指導する立場に立った。

     31歳にして江戸遊学を認められた。幕府における学問の総
    元締め林大学頭(だいがくのかみ)に入門するとともに、尊皇
    攘夷思想のリーダーである水戸藩士・藤田東湖にも親しく教え
    を請うている。

     その藤田東湖が開いた忘年会の帰りに、泥酔した平四郎は一
    人の幕臣と口論になり、殴ってしまう。この事件を聞きつけた
    熊本藩の江戸留守居役は、平四郎を帰国させた。藩からは「つ
    まらない事件で有為の人物を処分するな」と言ってきたが、熊
    本藩内部では二つの派閥が勢力争いをしており、一方の家老か
    ら後押しされていた平四郎はそれに巻き込まれたのである。

     帰国した平四郎は自宅謹慎を命ぜられ、兄の家の6畳一室に
    閉じこもって、ひたすら学問に打ち込んだ。やがて志ある郷士
    や豪農の子弟が、小楠に学ぼうと出入りするようになった。

     門下生が増えると6畳では手狭であり、弟子たちは力を合わ
    せて、新しい塾を建ててくれた。この塾は「小楠堂」と名づけ
    られた。平四郎は尊皇に生涯を捧げた楠木正成[a]を尊敬して
    おり、それにあやかったのである。本稿でも、これからは小楠
    の号を使う。

■3.越前藩へ■
    
     嘉永4(1851)年2月、小楠は諸国遊歴の旅に出発した。すで
    に43歳となっていた。遊歴の許可を藩政府に願い出ると、二
    つ返事で許可が下りた。藩政に対してもなにか批判的な言辞を
    述べる要注意人物がしばらくでも旅にでることは、藩にとって
    も歓迎すべきことであった。

     小楠は、北九州、山陽道、大坂、大和、伊勢、さらには北陸
    まで足を伸ばし、各地で名高い人物と会った。

     特に福井には25日も滞在し、歓待を受けた。小楠堂には越
    前藩から来た武士も学んでいて、小楠の評判を国に伝えていた
    のである。滞在中は連日のように講義を求められ、それがさら
    に小楠の名声を高めた。

     福井からの帰路、琵琶湖西岸の小川村を訪ねた。小楠はかつ
    て陽明学者・熊沢蕃山の書から多くを学んだが、その蕃山の師
    が近江聖人と呼ばれた中江藤樹であり、この小川村には藤樹が
    書院を開いた跡があった。

    「国を治め天下を平らかにする」という政治の根本は、まず人
    間一人ひとりの心の中にある「まごころ」を磨くところから始
    めなければならないと説いた藤樹の教えは、村全体の空気に染
    みこんでいた[b]。日本全体をそのような道ある国にしたい、
    というのが、小楠の志だった。

     小楠を越前藩に招聘しようという案に藩主・松平慶永も乗り
    気になり、肥後藩主・細川斉護(なりもり)に、小楠借用を願
    い出た。松平慶永の妻は斉護の娘で、婿−舅(しゅうと)の関
    係である。しかし、肥後藩の重役たちは「藩の恥を晒(さら)
    すようなものだ」と聞き入れない。

     結局、慶永は斉護に二度も直接手紙を書き、斉護は「ここま
    で婿殿が思い込んでいるのだ」と重役たちの反対を押し切って、
    承諾させた。

     安政5(1858)年4月、小楠は福井に着き、50人扶持の待遇
    を受けて、越前藩の藩校での講義、および藩政改革の指導に当
    たることになった。

■4.藩を富ます■

     越前藩の藩政改革で、小楠がまず取り組んだのは、殖産興業
    によって藩を富ますことだった。従来の藩政改革は倹約一辺倒
    でやってきたが、倹約して得た資金を貿易や商品開発に注ぎ込
    んで、富を増やすことを説いた。

     藩士・三岡八郎(後の由利公正、五箇条のご誓文の起草に参
    画)を使って、名望のある商人を集めて物産商会所を作らせ、
    生糸、茶、麻などを扱わせた。そして農村での養蚕を奨励し、
    長崎のオランダ商館を通じて生糸を輸出した。3年後には、貿
    易高が3百万両にも達し、藩の金蔵には今まで見たこともない
    ほどの富が蓄えられた。

