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■■ Japan On the Globe(381)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪:大和の国と邪馬台国 我が国はいつ、どのように建国されたのか? ■■■■ H17.02.06 ■■ 33,397 Copies ■■ 1,468,425 Views■ ■1.日本の建国は、いつ誰によって行われたのか■ もうすぐ建国記念日。皇紀2665年、と言っても、知らな い人が多いだろうが、紀元前660年元日の初代・神武天皇即 位から、この2月11日で2665年目となるという事である。 そんな事を言うと、すぐに紀元前660年などというのは、 皇室の歴史を引き延ばして政治宣伝をした古事記・日本書紀に よるもので、嘘っぱちに決まっている、と切り捨てるのが、戦 後の歴史学界の倣いだ。たとえば平凡社の世界大百科事典の 「神武天皇」の項では: 日本書紀の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660) 即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおっ た造作であり,6〜7世紀の記紀神話形成期に今見るような 形に物語化されたものであろう。 「史実をよそおった造作」などと、いかにも冷ややかな記述で ある。こういう冷たい視線で歴史を眺めなければ、客観的・学 問的になれない、という思いこみがあるようだ。 それでは歴史事実として、日本の建国はいつ誰によって行わ れたのか、と疑問に思っても、具体的な記述はない。「史実を よそおった造作」と批判だけして、自分の説を示さないのは、 日の丸・君が代を国旗・国歌と認めない、と因縁をつけながら、 代わりの国旗・国歌を提案しない日教組とよく似ている。 こういう状況の中で、厳密な資料批判に基づいて、日本の建 国の年代に関して合理的な仮説を提示した本が現れた。八木壮 司氏の「古代天皇はなぜ殺されたのか」[1]である。本号では 建国記念の日を機に、読者を壮大な古代ロマンの世界に誘う八 木氏の仮説をご紹介しよう。 ■2.神武天皇127歳!?■ 建国の年の推定に入る前に、まず「神武天皇が127歳で没し た」という長寿の謎に挑戦してみよう。誰でも「そんな馬鹿な」 と思い、そこから簡単に「造作説」に引き込まれてしまう。し かし、この異様な長寿が皇室の歴史を引き延ばすための「造作」 という仮説では説明しきれない点がある。 確かに初代・神武天皇は日本書紀では127歳だが、第2代 綏靖(すいぜい)84歳、第3代安寧(あんねい)57歳と 「短命」となり、第4代懿徳(いとく)から第8代考元までは 記載なしで、第9代開化天皇でようやく115歳と長寿に戻る。 歴史を引き延ばすために長寿を造作したという仮説なら: ・なぜ短命の天皇をわざわざ記載したのか? 歴史を引き延ば すためなら、神武127歳、安寧57歳とするより、両者 92歳とした方が、より「史実」らしく見える。逆に長寿に した方が、天皇の神秘的権威が高まる、というなら、短命な 天皇を記すことは逆効果だ。 ・そもそも、なぜ年齢の記録のない天皇がいるのか? 歴史を 引き延ばす事が目的なら、すべての天皇の年齢をでっち上げ るはずだ。 ・歴史を延ばすためには、天皇を異様な長寿にするより、もっ と簡単で史実らしく見せる手がある。架空の天皇を何代もでっ ちあげて、系譜に挿入すればよい。世代数が増えれば、権威 も増す。 日本書紀の編者たちは、こんな矛盾にも気がつかずに、単に 非現実的な長寿を「造作」したほど、愚かだった、というのだ ろうか? それとも、長寿造作説が抱えるこの程度の単純な矛 盾に気がつかない現代の歴史学者が愚かなのだろうか? ■3.「古代の日本では1年を春秋で2年と数えていた」■ この問題に対して、八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名 な魏志倭人伝の原典となった「魏略」という本に「その俗、正 歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」という一 節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知 らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にし ている」と言うのである。 ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる 「二倍年」の暦を使っていたのではないか、と推察する。今の 1年を春秋で2年と数える暦法である。とすれば、神武天皇 127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳 は28、9歳で、まさに夭折である。記紀(古事記・日本書紀) を通じて最も長寿とされた第10代崇神天皇が168歳である から、これも84歳となり、ありえない年齢ではない。 おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は 忘れ去られていたのであろう。