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_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (90) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成11年5月29日 9,957部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 地球史探訪:戦争の海の近代世界システム _/_/ 〜川勝平太氏の海洋史観(1)〜 _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ _/_/ 1.日本とヨーロッパにおける近代文明の同時勃興 _/_/ 2.ヨーロッパを魅了した海洋アジアの物産 _/_/ 3.産業革命はインド木綿のコピーから始まった _/_/ 4.近代世界システムの「暴力的収奪」 _/_/ 5.絶えざる戦争 _/_/ 6.奴隷制による新大陸開発 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.日本とヨーロッパにおける近代文明の同時勃興■ 近代はアジアの海から誕生した。より、正確にいえば、海洋 アジアからのインパクトに対するレスポンスとして、日本とヨ ーロッパに新しい文明が出現した。[1,p3] 新しい、壮大な史観が誕生しつつある。国際日本文化研究セン ター教授・川勝平太氏の「文明の海洋史観」である。この史観の 特徴を、本号より3回にわたって紹介しよう。 1.戦争の海の近代世界システム(本号) 近代のヨーロッパ文明は海洋アジアからのインパクトによって 成立した。それは戦争、征服、奴隷化など暴力的収奪を特徴とし ていた。 2.平和の海の江戸システム(次号) 同じインパクトに対して、日本は異なるアプローチで、棲み分 けと共生を本質とした近代文明を作り上げた。 3.「小さな水の惑星」に浮かぶ「庭園の島」(次々号) 近代世界システムから脱して、棲み分けと共生を基調とした、 新しい地球と日本のビジョンを示す。 ■2.ヨーロッパを魅了した海洋アジアの物産■ ヨーロッパに出現した近代社会は、「近代世界システム」と呼 ばれる。それは16世紀を中心とする190年間(1450〜1640) に、西ヨーロッパを中心とし、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸 を周辺地域として形成された。 近代世界システムの提唱者ウォーラステインによれば、その契 機となったのは、14世紀のヨーロッパ全域を襲った危機であっ た。技術進歩のない封建制のもとでの土地の疲弊、戦争の勃発、 そして全土を間欠的に襲った疫病である。 特に疫病によって、ヨーロッパの人口の1/3が失なわれた。 当時は胡椒や香辛料が疫病の医薬と考えられており、いくら高く ても需要があった。ヨーロッパ人が憑かれたようにアジアやアメ リカを目指して、大航海に乗り出していったのは、これらを求め てのことである。[1,p40] 香辛料の産地は、当時、「香料諸島」と呼ばれた東南アジアで あった。ヨーロッパ人がここにたどり着いた時、この地は中国、 インド、東アフリカの3地域を結ぶ活発な海洋貿易の一大中心地 域であった。そこでは、胡椒・香辛料以外にも、木綿、絹、砂糖、 コーヒー、宝石、陶器など、実に豊かで多様な物産が交易されて おり、ヨーロッパ人はたちまち魅了された。 しかし、交易をしようにも、ヨーロッパには売るものがなかっ た。毛織物をさかんに売り込もうとしたが、インド、東南アジア はむろん、中国や日本でもさっぱり売れなかった。 ヨーロッパ人の欲しいものはアジアにしかなかったのであり、 一方、ヨーロッパ製のものでアジア人のほしいものはなかった のである。[1,p33] 幸い、新大陸南アメリカで銀山が発見され、ヨーロッパ人はそ の銀をアジアに持ち込み、交易を行った。 ■3.産業革命はインド木綿のコピーから始まった■ 豊かな東方の物産は、ヨーロッパに生活革命をもたらした。た とえばインド木綿は、当時主流であった毛織物とは比較にならな いほど軽く、仕上げも自由であり、かつ、洗濯がきく上に色が落 ちないという、信じられないような特性を持っていた。 またインド人の見事な染色技術は、ヨーロッパ人のかつて知ら ないところであった。価格も毛織物の1/3であったといわれる。 この時点では、インドの方が技術的に優位にたっていたのである。 インド木綿は、17世紀末から衣料革命を巻き起こし、木綿の シャツ、ネクタイ、ハンカチーフ、寝間着、エプロン、下着、ス トッキングなどが大流行した。さらにアメリカやアフリカにも再 輸出されて、環大西洋市場が形成されていった。 しかし、インド綿の輸入攻勢によって、ヨーロッパ各国は支払 いのための金銀の流出に悩まされ、各地の織物業者は深刻な危機 に陥った。輸入原料を加工して模倣品を生産したが、品質が悪い ために、あまり売れなかった。 イギリスがインド綿花に品質、価格でようやく勝てるようにな ったのは、インド綿が導入されてから約1世紀もの後、アメリカ での長繊維綿花の発見と、1779年の細糸紡績機「ミュール」の発 明によってであった。産業革命とは、まさにインド木綿のコピー 商品を作ろうという事から始まったのである。 