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■■ Japan On the Globe(347)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            地球史探訪: 日系米兵の二つの戦い

         人種偏見をはね返すには、戦場で勇敢に戦い、アメリカ
        のために血を流すしかない、と彼らは信じた。
■■■■ H16.06.06 ■■ 33,616 Copies ■■ 1,194,772 Views■

■1.フランスに現れた「日本兵」■

     1944年10月、ドイツとの国境近くにあるフランスの小さな
    町ブリエアに住むレイモン・コラン医師は、米軍の飛行機の音
    を聞きながら、「明日こそは」とドイツ軍からの解放の日をも
    う6週間も待っていた。

     そんなある日、コランが2階にいる時、「ボッシュ?」と階
    下から叫ぶ声が聞こえた。それはフランス人がドイツ兵を陰で
    憎しみを込めて呼ぶ言葉だった。待ち望んでいた米兵が、敵兵
    を捜す声に違いない。コランは喜びに浮き立って、一気に階段
    を駆け下りた。だが、そこで見た光景にコランは驚きのあまり
    凍りついた。なんと二人の「日本軍の兵隊」が銃を構えている
    ではないか。

         日本はドイツの同盟国だ。待ちに待った米軍どころか、
        ブリエアは地球の反対側からやってきた日本兵の手に陥ち
        たのか。新たなる恐怖の占領か。ああ神よ!

     すると、「日本兵」の一人がニッと白い歯を見せ、自分の胸
    を親指で指して「ハワイアン」と言った。それでもコランが何
    だか分からずにいると、笑顔で握手を求め、コランの肩を抱い
    た。

    「日本兵」たちはドイツ軍を追って、すぐに去っていった。翌
    日からは白い顔のアメリカ兵がやってきた。

■2.「私生児大隊」■

     この「日本兵」とは第100大隊に所属するハワイ出身の日
    系米兵だった。真珠湾攻撃の約1年前から選抜徴兵制が始まっ
    が、ハワイでは人口の4割が日系人である。徴集された兵も約
    半数が日系青年だった。

     彼らが入営する時は、義理のある米国に恩を返すときだと、
    親たちは盛大に祝った。徴集兵が出発する駅では、「祝 入営
    ○○君」と日本語で書かれたのぼりが何本も風にひらめいて、
    その先に星条旗がなかったら、日本国内の光景と見間違えたろ
    う。

     しかし日本軍による真珠湾攻撃の後では、日系米兵だけが本
    土に送られた。もし日本軍がハワイに上陸し、米軍の軍服を着
    込んで侵入されたら、日系兵と見分けがつかない、という心配
    からだった。ハワイから送られた日系米兵1、432名は「第
    100大隊」とされた。通常は師団−連隊−大隊という構成に
    なるはずが、第100大隊には親となる連隊がなかった。引き
    取り手となる連隊がない「私生児大隊」に、日系兵たちは不安
    と不満を隠しきれなかった。

     日系兵たちは英語と日本語とハワイ語の入り混じったひどい
    英語を話したので無教養に見えたが、実は大半が高卒で、大学
    入学者も12%いた。彼らが家族に書き送る英語の手紙は文法
    に適ったもので、検閲係の白人将校を驚かせた。大隊の知能指
    数は平均103で、110以上なら士官学校行きである。白人
    なら将校になるはずの兵が多数いたのである。しかし第100
    大隊の将校はほとんど白人で固められていた。

     第100大隊は、北部のウィスコンシン州、続いて南部のミ
    シシッピー州で訓練についた。銃機関銃を据える時間は陸軍の
    平均が16秒だが、彼らは5秒という驚異的な数字を出した。
    平均身長160センチと子どものような体格なのに、フル装備
    のまま1時間5.3キロのペースで8時間ぶっ続けに歩いた。
    普通なら1時間に4キロがせいぜいである。

