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■■ Japan On the Globe(377)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

           国柄探訪: 伊勢神宮を支えた千数百年

                   千数百年にわたって伊勢神宮が20年ごとに
                  建て替えされてきた理由は?
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■1.トインビーの伊勢神宮参拝■

     昭和42(1967)年秋、伊勢神宮を訪れたイギリスの文明史家
    アーノルド・トインビーは、清らかな五十鈴川の流れに手をひ
    たし、そびえ立つ大杉に見とれながら、ゆっくり参道の玉砂利
    を踏みしめて、敬虔に拝礼をした。その後、神楽殿の休憩室で
    次のように毛筆で記帳した。

         Here, in this holy place, I feel the underlying
        unity of all religions.
                                        Arnold Toynbee
                                        29 Novemnber, 1967

        (この聖地において、私はあらゆる宗教の根底をなす統一
         的なるものを感ずる。)

    「あらゆる宗教の根底をなす統一的なるもの」とは何だろう。
    それに通ずる歌を、平安末期から鎌倉初頭に生きた歌人・西行
    が詠んでいる。

        なにごとのおはしますかはしらねども
        かたじけなさになみだこぼるる

     西行は武家の出身だが、出家して仏門に入った。仏教を奉ず
    る西行が、伊勢神宮を参拝して「何がいらっしゃるのかは知ら
    ないが、有り難さに涙がこぼれる」と言うのである。宗教や教
    義を超えた無言の「神聖さ」、「ありがたさ」をトインビーも
    西行も感じとったのだろう。

■2.伊勢の神宮とデルファイの神殿の違い■

     この後、トインビーはこう語った。

         世界には神聖な場所がいくつかありますが、伊勢の神宮
        は最も神聖な場所の一つだと思います。ほかにギリシアの
        デルファイとかイタリアのアッシジなどもありますがね・
        ・・

     これを聞いて、すかさず反論したのが皇學館大学教授・田中
    卓氏である。

         トインビー先生が、伊勢の神宮とデルファイの神殿を同
        列に論ぜられることに、私は反対です。なるほど昔のデル
        ファイには、ギリシアにおける代表的な神殿が建ち、人々
        の崇敬を集めたことでしょう。しかし、私も数年前に現地
        を見てきましたが、今のデルファイには、崩れた柱が数本
        立っているだけです。昔は栄えた聖地も、今は単なる廃墟
        というほかはないのです。ところが、伊勢の神宮は昔より
        今に至るまで、一貫した生命を保っています。これをデル
        ファイのごとしと言われることには賛成できません。

     トインビーはこれを聞いて「なるほど、その点は田中先生の
    主張されるとおりだと思いますね」と答えた。確かに、デルファ
    イの神殿はギリシア全盛時代こそ、人々の熱烈な信仰を得てい
    たが、西暦4世紀には社殿は壊れて石柱のみになり、神像は持
    ち去られて一体もなくなっていた。

■3.「長い歴史に耐えてきた正確なフォーム」■

     石造りのデルファイの神殿が柱しか残っていないのに、木造
    の伊勢神宮が今も残り、多くの人が参詣している理由は簡単だ。
    20年ごとに建て替えられるからである。すべての神殿の宮地
    (敷地)が二つづつあり、一方で現在の神殿が使われている間
    に、他の一方で新しい建物が建てられる。新しい神殿に神様を
    お移しすることを「遷宮」という。

     伊勢神宮は第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代に創建され
    たと伝えられており、一説にはそれは西暦297年頃と推定さ
    れている。しかし、「神明造(しんめいつくり)」と呼ばれる
    その様式は弥生時代中期(西暦前100年〜後100年)に出
    土した銅鐸にも描かれた高床式の穀倉、「高倉」と同じである。
    高倉は穀倉だけでなく、収穫の際は人々が集まり、八百万の
    神々をお招きして酒食を供する神殿でもあった。したがって伊
    勢神宮は少なくとも2千年も昔の様式を今に伝えているのであ
    る。

     伊勢神宮の建築様式は現代の建築家にも高く評価されている。
    昭和初期に神宮正殿を拝観したドイツの建築家ブルーノ・タウ
    トは、当時の日記に「伊勢神宮は、独創的な真の日本だ。日本
    固有の文化の精髄であり、世界的観点からみても、古典的天才
    的な創造だ」と絶賛し、その感銘を著書「日本美の再発見」に
    綴っている。

