[トップページ] [平成11年下期一覧][人物探訪][210.78 高度成長期][332.1 日本経済]
_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe (103) _/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座 _/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成11年9月4日 12,550部発行 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ _/_/ _/_/ 人物探訪:下村治 _/_/ 〜高度成長のシナリオ・ライター〜 _/_/ _/_/ ■ 目 次 ■ _/_/ _/_/ 1.日本の爆発的なエネルギーを見てください _/_/ 2.綱渡り状態の日本経済 _/_/ 3.日本経済は美しい白鳥になる _/_/ 4.投資と需要とのスパイラル・アップを _/_/ 5.ノーベル賞級の経済成長理論 _/_/ 6.高度成長のシナリオ _/_/ 7.バブルの失敗 _/_/ 8.日本人による日本人のための政策を _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.日本の爆発的なエネルギーを見てください■ 昭和39(1964)年9月、東京で初めてのIMF総会が開催され た。102ヶ国からの参加者の前で、池田勇人首相が演説を始めた。 IMFの皆さん。日本の爆発的なエネルギーを見てください。 皆さんから借りた資金は、国民の頭脳と勤勉によって立派に生 きて働いています。明治維新以来、先人の築き上げた教育の成 果が驚異的な日本経済の発展の秘密なのです。 アジアの諸国の人々よ、あなたたちが今、独立にともなって うけつつある苦難は、敗戦以来、20年、われわれがなめつくし た苦難でした。そこから一日も早く抜け出してください。その 手がかりを見いだすことこそ、IMF東京総会の意義なのです。 池田の演説は好評だった。「低開発国の代表が多いから、彼ら を鼓舞したのだろう」(シュバイツァー専務理事)の言葉に代表 されるように、各国は日の出の勢いで台頭してきた日本に拍手を 送っていた。[1,p169] この年、アジアで始めてのオリンピック開催、東海道新幹線開 通、そしてOECD加盟。池田内閣の所得倍増計画のもとで、日 本経済は驚異的な高度成長を遂げ、先進国の仲間入りをしつつあ った。そのシナリオは、一人のエコノミストが、自ら生み出した 最先端の経済成長理論をもとに、描いたものであった。 ■2.綱渡り状態の日本経済■ そのエコノミスト、下村治は明治43年佐賀市に生まれ、東大 経済学部を卒業後、大蔵省に入省。当時のことを次のように語っ ている。 私は昭和9年の大学卒ですが、そのころ国民みなが失業と貧 乏で困っていました。・・・日本は明治以来百年もたっている のに失業と貧乏の重圧から逃れることができない。その重圧が 社会的な、あるいは政治的な混乱を生み、間違って戦争に駆り 立てられるようなことになってしまった。そういったことをな くしたいと思っていました。高度成長になると、そのような重 圧から解放されると信じていたのです。[1,p243] 昭和27年、日本は独立を回復したが、経済的にはお先真っ暗 の状態だった。朝鮮戦争の特需が呼び水になって、景気がよくな ると、すぐに輸入が激増する。一方の輸出は、日本製品の「安か ろう、悪かろう」というイメージが残り、先進諸国は差別的な輸 入制限を設けていて、なかなか伸びない。結局、貿易収支は3億 ドルの赤字、外貨準備高が29年6月末には、6億ドルまで落ち 込むという綱渡り状態だった。 今まではGHQが外貨管理をし、ドルが足りなくとも穴埋めし てくれたが、独立後はそうはいかない。IMFからの22百万ド ルの緊急借り入れで急場をしのぐありさまである。景気が過熱す るたびに、日銀は、一定額以上の資金を借りる銀行から特別高い 金利を取る「高率」適用や、輸入金融の廃止などで、ブレーキを かけていた。 ■3.日本経済は美しい白鳥になる■ しかし、下村はこのような現状の先に、まったく別の未来を見 ていた。 日本経済はいま歴史的転換期にある。