[トップページ][平成16年一覧][地球史探訪][210.73 満洲事変・日華事変][238 ロシア]

■■ Japan On the Globe(355)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

       地球史探訪:ノモンハン 〜 大平原での日ソ激戦

                 日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、
                スターリンの野望を打ち砕いた。
■■■■ H16.08.01 ■■ 33,204 Copies ■■ 1,250,485 Views■

■1.独ソのポーランド分割■

         私のとってきた政策は、これで完全に目的を達した。私
        のために火中の栗を拾わされたのは、ヒトラーばかりでは
        ない。チェンバレン(イギリス首相)もダラディエ(フラ
        ンス首相)も、そしていまにルーズベルト(米国大統領)
        も・・・

     スターリンはこういうと、壁面に飾られていた世界地図の前
    に歩み寄って、ポーランドを真っ二つにわける赤線を、力強く
    ぐっと引いた。そして「ジューコフは命令を守っているだろう
    な」といい、さも愉快そうに安楽椅子に深々と身を沈めた。

     1939(昭和14)年9月1日未明、150万のドイツ軍が南北
    からポーランド国境を越えた。3日にはイギリスとフランスが
    ドイツに宣戦布告。第2次大戦の始まりである。

     この後、9月17日にはソ連軍がポーランドに東から侵入した。
    8月23日に調印されたばかりの独ソ不可侵条約には、ポーラ
    ンドを半分ずつ占領するという密約が含まれていたのである。

     得意満面なスターリンにただ一つの気懸かりがあったとすれ
    ば、満洲国とモンゴルとの国境ノモンハンに対峙するソ連軍と
    日本軍の停戦が守られるか、という点であった。ジューコフと
    は7月以来、日本軍と激戦を展開していたソ連軍の指揮官であ
    る。そのジューコフにスターリンは停戦命令を出していた。ド
    イツと組んで欧州に勢力を伸ばすという戦略を成功させるため
    には、日本との全面戦争はどうしても避けなければならなかっ
    たのである。

■2.スターリンの東西戦略■

     モンゴルでは1921(大正11)年にソ連が後押しする人民政府
    が成立していたが、何度も反ソの反乱が起きて、政情は安定し
    なかった。1937年には満洲のモンゴル人や日本軍を招き入れて
    一斉蜂起する計画が立てられたが、事前にソ連軍に漏れて、閣
    僚や軍部高官、ラマ僧侶を含む2万6千人もの処刑が行われた。

     一方、日本軍の方は日華事変で広大な中国大陸に24個師団
    50万人もの兵力を投入せねばならない事態に追い込まれてお
    り、満洲・朝鮮には11個師団残すのみであった。それに対し
    て、急速に増強しつつある極東ソ連軍は30個師団。さらに日
    本軍の戦車200両に対してソ連軍2200両、飛行機も
    560機対2500機と数倍の戦力を国境線上に展開していた。

     この優勢な戦力で日本軍に一大打撃を与えることによって、
    モンゴル共和国での覇権を強化し、満洲国との国境を安定させ
    る事がスターリンの戦略であったようだ。同時に西側では対立
    しつつあるドイツと英仏を天秤にかけて、漁夫の利を占めよう
    という魂胆だった。

■3.第一次ノモンハン事件■

     5月12日、約700のモンゴル兵がハルハ河を渡河し、日
    本軍との小競り合いの末、撃退された。ハルハ河は以前からソ
    連側の地図でも国境とされていたが、1932(昭和7)年に至って、
    ソ連は清国時代の行政区分を根拠に、一方的にハルハ河東岸
    13キロに国境線を変えていたのである。

     5月20日、ソ連機2機が飛来したのを日本機3機が撃墜。
    最初の空中戦である。22日にはノモンハン上空に侵入したソ
    連機5機のうち、3機を撃墜。日本側の被害はなかった。その
    後の6日間でソ連機175機が撃墜され、以後、ソ連側は日本
    機を見たら逃げるようになった。ソ連のイ15戦闘機は最高速
    度360キロの複葉機で、単葉で460キロと高速軽快な日本
    の97式戦闘機にはまったく敵わなかった。