    「横井先生は、口舌の徒ではない。その説かれる教えは高邁だ
    が、さすが実学を旨とされるだけあって、藩を富ます術にも長
    けておいでだ」と、小楠の越前藩における名声は完全に確立さ
    れた。

     小楠が旨としていた「実学」とは、学者が世間を知らずに論
    語などの字句の研究に沈潜し、一方では政治家が学問を通じて
    自分の身を修めることをしない、という傾向を批判していた。
    これも中江藤樹の「学問とは人の生き方を正すものだ」という
    教えを継承する姿勢だった。
    
■5.「富国」「強兵」「士道」■

     安政7年春、松平慶永の跡を継いで新藩主となっていた松平
    茂昭(もちあき)が江戸からお国入りし、すぐに小楠に会いた
    いと言ってきた。茂昭は藩が豊かになったことへの礼を述べ、
    ついてはその使途について大綱を定めたいので、意見を聞きた
    い、と言った。小楠は感激して、すぐに筆をとり、『国是三論』
    と題した意見書をとりまとめた。

    『国是三論』は「富国」「強兵」「士道」の三つの柱から成り
    立っていた。

    「富国」は生産を奨励して、藩の財政も豊かにして税率を下げ
    る。藩民の暮らしを豊かにして、人の道を教える。

    「強兵」は、極東に押し寄せてきた西洋列強に対抗できる海軍
    を作る。日本海に面した越前藩も青少年を鍛え、船で他国と往
    来させて、外国の事情を見聞させる。

    「士道」は、人君は慈愛の心を持ち、家臣はその心を体して、
    人民を治める。その環境の中から、人材が次々と出てくる。

    「富国強兵」は西洋列強の侵略に備える策として、すでに多く
    の先人が唱えていたが、小楠はこれに「士道」を加え、この3
    つとも人材を育成輩出することを中心に置いた。この点でも、
    中江藤樹の志が受け継がれている。

     小楠の思想は、三岡八郎、後の由利公正が「五箇条のご誓文」
    を起草する際にも受け継がれた。「上下(しょうか)心を一
    (ひとつ)にして盛に経綸(けいりん、経済その他の活動)を
    行ふべし」「智識を世界に求め大に皇基(国家統治の基礎)を
    振起すべし」などの表現に窺われる。

■6.「幕府も朝廷も、私の心を捨てて」■

     文久2(1862)年、松平慶永は幕府から政事総裁職への就任を
    要請された。その前年、大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺
    され、幕政は混迷を極めていた。井伊直弼は朝廷の勅許を得ず
    に独断で日米修好通商条約を結び、また世に言う「安政の大獄」
    で反対する大名・公家・志士らを次々と処刑・弾圧した張本人
    であった。

     慶永は小楠を江戸に呼び寄せ、意見を求めた。小楠は政事総
    裁職を引き受けるべき、と主張し、実行すべき政策を『国是7
    カ条』として献策した。

     その第一条は「将軍は上洛して列世(歴代)の無礼を天皇に
    謝罪すること」であった。幕府も朝廷も、私の心を捨てて、公
    の心を持って議論を尽くし、日本の進路を決定しなければなら
    ない。そのために、まず天皇から大政を委任された幕府の方か
    ら、歴代の無礼をお詫びし、私心なき事を天下に示そうという
    のである。

     さらに、大名の参勤交代を大幅に縮小し、人質として江戸に
    置かせていた妻子を故国に帰らせること。これも大名たちに幕
    府の私心なき事を示すためである。あとは人材登用、公論の尊
    重、海軍増強、貿易振興など、『国是三論』に共通するもので
    あった。

     西洋列強がひたひたと押し寄せてくる国難に際して、国内の
    朝廷、幕府、諸大名などが互いに私心を持ったまま勢力争いを
    していては国家の独立を守れない。まずは幕府が私心無きこと
    を示して、朝廷や諸大名の力を統合していこうというのである。

     これを聞いて、慶永は「なるほど、これは天下の人心を一新
    するためにもそうとう効果のある政策かもしれない」と希望を
    抱き、政事総裁職就任を決意した。そして、この『国是7カ条』
    を就任の条件とするよう、将軍側近の大久保忠寛など要人の間
    で小楠に根回しをさせた。要人たちも小楠の説得を受け入れた。
    
