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■■ Japan On the Globe(359)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

           人物探訪:島秀雄 〜 新幹線の生みの親

                 それまでの常識を覆した新幹線は、世界の高速
                鉄道を再生させた。
■■■■ H16.08.29 ■■ 32,876 Copies ■■ 1,282,955 Views■

■1.新幹線がなかったら■

         もし東海道新幹線が建設されていなくて、同じ人数を乗
        用車で運んだとすると、毎年1800人の死者と1万人の
        負傷者が出ることになる。[1,p15]

     イギリスの経済雑誌「エコノミスト」はこう書いた。開業以
    来、約40年、一度も大事故を起こしていない新幹線の驚くべ
    き安全性を見事に表現している。

     効率性も抜群だ。東海道新幹線の旅客数をバスで運ぼうとす
    ると、10秒ごとに走らせねばならない。東名高速道路がバス
    で数珠つなぎになっていまうだろう。ジャンボジェット機なら
    100機余計に必要だ。

     新幹線はまさしく日本の大動脈である。驚くべき安全性と効
    率性を備え、環境にも優しい。もし新幹線がなかったら、戦後
    日本の高度成長は大きく損なわれていたであろう。

■2.「東海道の息子たち」■

     新幹線は世界の鉄道に強い影響を与えた。新幹線が登場した
    当時は、鉄道斜陽論が盛んで、米国では線路がどんどん取り外
    されて、ハイウェイ中心の自動車輸送に置き換えられていた。
    21世紀には世界中から長距離列車は消え去っているだろう、
    とさえ言われていた。それを一挙に覆したのが、新幹線の成功
    だった。

     東海道新幹線が開通した翌年の暮れ、フランス国鉄は「TG
    V(超高速列車)」の構想を策定した。1981年にフランスで出
    版された「TGVの挑戦」という本には以下の一節がある。

         TGVは東海道の息子であり、イタリアのディレティシ
        マの従兄弟だ。1950年代の日本での研究、60年代の開業と
        営業の推移について、フランス国鉄は大変な関心を持って
        見守っていた。常識をくつがえした全く異なったシステム
        を採用したことによって日本はそのパートナーたちと競争
        相手に強い印象を与えた。[1,p247]

     ディレティシマとは、東海道新幹線開業の6年後に建設の始
    まったローマとミラノを結ぶヨーロッパ最初の高速鉄道である。
    フランスのTVGの建設が始まったのが、さらにその6年後。
    ドイツも負けじと、同じ年にICEという高速鉄道の工事にか
    かった。このICEは98年に脱線事故を起こし、百人もの犠牲
    者を出して、高速鉄道での事故の恐ろしさをみせつけた。

     本年4月に開業した韓国の高速鉄道は、フランスのTGVの
    技術を導入したもの。しかし平野が多い欧州で開発されたTG
    Vは、トンネル対策や台風対策など、安全面の問題が発覚し、
    日本に技術支援を求めたが、「入札時に安全管理面での日本の
    優位性を強調したにもかかわらず、いまごろ支援要請するのは
    虫がよすぎる」との反発が出る一幕もあった[3]。それとは対
    照的に、台湾は自然条件の似ている日本の新幹線の安全性を高
    く評価して、導入を決めた[4]。

     中国は北京−上海間の高速鉄道で、日独仏を競わせているが、
    日本の技術移転によって中国側が製造・建設する方式では「安
    全に責任が持てない」と危惧する向きもある[5]。

     それぞれのお国ぶりが如実に現れているが、いずれにしろ世
    界中の高速鉄道はすべて新幹線の「息子たち」なのである。

■3.美しい機械は性能も素晴らしい。■

     フランス国鉄の技術開発担当の副総裁を務めたフィリップ・
    ルムゲール氏は、こう語ったことがある。

         日本の新幹線の建設には本当に刺激を受けた。それもあっ
        て私は新婚旅行の目的地に日本を選んだ。日本滞在中に新
        幹線についていろいろな人々と語り、資料も読んだが、最
        も強い印象を受けたのは島秀雄氏のリーダーシップと鉄道
        技術研究所の存在だった。第二次大戦中に軍隊の研究所に
        いた人たちが戦後、鉄道研究所に移り、その人たちの理論
        と研究が新幹線の実現に大きく貢献したということが非常
        に印象的だった。[1,p145]

     新幹線の技術的成功の原因をつきつめると、結局、当時の技
    師長・島秀雄と、かつて海軍で名機零戦など戦闘機開発に従事
    した技術者たちの存在に行き着く。