     5月27日、ソ連軍の工兵隊がハルハ河に頑丈な橋をかけ、
    多くの戦車や砲兵を含む約1千が進出。遭遇した日本軍の約
    200の捜索隊が包囲され、過半数が死傷する損害を受けた。
    しかし、日本側が約1600人の部隊を出して反撃すると、ソ
    連側はハルハ河西岸に退却した。日本側の戦死約30、戦傷約
    70と損害は少なくなかったが、ソ連側は遺棄死体だけで2百、
    破壊された戦車10と大きな被害に浮き足だって、本格的な戦
    闘を避けたものと見られる。これが第一次ノモンハン事件であっ
    た。

■4.スターリン、再侵攻の命令■

     6月にはモンゴル各地で再度、反革命蜂起があり、約1千名
    が人民革命党や政府機関を襲撃した。スターリンは離反する民
    心を押さえ込むためにも一層の制圧が必要と考えたのだろう。

     また日本に送り込んでいたスパイのゾルゲから「日本はソ連
    と大戦争をやるような準備は進めていない」という情報もあっ
    た。ここで一度、日本軍を叩いておいて、軍事的に押さえ込ん
    でおけば、後顧の憂いなく欧州で始まろうとしている戦争に備
    えることができる。ドイツ、英仏のどちら側につくにしても。

     スターリンは、司令官をジューコフ中将に替え、戦車旅団、
    砲兵連隊、飛行旅団など大幅に戦力を増強して、再度の攻撃を
    命じた。

     6月17日にソ連空軍は満洲国側の数拠点への爆撃を行った。
    ソ連側の主張する国境であるハルハ河東岸からさらに20キロ
    も内部に入った完全な越境攻撃であった。

     ソ連の空襲には大きな損害はなかったが、日本軍はここで黙っ
    ていてはさらに大規模な侵犯を招くと考え、6月27日、ソ連
    のタムスク飛行場を爆撃機30、戦闘機77で急襲。撃墜99
    機、爆破25機、基地の半分を破壊するという戦果をあげた。
    日本側の未帰還機は4機であった。しかし、ロシアとの全面戦
    争を懸念する東京の参謀本部は以後の越境空爆を禁止した。

■5.激突■

     ソ連軍は、ふたたび大兵力をハルハ河東岸に展開した。対す
    る日本軍は二手に分かれて、一手はソ連軍を直接迎撃する一方
    で、もう一手は大きく北側を迂回してハルハ河を渡り、背後か
    らソ連軍を襲うという作戦をとった。

     北側に迂回した一手は、7月3日にハルハ河に鉄舟を並べて
    その上に板を敷き、幅2.5m、長さ60mの橋を架けた。渡
    河に成功した部隊に、西岸を守っていたソ連軍が襲いかかった。
    須見大佐はこう語る。

         広漠たる曠野(広野)では遥か地平線上に現出したとき
        から敵戦車は之を望見し得る。二千、千五百、千、射撃し
        ない。唯敵重砲の思うがまま撃たれっ放しだ。八百米に接
        近するのを待って(戦車分隊は)第一発を放った。・・・
        射撃開始は遅かったが、一度射撃開始するや実によく命中
        した。敵の戦車はつぎつぎと擱坐(動けなくなり)炎上す
        る。[1,p229]

     当時のソ連の戦車隊は技量が低く、停止してからでないと射
    撃が出来なかった。それに対して日本軍は走行射撃の技術を持
    ち、停止している敵戦車を容易に撃破できた。またソ連戦車は
    火炎瓶を投げるとすぐに燃え上がった。こうして2百両近いソ
    連戦車がたちまち撃破された。破壊された装甲車からは足首を
    鎖で縛られて逃げないようにされたモンゴル兵の死体が見られ
    た。

