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■■ Japan On the Globe(371)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 豊田佐吉の産業報国 40年におよぶ苦難の発明家人生を 生き抜いた原動力。 ■■■■ H16.11.21 ■■ 32,488 Copies ■■ 1,377,996 Views■ ■1.「これほどお国の為になるものはない」■ 明治20(1886)年、浜名湖西岸の吉津村(現在の湖西市)。 その時分は今日の様に紡織業が盛んに行われているで無 し、ただ各自の家で婆さんたちが手織縞(じま)を織る位 のものであった。農家ばかりの自分の村でも戸毎にみな手 織機を持っておった。その環境に支配されるというものか、 自分の考えは段々とこの織機の方に向いて来た。 ある時は近処の婆さんの機を織るのを、終目立ち暮して 見ておった事もある。機の動く調子が段々判って来る。織 り上げられる木綿が段々捲き上げられてゆく。見れば見る ほど面白くなって来る。趣味も起って来る。 この機は日本中みな使っている。これを改良して動力で 動かすことになれば、たしかにこれまでのよりも早く織り 上げられることになる。沢山に織れる。安く織り上げるこ とになる、買う人が安い木綿が買えることになる。そうな ると、大変に世の中の為になる。これほどお国の為になる ものはないと、考えはそれからそれへと進んで、遂に織機 の改良発明ということに方向を決めてしまった。[1,p19] この青年こそ21歳の豊田佐吉であった。近くの納屋に材料 や道具を持ち込み、佐吉の発明生活が始まった。貧しい大工の 父親は反対し、村人は嘲笑する中で。 ■2.狂人扱い■ 朝から晩まで毎日毎日こつこつと何か拵(こしら)えて は壊す、造ってはまた造り直す。・・・まるで狂人じみた やり方さ。傍人が眺めて狂人扱いにし、変り者扱いにした のも、もっとも至極の事さ。・・・唯一人労(いた)わっ てくれる者もない。労るどころか、謗(そし)る者ばかり である。それもその筈じゃ。田舎の小百姓と言いながら、 田畑の少しはあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あ てどもない発明に皆つぎこむのだから、とても周囲の人達 が良く言うてくれそうな筈がない。[1,p30] 東京で内国勧業博覧会が開かれた時は、すぐに上京し、安宿 に泊まり込んで、15日間も朝から晩まで機械館で当時の最新 鋭の機械を眺め続けた。しかし工学的な知識のない佐吉には理 解できない所が多かった。 こんな苦闘を3年ほども続けて、明治23(1890)年11月、 最初の木製人力織機が完成した。発明というよりは、従来の手 機の改良というべきもので、4、5割の能率向上は図れたが、 世の中に評価されるほどのものではなかった。最初の特許を取 得した喜びにひたる間もなく、佐吉は動力織機の発明に向かっ た。 明治26年3月、最初の妻たみを迎えたが、生活に行き詰まっ た佐吉が一人、伯父の所に転がりこんでなおも発明に没頭した ため、たみは翌年6月に生まれた長男・喜一郎[a]を残して、 姿を消してしまった。 ■3.木製動力織機の完成■ 明治30(1897)年夏に、ようやく木製動力織機が完成した。 日本で最初の発明である。従来の人力織機ではとうていできな かった品質の均一な織布が作れるようになり、また独仏から輸 入されていた動力織機に比べ、機械スピードは半分にも満たな かったが、価格が数分の一ときわめて安かった。 三井物産がこの動力織機の価値を認め、援助の手を差し伸べ たことから、佐吉は発明家として広く世に知られるようになっ た。この機械は中小織布工場を中心に急速に普及し、その近代 化に貢献した。 三井物産が機械の生産と販売を助け、佐吉はもっぱら織機の 技術的改良に力を注いだ。小工場に適した石油発動機の開発、 糸の送出装置、運転中の緯(よこ)糸補給装置などが相継いで 完成し、中小工場のニーズによく応えたため、需要が盛り上がっ て、生産が追いつかないほどであった。このように利用者の視 点から絶えず改善・改良を続ける姿勢は、富や名声を目当てと する発明家にはないものだった。心底に自らの発明で広く「お 国のために尽くしたい」という志があったからだろう。 当時、日清戦争の際に日本軍が満洲で大量発行した軍票(軍 隊が通貨の代用として発行した手形)を回収するために、日本 から綿布を大量に輸出することとなり、三井物産も協力しよう としていたが、当時の手織機ではとうていそれだけの生産量を こなせなかった。ここにちょうど登場した佐吉の動力織機が、 この問題を解決した。「お国の為」の最初の奉公であった。 ■4.豊田式織機会社の設立と辞職■ 明治39(1906)年12月、豊田式織機会社が設立された。