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________Japan On the Globe(237)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/    人物探訪:浜口雄幸 〜改革の獅子
       _/_/      
_/ _/_/_/        大戦バブル後の恐慌、関東大震災と打ち続く混
_/ _/_/         乱の中で、命がけで改革に立ち上がった男がいた。
_______H14.04.21_____37,120 Copies_____435,536 Views________

■1.この仕事は命がけだ■

     昭和4(1929)年7月2日、満洲を支配していた張作霖を関東
    軍の一大佐が爆殺した事件をうやむやにしようとした田中義一
    陸軍大将を首班とする政友会内閣が世論と昭和天皇の信頼を失
    って倒れた。後継首相として野党第一党の民政党総裁・浜口雄
    幸(おさち)が元老・西園寺公望によって推挙された。
    
     浜口はその容貌からしてライオンというあだ名のある土佐出
    身の剛直な男であった。この日、午後1時に宮中で首相に任命
    され、帰って閣僚選任に入り、午後6時には閣員名簿の提出で
    再び参内し、午後9時には全閣僚を率いて三度目の宮中入りで
    親任式に臨んだ。首相拝命から新内閣発足までわずか8時間、
    史上最短のスピード組閣であった。長い野党時代にも政権をと
    ったら直ちに取りかかれる政策を研究していた浜口ならではの
    ことであった。
    
     大蔵大臣には井上準之助。関東大震災直後の第二次山本権兵
    衛内閣の蔵相となり、通常予算に大ナタをふるって震災復興予
    算を作る上で見事な手腕を見せた。外務大臣には、国際協調外
    交の推進者である幣原喜重郎元外相を起用した。
    
     第一次大戦のバブル崩壊に伴う戦後恐慌に、大正12(1923)
    年の関東大震災が追い打ちをかけ、さらに昭和2(1927)年の金
    融恐慌と混乱の続く中で、緊縮財政と軍縮外交を両輪として
    「経済と国家財政の建て直し」をしようというのが、浜口の自
    らに課した使命だった。井上に蔵相就任を依頼した時に、浜口
    はこう言った。
    
         もっとも、この仕事は命がけだ。すでに、自分は一身を
        国に捧げる覚悟を定めた。きみも、君国のため、覚悟を同
        じくしてくれないか。
        
    「命がけ」という浜口の言葉は後に現実となった。二人とも志
    半ばで凶弾に倒れることになる。

■2.国民への呼びかけ■

     大戦時のバブルで「浮華驕奢(ふかきょうしゃ)の弊」を生
    じ、他面では生活難に呻吟している多くの国民がいる。大学や
    専門学校の卒業生でも、法文系では就職率わずか38%と、失
    業者は町に溢れていた。政府は放漫バラマキ財政でその場しの
    ぎの人気取りに走る。これでは真の健全な経済発展はできない、
    というのが、浜口の信念だった。浜口はラジオ放送で直接国民
    に呼びかけ、さらに同趣旨のビラを全国1300万世帯に配布
    した。
    
         緊縮節約は固(もと)より最終の目的ではありませぬ。
        これによって国家財政の基礎を鞏固(きょうこ)にし、国
        民経済の根底を培養して、他日大いに発展するの素地を造
        らんがためであります。明日伸びんがために、今日は縮む
        のであります。これに伴う小苦痛は、前途の光明のために
        暫(しばら)くこれを忍ぶ勇気がなければなりませぬ。願
        わくば、政府と協力一致して、難局打開のために努力せら
        れむことを切望します。
        
     重々しい口調ながらも、心のこもった首相の訴えを聞いて、
    感動したという国民の手紙や電報が殺到した。ある失業者夫婦
    は次のような手紙を届けた。
    
         私達は、もうとてもやっていけない、もうだめだと絶望
        して居りました。ところが、ラジオで首相の演説を聞いて、
        思い返しました。まだ余地がある、まだ余地がある、と。
        
     浜口の方針に従って、井上蔵相はすでに実行中の昭和4年度
    予算を年度途中で大幅に削減した。各省の猛反対を押し切り、
    17億7千万円のうち、陸海軍費を筆頭に9千万円を超える削
    減を達成した。これには世間も驚き、あらためて内閣の意気込
    みを示す形となった。
    
     井上は翌年度予算ではさらに16億8百万と前年度に比べて
    1割以上の削減を行った。公債も借入金も計上しない「無借金
    予算」である。戦前の無借金予算はこの年と明治28年の2回
    しかない。

■3.金解禁■

     内閣の次なる大目標は金解禁であった。金の輸出禁止措置を
    解除し、当時のグローバル・スタンダードだった金本位制に戻
    そうということである。金本位制では、各国通貨が所有する金
    にリンクされ、国内物価と国際物価が連動して、自動的に国際
    経済のバランスがとれる。もともと世界各国とも金本位制をと
    っていたのだが、第一次大戦でかつてない経済的混乱に陥り、
    各国は金を自国内に温存しようとして禁輸措置をとっていた。
    
