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_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (32) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成10年4月11日 2,373部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 人物探訪:現代青年の威厳−中田厚仁さん _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ 1.I am dying _/_/ 2.投票箱の中から感謝の手紙 _/_/ 3.僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない _/_/ 4.厚仁さんの示したもの _/_/ 5.なんであなたがいかなければならないの _/_/ 6.カンボジアからの遺族弔問 _/_/ 7.大会に参加できた喜びを今後の国造りに役立てたい _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.I am dying■ "I am dying"(私は死んでいきます)という荘重な言葉を最期に、 中田厚仁さんが、25年の短い生涯を終えたのは、今から5年前の 平成5年4月8日、場所はカンボジア、コンポトム州であった。中 田さんはUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)のボランティ アメンバーとして、総選挙実施の支援活動をしていた途中、何者か に、至近距離から2発撃たれ、一発の銃弾は左側の頭の後ろから左 目に貫通したのである。 20年もの内戦の続くカンボジアでようやく停戦合意が成立し、 総選挙を実施する事になった。中田さんは選挙について説明をする ため、各地を廻っていた。武装解除に応じないグループもあり、ま た国土には1000万発といわれる地雷が埋設されている。その中 でも最も危険なコンポトム州に自ら志願した。悪路に次ぐ悪路で、 車で行けなくなると、川に出てフェリーで行く。フェリーが駄目に なるとカヌーを漕いでいく。それでも行けなくなると、2時間以上 も泳いで村々を廻ったという。[1] ■2.投票箱の中から感謝の手紙■ 奇しくも中田さんの49日の法要と同じ日、5月23日に総選挙 が実施された。中田さんが担当した地域の投票率は99.99%、カンボ ジア全土の90%を遥かに超えていた。投票箱を開けてみると、投票 用紙の間から、手紙がいくつも出てきた。その一つはこう語ってい る。[1] 今まで民主主義とか人権とかいう言葉に触れることなく、一 生戦争のなかで、暮らさねばならないのか、と思っていたけれ ども、こうやって初めて自分たちの意思が表せる選挙ができ、 こんな嬉しい事はない。ありがとう。 ■3.僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない■ 厚仁さんは、昭和43年に生まれた。仁は慈しみを持って、人を 愛する心、そういう心の厚い人になって欲しいと両親は願って、 「厚仁」と名付けた。 商社マンだったお父さんとともに、小学校時代をポーランドで過 ごし、お父さんに連れられてアウシュビッツの収容所も訪れている。 そこで感じた事もあったのであろう。中学一年の時に「ポーランド の福祉」という文章を書いている。[1] 僕は今思います。ポーランドの人たちは、福祉というものを お金持ちが貧しい人に施しをするようなものだとは決して考え ていない事です。その考えの底に強く流れているものは、自分 たちよりも力の弱いものに対する暖かい思いやりのある心です。 ・・・ それは、 ポーランドの人たちが戦争という不幸な体験の中 で、多くの同胞を失い、財産を失い、生きていくために必要な 最低限度のものさえ失った中にあっても、決して失わなかった ものです。・・・ 僕が見てきたポーランドの人たちはこう言っていました。 「人はパンのみにて生くるにあらず」。僕は今強く思います。 僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない。 ■4.厚仁さんの示したもの■ 遺骨を抱いて、帰国された父・武仁さんから、「政府は、あるい はUNTACはどう責任をとってくれるのか」というような恨みつ らみの言葉を聞き出そうとした放送局のインタビュアーもいた。し かし武仁氏は、息子の死に対して、誰かに責任を求めるような言葉 一つ吐かず、逆に次のような手記を残された。[2] 厚仁のからだは白い布に包まれ、とどめを刺された一撃であ る後頭部から左目に貫通した銃弾の痕も、それと分からないよ うに包帯で包まれていました。母親がせめて手だけでも握って あげたいと申しまして、恐れおののきつつ白い布を解きますと、 厚仁の手は胸のうえで合掌するように組まれていました。この 姿を見たとき、私には、厚仁が私たちの息子であるというよう りも何か崇高なものであるような気がしたのです。・・・ 息子ではありますが、気だかい人間性の発露、人間の尊厳を 見たような気がして、もう厚仁は私たちのものなどではなく、 たいへん気高いものになったという感動を覚えました。・・・ 信ずるもののためには命を捧げても行動する、という崇高さ を持った人間を示してくれたことが、厚仁の救いであると思い ます。貴いもの、崇高なものが人間の中にはあるということを 信じさせてくれた事が。 「今でも深夜や朝方には、耐え切れず、泣き叫ぶことがある」と いう親としての悲しみと、息子の気高い姿に人間として感動すると いう事は、ともに真実の思いであろう。 ■5.