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■■ Japan On the Globe(277) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        人物探訪: 保科正之 〜 清冽なる名君

         保科正之は、会津藩領民に仁政を施し、将軍家綱の後見役
        として「徳川の平和」の礎を築き上げた。
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■1.心配り■

     信州高遠(たかとう)藩3万石の小大名・肥後守(ひごのか
    み)保科正之(ほしな・まさゆき)が徳川第2代将軍秀忠が側
    室に生ませた子だという事が知れ渡ると、いまのうちに正之に
    取り入っておこうと、近づいてくる大名があらわれた。
    
         お上(3代将軍家光)とこなたさまとが血を分けた間柄
        におわすことは、まことに祝着。それがしから御老中がた
        に働きかけ、早う天下にこれをあきらかにするよう進言い
        たしてもようござる。
    
    「お志は、まことにありがたく存じます」と正之は慇懃に礼を
    述べつつ、
    
         しかし、それがしは幼くして高遠保科家に養子入りし、
        それがしをこよなく慈しんでくれた先代の死にともないま
        して家督を相続いたした者。これすなわち台徳院(秀忠)
        様の台命(将軍の命令)によりましたるところなれば、い
        まさらいらざることをお上に申し出てご迷惑をおかけする
        のもいかがかと存じます。されば、お気持ちのみ頂戴つか
        まつります。
        
     ついに自分の子供と世間に認めることなく逝った父・秀忠を
    恨むことなく、その遺志に義理立てし、また自分を受け入れて
    くれた高遠保科家への感謝を忘れず、かつ、言い寄ってくる人
    びとにも恥をかかせない、という、心配りをする正之だった。
    
■2.家光と正之■

     ひょんな事から、正之が自分と血を分けた異母弟であること
    を知った家光は、素知らぬふりをしてその観察を続けた。弟と
    いうだけでつけあがるような人物では政道の障りになりかねな
    い。現に家光の実弟・忠長は増長して、百万石か大坂城を欲し
    いと父・秀忠に要求して、その勘気に触れ、蟄居を命ぜられて
    いた。
    
     しかし、正之の素行を見ていると、これはいずれ徳川の天下
    を支えてくれる器量の持ち主なのでは、と家光は思い始めてい
    た。そこでさらに正之の人物を見るために、老中を通じて秀忠
    の廟地の建設を命じさせると、「それはまことでござります
    か」と目を見張って尋ね、「ありがたくお受けします」と答え
    た時には、感激のあまり目を潤ませていた、という。正之は自
    ら毎日、工事を熱心に監督し、予定通り廟地を完成させた。
    
     ついで、家康の17回忌の法要に、日光までの供奉を命じた。
    取り巻きも少ないので、頃合いを図って、自らの素性を打ち明
    けるかと思ったが、正之は身分通りの席に大人しく控えている
    だけであった。その奥ゆかしさに家光は感じ入った。
    
     江戸城内で大名たちがいならぶ部屋のそばを家光が通ると、
    正之は敷居際の末席に座り、おとなしく年長者たちの話に耳を
    傾けている。家光が聞こえよがしに「肥後(正之)の上座につ
    ける身でもあるまいに}とつぶやいてみせた。その話はたちど
    ころに広まり、次に正之が登城して、いつもどおり末席につこ
    うとすると、大名たちは慌てふためいて、「肥後殿、もそっと
    こちらへ」と上座に差し招く。それでも正之がにこやかに遠慮
    して末席を動かずにいると、大名たちはぞろぞろとその下座に
    移り、部屋はからっぽなのに、廊下にばかり人があふれるとい
    う珍妙な光景になってしまった。
    
     その後しばらくして家光が、品川の馬見場で諸流の馬術を見
    ようと、旗本たち40、50人を従えて中央の席についた。つ
    と家光は立ち上がって、大きな声を出した。「保科肥後守は、
    まいっておるか。」右端の最後列にいた正之は「ここにおりま
    する」と静かに答えて立ち上がった。将軍が満座の中で特定の
    個人に呼びかけるのは、きわめて異例のことであった。
    