     また日本の代表的な建築家・丹下健三は「伊勢−日本建築の
    原形」を編纂し、次のような感想を述べている。

         これほどに、長い歴史に耐えてきた正確なフォームが、
        またとあるだろうか。・・・日本建築のその後の展開は、
        すべて伊勢に発しているといってもよいだろう。素材の自
        然なあつかい、形態比例の感性、空間秩序の感覚、とくに
        建築と自然との融合などの、日本建築の伝統は、すべてこ
        こに起点をもっている。・・・伊勢のフォームを創造した
        古代人のたくましい構想力の背後には、日本民族のエネル
        ギーがそれを支えていた。この伊勢のフォームには、日本
        民族の原質が含まれている。[1,p33]

■4.20年のサイクルの意味■

     木造建築でも、法隆寺の五重塔のように千年以上もの耐久性
    を持たせる様式もあり、また古代日本にはそれだけの技術もあっ
    た。屋根を茅葺きではなく瓦葺きに変え、柱に土台をつけて漆
    を塗れば、はるかに長持ちする。

     しかし、われわれの先祖は頑固に神代からの簡素な茅葺きと
    白木の神明造の様式を変えず、それを維持するために、わざわ
    ざ一定期間毎に建て替えるという大変な手間を千数百年も愚直
    に続けてきたのである。

     それは先祖の確立した伝統的様式を大切に守っていこうとい
    う姿勢とともに、簡素で真新しい清浄な建物こそ神様にふさわ
    しいという神道の感覚がある。伝統と清新という相矛盾する要
    求を同時に満たすのが、定期的な建て替えという世界でもユニ
    ークな手法だったのである。

     20年という遷宮のサイクルは、宮大工が20代で下働き、
    40代で中堅、60代で棟梁となって、次の世代に技術をバト
    ンタッチしていく上で最適なものとなっている。しかし鎌倉末
    期までは20年目の建て替え、すなわち満19年のサイクルで
    あった。これには別の意味があったと推定されている。

     古代の暦は太陰太陽暦と呼ばれ、太陰すなわち月の満ち欠け
    によって29日半を一ヶ月としたが、それが12ヶ月では1太
    陽年に11日足らないので、季節がずれていってしまう。これ
    を調整するために、19年に7回、閏月(うるうづき)と言っ
    て余分な月をはさんだ。すなわち19年をめぐると、暦上の元
    日と太陽年の立春が重なる。この19年を「一章」と呼ぶ。

     年末に大掃除をして、年の始めを清浄な家屋で迎える事によっ
    て、我々は清々しい気持ちとなり、新しい一年の希望に胸を膨
    らませる。それと同じ事を、古代人は一章の始まりにも感じて
    いたのであろう。真新しく再建された神殿で新しい一章を迎え
    るというのは、我々が正月、清らかに清掃された神社に参拝し
    て清々しい気持ちで一年を迎えるのと、スケールこそ違え、そ
    の根本は同じである。

■5.歴代治世者の伊勢神宮崇敬■

     20年に一度の遷宮が制度として始められたのは、持統天皇
    4(690)年である。しかし、内宮、外宮だけでなく、別宮など
    多くの建物、さらにその中の帳や幌などの145種1075点の御
    装束、武具や楽器など53種863点の御神宝をすべて作り直す
    には、莫大な費用と労力、技術が必要である。平安時代の中期
    には、社寺権門の荘園経営が盛んとなり、朝廷の財政は苦しく
    なったが、こと伊勢神宮の遷宮だけはきちんと国費を用意して、
    厳格に執り行った。

     武家の世となって、鎌倉幕府を開いた源頼朝も伊勢神宮尊崇
    の念が厚く、「凡そ吾が朝六十余州は、立針の地(針が立つほ
    どの狭い土地)と雖(いえど)も、伊勢大神宮の御領ならぬ所
    あるべからず」とまで言って、神宮の領地(神領)の保護に意
    を用い、鎌倉時代の8回の遷宮も確実に執り行われた。

     次の室町幕府の時代になると、歴代将軍は何度も神宮を参拝
    し、8代将軍義政も遷宮のために関係諸国に役夫工米(労役提
    供の替わりに献上する米)の納入を命じたが、応仁・文明の乱
    の最中で、将軍の威令は地に落ち、応ずる者はなかった。

