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■ Japan On the Globe(640) ■ 国際派日本人養成講座 ■

      The Globe Now: しょうゆを世界の食卓に
             〜 国際派日本企業キッコーマンの歩み

              日本の食文化の中心であるしょうゆが
             100ヶ国以上で受け入れられた道のり。
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■1.世界に広がる日本食文化のフロント・ランナー

 日本食がグローバルに普及しつつある。1年に1回以上日本食を食べる「日本食人口」は6億人、海外での日本食レストランは2万4千店と推定されている。[1,p191]

 確かにアメリカでもヨーロッパでも、もちろんアジアでも、ちょっとした規模の都市なら、かならず日本食レストランがある。そして日本人ばかりでなく、現地の人々がビジネス街でのランチや、家族連れの夕食などで、日本食を手軽に楽しんでいる光景が見られる。

 日本食と言っても、スシ、天ぷら、すき焼きといった定番メニューばかりではない。牛丼の吉野屋は北京で92店舗、ロサンゼルスで75店舗など、海外で合計391店舗も展開している。

 こうした日本食の海外普及のフロント・ランナーが、しょうゆのトップメーカー、キッコーマンである。世界100ヶ国以上でしょうゆの販売を行い、世界シェアは実に50%[2]。平成19(2007)年3月期では、売上の約28%、営業利益の51%を海外で稼いでいる。[1,p15]


■2.戦前から海外進出

 キッコーマンの創業は、大正6(1927)年の野田醤油株式会社設立とされているが、それ以前から家業としてしょうゆを醸造していた期間を含めれば、3百年以上前の江戸時代に遡る。

 キッコーマンの社名は、野田醤油株式会社の前身の一つ、茂木佐平次家の商標「亀甲萬」に由来するが、これは香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされている。[2]

 同社の海外進出の歴史も古い。アメリカに初めて輸出したのが明治元(1968)年。この年に日本からの移民船が東京からハワイに向けて出発したが、しょうゆも同時に樽詰めで運ばれたのである。

 またアジアでの需要が高まるに連れて、生産拠点もソウルと仁川、満洲の奉天(瀋陽)、北京、シンガポール、クアラルンプール、インドネシアのメダンとシボルガと各地に設けられていった。

 昭和16(1941)年の大東亜戦争勃発により、アメリカ、ヨーロッパ方面への輸出がストップした。在米日系人たちはアメリカ国籍を持っていた人々も含めて、「敵性外国人」として収容所に強制収容されたが、しょうゆのない生活には耐えられず、国際赤十字に窮状を訴えた。この訴えを知ったキッコーマンは、中立国を経由して、しょうゆを贈った。

 強制収容所でのしょうゆの贈呈式の絵が残っている。「祖國日本より収容所同胞の皆様えの慰問品」と書かれた幕の前にキッコーマンしょうゆ3樽が積まれ、日系人の男女、子どもたちが、座して頭を垂れ、また手を合わせ、涙を拭いている[1,p18]。しょうゆはかくも日本人の食生活に欠かせないものであった。慰問品を送ったキッコーマンの「社徳」を感じさせる一幕である。

 敗戦後、キッコーマンの海外資産はすべて諸外国に没収され、しょうゆの海外進出は中断を余儀なくされた。


■3.アメリカのスーパー店頭での試食プロモーション

 しょうゆの輸出が再開されたのは、占領軍から許可がおりた昭和24(1949)年のことである。昭和32(1957)年には、サンフランシスコに販売会社を設立した。

 アメリカに着目したのは、戦後、アメリカから多くの軍人、官僚、ジャーナリストなどがやってきて、彼らが自国の料理にしょうゆを使い始めた事実があったからだ。アメリカ人の間にもしょうゆに対する潜在需要があり、それを掘り起こせば、アメリカ本土でもしょうゆを売れると考えたのである。この慧眼と決断、その後の粘り強い実行が、キッコーマンの海外事業を花開かせることになる。

 アメリカの市場開拓でもっとも効果があったのは、現代の日本でもおなじみの、スーパー店頭での試食だった。コンロで肉をしょうゆにつけて焼き、それを小さく切って爪楊枝に刺して、客に試食して貰う。以後、アメリカでは「テリヤキ」として一般的になった食べ方である。

 後にキッコーマンの海外進出の責任者となり、かつ社長、会長となる茂木友三郎氏も、コロンビア大学のビジネススクール在学中に、夏休みを利用して店頭プロモーションを手伝った。

 実際にやって見ると、客の反応は非常に良く、かなりの人がしょうゆを買ってくれた。東洋人に対する差別意識からか、白人の巨漢から「ふざけたことをやっているな」と怒鳴られたこともあったが、大部分の客は好意的だった。「これはいける」という手応えをつかんだ。

 数年のうちに、ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、アトランタに支店が作られ、全米でマーケティング活動が展開されるようになった。


■4.キッコーマンは北欧の会社?

