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-----Japan On the Globe(206) 国際派日本人養成講座---------- _/_/ _/ 地球史探訪:サンフランシスコ講和条約 _/_/ _/ _/_/_/ 「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理 _/ _/_/ に誠実に取り組み、再び国際社会に迎えられた。 -----H13.09.09----35,708 Copies----315,285 Homepage View---- ■1.「和解と信頼の講和」■ 今後、われわれの間に勝者と敗者の区別を一切なくして、 お互いに平和を希求する仲間同士になるために、すべての 悪意と憎しみをすてさろうではないか。 今から半世紀前の1951(昭和26)年9月4日、サンフランシ スコのオペラハウスで開かれた講和会議で、51カ国の代表を 前に米国大統領トルーマンはこう挨拶した。この講和会議にお いて、米国は日本に国際社会での「威厳と平等と機会」とを与 えようとしていた。条約の作成者、米国のジョン・フォスタ ー・ダレスは、これを「和解と信頼の講和」と呼んだ。 トルーマンの挨拶をわずか6年間のポツダム宣言の次のよう な一節と比較して見ると、日本に対する見方が180度変わっ ていることが分かる。 日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過 誤を犯しめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべ からず ■2.ソ連の領土要求■ もっとも、このような寛大な講和方針に反対の国があった。 ソ連である。ソ連代表グロムイコは、千島列島と樺太南部を日 本が侵略によって奪取した事を非難し、講和条約は大戦末期に 米英ソがヤルタ秘密協定で取り決めた樺太の返還と、千島列島 の移譲を含めるべきだと要求した。 ソ連の主張に対して、吉田茂首相は最後の受諾演説において 次のように反論した。 千島列島、南樺太の地域を、日本が侵略によって奪取し たというソ連の主張には、承服しかねます。これらは日本 の降伏直後の昭和20年9月20日、一方的に、ソ連領に 収容されたもので、歯舞、色丹諸島もソ連軍に占領された ままであります。[a] 講和会議の半年前、51年3月に米国が作成した草案では、ヤ ルタ秘密協定通り、「日本国は、ソ連に対し千島列島を引き渡 す」と記されていた。ソ連はこの点については異論はなかった が、日本における米軍駐留などの点に強く反対したため、米国 は自らが希望するような講和条約にソ連が参加する可能性はな いと見限った。 そして米国全権フォスター・ダレスは、日本に千島、樺太南 部を放棄させる一方で、その帰属先を故意に空白にしておく、 という変更を草案に施した。これは北方領土問題を日本とソ連 の間の諍いの種として残しておくための巧妙な仕掛けだった。 グロムイコは、あくまで樺太返還、千島移譲を含めるよう講 和条約条文の変更を要求したが、それが通らないと知ると、調 印を拒否した。[1,b] ■3.アメリカは戦う相手を間違えていた■ ソ連が第2次大戦中の日本敵視政策のままであったのに対し、 アメリカは明らかに対日認識を変えていたのである。1949年 12月に蒋介石は台湾に逃れ、中国大陸は共産主義の手に落ち た。1950年6月には、北朝鮮の侵攻により朝鮮戦争が始まり、 10月には中国が加担して、アメリカを中心とする国連軍と激 しい戦闘を繰り広げた。 この頃、アメリカでは、"We fought the wrong enemy." (我々は戦う相手を間違えていた)という言葉が人口に膾炙し ていた。日本と戦ったのは誤っていた、という認識である。 日本を大陸から駆逐したものの、アメリカは共産主義勢力に 中国大陸を奪われ、さらに朝鮮では自ら血を流して戦わなけれ ばならない羽目に追い込まれた。 今日われわれは、日本人が韓満(朝鮮、満洲)地域で半 世紀にわたって直面し背負ってきた問題と責任を自ら背負 い込むことになったわけであります。他人が背負っている 時には、われわれが軽蔑していた、この重荷に感じるわれ われの苦痛は、当然の罰であります。 戦後、米国国務省の要職についたジョージ・ケナンはこう主 張して、ルーズベルト政権がとった「ソ連と協力し、日独を叩 く」という政策を根本的に批判した。日本が戦前果たしてきた 共産主義の防波堤という役割を、日本を駆逐したために、アメ リカが自ら担わなければならなくなった、という反省である。 日本に再軍備を許し、この重荷を共に担う友邦にしようとい うのが、アメリカの講和条約における方針であった。サンフラ ンシシコ講和会議はすでにこうした米ソ冷戦の戦場であった。 ■4.全面講和の空想■ 米ソの冷戦は日本国内にも持ち込まれ、全連合国との全面講 和を主張する社会党勢力と、西側諸国を中心とする多数講和を めざす吉田内閣との対立となっていた。 全面講和を主張する南原繁・東大総長を吉田茂首相は「曲学 阿世(真理をまげた学問によって世におもねる)」と批判した。 