勃興期を到来させるこ とができるかどうかの岐路に差しかかろうとしている。 [1,p99] 日本経済についてありとあらゆる弱点を言いつのり、いまに も破局が訪れるような予言をする人々を見ていると、アンデル センの醜いアヒルの子を思い出す。その人々は日本経済をアヒ ルかアヒルの子と思っているのではないか。実際の日本経済は 美しい白鳥となる特徴をいくつも備えているにもかかわらず [1,p100] 下村は大蔵省の記者クラブにいた経済記者たちに、「やがて日 本のGNPは、西独並みになります」と予言して、彼らの度肝を 抜いた。そんなことを考える人間は皆無に等しかったのである。 ■4.投資と需要とのスパイラル・アップを■ 投資には市況の良しあしに触発される感応投資と起業家の将 来ビジョンによって実施される独立投資とがある。・・・今の 投資は日本の企業家が将来に向かって明るい見通しを抱き、果 敢にチャレンジしている独立投資なのだ。経済の成長段階では この独立投資が原動力になる。[1,p87] 下村は、貿易赤字のための金融引締めは、日本経済の潜在的な 成長力を阻害していると見た。人々は豊かな生活にあこがれ、有 効需要は十分にある。 問題は、生産能力だ。生産能力を急速に拡大すれば、企業の売 上は上がり、収益も増える。その結果、従業員の所得が増え、さ らに需要は盛り上がり、企業は設備投資を続ける。こうして、設 備投資と需要とが、相互に刺激し合って、スパイラルアップの成 長を実現する。 借金の元利払いに困るというが、日本のように成長する経済 が借金をするのは当たり前で、成長の果実によってやがて元利 は返せる。[1,p131] 下村の見方からすれば、貿易赤字を心配して、設備投資にブレ ーキをかける日銀の政策は、お客さんが店頭で長蛇の列を作って いるのに、借金が怖くて、店の拡張に踏み切れない弱気の経営者 のようなものである。 ■5.ノーベル賞級の経済成長理論■ 当時このように設備投資を組み込んで、経済成長のメカニズム を理論化した人間は、世界でも珍しかった。経済学者の宇沢弘文 は、この分析が英文で世界の学会に紹介されていたら、ノーベル 賞を取ってもおかしくなかったと述べている。 下村は昭和23年から3年間、結核で病床に臥していた。終戦 直後の食事にもこと欠く時代に激務を続けたのがたたったのであ る。そんなある日、突然下村は夫人に大学ノートを買ってきてく れと言い出した。医者は絶対にダメだと首を振った。 しかし下村は「頭の中でどんどん考えが出てくるんだ。今書か ないと消えてしまう。書かせてくれ」と聞かなかった。これが後 に下村理論として知られるようになった経済成長理論の出発点で ある。 しかし独創的な経済理論に基づき、日銀の緊縮路線を真っ向か ら批判する下村は、周囲からの理解を得られなかった。日銀の代 表的なエコノミスト吉野俊彦、東大、一橋大の経済学者、そして ついには重鎮・都留重人までが登場して、いっせいに下村の説を 批判した。 孤立無援のままでも、下村は決して屈せず、論争を続けた。そ のうちに、下村の主張に耳を傾ける人々が少しづつ現れ始めた。 その一人が後の首相・池田勇人である。 ■6.高度成長のシナリオ■ 池田に求められ、下村は畳半畳ほどの大きな表を作成した。輸 出、輸入、設備投資など85項目に及ぶ経済指標が縦に並び、横に は昭和36年から46年まで10年間にわたる数字がびっしりと書きこ まれていた。下村が簡単な計算機を回しながら、ほとんど独力で 作った高度成長の計画であった。そこでの成長率は10%以上にも なっていた。 昭和34年に誕生した池田勇人内閣は、翌年から10年間で日本の GNP(国民総生産)を2倍にしようという所得倍増計画をスタ ートさせた。それに基づき、道路5カ年計画など社会資本の充実、 優遇税制の実施による産業構造の高度化、貿易・為替自由化によ る貿易と国際経済協力の推進、工業専門学校の増設等による科学 技術の振興など、矢継ぎ早の対策を打ち出した。 企業経営者も、10年後には今の倍の市場が生まれる、貿易自由 化で外国企業に負けてはならない、と奮い立ち、設備投資や技術 導入を猛烈な勢いで進めた。臨海工業地帯には、巨大な鉄鋼、石 油化学、火力発電などの巨大プラントが続々と作られた。国民の 生活水準も急速に上昇して、カー、クーラー、カラーテレビの 「3C」が花形商品となった。 