[トップページ] [平成11年下期一覧][地球史探訪][238.9 北欧][392 国防史]


     _/    _/_/      _/_/_/      地球史探訪:フィンランド、独立への苦闘
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       _/  _/    _/  _/  _/_/                           17,963部 H11.12.11
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(117)  国際派日本人養成講座
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■1.日本とフィンランドは隣国■

       日本とフィンランドはほとんど隣国だ。あいだに国は一つ
      しかない。

     ヘルシンキで聞いたこのジョークは、地政学的に真実を語っ
    ている。日本とフィンランドは、膨張主義の大国ロシアの東西
    に隣接し、19世紀から20世紀にかけて、両国とも独立をかけて
    戦ってきた。

     しかし日本海という障壁を持つ日本に比べれば、フィンラン
    ドの立場ははるかに厳しい。ロシアと地続きで1500キロにおよ
    ぶ国境を有し、首都ヘルシンキはサンクト・ペテルブルグ(ソ
    連時代はレニングラード。本稿ではペテルブルグに統一)から
    バルト海への出口に位置する。ロシアから見た戦略的重要性は
    計り知れない。
    
     バルト海をはさんだ南の対岸では、バルト3国から、ポーラ
    ンド、東ドイツまで、鉄のカーテンの内部に取り込まれてしま
    ったことを考えれば、フィンランドが自由と独立を保ってきた
    のは、地球史上の奇跡と言ってよい。この奇跡は、フィンラン
    ド国民の自由と独立への不屈の意思と、それを導き、体現した
    人物、グスタフ・マンネルヘイムのもたらしたものである。
    
■2.明治日本から学ぶ■

     フィンランドは12世紀から約600年の間、スウェーデン王国
    の統治下にあった。その後、ナポレオン戦争の結果、フィンラ
    ンド大公国として帝政ロシアの支配下に移された。

     グスタフ・マンネルヘイムは、1867年スウェーデン系の貴族
    の家系に生まれた。長じてペテルブルクの騎兵学校を卒業し、
    ロシア皇帝の近衛騎兵となった。1904年の日露戦争では志願し
    て、満洲の荒野で日本軍と戦った。
  
     規律の良い、訓練の行き届いた日本軍に対して、ロシア兵は
    士気も低く、現地人への略奪暴行も絶えなかった。マンネルヘ
    イムは専制ロシアの奴隷的な軍隊と、開明的な立憲君主国日本
    の国軍との違いを痛感した。さらに日本が連勝におごらず、国
    力の限界を見極めて講和に踏み切ったことは、彼の心に残った。
    後にフィンランドの独立戦争を指揮する際の政治と軍事の見事
    な一致は、ここから学んだものであろう。

■3.ロシア革命勃発■

     1917年、ロシア革命が勃発した時、マンネルヘイムはぺテル
    ブルグにいた。すでに50歳、中将・騎兵軍団長となり、フィ
    ンランド出身者としては最高の地位にあった。ペテルブルグで
    の暴動を見て、マンネルヘイムは革命とは社会を無秩序におと
    しいれ、一部の野心家が権力を得ようとする暴力行為であるこ
    とを見抜いた。
    
     フィンランドは、ロシア革命の混乱のさなか、独立を宣言し
    たが、ヘルシンキではレーニンの指示のもとで、赤色革命政権
    を目指す一派が労働者の武装を進めて、「赤衛軍」を組織し、
    フィンランド内に駐留していた4万以上のロシア軍とともに勢
    力を広げていた。
    
     一方、あくまでフィンランドの自主独立を目指す市民の義勇
    警備隊が各地に現れ、「白衛軍」として立ち上がっていた。
    
     マンネルヘイムは、祖国がロシア革命に呑み込まれる危機を
    座視できず、帰国した。フィンランド政府の首脳陣は、はじめ
    ロシア帰りの将軍を疑いの目で見ていたが、祖国の独立を共産
    革命から守り、自由で民主的な国家を建設しようとするマンネ
    ルヘイムの熱情と信念に魅了され、フィンランド国防軍を創設
    して、その総司令官となることを要請した。
    