なんであなたがいかなければならないの■ カンボジアへのPKOに参加した日本人は数多い。自衛隊から は、総勢約1800人、また文民警察として75人の警察官が派遣 された。そのうちのひとり高田警視も命を落とされている。 自衛隊の伊丹のある部隊では、PKOへの志願が定員の30倍に も達したという。[3] 「日本の代表としてしっかり活躍したい。同じアジアの国の発 展に協力できる事がうれしい」(陸二曹28才) 「当初は両親にも反対されましたが、国際貢献のためだからと 必死に説得した。」(陸三曹30才) 派遣の一ヶ月前、長男が生まれたばかりの妻は、夫(陸三曹)の 派遣が決まった時、「なんであなたがいかなければならないの」と 泣きながら訴えたという。 「私が泣いた時、主人はじっと黙っていた。恐らく辛かったの でしょう。生まれたばかりの子供のそばにいてもらいたい。今 でも行って欲しくない。」 危険な地雷処理をしても、その手当は1時間で缶ジュース1本分、 家族への電話代、1分千円前後の通話料も、自己負担だという。そ ういう悪条件にもくじけず、カンボジアに赴いた青年達の気持ちは、 中田厚仁さんと変わるところがないであろう。 「なんであなたがいかなければならないの」という妻の訴えに答え るのは、中田厚仁さんの次の言葉だ。 だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければなら ない事がある時、僕は、その誰かになりたい。 ■6.カンボジアからの遺族弔問■ 中田さんや自衛隊PKOの貢献により、総選挙が行われた翌年、 政情も安定化し、広島で開催された第12回アジア競技大会に、カ ンボジアは20年ぶりに選手団を送り込んだ。 選手団の費用は、UNTACに参加した自衛隊員や警察官、青年 海外協力隊のOBによって結成された「ガンバレ・カンボジア・プ ロジェクト」が支援した。さらに自衛隊体育学校はカンボジア選手 に練習施設も提供した。 選手団長のブラム・ブンイー氏は次のように述べている。[4] 昨年のカンボジアの総選挙において、カンボジア以外のたく さんの国の方々がカンボジアにおいて選挙を成功させ、カンボ ジアに平和を回復するために非常な努力を払っていただきまし た。そこには兵隊もいたんですよ。 その兵士の中には日本の兵士(自衛隊)の方々もおられまし た。この日本の兵士達が海外に派遣された事は第2次大戦後初 めてであることは、私もよく解っております。だから、日本の 方達が非常に好意的な貢献をして下さったことは、私もカンボ ジアの全国民もよく知っておりまして感謝しております。 ただしこの間に高田さん、中田さんの2名の方が亡くなった 事はお気の毒な事です。 カンボジアの政府、そしてカンボジアの全国民はお二方の死 に対しては非常に遺憾に思っております。それで、今回、カン ボジア・オリンピック委員会のサムディー副会長がお二人のご 家族を弔問したのです。 ■7.大会に参加できた喜びを今後の国造りに役立てたい■ 私どものチームをも私自身も本当に喜んでアジア大会に参加 させていただきました。同時に非常な誇りをもって参加させて いただきました。20年ぶりに、アジアのその他の諸国の国旗 の間に私共の国旗を見たときには大変感激しました。 選手達も次のような言葉を残している。 「こうして参加できるのが信じられない。それも高田さん、中 田さんのような日本人の尊い犠牲があったればこそ。」 「最初は日本に来れるなんて、思っていなかった。大会に参加 できた喜びを今後の国造りに役立てたい。」 中田さんや自衛隊員、警察官の「パンだけでない福祉」の気持ち が、カンボジア青年達の未来への希望と志に火を灯したのである。 [参考] 1.「息子、厚仁が遺したもの」、中田武仁、祖國と青年、H6.4 2.「桜とともに天に召された息子」、中田武仁、文芸春秋 3.「国の重さとヒロイック」、祖國と青年H4.11 4.「高田警視、中田厚仁さん、ありがとう」、プラム・ブンイー 祖國と青年、H6.12
■おたより 平田裕英さんより > だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければなら > ない事がある時、僕は、その誰かになりたい。 との言葉に胸を打たれました。 素晴らしい方の素晴らしい生き方に触れて涙を禁じ得ませんでし た。このやうな方達の支えがあって我々の生活が護られてゐるのだ と感じました。
■おたより 中郷英輔さんより 中田厚仁さんのことはテレビのニュース等で断片的には知ってい るつもりだった。我々には想像もつかない困難をものともしない勇 気は気高く感銘を受けました。 「だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならな い事がある時、僕は、その誰かになりたい。」 この言葉を読んだとき、背筋か凍りつくくらい感動しました。こ のような方たちがいた事を神に感謝したい。同じ日本人として救わ れ誇りになります。
■おたより itoさんより 「だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならな い事がある時、僕は、そのだれかになりたい。」 中田さんほどの強い意志ではなかったにしろ、中学生の頃、地球 の平和、恵まれない国の人々の幸福を願い、心の底から、この自分 も何かできればと想ったことを思い出します。 不幸な人々のことを、思い、涙し心を痛めたものでした。あの純 粋な気持ちは一体どこへ行ってしまったのか。あの気持ちを失って しまった自分をとても悲しく思います。 中田さんの冥福を心からお祈りいたします。
■編集部より 皆さんの声に、天国の中田さんも喜んでいるでしょう。
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