     しかし午後にいたって、日本軍も渇きに苦しめられた。気温
    は40度近く、照りつける太陽を避ける日陰もない。あちこち
    では2百両近いソ連戦車が燃え続けている。ハルハ河渡河の時
    に満たした水筒も今は空だ。弾薬も残り少ない。日本軍はつい
    に撤退を始め、5日午前5時に最後の兵が渡り終えると、仮設
    橋を爆破した。

■6.二人の独裁者■

     8月初旬、スターリンは日本軍の頑強な抵抗に危機感を覚え
    ていた。このまま日本との戦線が拡大し、一方でドイツが攻撃
    してきたら、ソ連は二正面で戦わねばならなくなる。日本軍へ
    の大攻勢の準備を急がせる一方で、8月12日にはヒトラーに、
    独ソ間の問題を論議する用意がある旨の電報を打った。「ドイ
    ツは日本に圧力をかけ、ソ連に対して別の態度をとれと説得す
    るつもりはあるのか」と外相を通じて、ドイツに尋ねさせた。

     ドイツ外相リッペントロップは日本に影響力を使うことを約
    束し、「総てはヒトラーが約束する。文句があるなら、日本の
    攻撃は止められない」と脅した。[2,p32]

     しかし、その実、ドイツの方も日本との同盟提案に見切りを
    つけ始めていた。すでに1年以上も前にヒトラーは軍事同盟の
    締結を提案していたが、東京では米内海相らの頑強な反対で一
    向に閣議は纏まらなかった。日本との同盟がダメなら、ソ連と
    結ぶしかない。

     ドイツからの同盟申し入れに対する日本海軍の反対、そして
    ソ連からの侵攻に対する日本陸軍の抵抗が、奇しくも二人の独
    裁者を結びつけたのである。

■7.ソ連軍の総攻撃開始■

     ソ連軍は8月中旬までに兵員5万7千名、戦車498両、装
    甲車385両、航空機515機、火砲・迫撃砲542門の大兵
    力を東岸74キロに展開した。対する日本軍は2万以下であっ
    た。

     8月20日午前5時45分、ソ連軍は日本軍を包囲殲滅せん
    と、総攻撃を開始した。まず数百機の編隊による爆撃、続いて
    2時間45分に渡る砲撃。

     しかし日本軍は頑強に防戦した。北辺のフイ高地はわずか
    759名の日本兵が守っていたが、ソ連軍はここを突破すれば、
    日本軍の後ろに回り込んで包囲できると集中攻撃をかけた。し
    かし激戦の中で第601連隊長スダク少佐は戦死し、敗退。さ
    らに5日間に渡って装甲車旅団、機関銃2個大隊、戦車大隊、
    空挺旅団と次々に3万の兵力を投入したが、それでも占領でき
    なかった。

■8.「わが国論は領土侵犯にたいし怒りを燃やしております。」■

     その頃、モスクワではソ連の外相代理ロゾフスキーがクレム
    リンの応接間で日本大使・東郷茂徳と会って、「停戦について
    の交渉に入りたい」と申し入れていた。東郷は答えた。

         交渉開始には同意します。しかし、わが国論は領土侵犯
        にたいし怒りを燃やしております。そのことを十分にご承
        知おきいただいた上で、交渉にのぞまれることを望みます。

     ロゾフスキーの目が怒りで赤くなった。

         大使閣下、ご存じかと思いますが、20日いらいソ連、
        モンゴル軍は、戦場において明らかに優勢を保ちつつある
        のでありますぞ。

     東郷も負けてはいない。

         辺境の紛争に、日本軍は満洲国軍のために、貴国のよう
        な大兵力を投入しなかったまでです。もし必要なら中国お
        よび朝鮮から大部隊をただちに北上させるでありましょう。
        しかし、それでは日ソ戦争になる。和平交渉は望むところ
        です。いま申し上げたことを十二分にご配慮いただくこと
        を要望したします。[1,p384]

     ソ連側はそれまでにも和平交渉を申し入れてこない日本側の
    態度に、なにか尋常でない気配を感じていた。もしかしたら、
    本気で全面戦争を考えているのではないか。

