[トップページ][平成15年一覧][地球史探訪] [210.69 世界の中の大日本帝国][234 ドイツ・中欧][319 国際親善(欧米)]

■■ Japan On the Globe(323)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        地球史探訪: 日本・ポーランド友好小史
        
         遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も
        続いてきた。
■■■■ H15.12.13 ■■ 38,687 Copies ■■ 1,022,734 Views■

■1.善意と友好の地下水脈■

     冬の最中にポーランドの古都クラクフに来ている。ホテルの
    窓から見ると、うっすらと雪化粧した街並みを見おろすように
    歴代ポーランド王の居城だったヴァヴェル城がそびえている。
    
     ポーランドは日本からはなじみの薄い国で、一般の人はせい
    ぜいショパンやキューリー夫人くらいしか知らないだろう。し
    かし両国の間には善意と友好の歴史が百年もの間、人知らぬ地
    下水脈のように流れている。
    
     弊誌142号「大和心とポーランド魂」では、20世紀初頭に
    シベリアで困窮していたポーランド人孤児765名を帝国陸軍
    と日本赤十字社が救出し、母国ポーランドに送り届けた事。そ
    の返礼として、75年後に阪神大震災の孤児たちがポーランド
    に招かれて歓待を受けた佳話を紹介した。[a]

     しかし、両国の交流はそれ以外にも目立たないながらも脈々
    と地下水のように続いている。今回は両国をつなぐ善意と友好
    の歴史を辿ってみよう。

■2.「日本とポーランドが手を携えてロシアと闘おう」■

     ポーランドは18世紀末にロシア、プロイセン、オーストリ
    アに分割され、独立を失った。その後、粘り強く独立運動が続
    けられたが、彼らに勇気を与えたのが日露戦争だった。
    
     後にポーランド独立の英雄として敬愛されるヨゼフ・ピウス
    ツキは1904(明治37)年7月、日露戦争の最中に日本を訪れ、
    明治政府に対して日本とポーランドが手を携えてロシアと闘お
    うと呼びかた。ポーランドがシベリア鉄道の破壊やロシア軍に
    徴発されているポーランド兵の脱走・投降工作をする代わりに、
    日本は独立運動への支援を行う、という具体的な提案だった。
    
     この時にもう一人の独立運動の指導者で穏健派のドモスキも
    来日して、ピウスツキの提案は非現実的だと日本政府に進言し
    た。結局、日本政府はピウスツキの提案のうち、最後のポーラ
    ンド人捕虜に対する好意的な取り扱いだけを採用することにし
    て、松山にポーランド人捕虜のための収容所を作り、特別に厚
    遇した。捕虜の正確な数は判っていないが、一説には数千人の
    規模に達したという。日本海海戦で日本がバルチック艦隊を破
    った時には、ポーランド人捕虜全員が万歳を叫んだ。
    
■3.「日本人に出会ったら恩返しをして欲しい」■

     後にポーランド大使となる兵藤長雄氏は外務省入省の後、19
    61年に英国の陸軍学校に留学してロシア語を学んだが、その時
    の先生がグラドコフスキという元ポーランド陸軍将校であった。
    グラドコフスキ先生はどういうわけか、兵藤氏を何度も自宅に
    呼んでご馳走したり、特別に勉強を助けてくれた。
    
     なぜこんなに自分にだけ親切にしてくれるのだろうと不思議
    に思って聞いてみると、先生は父親の話を始めた。父親はロシ
    アに徴集されて日露戦争に従軍したが、捕虜となって数ヶ月を
    日本で過ごしたのだった。そこで周囲の見知らぬ日本人から親
    切にもてなされ、深い感銘を受けた。
    
     父親は日本人の温かい心と数々の善意が終生忘れられずに、
    息子にその時の話を詳しく聞かせては「お前も日本人に出会っ
    たらできるだけ親切にして恩返しをして欲しい」と口癖のよう
    に話していたという。「父親が受けた日本人からの親切を、今、
    貴君を通じてお返しできることは本当に嬉しい」と先生は兵藤
    氏に語った由である。[1,p13]
    
■4.「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」■

     阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中
    心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。フィ
    リペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、
    ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験
    もあった。
    
     フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下
    のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳
    の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制
    収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさん
    に育てられたが、よくこう聞かされた。
    
         お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔
        術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリン
        グよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこ
        うにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。そ
        の小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつ
        けたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、
        ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っている
        んだ。
        
         小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポ
        ーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカ
        のように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして
        追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることが
        できた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーラ
        ンドは独立できたんだよ。[2,p21]
        
     おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーラン
    ド人捕虜を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベ
    リアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁と
    なって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意
    したのである。

■5.「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」■

     ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂
    起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられた者はシ
    ベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられた。
    1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では8万人もの流刑囚
    がシベリア送りとなった。その後を追って、恋人や家族がシベ
    リアに行った。そのためにシベリアには何十万人ものポーラン
    ド人がいたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。
    
