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■■ Japan On the Globe(285) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■

             人物探訪:塙保己一 〜 盲目少年の志

        盲目の少年の学問への志は、周囲の人びとに大きく育て
       られ、後の人びとに受け継がれて大事業を成し遂げた。
■■■■ H15.03.23 ■■ 38,539 Copies ■■ 762,031 Views ■

■1.「三重苦の聖女」と「盲目の国学者」■

     昭和12(1937)年4月26日、見えず聞こえず話せずの「三
    重苦の聖女」と呼ばれたアメリカのヘレン・ケラーが、東京渋
    谷にある温故学会のビルを訪れた。彼女はここに保管されてい
    る盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)の鋳像や愛用
    の机に手を触れながら、幼いころ母親に日本の塙保己一の偉業
    と不屈の精神を教わり、自分も発奮したとして、次のように語
    った。
    
         塙先生こそ私の生涯に光明を与えてくださった大偉人で
        す。本日、先生の御像に触れることができましたのは、日
        本における最も有意義なことと思います。手垢のしみたお
        机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の
        念を覚えました。先生のお名前は、流れる水のように永遠
        に伝わることでしょう。

     塙保己一は延享3(1746)年に武蔵国保木野村(埼玉県児玉
    町)に生まれ、幼くして病により失明したが、江戸に出て学問
    に打ち込み、41歳から30年以上をかけて日本の古書古本を
    1273点収録した「群書類従」を編纂した。ここには法律、政治、
    経済、文学から、医学、風俗、遊芸、飲食まで、あらゆるジャ
    ンルの文献が収められており、群書類従なくしては日本文化の
    歴史を解明することは不可能だ、とまで言われている。
    
■2.書物好きの按摩■

     当時は江戸幕府の保護のもとで、盲人だけの按摩や鍼(は
    り)、三味線、金貸しなどの職業組合があり、厳格な徒弟制度
    が敷かれていた。保己一(こう名乗ったのは後のことである
    が)は15歳にして江戸に出て、検校(けんぎょう)という位
    についている雨宮須賀一(すがいち)のもとに弟子入りした。
    しかし按摩や鍼の修行には身が入らずになかなか上達もしない。
    このまま雨宮に迷惑をかけるだけでは死んだ方がましだと、あ
    る日、九段坂の近くの牛ヶ渕に身を投げようとした所をあやう
    く家の下男に救われた。
    
     連れ戻された保己一を雨宮は激しく叱責した後に、こう聞い
    た。
    
         お前は何かほかのことに気がいっているのではないか。
        申してみよ。お前が国元を出て江戸に来たのはなにかしら
        強い望みがあってのことだったろう。
        
     師匠のこの言葉に、保己一は泣きじゃくりながら、本当の望
    みを口に出した。
    
         お師匠さま。私は学問がしたいのです。そのことばかり
        考えてほかのことに身を入れることが出来ませんでした。
        どうか、お許しくださいませ。
        
     そういう保己一の中に何かすごい力がこもっている事を、雨
    宮は感じ取った。

         そうか、そうか。よく分かった。お前の頭のよいことは
        よく分かっておった。実技のほどはからきし駄目だという
        のに、医学書は一度聞いたら一字一句覚えてしまうお前に
        は、実のところ驚かされたよ。盲人でも学問をして歌人や
        学者になったものが今までにいなかったわけではない。だ
        が、学問となったら、わたしには教えてやることが出来な
        いよ。はてさて、どうしたらよいかのう。
        
     どうしたら良いか分からないが、とりあえず3年間は自分の
    所で学問に励むがよいと雨宮は言ってくれた。
    
■3.ひろがる噂■
    
     それからの保己一は本を貸してくれるという人の噂を聞いて
    は尋ねていき、読んでくれるという人を捜し求めた。
        
         雨宮検校の所に、珍しい書物好きの弟子がいるそうだ。
        
         そうそう、なりふり構わず書物を持ち込み、誰かれとな
        くつかまえては読んでくれと頼みこんでな。その真剣さと
        言ったら並じゃないっていうことだよ。
        
     やがてこんな噂が広まっていった。保己一の書物好きを知っ
    て、下手な按摩ながらひいきにしてくれる人も出てきた。そう
    いう人には保己一は心をこめて身体を揉み、それが終わると書
    物を読んでもらった。お礼として按摩代はいただかないことに
    していた。
    
     全神経を集中して聞いている様に読む人は感動し、一度聞い
    た書物は全部覚えてしまい、次に訪ねたときは意味が分からな
    かった箇所をたずねたりするので、読み聞かせた方が驚いてし
    まう有様だった。
    
