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■■ Japan On the Globe(336)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

                地球史探訪: 日墨友好小史

                 遠くて近い国、メキシコとの友好は4百年前の
                海難事故から始まった。
■■■■ H16.03.21 ■■ 34,384 Copies ■■ 1,120,516 Views■

■1.千葉県御宿の「日墨友好記念碑」■

     30人乗りほどの小さな飛行機からタラップを降りて、暗い
    滑走路に立つ。見上げると、満天の星空である。ここはメキシ
    コ中部の都市アグアスカリエンテス。高地で空気も澄んでいる
    のだろう、地平線からすぐ上にも星が瞬き、遠くの地上の灯と
    見分けがつかないほどである。

     日本から遥か遠くまで来たものだと思う。確かにメキシコは
    遠い国である。アメリカほど話題になることもない。しかし日
    本とメキシコとは400年にもわたる深い縁で結ばれていた。
    その象徴が千葉県は房総半島の九十九里浜の中ほどにある御宿
    (おんじゅく)にある。

     御宿の砂浜は小さな岬に囲まれて弓のような形で伸びている。
    この地の出身の詩人加藤まさをが書いた「月の砂漠」という詩
    のままに、王子様と王女様が金と銀の鞍を載せたラクダで月下
    の砂漠を行く姿が彫像にされて浜の真ん中に置かれている。

     北側の岬に7メートルはあろうかという大きな石碑が建って
    いる。「日墨西友好記念碑」という銘が刻んである。岬の先端
    に立つとほとんど視界の4分の3が茫漠たる太平洋の光景であ
    る。岬の先端は崖となっており、その下は磯である。

     建立は昭和3(1928)年というから、もう70年以上前のこと
    だ。石碑が建立された時に、メキシコ公使が述べた祝辞は、そ
    の由来を簡潔に示している。

         この記念碑に刻まれました日付は1609(慶長14)年9
        月30日で、フィリピンから当時ノヴィスパニア(新スペ
        イン)と呼ばれていたメキシコに向かってスペインの船サ
        ン・フランシスコ号がこの海岸に漂着した日を示すもので
        あります。この不幸な事件は航海者としてのスペイン人の
        勇気を証明し、日本の土地では驚異の出来事となりました。
        当時の文明国においてさえ、「漂流者に対する権利」とい
        う野蛮なものがあり、かつカトリック宣教師の非常な横暴
        の結果として、ヨーロッパに対する日本人の反感と嫌悪の
        情が深く、その数年前に土佐の海岸に漂着して、秀吉の命
        により積み荷を没収せられ、乗組員の一部が死刑に処せら
        れた前例があるにもかかわらず、サン・フランシスコ号の
        漂着者は、日本官民によって救助厚遇を受け、大多数はフィ
        リピンに送還せられ、前フィリピン総督ドン・ロドリゴは
        家康に謁見を許され、家康は彼に新しい船を提供してノヴィ
        スパニアへの航海を続けせしめたのです。[1,p98]

■2.太平洋をわがものとしたスペイン■

     16世紀後半から17世紀初頭にかけて、太平洋はスペイン
    人のものだった。マゼランの世界周航以来、南北アメリカ大陸
    の両岸に勢力を拡張し、インカ帝国やアステカ帝国を滅ぼし、
    今のメキシコを植民地として、銀などの富を欲しいままにした。

     スペイン人はさらに太平洋を横断し、中国との交易の基地と
    してフィリピンを植民地化した。「フィリピン」の名は当時の
    ヨーロッパで権勢を誇っていたスペイン王フィリペ2世にちな
    むものだ。

     そして太平洋を挟むメキシコとフィリピンを結ぶ航路が開拓
    された。メキシコからフィリピンへは、北赤道海流と呼ばれる
    西向きの海流が船を運んでくれる。東向きには一旦北上して、
    黒潮に乗ると、日本の犬吠埼のあたりで海流は東に曲がってア
    メリカ大陸の西岸に到達する、というルートが見つかった。