     過酷な演習の合間に、彼らは日系人として米国のために戦う
    意義を語り合った。「俺たちは二つの戦いを戦っている。アメ
    リカに代表される民主主義のためと、そのアメリカに於いての
    俺たちへの偏見差別とだ」 人種偏見をはね返して、対等なア
    メリカ市民としての立場を得るためには、戦場で勇敢に戦い、
    アメリカのために血を流すしかない、というのが、彼らの思い
    であった。

■3.日系人たちの誇り■

     第100大隊が前線に出る望みもないまま、訓練に明け暮れ
    ていた1942年10月頃、陸軍の上層部では日系の志願兵による
    部隊編成を認めるかどうかの議論が進められていた。日系市民
    協会からは、志願兵部隊編成の請願が出されていた。

     この頃、本土の日系人12万人が収容所に入れられていた。
    特にアメリカ生まれの二世たちは、米国籍を持っていながら、
    日本人を親に持つという理由だけで、強制収容されていたのだ。
    多くの日系青年たちは、前線に立つことで祖国への忠誠を証明
    したいと思っていた。[a]

     陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、「人種のいかん
    を理由にこれ以上アメリカ市民権を圧することは無謀というも
    のである。強制収容でその限界までやったのではないか。もう
    沢山だ。」とのメモを残している。

     また日本軍が、この戦争を人種的偏見から出た人種戦争であ
    る、とのプロパガンダを流しているのに対抗して、日系人が米
    軍として戦う事は有効なカウンター・プロパガンダとなる、と
    の考えもあった。

     こうした考えから、1943年2月1日、ルーズベルト大統領が
    日系志願兵による第442歩兵連隊の編成を発表した。当初、
    ハワイ諸島での募集人員は1500人だったが、1万人を越え
    る日系青年が応募したため、すぐに募集枠を2600人に拡大
    した。「一旦嫁したら夫の家こそわが家」という日本人の伝統
    的精神からも、アメリカのために戦うことにためらいはなかっ
    た。

     3月28日、ハワイ全島から集まった2686名の志願兵の
    ための壮行会がホノルルのイオラニ宮殿前で盛大に行われた。
    当日の地元紙はこう報じた。

         イオラニ宮殿の周りを埋めた1万5千〜7千ともいわれ
        るかつて見たこともない人の数に驚いているだけではない。
        ・・・最も重要なのは見送りの家族や友に見られる明かな
        誇り----若者たちが国と連合国のために戦う愛国的役目を
        託されたことへの誇りである。

■4.「ジョー高田君戦死す」■

     1943年9月22日、第100大隊はイタリア南部のサレルノ
    に上陸した。1年と10ヶ月以上も待たされてのようやくの実
    戦配備であった。彼らはサレルノに上陸した19万の連合軍将
    兵のごく一部であったが、従軍記者たちの注目を集め、ニュー
    ヨーク・タイムズ紙は「日系米兵−イタリア戦でナチと戦闘」
    と報道した。

     9月29日、雨の中を北上しつつあった第100大隊は最初
    の敵に遭遇した。突如、敵の機関銃掃射を受けたのである。さ
    らに砲弾も降り注いだ。

         自分の身の危険を全く顧みることなく、タカタ軍曹は小
        隊の先頭に立ち、敵の側面へと導いていった。彼は機関銃
        手の位置を確かめんと故意に身をさらし、敵の砲撃で致命
        傷を負った。傷ついた後、数分しか命がなかったにもかか
        わらず、タカタ軍曹は副小隊長に敵の位置を知らせんとし
        た。

     日系米兵で最初に戦死し、殊勲十字章を得たジョー・タカタ
    の感状の一節である。

    「ジョー高田君戦死す 元朝日野球団のスター」と、ハワイの
    日本語新聞は見出しを掲げた。高田は24歳、地元のアマチュ
    ア野球のスター選手として、日系社会では有名であった。妻の
    フローレンスとの新婚生活が2ヶ月に満たないうちに、タカタ
    は出征した。