    「おお、さようなところにおったのか。そこでは、ちと話が遠
    い。余の座敷がまだあいておるから、これへまいれ。」家光は
    正之を自分の弟と認めたことを、満座の中で示したのだった。
    
■3.憎しみと慈しみと■

     正之は慶長16(1611)年、今の浦和宿の近くで生まれた。母
    お静は将軍・秀忠の寵愛を受け、身籠もったが、正室・お江与
    の方の脅迫に耐えきれずに、大奥を逃げ出して、尼・見性院の
    もとに匿われていたのだった。見性院は武田信玄の次女で、か
    つてお静が女中奉公をしていた大うばさま(秀忠の乳母)の古
    い友人であった。
    
     正之が生まれた事を知らされると、秀忠は松平家の一字をと
    って「幸松」と名付け、見性院の子として育てるよう命じた。
    江戸城に引き取ったら、お江与の方に何をされるか分からない、
    と思ったのであろう。その後、お江与の方が老女を寄越して、
    脅迫めいた事を伝えたが、見性院は「たとえ御台様(お江与の
    方)のおとがめがありましょうとも、幸松は我が子」と堂々と
    突っぱねた。
    
     幸松が7歳を迎えた頃、女手だけでは武士としての躾ができ
    ないと、見性院はかつての武田家の武将・保科正光に幸松の養
    育を頼んだ。律儀な保科正光は武田家が滅び、徳川家に召し抱
    えられてからも、かつての主君の娘として見性院に挨拶や付け
    届けを怠らなかった。正光は甥を養子として家督を継がせる考
    えでいたが、見性院のたっての願いに幸松を跡継ぎとして引き
    取ることとし、秀忠もそれを許した。
    
     こうして正之は幼少の頃から、お江与の方の憎しみに翻弄さ
    れながらも、見性院や正光の慈しみに守られて育っていった。
    
■4.「足るを知る」■

     信州高遠城に移った幸松は、武士として厳しく育てられた。
    厳しい冬の寒さにも、公の行事の時以外は素足で過ごし、毎朝、
    霜の降りた庭に裸足で踏み出して、「えい、えい」と素振りを
    繰り返す。
    
     守り役としてつけられた正光の叔父・正近(まさちか)は、
    幸松を領内の巡回に連れ出しては民情を学ばせた。たとえば、
    喉が渇いて井戸の水を飲もうとする際にも、農家の庭先には馬
    を乗り入れてはならないという。庭先に干されている作物を馬
    が食べるようなことがあっては、農民のやる気を萎えさせ、藩
    の収入の減少となる、というのである。
    
     井戸端に近づくと、農民が飛び出してくるが、正近はいつも
    それを制してみずからの手で井戸のつるべをたぐって、水を飲
    んだ。農民をあごで使うのではなく、農民の気持ちの分かる藩
    主に育って欲しい、と正近は無言で幸松に教えていたのだった。
    
     また城下には、あんずや梅、柿、くるみなど実のなる木が多
    く植えられているのは、飢饉の年のための用心である、と説い
    た。領民を守ることこそ、藩主の使命であることを、幸松は学
    んでいった。
    
     やがて幸松は死期を悟った見性院から、自らが将軍の子であ
    ることを知らされる。一時は、実の父ながら、直接に会うこと
    すらしてくれない秀忠に怒りを持ったこともあったが、「自分
    は将軍家の血筋であって、本来ならばこんな草深い高遠などに
    生い育つべき身ではないのだ」などと思っては、見性院、正
    光・正近らに申し訳ないと気がついた。「足るを知らねばなら
    ない」、それは自分にとっては領民に善政を施し、やがて譜代
    の保科家の当主として将軍家に忠勤に励むことだ、そのような
    覚悟が清冽なる精神を育てていった。
    
■5.仁政こそが、国力を充実させる■

     異母弟と公式に認められてから、正之は将軍・家光に順調に
    引き立てられていった。寛永13(1636)年には出羽国最上山形
    20万石へと移封された。奥州の押さえとして期待されたので
    ある。寛永20(1643)年にはさらに加増されて会津藩23万石
    に移された。この地で、正之の仁政が花開いていく。
    