     雨宮検校の隣屋敷に松平織部正(おりべのかみ)乗尹(のり
    ただ)という旗本が住んでいた。書物をたくさん持っており、
    大変な勉強家であった。保己一の噂を聞いて、ひどく感心し、
    自分から本を読んでやろうと申し出た。乗尹は公務が忙しいの
    で、一日おきに寅の刻(朝4時)から卯の刻(8時)までなら
    読んでやろうと言うのである。「どうかな、ちと早くて辛かろ
    うが」という乗尹に、感激した保己一は「必ず伺います」と頭
    を下げた。
    
    「どのような書物が好きなのかな」と聞かれると、「一番好き
    なのは歴史ものです。国の故事に暗くてはならないと思いま
    す」と答えた。
    
     寅の刻といえば、外はまだ薄暗く、人々はまだ眠っている時
    間である。乗尹の力のある声が響き、保己一は微動だにせずに
    聞き入った。やがて日が昇り始めると、あたりに物音がし始め
    る。時間がくると、保己一はお礼の気持ちに心をこめて乗尹の
    肩を揉んだ。保己一にとっては待ち遠しい時刻となった。

■4.学者への道■

     しばらくして乗尹は、保己一に言った。
    
         わしの所には毎月、「源氏物語」や和歌の講義をしてく
        れる萩原宋固(そうこ)という先生が来る。お前も一緒に
        講義を聞いてみてはどうか。
        
    「源氏物語」という本の名は幼い頃、母におぶわれて目医者に
    通っていた頃に聞いた覚えがあった。保己一はとびあがる思い
    で「はい、どうか私にも講義を聞かせてくださいませ」と答え
    た。
    
     講義の日には座敷の隅に座って、じっと聞き入る保己一の姿
    に宋固も心を動かされていった。そこで講義の後に、保己一を
    呼んで今まで講義したことを尋ねてみた。保己一は的確に答え
    ただけでなく、難解だった点をいくつか上げて宋固の意見を求
    めた。宋固は問いに答えつつ、内心舌をまいた。
    
     乗尹は保己一をぜひとも宋固の門人に加えてやりたいと思い、
    雨宮検校の所に行って、保己一の比類のない才能について話し、
    きちんと系統的な学問をさせる必要を説いた。雨宮にも異存は
    なかった。こうして保己一は宋固の門人として学者への道を歩
    み出すことになる。

■5.自分に与えられた天命■

     保己一はいつも穏やかに人に接することを自分に誓っていた。
    学問をするには短気を起こしてはならない、感情に左右される
    ようなことではいけない、と思っていたからである。貧富で人
    をわけへだてることはなく、犬や馬にさえ大声で叱ることもな
    かった。日々の暮しは学問第一、粗末な食事に、冬でも足袋な
    しで過ごし、少しでもお金ができると書物を買った。
    
     保己一の噂を聞いて、大名家からも藩で秘蔵している本を持
    ち込んで、正統な典籍かどうか調べて欲しいという申し込みが
    舞い込むようになった。あちこちに埋もれていた貴重な書物が
    次々に保己一のもとに集まってくる。
    
         そうだ。古書、古本の保存研究こそ、まだ誰もやってい
        ない事業だ。前人未踏のこの事業こそ自分の成すべき仕事
        ではないか。
        
     こう気づいた保己一は、村田晴海の「和学大概」に古書古本
    の研究の大切さが説かれているのを思い出した。
    
         すべて学問をするには古からの日本の国体を知らねばな
        らない。国体を知るには古書の研究が必要であるが、そう
        したことを好む人びとが少ないために古書が失われて、百
        年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。これは
        太平の世の恥である。誰かこれを研究して後の世に残した
        なら、それこそ国の宝となるであろう。
        
     あちこちに散らばっている古書古本は、放っておけば活用さ
    れることもなく朽ち果てていくであろう。これらを叢書として
    まとめた形で、新たに版を起こして出版すれば、後世の研究者
    にとって大きな助けとなる。これこそ自分に与えられた天命だ
    と思われた。安永7(1778)年の暮れも押しつまった深夜、保己
    一33歳の時であった。

■6.「群書類従」■

     保己一は叢書の名を「群書類従」とした。価値ある古書の群
    れを類に分け、系統的に位置づける。類としては「神祇」「帝
    王」「補任」「系譜」など25。たとえば物語部には「伊勢物
    語」「竹とりの翁の物語」、日記部には「和泉式部日記」「紫
    式部日記」、紀行部には「土佐日記」「さらしな日記」、そし
    て雑部には「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「十七箇条憲
    法」まで、今日の我々が古典古文として習う多くの書物が収め
    られている。
    