    「ジョーは国のために死にました」と若き未亡人は記者に語っ
    た。父親はこの未亡人を連れて役所を訪れ、毅然とした誇りの
    表情をたたえて、白人の役人に香典を「赤十字に」と寄付した。
    以後も日系兵の犠牲が出るたびに遺族がこの光景を繰り返すよ
    うになった。

■5.ファナティック(狂信的)なオリエンタル・ソルジャー■

     ローマへの進軍途上で最も激烈な戦闘が行われたのが、カッ
    シーノであった。ドイツ軍はここで連合軍の進撃を止めようと、
    強固な防御線を築いていた。最初に挑戦した2個師団はほとん
    ど全滅した。第100大隊もほとんど同じ地点からの攻撃を命
    ぜられた。

     ラピド河の上流のダムが爆破され、一面泥に埋まった150
    メートルもの川原を地雷を避けながら前進する。身を隠すもの
    の何もない処に猛烈な砲火が降り注ぐ。多数の死傷者を出しな
    がら、なんとか渡河に成功したが、横に並んだ他の部隊がこと
    ごとく渡河に失敗して、引き上げざるを得なかった。

     カッシーノは結局、2度の空爆と4回の総攻撃により、4ヶ
    月後に攻略できた。第100大隊のA中隊は170余名だった
    が、この戦いに生き残ったのはたった23名であった。「僕は
    ハヤシ家を代表してお国のために戦えることを心から名誉に思っ
    ています。」と、両親への最後の手紙に書いたドナルド・ハヤ
    シ伍長(24歳)も、ここで戦死した一人である。

         わが国とファナティック(狂信的)に戦っている敵国か
        らの移民の子孫、といってもまだ2代目だが、これら筋骨
        たくましいオリエンタル・ソルジャーは、同じようなファ
        ナティックさで今やわが国のために戦っている。

     後に第100大隊と行動をともにしたUPの記者のこの記事
    は全米各地の新聞に掲載された。しかし、勇猛果敢な戦いぶり
    をみせる日系兵たちは、同時にこんな思いを家族への手紙で吐
    露していた。

         ある町を占領したとか、ある高地を取ったと新聞で読む
        ごとに、覚えておいて下さい。そのたびに幾人もの青年の
        命が消えたということを。忘れないでください、そのため
        の戦いが身の毛のよだつ悪夢だということを。それは共に
        笑い眠り冷や汗を流した友を失うことなのです。友という
        より、血を分けた兄弟以上とさえいえる戦友が目の前で死
        んでいく。想像を絶する傷を受け、最後の息を吐くまで呻
        き祈ろうとする。数分前までは一緒に笑っていた友がです。
        (M.ツチヤ)

■6.スパーブ(並はずれて優秀)という一言■

     日系の志願兵からなる第442連隊は約一年の訓練を終えて、
    6月10日、第100大隊とローマ北方で合流し、その配下の
    一大隊とした。本来なら第一大隊と改称する処だが、上層部の
    配慮で、戦功に輝く第100大隊の名前はそのままとされた。

     連隊は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛
    烈な砲火に釘付けになった。この時、第100大隊は東に大き
    く迂回して町の北の高地に出て、敵の背後から奇襲攻撃をかけ、
    わずか3時間で敵を蹴散らした。敵の死者80余名、捕虜65
    名に対し、第100大隊はわずか4名の戦死と7名の負傷者で
    あった。あわてた敵はジープ21両などを置き去りにして逃げ
    ていった。第100大隊は部隊として最高の栄誉である大統領
    殊勲感状を3度も得ているが、その最初がこの戦いであった。

     北イタリアの重要戦略拠点であるリボルノ城の入城に際して、
    第442連隊を統轄する第5軍司令官のマーク・クラーク中将
    は、自らのジープのすぐ前に第100大隊を進ませた。それま
    での戦功に対する労りの配慮である。また海軍長官ジェームス
    ・フォレスタルや英国王ジョージ6世(現女王の父上)が戦場
    視察に訪れた時は、クラーク司令官は第100大隊の日系兵を
    閲兵式に出させた。戦闘の真っ最中だと連隊長は抗議したが、
    司令官が第100大隊でなければならないと頑として言い張っ
    たため、サカエ・タカハシ大尉が兵の一部だけを伴って参加し
    た。