     正之は豊作の年に、年貢米とは別に米を7千俵ほど買い上げ
    て「社倉」を設けた。これは飢饉の時に、民を飢餓から救うた
    めの備蓄である。また火事で焼け出されたものや、領外からき
    た農民、新田を開発した農民にも、社倉米を分け与えた。社倉
    が充実してからは、会津藩では飢饉の時にも餓死者を出すこと
    はいっさいなくなった。
    
     前藩主の残した悪政の一つに「負わせ高」があった。耕作不
    可能な土地まで田畑と見なして年貢を課すのである。正之はこ
    の税を即刻廃止するよう命じた。2万石の減収が予測されたが、
    そんな事は構わなかった。しかし、この通達が各村に伝わると、
    農民たちは喜びのあまり、それまで藩に隠していた田畑をつぎ
    つぎと申告し、その年貢も納められるようになって、逆に3千
    石以上の増収となった。「ひたむきな心で接すれば、領民たち
    も心を開いてくれるものだな」と正之は感じ入った。
    
     正之はさらに村々で孝子を表彰しては褒美をとらせ、90歳
    以上の老人にはすべて十二分に食べていけるだけの扶持米を支
    給した。これは日本で最初の養老年金制度である。勤勉に働い
    ていれば、飢饉の不安なく暮らしがなりたち、また年取って働
    けなくなっても気兼ねなく長生きできるようになった。村々に
    は白頭の老人の姿が目立ち、寿命の伸びが感じられるようにな
    った。
    
     食い詰めて離村するものもいなくなり、赤ん坊の間引きとい
    う悪習も禁じたために、慶安元(1648)年に11万人あまりだっ
    た会津藩の人口は急増していき、70年後には17万人近くに
    達することになる。仁政こそが、国力を充実させる源であるこ
    とを、正之は証明していった。
    
    「肥後殿は、さすがにお上の実の弟君。近ごろ希な名君かも知
    れぬ」という声が、諸大名から聞こえるようになっていった。
    
■6.第四代将軍・家綱の補佐役として■

     江戸にあっては、正之は将軍家光の補佐役として、幕政を支
    え続けた。慶安4(1651)年4月、家光が50歳にもならないの
    に、急に病に倒れると、正之は臨終の床に呼ばれた。
    
         ひ、肥後よ。弟よ。大納言(次期将軍・家綱)はまだ
        11歳じゃ。そちに、頼みおくぞ。
        
     声涙下る思いで、正之は答えた。「その儀におきましては、
    どうかお心安んじて下さりませ。」
    
    「ああ、それを聞いて、余は安心いたした」 こう言うと家光
    の呼吸は急に切迫し、しばらくして息を引き取った。
    
     この時から正之は第四代将軍・家綱の後見役として、幕政の
    中心人物の一人となり、家綱政権の3大美事と言われる末期養
    子の禁の緩和、殉死の禁止、大名証人制度の廃止を政策として
    打ち出していった。
    
     末期養子とは、大名が跡継ぎを定めないまま急死した場合、
    死後に養子届けをして家督を相続する事である。それまで末期
    養子が禁止されていたために藩がお取りつぶしとなり、それが
    大量の牢人発生の原因となっていた。正之はこれを50歳まで
    の者には、死亡後の養子縁組を許し、家督相続を認める事とし
    た。
    
     また大名証人制度とは、諸大名から正室や長男を人質として
    江戸に住まわせるという非人間的な制度である。殉死の禁止と
    あわせて、正之の政策の根底には常に暖かいヒューマニズムが
    流れていた。

■7.天下とは民あってのものなれば■

     正之は制度改革のみならず、江戸の都市政策にも努めた。当
    時、50万人と見られる人口を抱える江戸での最大の問題は水
    不足であった。作事奉行が、武州羽村から13里(50キロ)
    ほどの水路を造って多摩川の水を引く、という提案を行った。
    