     船も3、4本のマストに巨大な帆を張って、海上を疾走する
    千トンクラスの巨大帆船・ガレオン船が開発された。逆風でも
    帆走できる技術も使われ出した。

■3.サン・フランシスコ号の遭難■

     1609(慶長14)年、フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビ
    ベロ・イ・ベラスコは、メキシコへの召還命令を受けて、サン
    ・フランシスコ号、サンタ・アナ号、サン・アントニオ号の3
    隻の艦隊を組んで、7月25日に出発した。金銀香料など現在
    価値にして200億円もの財宝を積み込んでいた。

     サン・フランシスコ号には日本人が一人乗り込んでいた。当
    時、日本人も朱印船貿易でシャム(タイ)やルソン(フィリピ
    ン)に日本人町を作るほど進出していた。マニラには1万5千
    人もの日本人が住んでいたという。その一人ケンは、蜂須賀家
    の雑兵として関ヶ原の戦いに参加し、敗残兵として堺に逃れて、
    そこからルソンに渡った。そこで水夫の仕事をしているうちに、
    ロドリゴ配下の航海士に巡り会って、サン・フランシスコ号の
    乗組員となったのだった。

     しかし出航が通常より1ヶ月も遅れたせいで、5回も台風に
    巻き込まれ、たちまち船団はバラバラになり、サン・フランシ
    スコ号はメイン・マストを切り倒すところまで追い込まれた。
    さらにマニラを出てから67日目の9月28日夜、海図上では
    あるはずもない暗礁に乗り上げてしまった。いまにも沈没しそ
    うな甲板の上で、ロドリゴらは神に祈りながら夜を明かした。

■4.「彼らは大いに憐れみ」■

     夜が明けると300メートルほど先に陸地が見えるではない
    か。海図では日本の位置が北に2度ほどずれて記入されており、
    知らないうちに日本の海岸に乗り上げてしまったのだった。ロ
    ドリゴは海図の誤りを指摘しつつも、この陸地を授けてくれた
    のは神の思し召しかも知れぬ、と後に「日本見聞録」に記して
    いる。

     しかし、ロドリゴは警戒を緩めなかった。13年前にサン・
    フェリペ号がやはり台風で航行不能になり、土佐に漂着した時
    には地元民に助けられながらも、秀吉により積み荷をすべて没
    収され、長崎のポルトガル人やマニラ在住の日本人に助けられ
    て、なんとかマニラに帰る事ができた。この時は、サン・フェ
    リペ号の水先案内人が世界地図でスペイン王国の版図を示して
    威嚇したために、秀吉は彼らを日本占領の尖兵だと考えたので
    ある。

     またロドリゴ自身、2年前にマニラ在住の日本人がスペイン
    政府の厳しい統治に対して反乱を起こした時に、彼らを日本に
    強制帰国させていた。日本人はこの事をまだ恨んでいるかも知
    れない。しかし、その処置を家康に通知すると、家康からは
    「日本人の処分に抗議せず」という返書が来た。もしかしたら
    家康はロドリゴの処置を寛大なものとして感謝しているのかも
    しれない、という期待もあった。

     ロドリゴたちは木の切れ端などにつかまって、上陸した。土
    地の住民が現れて、ケンが話を始めると、ここはユバンダ(岩
    和田)という浜だと分かった。今の御宿のそばの浜辺である。
    ロドリゴはこう記している。

         我々の不幸な経緯を述べると、彼らは大いに憐れみ、女
        性たちは非常に同情深いために涙を流した。そして彼らは
        進んでその夫らに向かい、キモーネ(着物)と言う綿を入
        れた衣服を我々に与えてください、と請うたので、夫らは
        我々に多くのキモーノを与え、また食物を惜しみなく提供
        してくれた。[2,p30 弊誌現代語訳]

     この時に、海女たちが駆けつけて海に潜って遭難者を救出し
    た、あるいは、自分の体温で瀕死の者を温めた、というエピソ
    ードも伝えられている。ケンが指揮して、人数調べをすると、
    乗組員総数376人のうち、溺死者16人、行方不明者43人、
    救助された人数は317人だった。

■5.トノの接吻■

     やがてオンダキ(大多喜)のトノ(殿様)が家来を引き連れ
    てやってきた。徳川四天王と呼ばれた本多忠勝の息子・大多喜
    藩主・本多忠朝である。重臣会議では「異人は切って捨てるべ
    し」という強硬意見もあったが、忠朝は厚遇すべしと主張した。