アメリカがソ連と対立し、中国と戦っている時に、両陣営を包 含した全面講和が実現する見通しはなかった。全面講和が実現 しない限り、いつまでも占領されたままで良いのか、という疑 問に対しては、全面講和派は沈黙していた。 米国を中心とする多数講和によって日本は西側陣営に立つこ とになるが、社会党はそれを阻止するために、全面講和という 実現可能性のない空想をぶつけて、それを阻止しようとしたの であった。 しかし国民の大多数が、多数講和に賛成していたことは、条 約調印を済ませて帰国した吉田首相の支持率が、朝日新聞の調 査で58%と戦後最高に達したことでも示されている。国民は 一刻も早い占領状態からの解放、すなわち独立と国際社会への 復帰を望んでいたのである。 ■5.「講和条約で日本は東京裁判を受諾?」■ 講和条約とは、戦争後の国家間の一種の手打ち式であるから、 領土、賠償、戦争犯罪などについて、和解合意するものである。 それゆえに今日問題となっている戦時捕虜の補償問題や、「A 級戦犯」を祀った靖国への参拝問題などは、このサンフランシ シコ講和条約での枠組みに戻って考えねばならない。 たとえば、「講和条約で日本は東京裁判を受諾している以上、 首相はA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝すべきでない」 という意見がある。条約第11条には東京裁判や連合国での 「戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、・・・これらの法廷が課した 刑を執行するものとする」とあり、A級戦犯を合祀した靖国参 拝は「裁判受諾」に違反する行為だという。 しかしこの「裁判を受諾し」というのは日本語原文のみの表 現であり、英語原文では受諾したのは"Judgements"、すなわち 「判決」である。仏語、スペイン語原文でも同様の表現になっ ている。これは日本政府が判決にしたがって、刑の執行を継続 することであり、「裁判」全体、すなわちそのプロセスや判決 理由についてまで同意したという意味ではない。佐藤和男・青 山学院大学名誉教授は昭和61年の国際法学会でこの点を当代 一流の国際法学者たちと議論したが、すべての外国人学者がこ の見解に同意したという。 そもそも講和条約が和解の当然の帰結として、アムネスティ (国際法上の大赦)、すなわちすべての戦争犯罪の責任を免除 することは国際法学会の通説であり、この11条自体がこの長 い歴史を持つ慣習に逸脱したものだという強い批判があった。 講和条約条文はその後、赦免、減刑などは判決を下した国 (東京裁判の場合は、判決に加わった国の過半数)が決定する と定めている。我が政府はこの11条を誠実に順守して、国民 4千万人にものぼる釈放請願署名と、社会党を含めた圧倒的多 数による国会決議をもとに各国と交渉し、服役中の同胞救出を 実現したのである。 ちなみに、メキシコ代表は次のように東京裁判そのものに同 意しない旨の発言を行っている。アルゼンチン代表も同様の発 言をしている。[2,c] われわれは、できることなら、本条項[講和条約第11 条]が、連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづける ことを避けたかった。あの裁判の結果は、法の諸原則と必 ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰な しという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の 刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは 信ずる。 ■6.賠償問題でのけじめ■ もう一つは賠償問題である。わが国は講和条約、および、そ れに基づいた2国間条約で北朝鮮、中華民国以外の国とは賠償 を完全に済ませている。連合国や占領下にあった国々に対して 支払った賠償や準賠償(無償経済協力)、贈与、借款、在外資産 の引き渡しなどの総額は、当時の金で一兆円を超える。 たとえば、米国政府は、日本軍捕虜となった元米兵に対して、 抑留1日1ドルの補償を行った。この総額はどんなに多く見積 もっても17百万ドル程度であるが、一方で米国政府は約5千 万ドルの在米日本資産を接収している。この上で、講和条約で は「戦争遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた 連合国及びその国民その他の請求権・・・を放棄する」(第1 4条b)と取り決めたのである。 一部の元米兵が、第二次大戦中に日本軍の捕虜として強制労 働させられた事で、日本企業を相手取って損害賠償請求訴訟を 相次いで起こしているが、日米政府とも「講和条約で決着ず み」との姿勢を変えていない。 ドイツの場合は、ユダヤ人虐殺などに対する個人補償が中心 で、国家賠償もしておらず、講和条約も結ばれていない。この 隙をついて、強制労働被害者がドイツ企業などに補償請求の裁 判を起こし、100億マルク(約5千8百億円)をドイツ政府 と企業が接伴するという和解に至った。しかし日本のように講 和条約による決着がないため、今後さらに追加訴訟されないと いう保証がなく、企業による支払いは難航している。