     参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で日系兵の働きに
    ついて、こう述べている。

         スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表
        して余りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高
        の闘志を見せた。ヨーロッパ戦線の彼らについて言葉を尽
        くすことは不可能というものだ。皆、彼らを欲しがった。

     当初、実際に戦線に投入するかどうか軍司令部が迷った日系
    部隊は、いまやすべての司令官が欲しがる存在になっていた。

■7.この偉大な共和国がよって立つもののために■

     大勢が決したイタリア戦線から、日系部隊をフランス戦線に
    回せ、との要請があった時には、クラーク司令官はずいぶん渋っ
    たという。第442連隊は9月30日、マルセーユに上陸し、
    北上してドイツ国境近くのブリエアを解放したのが10月18
    日、本編冒頭の光景である。この後、敵に囲まれて窮地に陥っ
    た別の大隊を、連隊の三分の二が死傷するという大損害を受け
    ながら救出し、大統領殊勲感状を与えられた。ヨーロッパ戦線
    は翌1944年5月7日に終わったが、第442連隊は数々の個人
    勲章に加え、部隊として7つの大統領殊勲感状を受け、「アメ
    リカ戦史を通して最も多数の勲章を授かった部隊」となった。

     1946年7月15日、時の大統領ハリー・トルーマンはホワイ
    ト・ハウスの芝生で第442連隊を整列させ、居並ぶ陸軍長官
    や軍高官の前で7度目の大統領殊勲感状を自ら授与した。ニュ
    ーヨーク・タイムズは「トルーマン、2世ヒーローに叙勲」と
    の見出しで、それまでに帰還した数々の部隊で、大統領からじ
    きじきの名誉を受けた唯一の部隊であると報じた。トルーマン
    はこの時、こう述べた。

         君たちは世界の自由諸国のために戦った。・・・君たち
        は今からそれぞれの家族のもとへと帰って行く。君たちは
        敵と戦ったばかりでなく、偏見と戦い、そして勝った。そ
        の戦いを続け、勝ち進んでくれたまえ。いかなる時代にも
        人民の福祉のため、と憲法でうたっているこの偉大な共和
        国がよって立つもののために。

     大統領の言葉通り、日系人たちは偏見との戦いを続けた。終
    戦から7年目の1952年、日本移民一世の市民権取得を阻んでき
    た移民帰化法が改定された。中心になったのは第442連隊で
    の戦歴を誇る二世指導者たちであった。老いた父母にアメリカ
    国民としての権利を勝ち取ったのは、2世の息子たちが流した
    血であった。

     ダニエル・イノウエは第442連隊で片腕を失ったヒーロー
    として、日系で最初の上院議員となり、かつての日系人の強制
    収容が繰り返されないよう緊急拘束撤廃法案を提出した。小隊
    長として負傷したスパーク・マツナガ中尉も、ハワイ州からの
    もう一人の上院議員となった。

     人種差別は「この偉大な共和国がよって立つもの」すなわち、
    アメリカの大義たる自由と人権に悖る恥部であったが、それを
    はね返したものこそ、日系兵たちの生命と誇りを賭した戦いぶ
    りであった。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(054) 無言の誇り
    収容所に入れられた12万人の日系人

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. ドウス昌代、「ブリエアの解放者」★★★、文春文庫、S61

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「日系米兵の二つの戦い」について

                                               Kazyさんより
     今号のお話を読んだ際、ハワイで、ミズーリ号記念館を見に
    行った際のことを思い出しました。ミズーリ号記念館は、アリ
    ゾナ号記念館に隣接し、その対岸にはボーフィン号(対馬丸を
    撃沈した米潜水艦です)記念館が有ります。正直言って、あま
    り、日本人にとって心地の良い場所ではありませんでした。