そ れまでは豊田商会という家内企業で織機を製作していたのだが、 三井物産からの申し入れで、東京・大阪・名古屋の大資本を集 つめた株式会社が設立された。佐吉は技師長として、巻取装置 など自動織機を目指した開発を続けていった。 この時期に開発された中に「緯(たて)糸切断停止装置」が あった。経糸が一本でも切れたまま、自動的に作り続けると不 良品が大量に出来てしまう。だから異常を検知して、すぐに設 備が停まるという機能が必要だと佐吉は考えた。この機能は今 日のトヨタ生産方式でも「自働化」と呼んで、重要視されてい る。[b] 同時に動力織機のさらに広範な普及のためには、耐久性が必 要であると考え、木製織機の破損・摩耗しやすい所から、順次 鉄製部品に変えていき、ついに鉄製織機を完成させた。 佐吉の目指す自動織機は今やほとんど完成の域にあったが、 販売を開始する前に、完全な営業試験をすることを主張し、自 費で試験工場を設けて、自動織機の完璧を期した。しかし、佐 吉の姿勢は、利益主義に走る会社経営陣から批判を浴び、つい に明治43(1910)年4月の緊急重役会で、佐吉は辞職を強要せ られるに至った。 ■5.工場経営と研究開発と■ 辞職の翌月、佐吉は急に思い立って、翌年1月までアメリカ とイギリスの織機メーカーを見て回った。すでにアメリカのメ ーカーが自動織機を開発していたが、佐吉は自分の発明したも のより速度も遅く、機構が複雑で故障が多く、織布の不良や品 質がよくない事を知った。 帰国した佐吉は、不得手な金策に奔走して、名古屋市内に織 布工場を新設した。その利益をもって自動織機の開発を続けよ うとしたのである。佐吉は家族とともに、この工場に移り、従 業員と寝食をともにして、工場経営と研究開発に全勢力を傾け た。朝は誰よりも早く起きて研究室に入り、作業が始めると織 機の間をかけまわって、細かい作業にも注意を与えた。夜はふ たたび研究室に閉じこもって、おそくまで研究に没頭した。 しかし当時の原糸では品質が粗悪で自動機には不向きである ことが分かると、佐吉は自ら高品質の原糸を製造することを思 い立った。そこで再びあちこちから資金を借りて大正3(1914) 年2月に小規模な紡績工場をスタートさせた。その年7月に第 一次大戦が勃発し、未曾有の好況に恵まれて設備を次々と増設 し、大正7年には豊田紡織株式会社を設立するに至った。 佐吉は事業経営にあたっては、大家族主義をとり、労使協調 を基本とした。佐吉の奉仕・感謝の精神がよく浸透していたた めか、昭和初期の恐慌時でも工場内にはきわだった労使対立は 見られず、それがまた事業の発展に貢献した。 紡織事業の経営から巨大な利益を上げるにいたったが: さて、その利益をどうされたかと言うと、公債も買わな ければ土地も買わぬ。よその会社の大株主や重役にもなら れぬ。ただ次から次へと自分の紡織業の拡張につぎこまれ る。そうして日本の綿糸布の総高の何割は自分の力ででき るようになった。これが今一歩も二歩も進んで、ここまで ゆけばだいぶ御奉公になるがなあと言って、一人で喜んで おられる。[1,p195] 大正10年には中国に進出して、上海に約1万坪の大規模な 紡織工場を建てた。日貨排斥の中で、苦労は大きかったが、そ の狙いをこう語っている。 しかして、紡織の事業は常に多数の人を要する。これを みな支那人を用い、それらの多くの人々に、多少なりとも 事業の経営より生ずる利得を獲(え)せしめ、しかしてそ の製品が内地(日本)製品よりも、ないしは外国製品より も、安くできるという事になれば、いわゆる日支親善の立 場からしても、また事業の経営ないし商売の上から言って も、すこぶる良策であって、すなわち我が日本にとりては 一挙両得の策ではあるまいか。[1,p113] ■6.「これならば恐らく米英織機に負けはとるまい」■ 豊田紡織の事業により、潤沢な研究費が得られるようになっ て、自動織機の改良は順調に進み、大正12年7月には完璧に 近いものとなっていた。そこで佐吉は愛知県刈谷に約10万坪 の土地を購入し、まず200台の自動織機を据えて、実地試験 を始めた。各部の緻密な実地試験の結果、次々に新しい発明考 案が施され、改良が加えられていった。その結果として、多く の特許も獲得した。この徹底した改良改善は、今日の日本のモ ノづくりのお家芸である「カイゼン」を思わせる。 佐吉が「これならば恐らく米英織機に負けはとるまい」と十 分な確信を得たのは、大正15(1926)年3月であった。従来の 動力織機では一人でたかだか4、5台のしか動かすことができ ないのに比較して、完成した自動織機では50台の運転が可能 であった。実に10倍以上の人生産性である。 時に佐吉60歳。織機の発明を志した21歳の春から、40 年の星霜を経ていた。この年の11月、豊田自動織機製作所が 創設され、自動織機の製作・販売が開始された。 ■7.「世界の織機王」■ 佐吉の発明した動力織機、自動織機は国内に広く普及していっ た。