     島秀雄は大正14(1925)年に鉄道省に入り、工作局車両課で
    蒸気機関車の国産化に努めた。

         合理的なメカニズムは、美しくなければならない。美し
        い機械は性能も素晴らしい。[2,p19]

     こう語る島は、車両課で10年間、蒸気機関車の設計に従事
    し、「日本のSL(蒸気機関車)の黄金時代」を築く。昭和
    11年からの10年間で1,115両も生産された名機D51(デ
    ゴイチ)も島の設計だ。D51は性能や見た目ばかりではない。
    保守・修繕作業がやりやすいように、微に入り細に入り、工夫
    を凝らして設計されていた。だからデゴイチは保守・修繕の現
    場の人間にも一番愛された蒸気機関車であった。

     性能、コスト、保守のやりやすさ、こういう様々な要求を全
    体的にバランスをとって、中庸の美学を追求する島の姿勢は、
    戦後の新幹線の開発にも十分に発揮されている。

■4.戦前に計画されていた弾丸列車■

     昭和14(1939)年7月29日、鉄道大臣招集による鉄道幹線
    調査会が開かれた。この調査会は11月までの4回の会議で、
    東京−下関を9時間で結ぶ「弾丸列車」の構想をまとめた。全
    線で踏切のない立体交差の広軌(1,435mm)線路を新設し、時速
    150キロで走らせる。従来の狭軌(1,067mm)では、車体が安
    定せず、高速を出せないからである。将来は200キロを超え
    る超特急で、東京−大阪を3時間半で結ぼうという、ほとんど
    戦後の東海道新幹線そのものといってよい計画である。

     計画を策定した中心人物は島安次郎。島秀雄の実父であり、
    明治期の鉄道技術の中心人物である。弾丸列車計画は、翌15
    年に帝国議会で予算案通過、16年には新丹那、日本坂のトン
    ネル工事が始められた。日本坂トンネルは昭和19年9月に完
    成。現在の東海道新幹線ルートが通る静岡−掛川間の日本坂ト
    ンネルは、この時に作られたものだ。

     昭和15年1月、島秀雄は鉄道省工作局に転任し、弾丸列車
    を牽引する機関車の設計を命ぜられた。戦争がなければ、この
    まま昭和29年には弾丸列車が実現していたはずである。しか
    し戦局悪化により計画も立ち消えとなり、島安次郎は志半ばの
    まま、戦後まもなく没した。

■5.世界の常識に挑戦■

    「親父さんの弔い合戦をやらんか?」 昭和30年の夏、国鉄
    を退職して住友金属の取締役となっていた島秀雄は、第4代国
    鉄総裁に就任したばかりの十河(そごう)信二にこう口説かれ
    た。十河は、以後、地元に鉄道を引いて票を得ようとする政治
    家たちの圧力をものともせず、新幹線計画に金をつぎこんでい
    く。島秀雄は副総裁格の技師長として、新幹線開発に邁進する。
    この二人のコンビが、新幹線を実現する原動力となった。

     当時、東海道線の輸送量逼迫に対応するために、従来の東海
    道線をそのまま複々線化する案があった。これならはるかに低
    予算で済む。しかし、島の腹は広軌の新線建設に決まっていた。
    広軌新線を高速レーン、東海道線を低速レーンとして使えば、
    追い越しのロスも減って効率的なダイヤを組める。新線ならば
    こそ最短距離で東京−大阪を結べる。

     もう一つ、島が決めていたのは「電車列車方式」の採用であっ
    た。当時は「長距離列車は機関車列車方式に限る」というのが
    世界の常識であった。「機関車列車方式」とは、先頭の機関車
    が動力を持たない客車を引っ張るという形式である。それに対
    して「電車列車方式」とは、客車一両ごとにモーターがついて
    いて、それぞれが自走力を持つ。当時のモーターでは騒音や振
    動がひどく、遠距離の長時間乗車など論外だと信じられていた。

     しかし、島は騒音や振動は技術で解決可能だと見ていた。そ
    れよりも電車列車方式の数多いメリットを活用すべきだと主張
    していた。たとえば重い機関車を走らせなくてすむので、線路
    や鉄橋などの建設コストが節約でき、エネルギー効率も良い。
    回生ブレーキ(減速時に発電)でエネルギー節約ができる。加
    減速性能に優れているので、高速運転に向いている。終着駅で
    機関車を先頭から最後尾につけかえなくて済むので、折り返し
    運転が容易、等々。