しかし、編纂者たちは伝えられ た異様な長寿はその通りに記し、年齢が分からない天皇はその まま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに文字に 記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。 そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の 天皇を勝手に造作するなどという事は思いもよらない事だった のだろう。 八木氏の「倍年法」仮説なら、「長寿造作」仮説では説明の つかない前節の3つの疑問を簡単明瞭に説明できるのである。 ■4.「辛酉革命説」への疑問■ 日本書紀では神武天皇即位の年を紀元前660年としているが、 この縄文の時代に、神武天皇が船団を組んで九州から大和に攻 め込む、というのは、やはり非現実的だろう。日本書紀で、な ぜこんなに古い年代を持ち出したか、については、古くからの 定説がある。明治期の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)のい わゆる「辛酉(しんゆう)革命説」である。 中国古代では、甲(きのえ)・乙(きのと)などの十干(じっか ん)と、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)などの十二支を組み合わ せて、60年で一巡する暦法を採用していた。そしてその21 巡目、すなわち1260年目の辛酉(かのと・とり)の年には、 王朝が覆される大革命の年になるという讖緯説(しんいせつ) なる俗説があった。 推古天皇9年(601年)が辛酉であり、その1260年前に大革 命が起きたはずで、それが初代・神武天皇の即位の年であった に違いない、と設定した、というのである。 この説に対して、八木氏は2つの難点を挙げる。まず1260年 毎に大革命があるという讖緯説は、中国では社会不安を煽る俗 説として、しばしば禁止されていた。日本書紀編纂に加わった 当時一流の学者たちは、当然、この事を知っていただろうし、 ましてや万世一系を意識する大和朝廷で、こんな不吉な俗説を 正史に採用するとは考えられない、というのである。 また推古天皇9年も、聖徳太子が斑鳩の宮を建てたほかは、 新羅との緊張が高まる程度の比較的平穏な年であった。とうて い王朝が覆るような大革命の年ではない。 従来の仮説では神武天皇即位を讖緯説によって1260年前に設 定し、ここから歴代の天皇の治世を逆算して当てはめたために、 無理な長寿が造作された、というものであったが、八木氏は逆 に、倍年法で異様な長寿が伝えられており、それをそのままに 建国の年代を推定したので、途方もない昔となってしまった、 と考える。 ■5.「倭国大乱」とは神武の東征■ さて、それでは神武天皇即位は何年だったのか。記紀によれ ば、神武天皇は幼名を狭野命(さののみこと)と申し上げ、現 在の宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)に生まれた。長じ て大八島(日本)の中心である大和に都を置こうと、宮崎市と 延岡市の間にある美々津から船団を発し、宇沙(大分県宇佐市)、 阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を 通られて、浪速国にたどり着いた。そこで地元勢に襲われて苦 戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回して、吉野から大和に入 り、辛酉の年の正月に初代天皇として即位した。その足跡が各 地の地名や神社、祭り、物産となって今も残されている[a]。 この神武東征の年代について、八木氏は魏志倭人伝の次の有 名な一節に着目する。 その国、もとまた男子を以て王と為す。住(とど)まる こと七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一 女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。 倭国ではもとは男王が立っていたが、7,80年にして乱れ、 戦いが何年か続いた後、卑弥呼を女王として共立した。この 「倭国乱れ」こそ神武東征による戦乱が中国に伝わった記事な のではないか、というのが、八木氏の仮説である。 まず、この「倭国乱れ」はいつなのか。魏志倭人伝より約2 百年後に書かれた『御漢書』では「桓・霊の間、倭国大いに乱 れ」とあり、倭国の大乱を後漢の桓帝と霊帝の間(西暦146年 から189年)としている。この間の辛酉の年は西暦181年であり、 これが神武天皇即位の年だった、というのが八木氏の説である。 ■6.神武即位は西暦181年■ 神武即位が181年という仮説が、他の史実や文献と矛盾が生 じないか、八木氏は子細に検討する。 まず、この時代には、朝鮮半島には楽浪郡や帯方郡といった 中国側の出先機関が設けられていた。朝鮮半島でのいわば植民 地統轄拠点だが、倭国に関する情報は郡庁で整理されて、首都 ・洛陽に送られていたみられる。倭国に神武東征のような大き な戦乱があれば、その情報がここを通じて、中国に伝えられて いたのは当然だろう。 また『後漢書』によれば、西暦107年に倭国王「師升(すい しょう)」が生口(使用人)160人を後漢の安帝に献じた。 