     同時に、日本が内地、朝鮮、中国から満洲に10個師団を集
    結中という情報がもたらされた。当初の総攻撃を食い止めて時
    間を稼ぎ、10個師団を投入して決戦に出るという戦略か? 
    1個師団だけでもこれだけてこずっているのに、10個師団も
    来られては大変だとスターリンは震え上がった[2,p33]。

     9月16日、日ソの停戦協定が発表された。ソ連軍がポーラ
    ンドになだれ込んだのは、その翌日であった。

■9.ノモンハン事件の真相■

     ノモンハン事件はスターリンにとって手痛い失敗であったの
    で、長らく真相は伏せられていた。だからソ連のプロパガンダ
    にのせられた日本のある高校歴史教科書には次のように描かれ
    ている。

         ソ連に対しても、1939年9月にソ連・モンゴル軍と
        国境を巡る軍事衝突をおこして、近代装備をもつソ連に惨
        敗した。

         欄外注
         関東軍は火力・機動力にすぐれたソ連・モンゴル軍に敗
        北し、1万数千名が死傷した。

    「ソ連に対しても」という一節で、日本軍の侵略性を印象づけ、
    さらに近代的兵器もなく精神力だけで兵を戦わせて、1万数千
    名もの犠牲者を出して惨敗したというのである。

     しかし、ソ連崩壊によって当時の資料が公開され、事実が明
    らかになってきた。それによってノモンハン事件を通じての損
    害を比較すると以下のようになる。[2,p51]

        兵員死傷  日本 17,405名
              ソ連 25,655名以上

        航空機損害 日本    179機
              ソ連  1,673機
            
        戦車損害  日本     29台
              ソ連    800台以上

    「惨敗」したのはどちらの方か、これらの数字が雄弁に物語っ
    ている。特に航空機や戦車の損害を比較すれば、ソ連軍の近代
    兵器のレベルがどの程度かは、言わずもがなであろう。日本軍
    は少数ながら、優れた近代兵器と旺盛な戦闘精神で、数倍のソ
    連軍を敵に回してよく国境を守ったのである。

     ノモンハン事件はソ連側の侵略によって始まり、これを日本
    軍が痛撃したことで停戦となった。この国境の平和が再び破ら
    れるのは、ドイツが降伏して欧州戦線が片づいた後、ソ連軍が
    日ソ中立条約を破って、再び満洲になだれ込んできた時であっ
    た。[a]
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(099) 冷戦下のヒロシマ
    トルーマンは、ソ連を威圧するために原爆の威力を実戦で見
   せつけた。
b. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
    北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、
   千島の日本軍が立ちふさがった。
c. JOG(239) 満洲 〜 幻の先進工業国家
    傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以
   上の中国人がなだれ込んだ理由は?
d. JOG(007) 国際派日本人に問われるIdentity
    日露戦争の世界史的意義
   

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 半藤一利、「ノモンハンの夏」★★、文春文庫、H13
(読みやすいノンフィクションだが、関東軍を激しく批判する一方、
そもそも侵略を始めたソ連側については冷静なのはいかにもバラン
スを欠く)
2. 小田洋太郎他、「ノモンハン事件の真相と戦果」★★、
   有朋書院、H14

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「ノモンハン 〜 大平原での日ソ激戦」について 

                                           南十字星さんより
     同戦役は戦後、我軍の侵略行為で、且つ大敗北であったと言
    触らされ、市に三虎の譬通り、信じ込む人が後を絶たず、呆れ
    返ってをりました。

     日本陸軍は明治の昔から露西亜−蘇聯軍と満洲の野で決戦す
    べく幾十年鍛へられて來た地上軍であって、教育訓練装備全て
    此想定に立ってゐました。外國語は露西亞語、兵器は寒冷地仕
    様、被服は防寒服で殊に軍服の色は満洲の大地に似せたその名
    も國防色‥‥ その豫想通りの戦に於て、さうさう遅れを取る
    ものかは。