■7.「大乱を未然に防ぐ」■

     慶永は政事総裁職に就任してから、早速、参勤交代の大幅縮
    小、大名の妻子帰国などを実現した。しかし「列世(歴代)の
    無礼を天皇に謝罪すること」には、幕府の首脳の中で反対意見
    が強かった。「将軍は天皇から政治の大権を委任されていて、
    その中には外交問題も入っているので、勅許を得ずに外国と条
    約を結んだからといって、無礼には当たらない」という論も起
    きる。幕府の面子をなんとか保とうという「私心」である。

     その中で将軍後見職・一橋慶喜(後に最後の将軍として大政
    奉還)が「小楠の意見を聞きたい」と言い出した。幕府首脳が
    ずらりと並んだ中で、小楠は語った。

         幕府が公武一和を標榜する以上、武家の頂点に立つ将軍
        が自ら勤皇の実をあげることが、徳川家が私心を去り、公
        の心を持ったということの証(あかし)になります。将軍
        にとってもお辛いこととは存じますが、この一事によって
        天下の人心が鎮まり、大乱を未然に防ぐことができます。
        [2,p245]

     幕府と朝廷が互いに争い、諸大名がこれに加われば、国内は
    内乱状態になる。西洋列強は当然、それぞれの後押しをして、
    介入してくる。そうなれば他のアジア諸国のように植民地化さ
    れることは目に見えている。「大乱」とはこうした事態を指す。

     慶喜が真っ先に「横井先生のご意見に感服した」と賛成する
    と、他の首脳たちは反対する気持ちを失った。
    
■8.「その時は、政権を朝廷にお返しすれば」■

     しかし、慶永には、もう一つ心配があった。将軍が上洛して
    今までの無礼を謝罪しても、朝廷があくまで「攘夷を実行せよ」
    と命じた時は、どうすべきか、という問題である。

    「その時は、政権を朝廷にお返しすればよろしゅうございましょ
    う」と小楠はこともなげに答えた。慶永は驚いた。

        (攘夷のような)できもしないことをできるかのように天
        下を偽ることは、私の心に通じます。できないことはあく
        までもできないと申し上げ、できないことをどうしてもや
        れと仰せられるのなら、政治の大権を朝廷にお返しして、
        朝廷の方で攘夷を実行していただければよろしいではござ
        いませんか。[2,p240]

     攘夷をできるかのように偽っているのも、政治の大権にしが
    みついていたいという幕府の私心である。それでは国内の公論
    を欺き時間稼ぎをしている間に、列強はひたひたと迫ってくる。

     小楠の説は、国家の独立を保つためには、国内が公論のもと
    で一致団結しなければならず、そのためにはそれぞれが「私心」
    を捨てて、ひたすら国全体のためにどうすべきか、と智慧を絞
    り、力を合わせなければならない、という一点にあった。

■9.「清冽な地下水のごとき伝統」■

     その後、多くの紆余曲折はあったが、慶喜が将軍を継ぎ、幕
    府が朝廷に恭順の意を示すことで内乱を最小限の規模に収め、
    また大政奉還によって、明治新政府が誕生した。大筋として、
    小楠の描いた筋書きに従って、わが国は一挙に新体制への一新
    を図り、その後は富国強兵に邁進して、独立維持に成功するの
    である。

     これも小楠の説くところに、松平慶永、一橋慶喜、勝海舟、
    坂本龍馬、西郷隆盛など、当時の中心人物が共感したからであ
    ろう。冒頭で述べたように、西郷も、小楠の説を勝海舟から聞
    いて、それをやり通さなければ相済まないと、大久保利通に書
    き送っている。

     なぜ小楠の説がこれほどの説得力を持ったのか。それはその
    根底に「国を思う無私の心」を置いたからだ、と思われる。

     小楠の敬愛する楠木正成も中江藤樹も、無私の心でひたすら
    に世のため国のために尽くした足跡を歴史に残した。その清冽
    な地下水のごとき伝統を掘り当て、幕末の国難の時期に噴き出
    させたのが小楠の功績であった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(264) 楠木正成 〜 花は桜木、人は武士
    その純粋な生き様は、武士の理想像として、長く日本人の心
   に生きつづけた。 
b. JOG(324) 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問
    馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひ
   たと琵琶湖沿岸から広がっていった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 徳永洋『横井小楠 維新の青写真を描いた男』★★★、
   新潮新書、H17
2. 童門冬二『慶喜を動かした男―小説 知の巨人・横井小楠』★★、
   祥伝社ノン・ポシェット、H10

 

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