     この案に63歳になる幕府大番頭の井伊直孝が反対の声を上
    げた。その上水に沿って、敵の大軍が侵入してきたらどうする
    のか、というのである。
    
     その下座にひかえていた正之はおだやかに尋ねた。
    
         掃部頭(かもんのかみ、直孝)さまの仰せはごもっとも
        ですが、ひとつだけお教えいただきけますまいか。いま、
        敵の大軍ということばが出ましたが、それはいったいいず
        れの家中を念頭に置かれてのことでございましょうか。
        
     これには、直孝もぐっとつまった。豊臣家が大阪城に滅んで
    からすでに37年、江戸を狙う敵の大軍など考えにくかった。
    
         掃部頭さま仰せのごとく、一国一城を守る小城において
        は堅固をもって第一とすべきでありましょう。しかしこの
        お城は天下の府城、将軍家の御座城でござります。その天
        下とは民あってのものなれば、府城は万民の利便を思い、
        日々の暮らしを安んずることをもって旨といたすべきかと
        存じまする。
        
    「それならば」と直孝もさっぱりと自分の意見を取り下げた。
    こうして玉川上水が開削され、それから350年後の今日も東
    京都民に飲み水を供給しつづけている。また従来、水不足のた
    めに未開の原野だった多摩地方は、この上水により、水田耕作
    が可能となり、新田の数は40カ村以上に達した。

■8.「徳川の平和」■

     明暦3(1657)年1月、猛火が江戸を襲った。3日2晩に渡っ
    て、江戸の町の6割を焼き尽くし、10万人以上の焼死者が出
    た。江戸城の天守閣もこの時に焼け落ちた。正之は自らの家屋
    敷を構わずに、火事装束姿で江戸城に詰め、将軍の身を守った。
    
     その最中に、幕府天領からの年貢米100万俵以上を保管す
    る隅田川沿いの米倉に火がついたとの報が入ると、正之はすか
    さず「飢えたものは、火を消して米倉から米を持ち出せ。持ち
    出した米を取るのは勝手次第」と触れ回らせた。避難民たちが
    火消しに転じ、また持ち出された蔵米が救助米となるという一
    石二鳥の策だった。
    
     この策によって、米倉は全焼を免れた。正之は火事が収まる
    と、難民救済のために、各地で炊き出しをさせ、さらに家を失
    った町民たちに再建費として総額16万両を与えた。会津藩の
    年収に匹敵する金額である。閣老たちから、幕府の御金蔵が空
    になってしまう、という声が出ると、正之は「官庫のたくわえ
    と申すものは、すべてかようなおりに下々へほどこし、士民を
    安堵させるためにこそある」と説いた。
    
     この後、正之は江戸の再建にあたって、主要道路の道幅を6
    間(10.9m)から9間(18.2m)に広げ、火除け空き地として上野
    広小路を設置し、芝・浅草両新堀の開削、神田川の拡張などに
    取り組んだ。江戸という当時、世界最大の都市の輪郭は、実に
    この時に定まり、211年後に東京と改称されるまで、ほぼ同
    じ姿を保ち続けていく。
    
     後に、江戸城の天守閣再建の提案が持ち上がったが、豊臣家
    の大坂城を見ても天守閣が戦さのおりに役だった験しはなく、
    「いまはかようの儀に国家の財を費やすべき時にあらず」と反
    対した。江戸城の天守閣はついに再建されることなく、幕末に
    至る。
    
     天守閣なき江戸城は、長く続いた「徳川の平和」の象徴であ
    る。その平和の基礎を築いたのが、正之の仁政であった。

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 〜ケネディ大統領が尊敬した政治家〜
   自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも
  美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(144) 細井平洲〜「人づくり」と「国づくり」
   ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井平洲
  の「人づくり」の学問が生みだした。
262 JOG(262) 恩田杢 〜 財政改革は信頼回復から
   性急な増税で農民一揆を招いた前任者の後で、恩田杢は農民との
  対話集会から改革を始めた。
   
■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 中村彰彦、「名君の碑」、文春文庫、H13
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

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