     1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人
    たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2千
    名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立したロシア提
    督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは
    失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。
    
     この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、
    長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが、日本であった。日
    本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏など
    と共にシベリアに出兵していたのである。
    
     赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そう
    とした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、
    その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に
    日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は当時の状況をこ
    う語っている。
    
         街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子た
        ちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、
        クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日
        本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメ
        ルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎら
        そうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはも
        う、まったくの地獄でした。[2,p35]

■6.「日本に救援を頼んでは」■

     ポーランド人孤児たちを救おうと立ち上がったのが、鉄道技
    師の夫と共にウラジオストックに住んでいたアンナ・ビエルケ
    ビッチさんだった。ボランティア組織「ポーランド孤児救済委
    員会」を組織し、自ら会長となった。
    
     ビエルケビッチさんは、子供たちを救うにはどうしたら良い
    か、と委員会で相談をした。一人の委員が、日本に救援を頼ん
    では、と提案したが、年配の女性委員が、昔、宣教師を磔(は
    りつけ)にしたような国が、他の国の子供たちを助けてくれる
    だろうか、と質問した。そこに副会長の若い医師ヤクブケビッ
    チ副会長が手をあげて発言を求めた。
    
         僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいった
        ポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はい
        ませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチュ
        ーマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍
        じゃありませんか。[2,p42]
        
     こうしてアンナ・ビルケビッチさんは日本に渡り、陸軍や外
    務省にポーランド孤児救済を依頼する。依頼は外務省から日本
    赤十字に伝えられ、17日後には孤児救済が決定され、さらに
    その2週間後には帝国陸軍の助力で、56名の孤児第一陣がウ
    ラジオストクから、敦賀経由で東京に到着した[a]。
    
     同時に救済委員会は、一人でも多くのポーランド人孤児を救
    おうと、あちこちの避難所を探し回った。ビルケビッチさんは
    語る。
    
         こわれた列車や、兵舎にまぎれこんでいる子どももいま
        した。ポーランド人が住んでいると聞けば、足を棒のよう
        にして、その家庭をたずねました。父親を亡くした家庭で
        は、「せめて子どもだけでも、助け出してください。」と
        母親たちが、泣いてわたしたちにたのむのでした。
        [2,p57]
    
     しかし、こうして「シベリアで子どもたちを集められたのは、
    日本軍がいる町だけだった。日本軍の助けなしには、なにもで
    きなかった」と、ビルケビッチさんは回想する。

■7.6千人のユダヤ人を救った外交官の秘密任務■

     1939年9月、ドイツのポーランド侵攻により、第2次世界大
    戦が始まった。ソ連軍もポーランドに侵入し、国土はふたたび
    ドイツとソ連に分割占領されてしまった。
    
     この時のワルシャワ防衛総司令官は、かつてウラジオストッ
    クで日本に救われたチューマ将軍であった。そしてその指揮下
    でレジスタンス(抵抗)運動の中核となったのが、シベリア孤
    児だったイエジ青年だった。シベリア孤児たちを中核とするイ
    エジキ部隊は、孤児院を秘密のアジトとして様々な抵抗活動を
    展開するが、ナチスの捜索の手から孤児院を何度も救ったのが、
    日本大使館であったことは、[a]で紹介したとおりである。
    
     大戦中の日本とポーランドとの関係では、もう一人、意外な
    人物が登場する。ナチスに追われた6千人ものユダヤ人に日本
    へのビザを発給して救ったリトアニア領事代理の杉原千畝であ
    る[b,c]。1939年11月、大戦勃発の直後に日本人居住者のい
    ないバルト海沿岸のリトアニアの首都カウナスに日本領事館が
    設けられたのは、いかにも不自然であるが、その領事代理・杉
    原の任務はポーランド軍との協力関係を築くことだった。
    
     日本は防共協定を結んだばかりのドイツがソ連と不可侵条約
    を結んだことに強い不信感を抱き、独ソ双方の情報収集を強化
    する必要を感じた。そこで目をつけたのが、大戦前からドイツ
    の隅々に諜報網を張り巡らせていたポーランド軍であった。杉
    原はポーランド軍参謀本部の情報将校たちや、リトアニアにお
    けるポーランド諜報組織「ヴィエジュバ(柳)」、さらにはロ
    ンドンでの亡命政府傘下の軍事組織「武装闘争同盟」と接触し
    て、情報を収集した。
    
     一方、ポーランドの諜報員たちは、日本や満洲国のパスポー
    トを得て自由に行動し、さらにドイツやバルト・北欧諸国の日
    本公館に通訳などの名目で雇ってもらうことで、安全を確保で
    きた。さらにポーランドの諜報機関や抵抗組織は、リトアニア
    経由でベルリン、モスクワ、東京を往復していた日本の外交ク
    ーリエを利用して、ポーランド国内やロンドン亡命政府との連
    絡をとることができたのである。[3,p115]
    