日本はこ の点で、ドイツなどよりはるかにきちんとしたけじめをつけて いるのである。[d] ■7.独立のお祝いというつもりで賠償を払ってください■ インドネシアは、オランダの再侵略と戦い、1948年にようや く独立を達成した。58年に日本との賠償協定が成立したが、イ ンドネシア側では「経済力がないので助けてほしい」という声 とともに、一部には「独立できたのは、日本軍が軍隊(PET A)を作ってくれ、戦後も日本人が残って独立運動に参加して くれたからだ。むしろ日本に感謝使節団を送るべきだ」という 声も出た。 賠償交渉で来日したアルジ・カルタウィナタ国会議長は、岸 首相に「独立のお祝いというつもりで賠償を払ってください。 日本が悪いことをしたから賠償をくれというわけではありませ ん。」と言った。さらに戦後の日本の国民生活を見て「こんな にひどい貧乏な日本からお金を貰うのは辛いなぁ。しかしこの 働きぶりなら日本は必ず一流の国になると思うのでまず私たち を助けてください」と語った由。 結局、賠償、戦時中の債権放棄、新たな借款などで総額8億 ドル近くの金額となった。当時の日本の輸出が100億ドル程 度の時で、日本中が顔面蒼白になったと言われたが、わが国は 世界銀行などの援助に頼りながらも、こうした賠償をきちんと 済ませてきたのである。[3] ■8.日本が自由になることを切望している■ こうして戦後処理のけじめをつけたサンフランシシコ講和条 約会議であったが、国際社会に復帰する日本を温かく迎える声 もあった。セイロン(現スリランカ)のJ.R.ジャヤワルダ ナ蔵相は次のように演説した。 アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望し ているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわた る結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位 にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊 敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが 強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ 友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事 を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属 諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インド ネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されるこ とを希望して、日本に協力した者がいたのである。 よってセイロンは日本に賠償を求めない、とジャヤワルダナ 蔵相は述べた。同様の趣旨でインド、ラオス、カンボジアなど が賠償請求権を放棄した。 ■9.八重桜咲く春となりけり■ 講和会議3日目の7日午後8時から吉田茂首相が、受諾演説 を行った。「日本人も日本全権も、この条約を欣然受諾するも のであります。」 翌8日、参加48カ国のあとで、日本全権団が登壇して調印 すると、会場に掲げられていた参加国の国旗群に混じって日の 丸が揚げられた。日本が再び国際社会に迎えられた瞬間である。 見上げる全権団の目が涙にうるんだ。 翌・昭和27(1952)年4月28日、講和条約が発効して、戦 争状態は正式に終結し、占領から解放されて、わが国は独立を 恢復した。この時に昭和天皇は次の2首を詠まれている。 風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり 国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたえこし民のちからに (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦 b. JOG(181) 北方領土交渉小史〜スターリンの「負の遺産」 c. JOG(059) パール博士の戦い d. JOG(118) 戦後補償の日独比較 e. JOG(193) インドネシアの夜明け ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 「日露国境交渉史」★★★、木村汎、中公新書、H5.9 2. 「世界がさばく東京裁判」★★、佐藤和男監修、ジュピター出版、H8 3. 「懸念される『アジア懇談会』の行方」、金子智一、祖国と青年、 H4.7 ============================================================ mag2:28066 pubzine:2761 melma!:1947 kapu:1760 macky!:1174© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.