     しかし、戦後は欧米諸国は次々と金解禁を行って、金本位制
    に戻り、昭和3年の時点で残るは日本とスペインだけという情
    況だった。金本位制という安定装置を持たない日本は、国内外
    の投機筋に狙われて国内産業は為替差損の痛手を受け、また欧
    米諸国から「通貨不安定国」とのレッテルを貼られて借款もま
    まならない状態だった。
    
     ただ問題は、大戦前の100円で50ドル弱という「旧平
    価」で解禁するのか、実勢の「新平価」(浜口内閣誕生時点は
    約43ドル)で行くか、という点だった。円安の新平価なら苦
    労はない。しかし、遠回りでも正道を行く気性の浜口は、国を
    挙げての体質改善で国際競争力を強め、円の価値を戻して、旧
    平価での解禁を狙った。
    
     浜口は、金解禁を翌年1月11日に実施した。国民の大多数
    は、これを長年の一大懸念問題の解決として、浜口、井上に歓
    呼の声を送った。その勢いに乗って、解禁の40日後に行われ
    た総選挙では、民政党は273議席を占め、政友会の174議
    席に圧勝した。

■4.軍縮への堅き決心■

     浜口がもう一つの重大使命としたのが、昭和5年1月21日
    から開かれたロンドン軍縮会議である。先に締結されたワシン
    トン条約での主力艦の削減に続いて、この会議では残された補
    助艦の制限が討議された。国防は「必ずしも戦はんが為の国防
    にあらず、光輝あり威厳ある平和を維持せんが為」と考える浜
    口にとって、軍縮による国際協調と国民負担の軽減は金本位制
    復帰と両輪をなす重要課題であった。
    
     対米7割を要求する海軍と、6割を主張するアメリカとのは
    ざまで、全権団は約3ヶ月の交渉の末、大型巡洋艦では約6割
    だが、補助艦全体ではほぼ7割という最終案をまとめあげた。
    海軍省は一応納得したが、海軍軍令部は大反対で、新聞に反対
    声明文を掲載させるという未曾有の紛糾に陥った。
    
     浜口は「自分が政権を失うとも、民政党を失うとも、また自
    分の身命を失うとも奪うべからざる堅き決心なり」と不退転の
    決意を見せた。昭和天皇からも「世界の平和のために早く纏め
    る様努力せよ」との御言葉があり、勇気百倍の境地で中央突破
    を目指した。4月1日の閣議では、全員一致で原案を可決し、
    軍令部の反対を押し切った。
    
     4月13日、昭和天皇は駐日英国大使に対して、「ロンドン
    海軍会議が特に日米英三国の強調に依り満足な結果を期待し得
    る事態に至りてはこの上もなく悦(よろこ)ばしき」と語られ
    た。議会での批准を終えた10月27日、日英の首相と、米大
    統領が同時刻にラジオ放送するという画期的な形での発表を行
    った。浜口は次のように語った。
    
         現在世界は列強互いに相敵視して、ややもすれば力に訴
        えてまでも自国の利益を開拓せんとしたる所謂「冒険時
        代」を既に経過しまして、今や各国互いに相信頼して共存
        共栄を計る所の「安定化時代」に到達して居るのでありま
        す。

■5.内外の暴風雨■

     一方では国民を説得して抜本的な財政改革に取り組み、他方
    では軍部強硬派を押さえ込んでの軍縮実現と、浜口内閣は「戦
    前議会政治の頂点」[2,p215]と呼ばれる実績を短期間であげた。
    しかし不運だったのは、世界経済の暴風雨と国内政党政治の未
    熟さとが、実際の改革成果を見るまでに内閣を長続きさせなか
    った点だ。
    
     金解禁の3ヶ月ほど前、10月24日にアメリカの株式市場
    がバブル崩壊し、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株価暴落を引き
    起こした。当時は、これが世界恐慌の始まりと気づいた人はほ
    とんどいなかった。しかし、アメリカでの生産活動の急激な縮
    小によって、日本からの主要な輸出品である生糸価格が3月初
    めには金解禁前に比べ22%、5月には35%、翌6年には5
    9%も下落した。引き続き米価も暴落して、農村では一家離散
    や娘の身売り、小作争議が横行した。
    
     貿易不振のために、製造業も行き詰まり、倒産、首切り、賃
    下げ、ストライキの嵐が吹き荒れ、都会にあふれた失業者が東
    海道などを歩いて帰郷する姿が目立った。昭和恐慌である。
    
     一方軍縮に関しては、犬養毅率いる野党・政友会が議会で浜
    口内閣を「統帥権干犯」と攻撃した。統帥権、すなわち、軍事
    力の最高指揮・命令権は政府から独立して天皇に直属すると考
    えられていたが、政府が海軍軍令部の承認を得ずに兵力量を決
    定することは統帥権の独立を犯すものとの批判を展開した。
    