     そのために遷宮は百年以上も行われず、神宮の荒廃が続いた。
    この時期が伊勢神宮にとって、もっとも危機的な時代であった。

■6.伊勢神宮を救った尼僧たち■

     この危機を救ったのが、心ある尼僧たちであった。その一人、
    清順上人(せいじゅんしょうにん)は内宮も外宮も百年以上も
    遷宮が行わわれず、朽ち果てている惨状を深く悲しんだ。そこ
    で、まず外宮の遷宮を再興しようと志して、天文20(1551)年、
    後奈良天皇の綸旨(りんじ、天皇のお言葉を記録した文書)を
    賜った。これに将軍義輝からも直書きを貰い、清順上人はこれ
    らを携えて、12年もの間、全国の大名豪族を回って寄進を募っ
    た。上人の熱誠に共鳴する武家や庶民も多く、永禄6(1563)年、
    足かけ130年も中断していた外宮の遷宮再興にこぎつけた。

     清順上人の尼寺の後を継いだ周養尼(しゅうように)は、今
    度は内宮の再興を志して、同様に綸旨を賜って、勧進に努めた。
    幸い、織田信長と豊臣秀吉の大枚の寄進もあって、天正13
    (1585)年、内宮外宮の遷宮を行うことができた。内宮の遷宮は
    124年ぶりであった。

     信長と秀吉とも神宮崇敬の念厚く、大枚の寄進をしただけで
    なく、秀吉は宇治、山田などの地域を神宮の領地として、免税
    と自治を認めた。この方針は徳川幕府にも引き継がれ、江戸時
    代には、遷宮の費用はすべて幕府が負担して、滞りなく執り行
    われるようになる。

■7.「たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮」■

     信長、秀吉の頃には世情が安定して、交通も安全になり、庶
    民の神宮参拝が盛んになった。すでに平安中期の承平4(934)
    年の神嘗祭の日には「参宮人千万、貴賤を論ぜず」と伝えられ
    ていた。天正13(1585)年には、ヤソ会宣教師ルイス・フロイ
    スが手紙にこう書いている。

         日本諸国から巡礼として天照大神のもと(神宮)に集ま
        る者の多いことは、信じられない程で・・・、男も女も競っ
        て参宮する風習がある。伊勢に行かない者は人間の数に加
        えられぬと思っているかのようである。[1,p210]

     この傾向は江戸時代に入ると、ますます強まり、毎年50万
    人前後の参拝者があった。さらに「おかげまいり」と言って、
    ほぼ60年周期で、爆発的な参拝ブームが巻き起こった。たと
    えば宝永2(1705)年には50日間に3百数十万人、文政13
    (1830)年には、五ヶ月間で約5百万人もの老若男女が神宮に押
    しかけた。

     元禄2(1689)年秋、奥の細道の旅を終えた芭蕉は、その足で
    伊勢に向かい、外宮の遷宮祭を奉拝して、こう詠んだ。

        たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮

     中世から近世にかけて神宮の「御師(おんし)」と呼ばれる
    祈祷師が毎年各地の檀家を回って「御祓大麻(おはらいたいま)」
    と称する守護札を領布した。江戸後期には日本全国の9割近い
    家が御祓大麻を受けていたという。

     こうしたネットワークが基盤となって、全国からの伊勢神宮
    への参拝者には、道中の食料や宿泊が無料で提供されていた。

■8.民間の浄財による遷宮■

     明治2年の遷宮は、幕末から準備が進められていたが、明治
    政府はそれを引き継ぐだけでなく、室町時代以来廃絶していた
    玉垣、板垣などの再興に努めた。以後、神宮は政府の保護を受
    けていたが、昭和20(1945)年、大東亜戦争の敗北により占領
    軍に「政教分離」政策を強要され、国として伊勢神宮に援助す
    ることができなくなった。

     そこで、直ちに民間有志による全国的な募金活動が展開され、
    予定よりは4年遅れたが、昭和28年10月には650万人も
    の一般国民から5億円の浄財が集められ、無事に遷宮が行われ
    た。50日間行われた奉祝祭には、2百数十万人もの参拝客が
    参加した。

     最も最近の遷宮は平成5年の第61回であるが、370億円
    もの寄付が集まった。次回は平成25年の第62回。募金奉賛
    活動など本格的な準備は、この平成17年から始められる。

■9.「何か親しみやすいスカッとした建物ネー。」■

     新しい神殿の建設などは専門の宮大工の仕事だが、その準備
    の過程では、我々一般国民にも参加の機会がある。たとえば木
    曾山中で伐採された巨木を台車に乗せて、大勢の人間が長い綱
    で曳く「御木曳初(おきびきぞめ)式」という儀式がある。何
    万人もの人々がハッピ姿で元気な木遣(きやり)音頭に合わせ
    て綱を引く光景は、にぎやかなお祭りそのものである。