     しかし単に古書古本をまとめて再出版するというだけ作業で
    はない。まず各地に散在している資料の収集だけでも一苦労だ。
    たとえば平安初期にまとめられた「日本後紀」50巻が行方知
    れずになっていた。それが京都の公家の所にあるらしいと伝え
    聞いた保己一は、門人を京都に派遣して探させた。門人は京都
    を探し回って、ようやく伏見宮家にとびとびの10巻があるこ
    とを突き止めた。しかし伏見宮家は外部の人間に見せてくれな
    い。
    
     そこで門人は策を練って、まず伏見宮家の家司と酒友達とな
    り、そのうちに家に泊まてもらえるようになった。そしてそう
    いう晩には書物を夜の間借りて読むことを許されたので、ひそ
    かに10巻全部を写しとったのである。

     日本後紀は、日本書紀に始まる我が国の六つの代表的な国史
    「六国史」の一つである。保己一の志とこの門人の熱意がなか
    ったら、日本後紀は現在に伝わらなかったかもしれない。

■7.刊行開始■

     また集まった古書をそのまま印刷するわけではない。それが
    原書であり、後世に残す価値のあるものでなければならない。
    保己一は集めた書物をつねに3人の門人に読ませて、正しいと
    思われるものをとっていった。
    
     印刷は板木で行う。専門の板木師が1枚の板に20字10行
    を一頁として、左右2頁を逆向きに彫っていく。これが今日の
    400字詰め原稿用紙の基となった。彫った後の文字の修正は、
    その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木
    する。板木は両面を彫り、1枚で原稿用紙2枚分となる。群書
    類従全体では、この板木が1万7千枚以上となった。
    
     印刷は板木に墨をしみこませ、2回目の墨をぬった上に和紙
    をのせ、竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこする。
    字の大きさや文字数により、力の加減を微妙に調整しなければ
    ならない。
    
     天明6(1786)年2月、保己一はまず平安時代から鎌倉時代に
    かけての説話集である「今物語」を刊行し、上々の評判を得た。
    この「今物語」を見本として、群書類従の広告文を作り、予約
    の募集を始めた。今物語と同じ仕立てで、12百余種の文献を
    25の類に分けて、600冊余りの叢書とすること、毎月1、
    2冊づつ刊行し、刊行部数は200部、値段は紙10枚で6分
    2厘、仕立て4分5厘、等々。保己一41歳。志を立ててから、
    はや7年以上の年月が流れていた。

■8.火にも負けず■

     寛政4(1792)年7月、麻布あたりから出火した火の手はなお
    遠かったが、保己一は風の様子からこれは危ないと感じて門人
    たちに避難を命じた。群書類従の出版のさなか、家の中は今ま
    で苦労して集めた書物や、他家より借り受けた書籍で一杯であ
    る。やがて火の手はとめどもなく広がり、保己一の家も全焼し
    た。かなりの書物は運び出したものの、板木は多くを焼失した。
    
     焼け跡に立つ門人たちは絶望して、「群書類従の出版はもう
    諦めるしかありません」と言い出す。「なにをいうか。みんな
    元気な身体があるではないか。しばらくは中断するとしても、
    また始めるべく手はずを整えていこうではないか。」

     時の老中・松平定信は文武両道に秀で、寛政の改革に当たっ
    て学問を奨励していた。保己一は翌年、和学講談所および文庫
    を建設する用地の拝借願いを幕府に出し、300坪の無償借用
    が許された。また建物の建設資金350両も貸しつけ、さらに
    毎年50両の資金援助もなされることとなった。今までは売上
    があがってからそれを次の出版資金とするという形であったの
    で8年間で43冊しか出せなかったが、この後、毎月4冊刊行
    の見通しがたった。
    
     当時は旗本やご家人などの暮らし向きも苦しかったので、優
    れた人材が和学講談所に集まって、写本や筆耕などの仕事に加
    わるようになった。講談所ではいつも書を読み合う声、板木を
    彫る音、さらさらと紙を繰る音が溢れていた。
    
■9.受け継がれた志■

    「群書類従」670冊が完成したのは文政2(1819)年、保己一
    は74歳となっていた。思い立ってから41年目のことであっ
    た。同時に「続群書類従」の調査、書写が進んでおり、出版が
    始められたが、保己一はこの2年後に他界した。享年76歳。
    
     和学講談所は維新後に明治新政府によって再建され、後に東
    京大学史料編纂所となった。また続群書類従は明治35年に活
    版で刊行が開始され、関係者の努力によって昭和47(1972)年
    に完結した。
    
     盲目の少年の学問への志は、周囲の人びとによって大きく育
    てられ、さらに後の人びとの心に受け継がれて大事業を成し遂
    げたのである。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
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   ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井平 
   洲の「人づくり」の学問が生みだした。
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   水準を実現した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 花井泰子、「塙保己一の生涯」★★★、紀伊國屋書店、H8
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

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