 商品戦略としては「高品質、高価格主義」を掲げた。安い「化学しょうゆ」を売っていた競合メーカーもあったが、キッコーマンは本物の「醸造しょうゆ」にこだわった。中華料理の煮込みなどでは化学しょうゆでもごまかせるが、肉のテリヤキでは明らかに味が違う。テリヤキを通じて、アメリカ人は本物の醸造しょうゆの味を覚えていった。

 当時は「メイド・イン・ジャパン」というと「安かろう、悪かろう」というイメージがつきまとっていたが、「高品質、高価格主義」は、その逆を行くアプローチであった。

 テリヤキ以外にも、しょうゆの需要を開拓するために、ホームエコノミスト数名を雇って、しょうゆを使うアメリカ料理の開発を始めた。ホームエコノミストとは大学の家政学部を卒業した学士で、ほとんどが女性である。

 彼女らが開発したしょうゆ料理を、新聞の家庭欄に掲載し、料理本としてまとめ、また、小さなレシピブックとしてしょうゆ瓶につけた。こうして、多くのアメリカ家庭で、しょうゆが調味料として普及するようになっていった。

 マーケティングでは、あえて「日本製」を前面に打ち出すことをしなかった。あくまで、アメリカ市場では「アメリカのブランド」として定着させたかったからである。

 そのため、消費者のイメージ調査をすると、なぜかキッコーマンは北欧的なイメージを持たれていた。かつてフィンランドにケッコーネンという大統領がいたが、発音が似ていたかららしい。「ワシントン・ポスト」誌の記者が取材に来た時も、彼はキッコーマンが日本の会社とは知らなかった。

 日本に対する知識も関心もない一般の消費者が、高品質のしょうゆに慣れ親しみ、後にそれが日本企業の商品で、日本の食文化から来たものだと知ったら、日本人と日本文化に対して好ましいイメージを持つであろう。それは我が国の国益につながるのである。


■5.社運を賭けたアメリカ工場建設

 しかし、キッコーマンのしょうゆ輸出は、国内で話題になりこそすれ、高い輸送コストから慢性的な赤字体質だった。前述の茂木氏が中心となって、現地生産を進めることとした。

 まず昭和43(1968)年に、日本からコンテナでしょうゆを運び、サンフランシスコでびん詰めを始めた。これで赤字は阻止できる見込みがつき、さらにその後の需要の伸びから数年後には、最小規模の工場なら採算に乗ることが分かった。

 茂木氏は工場建設の案を策定し、取締役会にかけたが、3度目にしてようやくゴーサインが出た。当時のキッコーマンの資本金は36億円で、最小規模と言ってもアメリカ工場建設にはそれと同規模の投資が要る。まさに社運を賭けた大プロジェクトであった。

 工場は、周到な調査検討の結果、全米の物流の中心地であるシカゴから2時間ほどの距離にあるウィスコンシン州のウォルワースという小さな町にした。

 ところが地元住民が工場建設に対する反対運動を起こした。農地を工場に転用することに対して、住民たちは長年大切にしてきた自分たちの土地の素晴らしい自然環境が破壊されるのではないかと心配したのだった。

 自ら工場建設プロジェクトのコーディネータとなった茂木氏は、各種の住民の集会に出向いては、スライドを使って建設案の説明をした。一軒の家に近隣の2、3人に集まってもらって説明したこともあった。こうした地道な説得が奏効し、ついに町議会が建設を許可してくれた。


■6.「良き企業市民になる」

 この経験から、キッコーマンは海外での工場建設に際しては、進出した国での「良き企業市民になる」ことを重視した。

 15人ほど送り込んだ日本人駐在員はあえて分散して住まわせた。当初は困惑した社員もいたが、現地の人は親切で、ボランティアで英語を教えてくれる人もいた。「一生付き合えるアメリカ人の友人ができた」という社員もいた。ロータリークラブや地域のお祭りなども、積極的に参画した。

 野田氏自身も、工場ができて間もない頃、ウィスコンシン州の経済開発委員に任命された。後には、同州の名誉大使に任ぜられ、創業地である千葉県との姉妹関係締結を手伝った。

 安定した雇用を提供することも「良き企業市民」としての大事な役割である。従業員には「会社がピンチになっても、できるだけレイオフはしません。ピンチになった場合は、一律の賃金カットを実施します。それでも乗り切れない場合は、残念ながらレイオフします」と宣言した。

 幸いにも、その後、賃金カットをするような危機に直面したことはないが、「安定雇用」という日本的な考え方を導入したことが、現地でも評価され、入社希望者が多かった。


■7.各国の食文化、商習慣に適応しながら

 アメリカでの成功に続いて、欧州市場に挑戦した。アメリカほどしょうゆになじみのないヨーロッパでは、まず鉄板焼きなどのレストランを各地に開き、客の目の前でしょうゆを使いながら、宣伝に努めた。また各国の料理学校の先生と契約し、それぞれの国にあったレシピを開発してもらった。

 昭和54(1979)年にヨーロッパでの販売会社を設立。徐々にしょうゆの販売量が伸びたが、オランダ北部に工場が完成したのは、それから20年近く後の平成9(1997)年だった。食に保守的なヨーロッパでは、アメリカよりもはるかに長い時間がかかったが、息の長い営業活動を着実にやり遂げた事が奏功した。