昭和43年、日本のGNPは西ドイツをついに追い越し、アメリ カに次いで世界第2位となった。所得倍増計画の10年間のGNP は年平均11.3%の伸びを示し、倍増どころか、3倍となった。設 備投資は14.8%、住宅建設15.1%、輸出は15.6%、輸入は14.5% と非常にバランスのとれた成長を遂げた。これは、この計画が日 本経済の潜在的成長力を自然に引き出した事を物語っている。 高度成長について下村は、次のような評価をしている。 現在のような不信と対立のあふれた国際社会の中で、日本人 が権威ある発言をしていくにはその土台となる経済的基盤を固 め東洋人としてただひとつの先進工業国を作り上げていく以外 にない。それは何よりも経済で勝負した池田氏の時代にこそ日 本人に対する世界の視線が注がれ、日本が国際社会への復帰を 完成した事実が雄弁に物語っている。[1,p176] ■7.バブルの失敗■ 高度経済成長は、まさにこの時期の日本にとって最適なシナリ オであった。しかし、十分な経済成長を遂げ、また世界の状況が 変われば、次のシナリオは当然変わらなければならない。 昭和49年、オイルショックに襲われた日本経済に対し、下村は 突如、ゼロ成長を主張して、世間を驚かせた。世界の原料の供給 力そのものが低下すれば、その中で日本だけが成長を続けられる わけはない。下村はゼロ成長の中で物価を安定させ、財政を均衡 させることを主張したのである。 昭和50年代後半に入ると、アメリカのレーガン政権は積極的 財政拡大政策をとった。58年から60年の3年間で、アメリカの輸 入増加は1千億ドルを超え、その結果、日本の輸出増加も3百億 ドル前後となりった。明らかにアメリカの輸入増加が、日本およ び他の国々の輸出増加を引き起こしたのである。 しかしアメリカ側はこの不均衡の責任を転嫁して、日本の輸入 不足によるものと非難し、その主張に沿って、日本が内需拡大を 通じて貿易均衡を図るべき、という前川レポートが出された。 下村はすでに日本経済には大幅な消費増加の可能性はないこと、 その上で無理やり内需拡大をすれば、増強した設備による製品の 売り場はなくなり、必ず破滅すると予測した。[2,p169] 果たして、アメリカの要求に基づいた異常な金融緩和は、巨大 なバブルとその後の生産能力過剰による長期的な景気低迷をもた らした。明らかな経済政策の失敗である。 ★ JOG(78) 戦略なきマネー敗戦 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog078.html ■8.日本人による日本人のための政策を■ 日本経済は、下村のシナリオに従って高度成長に成功し、アメ リカの要求に従うことによって、狂乱バブルとその後の長期停滞 に陥った。正しい経済政策が、いかに経済的繁栄にとって大切な ものかを示す実例といえる。それでは、正しい経済政策はどうし たら生まれるのか? たとえば、現在でもアメリカの主張に従って、無条件に貿易自 由化やグローバルスタンダードを礼賛する人がいるが、それは手 段と目的とを取り違えた議論だと下村は主張する。経済政策の目 的は、一億二千万人が幸福に生きていくという「国民経済」の繁 栄を実現することである。そして、各国が自国の国民経済を健全 に運用して、相互に交流を深めていくところに、国際経済の正常 な発展がある。 アメリカは自国の行き過ぎた消費経済を棚に上げて、「貿易の 拡大均衡」を日本に要求したが、アメリカの美辞麗句に踊らされ て、日本の「国民経済」のあるべき姿を考えなかったのは、わが 国自身の失敗である。 下村の描いた高度経済成長政策は、日本人が、日本人のために、 主体的に次代の国民経済のビジョンを描き、それを実現したもの である。このようなたくましい主体性は、その前の占領時代にも、 また、バブル以降にも見られなかった。今後の日本経済の再生は、 まず下村の示したような政策の主体性を回復するところから始め なければならない。 ■ 参考 ■ 1. 「エコノミスト三国志」、水木楊、文春文庫、H11.3 2. 「日本は悪くない」、下村治、文芸春秋、S62.4
© 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.