     また完成した正殿の周辺に白石を敷き詰める「御白石持(お
    しらいしもち)行事」もある。[1]の著者・所功教授が参加し
    た昭和48年の御遷宮の祭には、約12万人もの人々がこの行
    事に応募して参加した。老いも若きも、童心を取り戻して、は
    しゃいだという。白石を持って完成したばかりの正殿の前に立
    つと、近くの若い女の子たちがこんな会話を交わしていた。

         ワー大きい! とっても明るい感じネ。あの柱チョット
        さわってみたいワ。柔らかいお餅の肌みたい。

         マ、そんなこというたらバチあたるわヨ。でも、想像し
        ていたみたいなコワイ感じは全然しないワ。何か親しみや
        すいスカッとした建物ネー。

         ホント、日本人ってなかなかセンスいいわネ。[1,p205]

    「ワー大きい! とっても明るい感じネ」とか、「何か親しみや
    すいスカッとした建物ネー」と言ってもバチは当たるまい。そ
    う感じさせる伊勢神宮の簡素な清明さこそ、我々の祖先が千数
    百年にわたる遷宮を愚直に行って守り通してきたものだからで
    ある。それはおそらく、西行の「かたじけなさ」、芭蕉の「と
    ふとさ」、そしてトインビーの「あらゆる宗教の根底をなす統
    一的なるもの」に通じているのである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの
    ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」
   に秘められた宗教的・政治的理想とは。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 所功「伊勢神宮」★★★、講談社学術文庫、H5

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「伊勢神宮を支えた千数百年」について

                                           もとゆきさんより
     早速ですが、数年前に伊勢観光協会の山中隆雄会長のお話を
    伺う機会があり、大変感動したので、お知らせしたくメールさ
    せていただきました。

     外宮の御饌殿(みけでん)では、朝夕の1日2回大御饌祭
    (おおみけさい)を行っているそうです。6人の神官が前日か
    ら泊り込み、禊を行った後、朝500m離れた山の中へ水を汲
    みに行き、木と木を擦り合わせて火を起こし、ご飯を炊き、神
    宮の農園で取れた米や野菜、果物を使用し、神事を行っている
    そうです。

     このような手間隙をかけて、日本の国民が今日一日食べ物に
    困らないようにと、祈っているそうです。私はそれだけでも、
    すごいことだと思ったのですが、なんとこの神事は、記録の残っ
    ているだけでも、1500年もの昔から一日も欠かすことなく
    行われてきたそうです。大東亜戦争で空襲のあった日も、伊勢
    湾台風で水害にあった際にも欠かすことなく、行われてきたそ
    うです。

    その様なことが、当たり前のように行われてきた、聖地だから
    こそ、「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさに
    なみだこぼるる」という雰囲気が無言のうちに参拝者に伝わっ
    てくるのだと思います。


                                           アルファさんより
     私が始めて伊勢神宮の地を訪れた時、言葉では表現しつくせ
    ない懐かしさがありました。そもそも退職後小学校の八幡神社
    で宮司様をなさった校長先生が修学旅行へと御選びいただいた
    伊勢神宮でした。

     外宮をお参りさせていただいたとき、まるで神職様方の御修
    行の地であるかのような厳しい印象すら感じましたが、内宮へ
    通じる宇治橋をこえ内宮の森林に囲まれる参道へ入ると自然と
    涙が込み上げてきました。不思議と言葉を発せられる事も憚ら
    れる神聖さが胸を貫くようでした。

     五十鈴川で川の流れと鯉を見ました。五十鈴川の水の冷たさ
    と清らかさは未だに忘れられません。ちょうど参拝した日が雨
    上がりでしたので五十鈴川がまるで緑茶のように濁っていまし
    た。神馬様のところへ到着した頃には日が照り内宮が千木の先
    端までも光り輝くようでした。

     私見ですが、伊勢神宮の内宮・外宮には世界の平穏やお清め
    をもたらす清らかさのエネルギーが秘められていると信じてい
    ます。

     我国日本が此れより後も心の安らぎと安寧が栄える聖地とし
    て繁栄する事を願ってやみません。現在、武士道や大和魂、日
    本文化が欧米で花開いている一方で、国内の衰退を悔しい思い
    で見ていますが、再興は必ずや果たしえる悲願であると思って
    います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

    「清らかさのエネルギー」とは、我々が伊勢神宮から感じ取っ
    て、それを現代社会に生かすべきものですね。
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