■4.白い将軍■

     おりしも第一次大戦の最中でドイツ軍はペテルブルグをも
    陥落させようという勢いだった。フィンランド政府首脳は、ド
    イツ軍に援軍を要請した。
    
     マンネルヘイムはこれを激しく怒り、一時は辞職を考えたが、
    自分の力でドイツ軍を制する道を選んだ。そして次の二つの条
    件を出した。第一に、ドイツからの援軍は自分の指揮下におく
    こと、そしてドイツ軍はロシア軍とは戦えるが、フィンランド
    人の赤衛軍との戦いには参加できない事。
    
     この戦いはフィンランド人による祖国の独立と統一をかけた
    戦争であり、同胞民族を外国の軍隊で攻撃しては、大義名分が
    たたない、とマンネルヘイムは考えたのであろう。
    
     マンネルヘイムは、白い毛皮のマントをまとって雪と氷に凍
    てついた白一色の戦線にしばしば現れ、見事な指揮をとった。
    白衛軍の将兵は、彼を「白い将軍」と呼んで歓声を挙げ、ロシ
    ア軍や赤衛軍は「白い悪魔」と呪った。
    
■5.首都入城■

     マンネルヘイムの指揮のもと、白衛軍は約半年で勝利を得た。
    赤衛軍の大半は降伏したが、革命政府の首脳はほとんどペテル
    ブルグに逃亡した。1918年5月16日、フィンランド軍の勝利
    の式典が首都ヘルシンキで行われ、マンネルヘイムは白衛軍を
    率いて、大勢の市民の熱狂の中を行進した。
    
     この時のマンネルヘイムの乗馬像が、ヘルシンキ中央のその
    名も「マンネルヘイム通り」に建っている。あごを引き締め、
    前方をまっすぐに見据えた像で、勝利の喜びなど、どこにも感
    じられない。独立への戦いはまだ道半ばという覚悟が偲ばれる。
    
     内戦の後、マンネルヘイムは国民の和解と統一を進めるため
    に、戦争孤児の救済と志願兵による国民自衛軍の創設に尽力し
    た。

■6.ソ連軍侵攻■

     1939年9月、スターリンはナチス・ドイツと秘密協定を結び、
    両国でポーランドを分割占領した。そして11月30日、つい
    にフィンランド侵略に踏み切った。ソ連軍は、26〜28個師
    団約50万人の大兵力で、1000キロ以上に及ぶ国境線全面に渡
    る侵攻作戦を展開した。「一週間でヘルシンキを占領し、全フ
    ィンランドを制圧する」とスターリンは豪語した。
    
     元帥となっていたマンネルヘイムは、即日フィンランド国軍
    総司令官に任命され、その命令第一号として「この戦争は独立
    戦争の継続であり、その最後の総仕上げ以外の何ものでもない。
    」と宣言した。冬戦争の始まりである。平時の3個師団(兵力
    1万8千)に、志願義勇兵9個師団、合計31万5千が動員さ
    れた。これは総人口の8.6%にあたる。成年男子の三、四人
    に一人は従軍したわけで、実質的には国家総動員体制である。
    
     重装備のソ連軍が南北に広く分散して、道路も不備な山野で
    行き悩んでいる所を、地理地形に精通したフィンランド兵は身
    軽な独立小部隊を編成して、スキーで迅速に移動し、各地で敵
    を分断攻撃した。平時から研究・訓練してきた戦法である。
    
■7.吹き荒れる嵐の中に■

     小国フィンランドに対するソ連の侵略は、西側諸国の憤激を
    買い、国際連盟はフィンランド政府の提訴に基づいて調査委員
    会を開き、ソ連代表の出席拒否のまま、理事会でソ連の追放を
    決議した。
    
