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       人物探訪:山田方谷 〜「正直安五郎」の国作り

             藩士藩民に「誠」を発揮させる事が政治の大本だと
            信じて、方谷は藩政改革に取り組んだ。
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■1.「山だしがなんのお役に立つものか」■

        山だしがなんのお役に立つものか
        へ(子)のたまわくのような元締お勝手に孔子孟子をひき
        いれて
        なおこのうえにカラ(唐)にするのか

     嘉永2(1849)年4月、備中松山藩(岡山市の北西30キロほ
    どにある現在の高梁[たかはし]市)。新藩主・板倉勝静(かつ
    きよ)が農民出身の山田方谷(ほうこく)を元締並びに吟味役
    に命じた時に、こんな戯れ歌が作られた。「山田氏」と山奥か
    ら出てきた「山だし」をかけて、菜種油売りの農民が多少学問
    があるからといって、藩の台所に「孔子孟子」を持ち込んで、
    藩の財政をさらに空(唐)にするのか、というのである。

     板倉家は徳川家譜代の名門であり、家来たちも気位が高かっ
    た。方谷は菜種油を売っていた農民の出だったが、学問がある
    という評判を聞きつけて、先代・勝職(かつつね)が10石ば
    かりの武士に取り立てて、世子・勝静の教育掛をさせていた人
    物である。いくら藩の財政が窮乏したからといって、新藩主に
    なったばかりの勝静が、なみいる重臣たちをさしおいて、方谷
    を藩の全権を握る元締に取り立てるとは専横もはなはだしいと、
    新藩主にも非難が集中した。

     この思い切った抜擢人事は、勝静にとっても方谷にとっても
    も退路のない船出であった。「孔子孟子」の学問で、現実の藩
    の財政を立て直せるのか、この戯れ歌は方谷の挑戦すべき難題
    を悪意を込めながらも正確に見通していた。

■2.父母の教え■

     方谷は通称を安五郎と言った。文化2(1804)年に生まれ、5
    歳にして隣の新見藩で藩政参与まで務めた丸川松隠の学塾に入
    れられたが、師から我が子のように可愛がられた。翌年には新
    見藩の藩主から「幼年なれどその学問の精進ぶりがめざましい」
    と表彰状を貰っている。一国の藩主が他藩の子どもを表彰する
    など例のないことであった。

     14歳にして母の梶を亡くす。母親が病気になったと聞いて、
    安五郎が学塾から急いで帰郷すると、「おまえはなにをしてい
    るのです。早く塾に戻って勉強しなさい。私は大丈夫です。」
    とひどく叱って、泣き悲しむ我が子を塾に追い返した。まもな
    く母の病気が悪いと聞いて、深夜に馳せ帰ると、母はもう息が
    絶えていた。

     翌年、今度は父の五郎吉が死んだ。死ぬ直前に安五郎に残し
    た「訓戒十三条」には、「朝は六時に起き、その日の用向きを
    それぞれ定め、すんだら自分の修行を怠らないこと」「郷里の
    困窮した人や病人は、ねんごろに尋ね交誼を篤くして睦み合う
    心がけを忘れないこと」などとある。

     孔孟の教えは、書物を通ぜずとも、日本の草深い山里の家庭
    に息づいていたのである。安五郎の学問はこのような家庭や恩
    師のもとで生み育てられたものであった。

■3.「正直安五郎」■

     両親を亡くした安五郎は幼い弟などを養うために、塾をやめ
    て、家業の菜種油作りを継いだ。まだ17歳であったが、人手
    がいるので妻も迎えた。しかし学問への思いはますますつのり、
    一日の仕事が終わると、夜遅くまで書物を読みふけった。

     19歳になった頃には「正直安五郎」と呼ばれるようになっ
    ていた。油を売るには、升や秤を使って量目を正しくする知恵
    と技術が必要だが、安五郎は絶対にごまかさず、また他の商人
    がごまかそうとしても、すぐに見破って「そんなことをしちゃ
    いけませんよ」と穏やかにたしなめるのだった。