これだけの人数を使節、衛兵とともに中国に送れるだけの船が 作れたのであるから、その70年ほど後に、神武天皇が船団を 組んで瀬戸内海を渡ったというのは、技術的にも経済的にも十 分、可能な事であった、と考えられる。 次に歴代天皇の在位年数で見てみると、神武天皇即位を181 年とすると、昭和の末年までで1880年であり、これを125代 で割ると、天皇一代あたりの平均在位年数は14.5年となる。 天皇の即位年が文献上、正確に分かるのは聖徳太子の父君であ る第31代用明天皇であり、その即位から昭和天皇の崩御まで 94代で計算すると、平均在位年数は14.9年となる。 神武即位からの14.5年は、これに比較すると0.4年短い が、古代の平均寿命が短かったと考えれば、ほぼ妥当な数字と 言える。神武即位は西暦181年という仮説は、技術や経済の発 展段階、および、内外の文献上ともうまく整合するのである。 ■7.邪馬台国と大和の国■ 残る問題は、魏志倭人伝では倭国大乱の後に卑弥呼が共立さ れたという邪馬台国と、記紀で神武天皇が即位して建国した大 和の国との関係である。 まず注意すべきは、神武東征軍が制した版図は、奈良盆地の 南半分でしかなかった、という事である。東征軍が戦った地元 勢との戦いの記録は、ほぼこの地域に限られている。 また初代神武天皇から第8代孝元天皇まで、各代で建設され た宮殿は、すべて奈良盆地の南3分の一ほどの地に限られてい た。さらに第5代孝昭天皇を除いて、第8代まではいずれも正 妃は奈良盆地南部から迎えている。ようやく建国された大和の 国は、第8代までは奈良盆地の南半分を版図とする小国だった のだ。 それに対して、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の邪馬台国は7 万余戸と伝えられ、人口は50万人ほどもあったと推定される。 同時代に魏に滅ぼされた燕の国は戸数4万というから、邪馬台 国はその2倍近い大国である。 卑弥呼は239年に倭国連合の盟主として魏に使節団を送り、 魏はこれに応えて「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を送った。 この称号も大量の銅鏡も、史上例のない厚遇であった。魏とし ては呉、蜀への対抗上、強大な邪馬台国をぜひとも味方につけ ておく必要があったのだろう。[b] この銅鏡は東は群馬から西は島根、山口まで、複製品を含め て9枚が出土しているが、これは卑弥呼が倭国連合に属する国 ぐにに自らの権威づけのために贈ったものと見られる。邪馬台 国は九州にあったという説と、近畿地方にあったという説があ るが、銅鏡の出土地域を考えれば、後者が有力と考えられる。 ■8.邪馬台国 対 大和の国■ 魏志倭人伝によれば、247年には邪馬台国はその南に位置し ていた狗奴(くな)国から激しい攻撃を受け、魏の救援をあおぐ。 魏は軍事顧問というべき武官を派遣するが、その戦いの最中に 卑弥呼は亡くなる。あとを継いで第2代女王・壱与(いよ)が 共立され、266年には魏に使いを出すが、これを最後に邪馬台 国は幻のように消えてしまう。 邪馬台国が大和の国だった、というのが、従来、有力な説だっ たが、卑弥呼−壱与のように女王が2代続くことは皇室ではあ りえない。邪馬台国を南部から攻撃した狗奴国こそ神武天皇の 建国した大和の国だった、というのが、八木氏の仮説である。 狗奴は「熊野」であり、神武天皇は熊野から大和盆地に入った からである。 邪馬台国の壱与が隋に最後の使いを出したのが266年。先の 平均在位年数14.5年から計算すると、第8代孝元天皇の即 位が257年前後と推定される。その次の開化天皇は奈良盆地南 部から一挙に飛び出して、その北端、奈良市春日の地に宮殿を 構え、正妃も初めてこの地から迎えた。さらに山背(やましろ、 京都府)や北河内(大阪府)の豪族の娘を迎えている。 したがって第8代孝元天皇の時代に大和の国は邪馬台国を併 合し、それまで奈良盆地南部の地方国家だったのが、一挙に京 都府南部、大阪府北部に至る地域に勢力を広げた、と考えられ るのである。 神武天皇は天照大神の子孫であることを自覚し、その志を継 いで「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一 つ屋根の下の大家族のように仲よく暮らす」ことを目的として、 皇位についた[a]。そうした志からすれば、中国の権威を借り て、その服属国の盟主として国内の実権を維持しようとした邪 馬台国とは建国の理念そのものが異なるのである。大和の国が その理念を追求しようとすれば、邪馬台国は共に天を戴くこと のできぬ国であったろう。この点から見ても、八木氏の仮説は 説得力を持つのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」 神話にこめられた建国の理想を読む。 b. JOG(367) 「日中友好2千年」という虚構 日本は、中国の冊封体制と中華思想を拒否し、適度の距離感 を保ってきた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 八木壮司『古代天皇はなぜ殺されたのか』★★★、角川書店、H16© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.