■6.海軍飛行機屋たちの執念■

     島は戦前から、いずれ高速で走る電車列車の時代が来ると読
    んでいた。昭和20年12月、敗戦からわずか4ヶ月目、海軍
    航空技術廠の技師だった松平精を鉄道技術研究所に迎えて、こ
    う依頼している。

         松平さん。私は、将来、日本に電車形式の高速長距離列
        車を走らせたいと思います。しかし、いまの電車は振動も
        ひどいし、音もうるさい。とても長時間、お客様に乗って
        いただく車両とは言い難い。ぜひ、あなたの航空技術の知
        識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきた
        い。[2,p89]

     松平精は零戦をはじめ海軍航空機の振動問題を解析するスペ
    シャリストで、35歳の若さですでにこの分野の権威であった。
    松平は、敗戦の焦土の中でも、将来の日本の鉄道について斬新
    で具体的なビジョンを語る人物がいることに感銘を受けた。

     終戦直後、松平のような軍の技術者が大挙して鉄道に移り、
    鉄道研究所だけでも職員が500人から1500人に増えた。
    これらの、かつて戦闘機を開発した技術者たちが、戦後復興の
    執念をもって鉄道技術開発に取り組んだのである。

    「優れた高速車両を作り出すためには、まず車両の振動理論を
    完成させることが先決」という島の方針に従って、理論好きの
    飛行機屋たちと、経験豊かな鉄道屋たちが白熱の議論を展開し
    ながら、車両の振動理論を完成させていった。当時、欧米でも、
    高速電車列車という発想はなく、振動理論も手つかずであった。
    この振動理論の完成によって、日本の車両技術は欧米に大きく
    水をあけた。戦後の新幹線には、戦前の零戦などの技術伝統が
    継承されていたのである。

■7.進め方も「常識破り」■

     新幹線プロジェクトの進め方も「常識破り」だった。日本の
    鉄道が出したそれまでのスピード記録は昭和32(1957)年に小
    田急が作った時速145キロだった。そこから、いきなり時速
    200キロでの営業運転を狙うという。通常なら、試験運転で
    250キロ以上の速度を出せる事を確認し、続いて量産試作車
    を作って100万キロほどの走行試験を行い、信頼性・耐久性
    を確認した上で、ようやく営業運転に入る、というのが常識で
    あった。

     実は高速試験をしたくても、時速200キロを出せる線路が
    なかったというのが実情であった。昭和37年6月に小田原付
    近の線路が完成し、ようやく試作車両を使って試運転を始める
    ことができた。4ヶ月後に初めて時速200キロを突破し、翌
    年3月には256キロの世界最速記録を達成した。

     昭和34年3月に国会で約2千億円の予算を認められてから、
    昭和39年10月の東京オリンピックまでの5年半で安定した
    営業運転にこぎ着けなければならない。線路、鉄橋、駅の建設、
    新型車両の開発と360両の量産、運転管理、信号系、電力供
    給、運行ダイヤ、、、およそ鉄道に関する一切のシステムを完
    成させる。工期の遅れや、事故は絶対に許されない。

■8.「世界の驚異のうちに短時日に完成成功した所以」■

     この課題に対して、島は「未経験の新技術は原則として使わ
    ない」という方針を貫いた。逆に言えば、日本に蓄積されてい
    た技術を集大成すれば、時速200キロ程度の高速列車は十分
    に実現できる、と島は考えていた。「東海道新幹線技術発達史」
    まえがきにはこんな一節がある。

         すなわち我々日本の鉄道技術は軌間の狭いという制約の
        中でそれを意識して極度にまで発達進展してはち切れんば
        かりとなっていたという事が出来るのである。従ってこれ
        が一たび機会を得て東海道新幹線の建設を広軌を以て行う
        こととなった場合、制約をはずされて丁度閘門(こうもん、
        堰)を切った様に一時に飛び出して世界の驚異のうちに短
        時日に完成成功した所以である。[2,p216]

     新幹線を「驚異の短時日」で完成できたのは、今まで蓄積さ
    れていた技術が堰を切ったように飛び出したからであるという。
    島自身も、後年たびたびこう回想している。

         新幹線車両の設計にあたって、狭軌でさんざん苦労した
        私たちは、技術的にそう困難に感じることはなかった。
        [2,p217]