     同時に怠りない学問修行で「安五郎さんはただの油売りでは
    ない、学問がある」という評判がたっていた。藩主の勝職が評
    判を聞いて呼び出すと、大変な達筆で、質問にも明確に答える。
    勝職は喜んで二人扶持を授け、「これより折々は学問所へ出頭
    し、なおこのうえもとも修行し、ご用に立つよう申しつける」
    と告げた。文政8(1825)年、安五郎21歳であった。身分に関
    わらず、学問に打ち込むのは尊いことだという観念が、すでに
    当時の社会には広まっていたようだ。

     親戚一同もこの大変な名誉に、「安五郎を家業からはずし、
    もっと勉強させてはどうか」と考えて、京都留学を許した。そ
    の甲斐あって、文政12(1829)年には、名字帯刀を許され、八
    人扶持でいきなり藩校・有終館の会頭(校務主任)に抜擢され
    た。

■4.「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」■

     しかし、安五郎はこの地位に甘んぜず、さらに学問を深める
    ために京都留学を藩主に願い出た。藩主は快く聞き入れ、27
    歳から32歳までの5年間、京都だけでなく江戸にも留学して、
    多くの学者と交わった。今も有名な「言志四録」を記した佐藤
    一斎から陽明学を学んだ事で、後の藩政改革の根幹になる考え
    方を得た。

    「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」という「中
    庸」の言葉から、人間が天から授かった「誠」を発揮させる事
    が政治の目標だと考えたのである。これは「正直安五郎」と呼
    ばれた自らの経験からも得心のいく考え方であったろう。

     天保7(1836)年、留学から戻った安五郎は有終館の学頭に任
    ぜられ、「これからは学業をもって君恩に報いよう」と決心し
    た。天保13(1842)年、勝職が桑名藩主松平定永の八男勝静
    (かつきよ)を世子として迎えると、安五郎はその指導を命ぜ
    られた。

     安五郎は「誠をもって天の理を実現する藩主に育てたい」と
    勝静に講義し、かつ領内をともに巡回した。菜種油作りをして
    きた安五郎は民衆の苦しい暮らし向きをよく知っていた。農民
    たちが一生懸命に働いて納めた米も、藩の借金で毎年数万両に
    およぶ利子で消えてしまう。農民も藩も疲弊しきっていた。

     安五郎は勝静を名君に育てるべく、こういう状況をどう改革
    するか、二人で議論を繰り返した。財政が疲弊しているからと、
    多くの藩が税を重くしたり、役人の俸給を減らしたりしている
    が、何十年たってもますます貧乏になっているだけである。そ
    れでは農民はごまかしても税を逃れようとし、役人は賄賂をと
    るようになる。政治に「誠の道」がなければ、健全な財政も築
    けない。経済の根底にもまず「誠」がなければならない、とい
    うのが二人の結論であった。「正直安五郎」を藩政全体で実現
    すること、を目標としたとも言えよう。

■5.大坂商人たちの信頼■

     嘉永2(1849)年4月、藩主・勝職が病気のために、家督を勝
    静に譲り、方谷を「元締並びに吟味役」として全権を与えて、
    藩政と財政の改革を命じた。前例のない大抜擢に冒頭のような
    妬みと非難が方谷ばかりでなく、新藩主にも向けられたが、勝
    静は「山田方谷に対して滅多なことを申すことはいっさい許さ
    ぬ」と全面的に方谷への批判を禁じた。方谷は感動した。しか
    し、それに奢らず、方谷は一つ一つ手を打つ際に、かならず藩
    の重役たちに相談した。

     方谷が最初に取り組んだ問題は大坂の商人たちからの借金を
    どうするか、という事であった。方谷が考えたのは、藩の収入
    が表高5万石と称しながら、実収は2万石に過ぎないことをはっ
    きり伝え、その実収では到底現在の負債を約束した年限で返す
    ことは不可能なので、10年賦や50年賦にしてもらえるよう
    頼む、ということであった。

     方谷は自ら大坂に出かけて、商人たちに自ら頼んだ。表高と
    は幕府が検地によって定めたもので、それを自ら誤りであると
    言い放った藩はなかった。気骨ある大坂商人は方谷の率直な態
    度にこう応じた。