昭和7(1932)年までに、豊田式織機会社から動力織機13 万台が出荷され、豊田自動織機製作所から販売された自動織機 も2万台に達した。これらの優秀な国産織機により、海外から の織機の輸入はなくなった。逆に国産織機は、中国・インド ・アメリカ・カナダ・メキシコなどにも輸出されるようになっ た。 佐吉の自動織機は、欧米の織機を模倣したものではなく、まっ たく異なった系統から発明されたものであった。そして、そこ には前述の「自働化」など、後の日本のモノづくりを導く幾多 の独創的な考えが込められていた。 昭和4年には、世界の織機の母国と言うべきイギリスのプラッ ト社の技術者が来日して、自動織機を見学し、世界一の織機と 賞賛した。そして、プラット社からの申し入れで、欧州・カナ ダ・インドで登録されていた特許をそして10万ポンド(邦貨 100万円)で譲渡する交渉がまとまった。佐吉の織機は、つ いに先進国イギリスをも凌駕するものであることが実証され、 佐吉は「世界の織機王」として名声は世界的に高まった。 ■8.日本人の白人に対する智能の挑戦■ 佐吉は自ら自動織機の発明を志すばかりでなく、日本人の発 明能力の開発にもつとめた。大正12、3年頃には蓄電池発明 奨励の目的で、帝国発明協会に100万円もの寄付を行った。 その狙いを佐吉は次のように説明している。 第一のねらいは、日本人の白人に対する智能の挑戦とい うことであった。この頃、またアメリカにおいて日本人排 斥の声がやかましいが、甚だけしからぬ、憤慨に堪えぬ。 しかしこれも結局は日本人の智能が白人よりも劣っている と見ているからだ。・・・ それで日本人は非常に大なる覚悟をもってこれに対抗せ ねばならぬ。別に喧嘩をしようと言うのではない。・・・ 自己の智能の優秀なることを証拠立てて、自らこの人間と しての大恥辱をそそがねばならぬと言うのじゃ。・・・ 動かすべからざる証拠物をひっさげて、白人と智能の優劣 を比較するのじゃ。 第二のねらいは、国富の培養であった。国家にしても、 個人にしても、その独立存在を確実にするには、智恵ばか りではいかぬ。やはり物質の力が伴わなければ言うことが 通らない。・・・国民が貧乏では国の威力は張れない。外 国より金をどしどし取り入れる事が日本の急務だ。 佐吉の目には、当時の白人中心の国際社会の中で、智能が劣っ ている黄色人種と馬鹿にされ、かつ貧しい祖国の姿が見えてい た。なんとか日本が国際社会の中で面目を保ち、かつ独立を維 持できるよう富強にならなければならない。 国民の大部分がここまでの理解を持ち、ここまで進みゆ くだけの努力をするようになったならば、日本の国際的地 位は自然と向上し、国家としての地位は自然と安泰になる ものではあるまいか。 ■9.「産業報国の実を挙ぐべし」■ 佐吉が当時の最先進国イギリスに特許を売ったということは、 まさしく日本人の智能が優秀であることを示す「動かすべから ざる証拠物」であった。同時に、世界最先端の機械によって、 輸出産業を育成し、祖国を富強にする事に貢献したのである。 佐吉の40年以上にわたる発明家としての人生の原動力は、 このような報国の志であった。 佐吉は昭和5(1930)年10月30日に死去したが、その6周 忌にあたる昭和10年、佐吉の遺志を継承するために「豊田綱 領」が定められ、佐吉の胸像の前で朗読式が行われて、全従業 員がその実践を誓った。その最初の2条は次のようなものであ る。 一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし 一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし 佐吉は晩年「これからは自動車工業だ」「日本も立派な自動 車をこしらえなければ、世界的に工業国といって威張れぬ」と 口癖のように言っていた。そしてプラット社に特許を売って得 た100万円、今日の価値では数十億円に相当する金額を長男 ・喜一郎に与え、「わしは織機でお国のためにつくした。お前 は自動車をつくれ。自動車をつくって国のためにつくせ」と励 ました。 豊田綱領の制定の5ヶ月前、喜一郎が、乗用車の試作第一号 を完成させていた。新たな挑戦が始まっていた。[a] (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(295) 豊田喜一郎 〜 日本自動車産業の生みの親 このままでは日本は永久にアメリカの経済的植民地になって しまうと、豊田喜一郎は国産車作りに立ち上がった。 b. JOG(368) 大野耐一 〜 トヨタ生産方式の創造 8倍以上の生産性を持つ米国にいかに追いつくか、大野耐一 の闘いはそこから始まった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 楫西光速『豊田佐吉』★★★、吉川弘文館、S37 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.