     新幹線は、戦前戦後を通じて数十年に渡って蓄積された日本
    の鉄道技術が、一気に花開いたものと言える。しかし、同時に
    その蓄積の相当部分は、高速長距離列車という島のビジョンが
    あったからこそ、形成されたとも言えよう。

■9.「日本国民の叡智と努力」■

     昭和39年10月1日午前6時。東京駅9番ホームでひかり
    1号列車の出発式典が執り行われていた。発車のベルと同時に、
    国鉄総裁によるテープカットが行われ、くす玉が割れる。50
    羽のハトが飛び立ち、万歳三唱に送られて、ひかり1号列車が
    静かに動き出した。

     この晴れの舞台には島秀雄の姿はなかった。前年5月に十河
    が2期目の総裁任期を終えて退任した時、一緒に辞任したので
    ある。新総裁からは留任を要請されたが、すでに99%完成の
    見通しが立っているので技術的には心配ない、と固辞した。

     島は東京高輪の自宅で、一番列車が通り過ぎるのを自宅の窓
    越しに見送った。その後、意見を求められると、しばしばこう
    言った。

         東海道新幹線は、それぞれの分野に蓄積されていた既存
        の技術を活かして、現場のみなさんの創意工夫によってで
        きあがったものです。私は技師長として、単にそれをとり
        まとめたにすぎない。

     東京駅の新幹線中央乗換口にはブロンズ製の記念碑があり、
    こう刻まれている。

         この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された。

                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(174) 大空のサムライ〜坂井三郎
    撃墜王の「苦難と勇壮の物語は、万人の胸にうったえる」と
   ニューヨーク・タイムズは評した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 山之内秀一郎、「新幹線がなかったら」★★、朝日文庫、H16
2. 高橋団吉、「新幹線をつくった男 島秀雄物語」★★★、
   小学館、H12
3. 産経新聞、「韓国高速鉄道 仏TGV型車両、安全性に
   問題 日本に技術支援要請」、H12.09.23
4. 産経新聞、「【正論】作家・深田祐介 疑念消えない中国
   への新幹線輸出」、H15.07.23
5. 産経新聞、「中国高速鉄道の受注合戦 政府、財界、産業
   界が同床異夢」、H15.07.21

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「島秀雄 〜 新幹線の生みの親」について

                                             エミコさんより
     私は現在欧州在住です。日本の特許申請数はアメリカに次い
    で世界第2位の現在ですら、一般人の間にある「日本コピー大
    国」のイメージは消えないらしく、私もたまに皮肉られたりす
    ることがあります。 そして私自身も「コピー国・日本」を恥
    ずかしく思っておりました。

     ところがこちらに来て、現在、日本製品をコピーしているの
    は彼らの方であることを知りました。そのコピーされたものの
    品質の悪さを見るにつけ、「コピーする」と一言で片付けるけ
    ど、それがどんなに難しいことなのか、何となく理解できるよ
    うになりました。

     「さんざん日本人のことを‘コピーばかりする’と馬鹿にし
    ていたんだから、あんたら、コピーするんだったら、日本人が
    そうであったように、本家を凌ぐ性能のモノを作ってごらんよ。
    そうすれば文句はたれないよ」とタンかを斬りたくなります。

     貴殿の今までのメルマガ、そして今回の新幹線物語を読んで、
    そういう目に見える部分というのは本当に氷山の一角で、その
    背後には膨大な技術力があるのだなと感覚として理解でき、祖
    国を誇れずにはいられません。

     実際TGVは何度も乗っておりますが、乗り心地から何から新
    幹線には及びません。そして新幹線の、ダイヤの正確なこと!
     日本にいたときはそれで当然でしたが、実は世界的に見て
    『奇跡』であるのだと再認識。これは新幹線に限りませんが。
     それなのにこちらの人のTGV自慢を聞いていると...私の愛国
    魂がムクムクと盛り上がり...愛想笑いが引きつって困ります。

                                               純夫さんより
     技術屋の端くれとして、島秀雄さんは日本が生んだ世界に誇
    る傑出した技術者だと思っています。慎重さと大胆さ、予測能
    力、プロジェクトマネージャーとしての抜きんでた統率力、ど
    れを取っても技術者の鑑です。

    「既存の技術」ということを大命題にして作られた新幹線シス
    テムですが、これはフェイルセーフということを考えた場合、
    大変重要で基本的な考え方です。しかしながら、新幹線はすべ
    て既存の技術だけで成り立っているかというと、実は、今まで
    だれもやったことのない、新しい技術も採り入れられています。
    安全で快適なシステムを実現するためには不可避な部分には、
    大胆に新技術を取り入れています。それはロングレールと信号
    システムです。