         お話はよく分かりました。率直なお申し出に感動いたし
        ました。どうぞ、お家の再建までわれわれの方は10年賦、
        あるいは50年賦でも結構でございますから、ご努力下さ
        い。

     方谷が手をついて「かたじけない。ご恩は決して忘れない」
    と頭を下げた。商売は正直にやっていかなければ長続きしない、
    と大坂の大商人たちは経験上、よく心得ていただろう。方谷の
    「正直安五郎」ぶりは、ともに手を携えてやっていける相手と
    して、一目で彼らの信頼を得たのである。

■6.藩士・藩民の信頼確立■

     次に方谷が打った手は、藩士・藩民の倹約の徹底であった。
    そのために勝静に対して、「率先垂範して、その例をお示し下
    さい。ただしそのことを下に強要してはなりません」と申し入
    れた。強要して短期間で成果を上げるのではなく、上下の信頼
    関係を育てつつ、倹約の実をあげていこうとしたのである。

     方谷のついた元締も、従来は賄賂の多い、人のうらやむ役職
    である。方谷も口ではきれいな事を言っても、陰では賄賂で儲
    けるに違いない、と見る者もいた。そこで、方谷は藩の会計を
    すべて塩田仁兵衛という武士に任せ、自分ではいっさい関与し
    ないこととした。時折は自分の財産を持ち出すこともあった。

     そのために、方谷の家は家族8人の生活も非常に苦しく、荒
    れ地を開墾してようやく食い扶持を稼ぐ始末であった。はじめ
    は「恰好をつけている」「見栄を張っている」などと陰口を叩
    く輩もいたが、方谷の一貫した誠実そのものの姿勢を見て、
    「山田様はお気の毒だ。自分の身銭を切って、藩のためにお尽
    くしになっている」と受け止めるものが次第に増えていった。

     こうした方谷の姿勢に、もっとも素直に共鳴していたのが、
    大坂の商人たちであった。ある年、江戸の藩邸が焼失すると、
    大坂商人たちは方谷のもとにやってきて、再建の資金を出させ
    て下さい、と申し出たほどであった。彼らとしても信頼する方
    谷の藩政改革をぜひ成功させたいという気持ちがあったのだろ
    う。

     こうして藩主以下の率先垂範を示しつつ、方谷は藩士藩民に
    倹約令を出して、年限を限って藩士の俸給を下げる事、役人は
    あらゆる贈り物をすべて役所に差し出すこと、役人の領内巡回
    のさいの饗応を止めること、などを徹底させた。贈り物や饗応
    を止めさせたことで、領民の藩政に対する信頼は大きく回復し
    た。

■7.「これは信義の問題だ」■

     次に方谷が取り組んだのが、藩札の信用確立だった。藩札と
    は、当時、各藩が発行していた紙幣である。松山藩でも百年ほ
    ども前から独自の藩札を発行していた。当初は準備金を用意し
    ておいて、要求があればすぐに小判などの正貨と交換すること
    で信用を維持していたのだが、藩財政が窮乏するに従って、準
    備金を赤字補填に使ってしまい、そのうえ大量の藩札を発行し
    たので、「松山藩の藩札は、まったく信用できない」という悪
    評が定着してしまった。

     貨幣が額面通りの価値を持つという信用が失われれば、売買
    に支障を来し、藩経済も停滞してしまう。方谷は現在の藩札を
    すべて回収し、正貨との交換を約束した新しい藩札で信用を確
    立しようとした。

     そこで藩内で使われている藩札をすべて回収せよ、と役人た
    ちに命じた。役人たちは驚いて「回収するには、それに見合う
    正貨を与えなければなりませんが、藩の蔵はカラです。」と反
    対した。しかし方谷は耳を貸さなかった。

         これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもっ
        て来ればかならず正貨に換えると約束したのだ。その約束
        を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまった
        のだ。正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちは
        とにかく旧藩札を全部引き上げろ。

     方谷は、必死に正貨を集め、ある程度たまった段階で、「旧
    藩札をもっている者は、至急役所に来て正貨と取り換えるよう
    に」との触書を出した。たちまち多くの藩民が押し寄せてきた。
    役人たちは、いつ正貨がなくなるかとビクビクしながら、交換
    した。方谷は自らの決意を示すためにも、高梁川の河原で山と
    積み上がった旧藩札を焼き捨てた。これを見ていた藩民たちは、
    ヒソヒソと相談しあった。