     村人達はトノの一行を土下座して迎えたが、ロドリゴはその
    ような習慣がないので、立ったまま迎えた。するとトノはロド
    リゴの手を取り、接吻したのだった。ロドリゴはトノが自分の
    国の作法を心得ているのに驚いた。

     その後、席に着くときにはトノはロドリゴに強いて上席につ
    かせた。さらに驚いた事に、トノは豪華な着物4着、刀一振り、
    牝牛一頭、果物、酒などの進物まで持ってきていた。そして、
    現在、駿河の皇帝(家康)の訓令を仰いでいるので、しばらく
    ユバンダ村で待つように言った。

     ロドリゴの一行約300人は村人達の家に分宿して、37日
    間もこの村に留まった。

■6.江戸から駿河へ■

     その後、ロドリゴはトノの居城まで連れて行かれ、そこで家
    康からの朱印状(将軍の公文書)を受け取った。その内容は、
    海岸にて打ち上げられた品々は、すべてロドリゴのものとして
    良い、家康の居城駿府までの行程の安全と糧食を保証する、と
    いうものだった。

     ロドリゴは家康の寛大さに驚いた。漂着で失ったものは、す
    べてその地域の支配者のものになる、というのが、当時の世界
    の暗黙の了解事項だったので、積み荷はすべて諦めていたから
    である。

     ロドリゴはまず家康の息子・秀忠のいる江戸に向かった。日
    本見聞録では、江戸の様子をこう記録している。

         町の通りは広く、長く通じ、またまっすぐに延びている。
        これはスペインの市街よりも発達しているといってよい。
        家は木造で二階建てのものもある。外観はスペインの石造
        りのほうが優美だが、内部の美は江戸の家屋のほうが遥か
        に勝っている。街路も美しく清掃され、誰も踏み入れたこ
        とがないのでは、と思うほどに清潔である。[1,p85]

     ロドリゴは江戸城で秀忠に接見した。秀忠は常に微笑を絶や
    さず、温かい応対をした。「不幸な体験を経て異国にいるあな
    たが、なにも不自由を感じないよう手を尽くす」とも言った。
    ロドリゴがスルンガ(駿河)の家康の居城に行きたいと述べる
    と、4日後には往路万端不自由のないように整えられる、と答
    えた。

     駿河までの5日間の行程で、ロドリゴはどこでも大歓迎を受
    けた。駿河は人口12万人の大都会で、町中に入ると、物見高
    い群衆が押し寄せて、通行が困難なほどだった。

■7.「余もこのような臣下を持ちたいものだ」■

     駿河の城でロドリゴを接見した家康は、直立して深くお辞儀
    するロドリゴに対して満面に笑みを浮かべ、着席するよう求め
    た。「武士は海上の不幸で、気を挫かれてはならない」と慰め、
    何でも欲しいものがあれば言ってみよ、と聞いた。ロドリゴは
    3つございます、と答えて、

         ひとつは、いま日本にいる宣教師の布教活動を自由にし
        ていただきたい。二つ目は平戸港にオランダ人が入港しよ
        うとしているが、彼らはわがフェリペ王の敵で、海賊なの
        で退去をもとめていただけませんか。三つ目にルソンから
        日本に入るスペイン船を保護してくださいませんか。

     厚かましい要求だったが、家康は逆にいたく感服した。身一
    つで異国に打ち上げられた自分のことは一切棚上げにして、祖
    国の事だけを思っていたからである。「余もこのような臣下を
    持ちたいものだ」と、側近に嘆声をもらしたという。

     家康は、宣教師の布教は許し、マニラからの船は優遇すると
    答えた。しかし、オランダ船の締め出しについては、スペイン
    とオランダの間のことであり、余のあずかり知るところではな
    いと拒絶した。堂々たる外交姿勢である。

     さらに家康は、わが国には三浦按針(オランダ船リーフデ号
    の航海士だったイギリス人で、同船が豊後に漂着した後、家康
    の外交顧問となった)に造らせたガレオン船があるので、それ
    を使って帰国するがよい、と申し出た。