     さらにフィンランド軍の意外な抵抗力を見て、英仏の指導者
    たちは、フィンランド救援を目的として北欧に戦線を形成し、
    スウェーデンからドイツへの鉄鉱原料輸送を遮断して、対独戦
    を優位に進めようと考えた。
    
     マンネルヘイムは英仏の支援は、到底間に合わないと考えて
    いたが、これを取引材料に、防御戦を戦いながら、ソ連との休
    戦交渉を進めた。
    
     3月13日、講和条約が成立した。民族の故郷カレリア地方、
    および、ヘルシンキの眼前にあるハンコ岬の割譲が条件である。
    独立は保ったものの7万人の将兵を失い、またカレリア地方の
    43万人が難民となった。
    
     4月にはドイツがデンマークとノルウェーに侵攻、6月には
    バルト海対岸のエストニア、ラトビア、リトアニア3国が、ソ
    連に併合された。ヒットラーのドイツとスターリンのソ連には
    さまれ、中立国スウェーデンとともにフィンランドは孤立した。
    
     戦争が終わって、マンネルヘイムは国民にこう呼びかけた。
    
         君たちの奮戦は、世界中の称賛を呼び起こしたが、3ヵ
        月半の戦いの後、今我々は吹き荒れる嵐の中に一人ぽっち
        で立ち続けている。

■8.継続戦争■

     1940年7月、ドイツは、ソ連侵攻を念頭において、フィンラ
    ンドへの接近を図り、ソ連から攻撃を受けた場合、援助するこ
    とを約束した。フィンランド大統領のリチは、攻撃を受ければ
    単独でも戦うが、外部からの援助は歓迎すると答えた。
    
     翌41年6月22日、ドイツはソ連侵攻を開始した。フィンラ
    ンド政府は中立を発表したが、ソ連は即座にフィンランドの軍
    事施設や都市を爆撃した。25日、リチ大統領はソ連に宣戦布
    告する。
    
     マンネルヘイムは、この戦争は「たまたま、ドイツ軍と共通
    の敵に対して、同じ戦場で戦う共同戦争ではあるが、フィンラ
    ンドは、自らの独立を守る防衛戦争を行うのである」と考えた。
    そしてこの戦争を「継続戦争(The Continuation War)」と呼ん
    だ。1918年の独立戦争、39-40年の冬戦争に続く、独立防衛戦
    争の継続という位置付けを国民に明確に示したのである。

■9.休戦への苦闘■

     マンネルヘイムは、冬戦争時の約1.5倍、47万5千の兵
    力を投入して、ソ連に奪われた旧領土の回復を目指した。12
    月には、カレリア地方とハンコ岬を奪回し、そこで攻勢を止め
    た。ドイツはさかんにペテルブルグ攻撃を要求したが、マンネ
    ルヘイムは聞かなかった。
    
     しかし43年3月には、東部戦線のドイツ軍はソ連軍の反撃を
    受けて、全面崩壊の様相を呈した。ソ連軍はカレリア地峡の大
    攻勢を開始した。フィンランド政府は狼狽して、休戦交渉をし
    ようとしたが、マンネルヘイムはまずドイツの援助を得て、ソ
    連の攻勢を押し止めることを主張し、それに成功した。
    
     44年8月4日、マンネルヘイムは大統領に就任し、ソ連との
    交渉を再開した。ソ連は前回は圧倒的な攻勢中だったので6億
    ドルの賠償金を要求するなど、高飛車だったが、今回は降伏の
    要求はせず、まず2週間以内にドイツ兵の領土内撤退を条件に、
    交渉に応ずると答えた。
    
     マンネルヘイムは、ドイツ軍に撤退を要求し、大半は平穏に
    去ったが、北部ラップランド駐留の9個師団は2週間では撤退
    不可能で、やむなくかつての友軍と戦わねばならなかった。