         山田様はこのお国にとって大切な方だ。いま山田様にも
        しもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。
        交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお
        役に立てていただこうではないか。

     たちまち賛同者が数多く出て、代表者が方谷に「交換は新し
    い藩札で結構です」と申し出た。方谷は思わず立ち上がり、目
    頭を熱くして、大きく頷いた。

■8.「正直安五郎」の教え■

     信用を得た新しい藩札は、藩内で自在に流通するようになっ
    た。方谷は、この新しい藩札を藩内の投資に使って、産業振興
    に努めた。

     まず鉄山の開発。三室、吉田、鋳長山を開発し、そこで掘り
    出された鉄を使って、刃物、鍋、釜、鋤、鍬、釘などの生産を
    始めさせた。林産では、杉、竹、漆、茶などの栽培を奨励した。
    特に「松山きざみ」という煙草を増産させ、江戸から九州まで
    宣伝をして、販売を拡げた。さらに地域名産の菓子や、和紙、
    陶器、茶道具などの生産を奨励した。

     これらは藩が生産者から買い上げて、他国に販売する。買う
    ときは藩札で払うが、すでに絶大な信用を得ていたので、生産
    者は喜んで受け取った。他国に売るときには、正貨で取引する。
    藩の金蔵はみるみるうちに豊かになり、一時削減されていた藩
    士の俸給ももとに戻された。

     安政4(1857)年8月、藩主・勝静は寺社奉行に任ぜられ、以
    後、幕末の10年ほどを幕府の最高幹部として務める。その間、
    方谷は藩政を司りながら、勝静の助言役として助けた。過激な
    攘夷派から「無道の西洋諸国が武力で押しつけた条約は即座に
    破棄すべきだわない」、という「破約攘夷論」が唱えられた時
    は、「相手国のやり方が強引だからといって過去に遡り条約を
    破棄するなどということは国際信義にもとる。日本国として行
    うべきことではない」という意見を、勝静から将軍後見職
    ・一橋慶喜に伝えさせ、これを退けた。明治新政府もこの立場
    をとり、江戸幕府が結んだ条約を誠実に守りつつ、50年以上
    もかけて条約改正を成功させたのである。

     政治も財政も、そして外交も、その根底には信義がなければ
    ならない。「正直安五郎」の藩政改革はこの教訓を長く歴史に
    残したのである。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 〜 ケネディ大統領が尊敬した政治家〜
    自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 に
   も美しく豊かな共同体を作り出した
b. JOG(144) 細井平洲〜「人づくり」と「国づくり」
    ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井
   平洲の「人づくり」の学問が生みだした
c. JOG(262) 恩田杢 〜 財政改革は信頼回復から
    性急な増税で農民一揆を招いた前任者の後で、恩田杢は農民
   との対話集会から改革を始めた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 童門冬二、「山田方谷」★★★、学陽書房人物文庫、H14

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「山田方谷 〜「正直安五郎」の国作り」について 

                                             ハマダさんより
>     政治も財政も、そして外交も、その根底には信義がなければ
>     ならない。「正直安五郎」の藩政改革はこの教訓を長く歴史に
>     残したのである。

     こちらが信義を守っていても、相手が平気で信義違反を犯し
    たら方谷さんはどう対処したでしょうか。例えば1945年の
    日ソ不可侵条約。尖閣や竹島を侵略されながら日中、日韓の基
    本条約を守る日本。平壌宣言も、とっくに先方が反故にしてい
    るのに日本は守っています。米国の、友邦らしからぬ侮日、背
    信行為の数々も有名なところ。

     こちらが信義を守るだけではなく、NOを突きつける気概でも、
    相手を畏怖させる武力でも良い、相手にも守らせる力がなけれ
    ば、国益も主権も損なわれてしまいますね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     山田方谷は藩の財政を立て直した後、屯田兵式の農兵隊を育
    て、また西洋の大砲を導入する軍政改革を志しました。自分が
    信義を守る事と、他国が信義を守ってくれると空想する事は別
    の事です。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.