■8.家康からメキシコ副王への書■

     提供されたガレオン船は小型なので、乗組員を三分の一に絞
    り、残りの者は長崎からマニラに戻した。ロドリゴはガレオン
    船をサン・ブエナ・ベントゥーラ号と改名し、2ヶ月をかけて
    太平洋を横断し、メキシコに帰国した。京都の商人・田中勝介
    ら22名の日本人も同乗しており、彼らが太平洋を横断した最
    初の日本人となった。勝介一行は家康の協定書も携えており、
    その中には、お互いの船や商人を厚遇すること、相互に自由貿
    易を認めること、宣教師の自由な布教活動を認める、などを約
    していた。

     メキシコ副王はロドリゴらの報告を受け、翌年、遭難民送還
    に対し謝意を表するため、探検家で宣教師のビスカイノを訪日
    させた。田中勝介らも、同乗して帰国した。しかし家康の協定
    書については、国庫が窮乏中なので、とやんわり拒絶した。

     ビスカイノは伊達政宗からスペイン行きを命ぜられた支倉常
    長(はせくらつねなが)の船に乗って、メキシコに帰国した。
    家康からメキシコ副王にあてた返書を持ち帰ったが、それには
    キリスト教の布教を禁ずるとあった。オランダ国王から家康宛
    に、ポルトガルに日本侵略の意図があるという密告があり、そ
    れが家康の方針変更をもたらしていたのである。

■9.日墨の不思議な縁(えにし)■

     キリスト教宣教師を尖兵とした侵略の疑いから、日本は鎖国
    政策をとり、ロドリゴの漂着をきっかけにはじまった日墨友好
    の機縁も火が消えてしまったかに見えた。しかし、友好の火種
    はその後も長くくすぶり続けていた。

     明治21(1888)年11月3日、わが国はメキシコとの通商条
    約を結んだ。それまでの米国や英国との条約は不平等なもので
    あり、その改正には明治後半までかかるのだが、日墨修好通商
    条約は、わが国がアジア以外の国と結んだ最初の平等条約であっ
    た。当時のアメリカの新聞には、日本の主権を認めたメキシコ
    の態度を賞賛する記事が掲載されたという。のちに不平等条約
    の改正に成功する背景には、この日墨関係が好影響を与えてい
    ると言われる。[2,p34]

     さらに本年3月12日、日本とメキシコは自由貿易協定(F
    TA)締結で合意した。日本のFTA締結はシンガポールに続
    いて、2カ国目だが、農業分野も含む本格的な初の本格的FT
    Aと言ってよい。家康が協定書で希望した日墨の友好と自由貿
    易は、280年後の日墨修好通商条約で実現し、400年後の
    現代においてさらに発展した。わが国が国際社会に門戸を開く
    とき、メキシコは常にその良き相手だったのである。不思議な
    縁(えにし)と言うべきか。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(003) 悲しいメキシコ人
    日本がスペイン領になっていたら。
b. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
    キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす
   ることを、神への奉仕と考えた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 松島駿二郎、「異国船漂着物語」★★★、JTB、H14
2. 占部賢志、「歴史の『いのち』」★★★★、、モラロジー研究
   所、H14

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「日墨友好小史」について 

                                             ハマダさんより
        「漂着したものは全てその地域の支配者に没収されるのが
        当然だった時代に…。」

     今、日本のお人好し外交が非難されることが多いですね。
    「日本は譲歩ばかりして、相手に譲歩させることがない、国益
    を損じている」と。しかし政府や外務省のそんな態度を非難す
    る民間も、例えばイラクについては、「日本のために」より
    「イラクのために」という声が大きいように思います。

     だけど、当時の国際常識に反するほどの親切を示すことが数
    十年後、数百年後に「日本はこんなに親切だった、立派だった」
    と評価されるのであれば、現代日本のお人好しぶりもそう捨て
    たものではないのかも知れませんね。数百年後まで日本を立派
    に存続させることが大前提なので、「弱腰外交」にはどうして
    も批判的になってしまいますが。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     う〜ん。確かにこういう見方もありますね。「お人好し外交」
    と「弱腰外交」とは、どこかに線がひかれるのでしょうが。

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