 オーストラリアでは、バーベキューにしょうゆを使うという調理法が受けて、順調に売上が伸びた。昭和59(1984)年にはシンガポールに工場を建設し、オーストラリアとアジア各地にしょうゆを供給し始めた。

 平成2(1990)年には、台湾で最大の食品メーカー「統一企業公司」との合弁事業がスタートした。キッコーマンが生産を担当し、相手側が販売を担当するという分担で、両社のブランドでしょうゆを販売した。この合弁事業が台湾市場で成功したので、次に中国でも一緒に事業を展開した。平成14(2002)年には上海近郊に、合弁でしょうゆ工場を建設した。

 このように、同じくしょうゆを販売し、現地生産するといっても、世界各地の食文化や商習慣の違いがあり、それぞれにうまく適応しながら、各地への進出を進めてきた所に、キッコーマンの成功要因があった。


■8.己の「本分」を守ってこそ

 この「適応性」について、茂木氏は、著書の中で次のように述べている。[1,p141]

__________
 適応性は順応性と違う。順応性というのは、一応適応はするが元に戻らなくなってしまうことを指す。たとえば、アメリカに住んだらアメリカ人になってしまうということだ。適応性とは相手が変われば、それに応じて自分も柔軟に適応できる能力のことである。アメリカに住めばアメリカの文化に、ヨーロッパに行けばヨーロッパの文化に適応できる人でなければならない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 適応性ある人は自分自身の「本分」を守り、各国の環境に合わせて変えても良い所を変えながら適応していくが、順応性だけの人は自己の「本分」がないので、アメリカに行けば、すっかりアメリカ人になってしまう。それでは二流のアメリカ人となるだけで、アメリカにとっては存在意義がない。

 キッコーマンは、宣伝方法やレシピなどは各地の市場に合わせて変えているが、高品質の醸造しょうゆの供給、雇用の確保などは、変えてはいけない「本分」として守ってきた。

 このキッコーマンの「本分」とは、同社の3百年以上の歴史を通じて培われた伝統なのだろう。そうした確固とした「本分」を守ってきたからこそ、世界各地で存在意義を認められ、100ヶ国以上で受け入れられたのである。

 同社の経営方針に「地球社会にとって存在意義のある会社」という一項がある。グローバル化の時代にも、相手国に応じて変えるべき所は変えながら、己の「本分」を守ってこそ「存在意義」を認められる。これは日本国民にも日本国全体についても言えることである。

(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(574) 和食で作ろう、健やかニッポン
 ビタミン、ミネラルの豊富な和食が、現代病を克服し、心身の健康を作る


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 茂木友三郎『キッコーマンのグローバル経営―日本の食文化を世界に』★★★、生産性出版、H19

2. 「キッコーマン」、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■「しょうゆを世界の食卓に 〜 国際派日本企業キッコーマンの歩み」に寄せられたおたより

■直美さんより

 食生活の中では日本独特のもの、例えば寿司、ワサビ、大根、豆腐などが海外でもそのまま通用していますが,醤油と言えば「キッコーマン」と言われるほどその名も海外に広く通用しています。

 アメリカではそれこそ照り焼きステーキや照り焼きチキンに欠かせない味の醤油ですが、「隠し味を知ってるか? これはキッコーマンの醤油だよ」と言われて、「それは日本のメーカーで醤油は日本独特の味なんだよ」と言い返していいものかためらったことさえあります。

 世界にその名を広めたキッコーマンですが、そこまでの道のりはやはり関係者のたゆまぬ努力があったからなのですよね。豆腐を世界に広めた方も同じようなとても大変な努力の積み重ねの末ようやく日の目を見た話しも読みました。

 何事においてもそういう日々の途方もない時間と努力の現れ、結果としての現在があるのです。素晴らしきかな日本人!以前の小布施復興に力を注いでくれているセーラさんの話のような外国人の方たちの努力もですが、やはり日本人もいかに数知れず、人知れず絶え間ざる努力を重ねて世界へ日本の食を、味を広めている人たちがいるのは嬉しい限りです。こういう人たちの努力で日本にいる私たちも素晴らしい味を楽しめているのです。感謝!

 そして外国へ出掛ける時、醤油を持って出掛ける人も多いとか!またお土産にするのに醤油は実際とても実用的で喜ばれます。


■伸二さんより

 今回のキッコーマン醤油の先見性もある意味では資生堂の海外進出にも相似ているような気がします。1960年代に既に欧州に両者の製品があったからです。

 例えば醤油は日本からの一リットル缶が既にスイスの食料品店に置かれていました。私が、スイスに1967年に来ましたとき野田の本社に問い合わせたところ、スイスのルガノに代理店があり、そこで醤油を購入したことを覚えております。

 また、既にその時にはイタリアに資生堂の化粧品が売られていました。このように初めから商売として成り立たなくとも将来的な見地から地味で、辛抱強さと、忍耐が今日のキッコーマン、資生堂を世界的な企業にそだてあげたものだと思います。

■編集長・伊勢雅臣より

 自らのオリジナリティを以て、世界に広めようと努力するところに、日本人の開かれた国際性が見て取れます。
 

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