     現實に遠く日露戦役から近くは張鼓峰事件まで、我國は露西
    亞、蘇聯と戦って負けたことが無いのですから、唐突にノモン
    ハンで日本陸軍が大敗したなどといふ人の、前後の脈絡も無き
    判断にはその知性を疑ひます。

     小生が身近に聞いた話にも、蘇聯兵は皆、銀ピかの鉄兜を被っ
    た大男なれど無数の傷兵が堪性も無く戦闘中においおい泣きな
    がらのた打ち回ってゐる、對戦車砲も山砲も野砲も歩兵の目の
    前で次々敵戦車を爆砕した、ノロ高地は見渡す限り蘇聯戦車の
    残骸で炎上する敵の黒煙天に柱し天日為に暗し、激戦の間の樂
    しみ聯日頭上で展開される大空中戦とその圧倒的勝利で、見る
    毎に傷も疲れも渇きも癒され、地上部隊も航空部隊に恥ぢぬ奮
    闘をと毎回決意を新たにした、古兵達は手榴弾、拳銃、火炎瓶
    といった手軽な兵器で二階建てのやうな敵の重戦車に平然と肉
    薄攻撃を敢行し次々破壊、或は炎上せしめ、まさに五尺の短躯
    満身是戦闘力の権化であり、日頃しごかれた恨みは深い尊敬に
    代った、よく殴った古兵ほど良く下の者を庇ひ、弾雨下身を挺
    して助けてくれたので愛の鞭を察せなかった己を愧じた、多勢
    に無勢で敵を包囲殲滅とは行かなかったが敵に甚大な出血を強
    要しつつある勝戦の實感あり、ホロンバイルの大草原は敵屍累
    々、味方の増援は続々到着しつつあり、負戦などと思ってゐる
    者は全軍将兵中一人もゐなかった‥‥

     そもそも陸戦殊に会戦は、敵味方の兵力が拮抗してゐます。
    明らかな優劣があれば、劣者が避戦するので野戦は成立ちませ
    ん。互角の兵力の敵を如何に撃滅するかといふと、何処かが全
    軍のため防御を引受けて大敵の猛攻に堪えねばなりません。そ
    の間に友軍が浮いた兵力を集中し、進襲して局地的優勢下に敵
    を粉砕し、全体の勝利をものするのです。旅順のステッセル軍
    は乃木軍十萬を半歳引付けて北方、クロパトキン野戦軍の主力
    決戦を助け続けましたし、シュリーフェン・プランは獨東部戦
    線と西武戦線の左翼が堪へに堪へてゐる間に右翼が巴里を衝き
    全佛蘭西軍を打倒すものでした。

     つまり陸戦は苦しく地味な防御か、勇壮な攻撃かに大別され
    ますから、陸軍軍人の常識として、ノモンハンでジューコフ将
    軍の精兵十余萬を拘束して頑張ってゐれば、遠からず関東軍は
    愚か、支那派遣軍も朝鮮軍も大陸中の友軍が駆付けて來て手薄
    になった極東蘇聯軍を圧倒殲滅して呉れる、その成否は懸りて
    自分等の力闘如何にある。父も兄も聯隊の先輩達も打破った敵
    にどうして自分だけ負けられやうぞ、骨がらみになっても退か
    じ、通さじ!と眦を決します。その決心を支へるのが軍旗に象
    徴される常勝不敗の傳統であり、猛訓練が培った必勝の信念で
    す

     限が無いので止めて置きますが、陸幼−航空士官學校ご出身
    で戦後自衛隊の将官に累進されたM将軍は戦後夙に現地を踏み、
    ノモンハン戦こそ日本陸軍の精華、と断言せられました。極東
    蘇聯軍が満蒙國境で壊滅しなかったのは、我國が不拡大方針を
    堅持したからに過ぎません。仮にそれを戦略的過失と呼び得る
    としても、父祖が戦場で敵に遅れを取った訳ではありませんか
    ら御間違無きやう。赤い謀略宣傳にご用心!

■ 編集長・伊勢雅臣より

     ノモンハン事件の臨場感あるお話し、まことにありがとうご
    ざいました。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.