     ただ、そこで、二つ目を引いたことが有りました。一つは、
    ミズーリ号の甲板上にあった、神風特攻隊員の記念碑であり、
    もう一つは、売店で売られていたダニエル・井上氏の伝記でし
    た。伝記のキャッチ・フレーズとして、「442連隊の勇者にし
    て、後に上院議員にもなった、立志伝中の人」と言うニュアン
    スの文章が書かれていました。(原文は残念ながら、はっきり
    と記憶しておりません。)ツアーのほとんどの場で、ガイドの
    説明や案内書きで「これでもか。これでもか。」とばかりに述
    べられていた「アメリカの正義」に辟易しておりましたが、上
    記の2つを見て、晴れやかな誇らしい気持ちを抱いたことを強
    く記憶しております。

     国と時代は変われど、日本人の、家族を愛し、隣近所と仲良
    くし、郷土を愛し、国を愛し、一朝事あるときには命を投げ出
    すことも厭わぬその精神は変わらぬ尊敬を集めるものであり、
    我々日本人が誇りとすると共に、それを培ってきた先人達に感
    謝を忘れてはならぬものと今改めて思います。


                                               方人さんより
     日本人は、一旦米国に帰化したならば「米国人」としての責
    務を全うすることで、被差別感情を自力で克服し、新しい社会
    に順応しようとした歴史がここに示されています。そして多く
    の日本人は、このような同胞の生き方をそれで当然と認めてき
    ています。伊勢さんが書かれたように、彼らが米国内で嘗めた
    辛酸をばねに賞嘆を勝ち取っていく姿は、民族の誇りでもある
    のです。国と民族との関係を示すひとつの典型事例だと思って
    います。

     ところが韓国においては、どうも違う様相です。同じように
    帰化した韓国系米人が海軍情報部に勤務中、機密情報を韓国大
    使館武官に流していたというスパイ事件が明らかになりました
    が、それを韓国マスコミ世論は「祖国に貢献した英雄」だと報
    じ、米国人である彼の米国に対する背信行為については触れて
    いないといいます。

     この報道を報道した記事でも指摘していますが、この問題は
    日本における在日朝鮮人に対する参政権付与をめぐる議論にも
    微妙に関係します。帰化してさえも元の母国に対する忠誠心が
    もてはやされるわけですから、帰化せず朝鮮籍のまま外国であ
    る日本に住み続ける人たちに、たとえ地方政治に限定するにし
    ても参政権を付与することの面妖さが凝縮されているように思
    えます。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     国家と民族との狭間で苦闘した日系人の歴史は、多くの示唆
    を含んでいます。

■ 「日系米兵の二つの戦い」について

                                               馬場さんより
     シカゴで働く40歳の男性です。国際派日本人養成講座をいつ
    も読んでいます。また、子供にも読むように勧めています。

     日系部隊の大活躍は、子供の高校の授業やレポートから学び、
    日本人がもつ勤勉さや忠誠心を誇りに思っています。また、自
    分たちもそうでありたいと思っています。

     子供が剣道を学んでいるので、道場で2世の日系人の方と話
    する機会があります。彼らは、戦前の日本人の気質を今でも持っ
    ており、昔の日本人はこんな感じだったのかと、思う機会がし
    ばしばあります。

     一方、コミュニテーで会う、日系3世や4世が、自分の先祖
    の国である日本に対してまったく興味がなかったり、東京軍事
    裁判史観で日本は悪いと、まくし立てられるとがっかりします。
    彼らは、日本に対して批判的でアメリカが優れていると信じて
    いるようです。

     何故、日系人の子孫が、先祖の国に対してそんなに誇りがも
    てないのか、考えていきたいと思います。同時に、自分たち家
    族は、日本人の誇りを受けつでいきたいと思っています。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     歴史伝統を言葉として、子孫にきちんと伝えていく、という
    事が「人づくり」の面でも不可欠なのでしょう。

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