     新幹線に乗っていて快適な理由のひとつに、レールの継ぎ目
    が少なく継ぎ目自体も滑らかで、がたごと振動しないというこ
    とがあります。従来レールは、25メートルのレールをボルトナッ
    トでジョイントでつないでいました。そして熱膨張を吸収する
    ためにレールにはすき間があり、それが車両の振動の原因となっ
    ていました。新幹線のようにそんなレール上を高速で車両が通
    過したら、ものすごい振動になり脱線の原因にもなります。そ
    れをレールを溶接して1キロメートルほどの長さにし、つなぎ
    目ではレールを斜めにしてスライドするようにし、がたごとし
    ないようにしたわけです。この技術は現在では新幹線以外でも
    広く一般的に使われており、日本の鉄道の乗り心地と狭軌鉄道
    のスピードアップに一役買っています。

     次に画期的だったのは信号システムです。新幹線が登場する
    まで、鉄道の信号は地上に置いた信号を運転士が目視して確認
    するということが一般的でした。しかし高速で疾走する新幹線
    では、目視で信号を確認することはほとんど不可能であるし、
    信号見落としということが起きて事故が起きた場合、とんんで
    もない大事故になります。そこで信号システムを車載にし、自
    動制御としました。ATC (自動列車制御装置)と言われているシ
    ステムです。合わせて、全線の全列車の走行状態が一目でわか
    るようにしましたCTC (列車運行集中制御装置)を採用し、安全
    間隔の確保を行っています。

     一頃、日本の技術は人様の猿まねばかりで独創性がないと良
    く言われたものです。しかしながら、新幹線システムを検証し
    ていくと決してそんなことはないことが見えてきます。「TG
    Vは東海道の息子」と言われる所以は、こんなところにありま
    す。確かに、これらの新技術は既存の技術の積み重ねの上にあ
    ります。しかしながら、全くだれも考えもしなかった形にまと
    めたところに、島秀雄さんのプロジェクトリーダーとしての卓
    抜した能力があります。すべて「既存の技術」の枠の中に閉じ
    こもっていたら、新幹線のようなブレークスルーを引き起すシ
    ステムは登場しません。

     島秀雄さんは最晩年、宇宙開発事業団(NASDA)の初代理事長
    をされていました。1969年の発足後、ご承知のように日本の宇
    宙開発は飛躍的な進展をし、1977年には静止衛星を打ち上げて
    います。慎重さと大胆さ、宇宙開発事業団でも島秀雄さんの真
    骨頂が発揮されたことと思います。ここのところトラブルが続
    く日本の宇宙開発の現状を見ていると、改めて島秀雄さんの偉
    大さを痛切に感じます。

                                              VF-21さんより
     企業において、『品質は人なり』とは昔からよく言われるこ
    とですが、私は五年前に『人がダメだから品質が良くならない。』
    という現実を、品質管理部門にいた時、目の当たりにしました。
    結局、品質は品質管理課がどんなに頑張ったところで、その末
    節に至る人間、パートを含むラインでねじを締めている人達す
    べてが品質とは何か。?という意識を持たない限り、けして良
    いモノ造りなど出来はしない、という事でした。その事を思う
    と、40年間大きな事故を起こさなかった新幹線というのは、ま
    さに驚異です。

     旧国鉄時代、外から見ても旧国鉄の労働運動は、もはや常軌
    を逸している、というに風にしか見えませんでした。そういっ
    た腐りきった組織の中に組まれていたにもかかわらず新幹線は
    大きな事故を起こさず、淡々と操業を続けて行った。この事が
    何を意味するか、ひじょうに重要だと思います。すなわち、組
    織は腐りきっていても、そこに勤める末端の人々は、けして腐っ
    ていなかった。という事ではないでしょうか? これは間違い
    なく、当時(そして今もってなお)保線区に勤めていた人達が、
    自分の仕事に誇りを持って努めていた証拠だと思います。

     今はふたたび、品質管理をはなれて開発に戻りましたが、5
    年間、品質という仕事に携わり、結局、品質=人という事実を
    知ってみると、今回の新幹線の話は本当に感動的でした。


■ 編集長・伊勢雅臣より

     先週は東北新幹線から東海道新幹線へと乗り継ぎましたが、
    日頃、当たり前のように利用している新幹線が、どれほどの叡
    智と努力の上に成り立っているのか、改めて思いをいたしまし
    た。

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