     建前上は敵対関係にある日本とポーランドが、陰ながらここ
    までの広範かつ密接な協力が築けたのは、日露戦争前夜からの
    長い信頼関係があったからであろう。

■8.日本文化に魅せられたポーランド人■

     文化交流の面では、フェリスク・ヤシェンスキの名を欠かす
    ことはできない。ヤシェンスキはポーランド貴族の生まれで、
    20代には19世紀末のパリで芸術の勉強に打ち込んだ。当時
    のパリでは日本の美術、特に浮世絵に対する関心が高く、ジャ
    ポニズムという流れが若い画家たちに強い影響を与えていた。
    ヤシェンスキも強く浮世絵に魅せられ、生涯をかけて6500
    点にも上る日本美術の一大コレクションを築き上げた。
    
     ヤシェンスキは単なる異国趣味で日本美術を集めたのではな
    かった。当時、帝政ロシアやプロイセンなどに分割統治されて
    いたポーランド民族の独立を夢見て、独自の民族文化に生気を
    吹き込むという使命に全力を捧げていた。そこから2千年に渡
    って独立を守り通し、独自の文化を発展させた日本に魅せられ
    ていったのである。
    
         日本の芸術を深く探求すればするほど、私の情熱はます
        ます激しく燃え上がる。これほど非凡であり、洗練されて
        おり、大胆かつ精緻で、しかも感動的で魅力の溢れる芸術
        がほかにあるだろうか。[1,p48]
        
■8.友好の象徴、日本美術・技術センター■

     ヤシェンスキの死後、そのコレクションは一時クラコフ国立
    博物館に所蔵されていたが、ナチス占領下にたまたまその一部
    が公開され、それに衝撃を受けたのがクラコフ美術大学生アン
    ジェイ・ワイダだった。
    
     ワイダ氏はその後、ポーランド映画界の巨匠となり、87年に
    京都財団から受賞した京都賞の賞金全額を寄付して、ヤシェン
    スキ・コレクションのための独自の美術館建設を提唱した。ワ
    イダ氏の呼びかけにポーランドと日本の多くの人々が協力して
    94年に完成したのが日本美術・技術センターである。ヤシェン
    スキは「北斎漫画」からとった「マンガ」をミドルネームにし
    ていた機縁で、このセンターは「マンガ」館と愛称されている。
    
     筆者がセンターを訪れたときは、かなりの数の青年たちが日
    本の掛け軸の展示を見ていた。喫茶室では何組かの若いカップ
    ルが日本茶を飲みながら、会話を楽しんでいる。喫茶室の巨大
    なガラス戸からは、ヴィスワ川の向こう側に壮大なヴァヴェル
    城が望める。日本とポーランドの友好の象徴であるこのセンタ
    ーから、ポーランド民族の独立と統合の象徴たるヴァヴァル城
    を見上げつつ、私は自由ポーランドの繁栄を祈った。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(142) 大和心とポーランド魂
    20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した
   日本の恩をポーランド人は今も忘れない。
b. JOG(021) 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官
    日本経由で脱出を願うユダヤ人6千人にビザを発給。「バン 
   ザイ、ニッポン」誰かが叫びました。「スギハァラ。私たちは 
   あなたを忘れません。」 
c. JOG(138) 届かなかった手紙 〜あるユダヤ人から杉原千畝へ〜 
    世界はアメリカを文明国という。私は、世界に日本がもっと 
   文明国だということを知らせましょう。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 兵藤長雄、「善意の架け橋 ポーランド魂とやまと心」★★★、
   文藝春秋、H10
2. 手島悠介、「日本のみなさん やさしさをありがとう」★★、
   講談社、H14
3. 渡辺克義・編著、「ポーランドを知るための60章」★、
   明石書店、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「日本・ポーランド友好小史」について

                                              瑠璃子さんより
     こうして読んでみると、「日本は他国に対してかなり手助け
    をしてきてたんだなあ〜。お金だけで手助けしてるんじゃなく、
    命がけで手助けしてきたんだ。」とすごく感動しました。現在
    はイラク派遣が問題になってますが、私はアメリカとテロ組織
    の戦いに巻き込まれたイラクの一般市民の為に、「エルトゥー
    ルル号事件」や「日本・ポーランド友好小史」の時の様に「命
    がけ」とまでは言いませんが、今の日本が出来る精一杯の手助
    けをして上げてほしいと心から強く願います。

     こうした事によっての「精神的な友好関係国」を1つでも多
    く作ってほしいものです。そして、いつまでもその歴史を受け
    継いでいってほしいです。
    
■ 編集長・伊勢雅臣より

     ポーランドの親日感情は、我々の先祖の善行のお陰です。我
    々自身は、子孫にどのような遺産を残すのか、考えねばなりま
    せん。

© 平成15年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.