ここから、大量の奴隷をアフリカから調達し、アメリカで綿花 を栽培し、イギリスでそれを綿布にして、アフリカその他の市場 に売りさばくという、「大西洋の三角貿易システム」が成立した。 [2,p42-61] 産業革命によって登場する近代世界システムは、海洋アジアの 物産という文化的インパクトに応答する所から、始まったのであ る。 ■4.近代世界システムの「暴力的収奪」■ 海洋アジアの平和的な交易の世界に対して、「近世ヨーロッパ の最大の輸出品は暴力であった。」[3,p201] そして近代世界シ ステムは、「暴力的収奪」によって成立し、維持された。 まずヨーロッパ人は、南北アメリカにせよ、アフリカにせよ、 自分達が「発見」した土地も、原住民も、すべて自分の所有であ る、という驚くべき原則を徹底的に適用した。 「発見」された側にとっては、とんでもない迷惑である。南北ア メリカは先住民族の長い歴史は黙殺されて、勝手に「新大陸」と され、カリブ海の島々をインドだと思いこんだコロンブスの間違 いから、西インド諸島と呼ばれるようになった。 ポルトガルとスペインは、ローマ教皇の裁可と称して、地球を 東西に2分割して、それぞれを自国のものとするトルデシリアス 条約を1494年に結んだ。そして、スペインは1550年代前半のわず か50年ほどで、アステカ帝国とインカ帝国を滅ぼし、中南米と フィリピンを支配した。 もともとヨーロッパは地球の陸地のわずか3%を占めるに過ぎ ない。しかし1800年には西洋諸国の支配する帝国は全陸地の35 %に達し、1914年には84%に達した。[1,p222] ■5.絶えざる戦争■ 他人の土地を占有するためには、先住民族や、競合する西洋諸 国同士の絶えざる戦争が避けられない。主権国家同士の戦争は14 80年から、1940年までの460年間に278回を数える。約1年 8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となる。[4,p232] 当然、莫大な軍事支出が必要となる。1650年代のイングランド は歳出の90%を、フランスのルイ14世は75%を軍費に充て ていた。[3,p200] 戦争はまた商品を無理矢理に売り込む手段でもあった。イギリ ス人は、シナの茶を手に入れるために、東インド会社はイギリス の工業製品をインドに輸出し、インドの阿片をシナに、そしてシ ナから茶を輸入するという三角貿易を考え出した。 阿片の広がりはシナ社会で大きな問題を起こし、清朝政府はた びたび阿片禁止令を出したが、東インド会社は密輸出を続け、18 39年に清朝政府の官僚がイギリスの商務監督官を監禁し、阿片2 万箱を海洋投棄処分にすると、イギリスはこれを口実に翌年、阿 片戦争を開始した。この勝利で、イギリスは莫大な賠償金と香港 の割譲を勝ち取った。 麻薬を売りつけ、相手がいやがると暴力に訴えるというのは、 まさに暴力団の手口そのものである。 ■6.奴隷制による新大陸開発■ 売るもののないヨーロッパは、海洋アジアとの交易のために、 「新大陸」で銀山を開発し、綿花、砂糖きびなどの大規模プラン テーションを作った。その労働力は現地のインディオやアフリカ から移送された黒人を奴隷として使った。 たとえば、1545年、ボリビア南部ポトシに発見された大銀山で は、採掘のためにインディオ達がかき集められた。毎日のように 起こる事故と、水銀中毒のために、徴用されたインディオの10 人に7人は二度と故郷の地を踏むことができず、そこで斃れた総 数は8百万人にものぼったという。 アンデスの山岳地帯は、インカ帝国時代に高度な灌漑網で豊か な農産物を生み出していたのだが、これだけの容赦ない徴用に壊 滅的打撃を受けて荒廃が進み、今では少しの雨不足ですぐに旱魃 飢饉に陥るようになってしまった。[4] 中央アメリカの人口は7千万人から9千万人と推定されている が、スペイン人の侵入後、わずか一世紀の間に、350万人に激 減している。 同様にアフリカから奴隷として連れ去られた黒人は、3千万人 から6千万人に及び、その三分の二が航海途上で死亡して、大西 洋に捨てられたといわれている。[5,p243] 海洋アジアの豊かな物産を手に入れるために、戦争、征服、奴 隷化という「暴力的収奪」を手段として成立したのが近代世界シ ステムであった。 アメリカのペリー艦隊が日本にやってきたのは、近代世界シス テムがこの極東の地を組み込んで、まさに地球全体を覆い尽くそ うとしていた時である。しかしそこに発見したのは、ヨーロッパ 文明と同様、海洋アジアの豊かな物産に対抗しながらも、まった く別のアプローチをとって発展したもう一つの近代文明であった。 (続く) ■ 参考 ■ 1. 「文明の海洋史観」、川勝平太、中公叢書、H9.11 2. 「日本文明と近代西洋」、川勝平太、NHKブックス、H3.6 3. 「地球日本史1」、西尾幹二編集、産経新聞社、H10.9 4. 「収奪された大地」、E・ガレシアーノ、新評論 5. 「太平洋世界の復活(第10回) 鉄砲伝来とペリー来航」、 入江隆則、VOICE 1995, 10月 ・JOG(3) 悲しいメキシコ人 メキシコ人は固有の文化・文明そのものをスペイン人に破壊さ れてしまった。日本人も戦国時代に同じ運命に陥る危険があった。
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