■10.独立の代償■

     44年9月19日休戦協定が結ばれ、フィンランドはようやく
    独ソ間の戦争から離脱することができた。しかし、国境は1940
    年の冬戦争後に戻され、カレリア地方はふたたびソ連のものと
    なった。
    
     さらに3億ドルの戦時賠償も要求された。これは戦後数年間
    はGNPの5〜6%を占めた。現在の日本で言えば、一人あた
    りの年間総所得は4百万円程度なので、国民一人一人が毎年
    20数万円相当の賠償金を払わされたという感覚になる。
    
     ことの発端は、39年のソ連による一方的侵略開始だったのだ
    が、フィンランドはその侵略国に領土と賠償金を奪われたので
    ある。

     さらにソ連は戦争指導者の裁判を要求した。リチ大統領以下
    8人が告発されたが、フィンランド人の検察官と裁判官による
    もので、結局裁判後3年で全員が釈放され、議員や政党党首と
    して活躍した。
    
■11.自らを守りえない小国を援助する国はない■

     大きな代償を払ったとは言え、フィンランドはかろうじて独
    立を全うすることができた。そしてその成功要因は、独立戦争、
    冬戦争、そして継続戦争と、いずれも、フィンランド国民が自
    らの力で、圧倒的なソ連の力に立ち向かい、何とか持ちこたえ
    たという点にある。3回の戦争のうち、一度でも全土を制圧さ
    れていたら、ポーランドのように鉄のカーテンの内に取り込ま
    れていたであろう。
    
     そしてフィンランドは、英仏やドイツの力を借りることはあ
    っても、決してそれに頼り切りはしなかった。あくまで自分自
    身の独立意思と武力を中心においた。マンネルヘイムの自主独
    立にかけた姿勢は、次の言葉に要約される。
    
         自らを守りえない小国を援助する国はない。あるとすれ
        ば、何か野心があるはずだ。
    
     マンネルヘイムの家は、ヘルシンキの南方、フィンランド湾
    を見下ろす高台の上に今もある。絶好の見晴らしは、ヘルシン
    キの海上防衛を指揮するかのようである。現在、その家はマン
    ネルヘイムの遺品を飾った博物館になっている。
    
     著者が訪れた時には、小学生の団体が神妙な態度で、説明者
    の声に聞き入っていた。マンネルヘイムと彼に率いられたフィ
    ンランド国民の自由と独立への意思は、こうして子々孫々に継
    承されていくのだろう。

■参考■
1. 「グスタフ・マンネルヘイム」、植村英一、荒地出版社、H4.2

■リンク■
★ JOG(095) スイス、孤高の戦い
  中立は口先だけでは守れなかった。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■松井さんより

   沢山のプッシュメールを配信してもらってますが全部読み切れ
  ないときでもこの、配信は欠かさずよんでます。私も以前から自
  国の民族、歴史に誇りを持たず、自国の民族を辱め陥れる輩に大
  変腹立たしさを覚えている者です。
 
   私自身、職場の人間が明確な民族意識を持ってないことに気づ
  き民族として当然の思想理念を話したりしますが、最初の頃は大
  きな反発を買いました。
  
   特に団塊の世代はどうしょうもなく朝日新聞的な思想に染まっ
  ている人が多いのですが、ここのレポートを何度かプリントアウ
  トして読ませ、いかにあなた方が間違った情報を信じてきたかを、
  得々と話しましたところ5人いる団塊の世代の中の4人まではも
  う朝日新聞は信じないとの考え方に変わったようです。
 
   日本では職場で思想、信条を明確に言うのは避けられてきまし
  たが、それが恐ろしく無思想で無関心な人間を造り、挙げ句の果
  ては無責任な朝日新聞、共産党的な人間を造ってしまうのではな
  いかと思ってしまいます。
 
   これからも、面白いレポートお待ちしてます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

   ありがとうございました。職場の話のネタになるような形で、
  発信を続けていきます。

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