     軍部を議会政治の統制下に置こうと苦心する浜口内閣の足下
    をすくうような政友会の主張は、「政党の自己破壊的行動」だ
    った。[2,p177]
    
■6.上下に対して申し訳がない■

     11月14日朝、浜口は岡山での陸軍大演習に立ち会うため
    に東京駅に向かった。昨年7月の就任以来、財政再建、金解禁、
    軍縮と立て続けに大きな課題を片づけて、久しぶりの息抜きだ
    った。ホームには人が溢れていた。今までは首相が乗降する時
    は、一般客を入れないようにしていたのだが、浜口はそれをと
    りやめさせていた。これが仇になった。
    
     人垣の中から現れた男が3メートルの至近距離から浜口を狙
    撃した。下腹部に銃弾を受けた浜口は前に崩れ折れた。犯人は
    右翼結社に属し、不景気と統帥権干犯を襲撃の理由に挙げた。
    1時間半の手術で、浜口はなんとか一命をとりとめたが、長期
    の入院治療を余儀なくされた。
    
     岡山での演習に行幸中の天皇は、安達内相が報告にあがるな
    り、「浜口はどうか」と聞かれ、安達が手帳を見ながら症状を
    報告しようとすると、もどかしそうに手帳をとりあげ、それを
    読みながら御下問になった。
    
         何れ一度は死ぬる命だ。国家のために斃(たふ)るれば
        寧ろ本懐とする所だ。併(しか)し余の負うたる責任丈
        (だ)けは解除してからでなければ上下に対して申し訳が
        ない。
        
     こう言う浜口は、入院の翌日から1日2、3回にわたって、
    経済の建て直しなどに今後とるべき政策を述べて、口述筆記を
    させた。筆記は便箋10枚にも及んだ。

■7.命にかかわるなら、約束を破っていいというのか。■

     幣原外相を首相代理に任命して、療養を続ける浜口に毎日全
    国から多数の見舞いの手紙が届いた。天皇も浜口の身を案じて、
    毎日のように宮中から牛乳やスープを届けさせた。翌昭和6年
    1月22日、浜口は退院して自宅療養に入った。2月19日、
    3月上旬の予算審議には登院すると、幣原首相代理に本会議で
    約束させた。
    
     しかし、登院を約束してから症状が急に悪化し、床から起き
    あがれないほどに衰弱してしまった。約束した登院の日が近づ
    く。閣僚や党幹部も浜口の衰弱ぶりに驚いて、登院を見合わせ
    るよう勧めた。医者も「命は保証できない」と絶対反対である。
    しかし浜口は聞かない。
    
         議会で約束したことは、国民に約束したことだ。出ると
        いって出ないのでは、国民をあざむく。宰相たるものが嘘
        をつくというのでは、国民はいったい何を信頼すればいい
        のか。
        
         命にかかわるなら、約束を破っていいというのか。自分
        は死んでもいい。議政壇上で死ぬとしても、責任を全うし
        たい。
        
■8.獅子の死■

     3月9日、正装して官邸に姿を見せた。待ち受けた記者団は、
    衰弱した浜口の姿を見ても、「御回復おめでとうございます」
    と言わざるをえない。力を振り絞って、「ありがとう。もう大
    丈夫です。」と言う浜口に、記者達はもう返す言葉がなかった。
    拍手が湧き、記者達の「万歳」の声が官邸の廊下にこだました。
    だが奥に入ると、浜口は倒れ込み、そのまま翌朝まで起きあが
    れなかった。

     翌日、午後2時に衆議院本会議場に入る。議員たちは総立ち
    で、激しい拍手を送った。懸命に演壇に立って、療養中、国事
    を議することができなかった事を詫び、昨日をもって総理大臣
    の職務に復帰した、と挨拶した。政友会の犬養総裁が、政敵の
    立場を離れて、心のこもったいたわりの言葉を述べた。ふたた
    び、拍手の嵐の中を浜口は退場した。
    
     それから議会終了の3月27日まで、浜口はよろけるように
    演壇に向かい、かすれ声で答弁を行う日々が続いた。政府提出
    法案72件はすべて衆議院を通過した。議会で体力を使い果た
    した浜口の症状は急速に悪化し、4月4日、再入院。首相を辞
    任した。わずか650日の在任期間だった。
    
     再手術、再々手術と繰り返したが、8月26日、激しい発作
    が起こり、臨終を迎えた。8月29日、日比谷公園で行われた
    葬儀には昭和天皇の代拝以下、政府、党関係者から、軍縮問題
    で対立した海軍高官まで2千人が参列した。一般の告別に移る
    と、待ちかねていた数万の民衆が殺到した。事実上の国民葬で
    あった。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 城山三郎、「男子の本懐」★★★、新潮文庫、S58
2. 波多野勝、「浜口雄幸」★★、中公新書、H5
   

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