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■■ Japan On the Globe(383)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪:サムライ化学者、高峰譲吉(上) 大勢の飢えた人々を一度に救える道として、 譲吉は化学を志した。 ■■■■ H17.02.20 ■■ 33,056 Copies ■■ 1,486,508 Views■ ■1.「泣き一揆」の光景■ 「腹減った〜」「死にそうじゃ〜」「米食わせ〜」 金沢城を見おろす卯辰山(うたつやま)から、空腹を訴える 群衆の声が、城下に降り注いだ。安政5(1858)年7月11日夜 の事であった。 この年2月、金沢は60年ぶりの大地震に襲われ、2千余の 町屋が倒壊。その上に5月からは雨続きで大凶作となった。大 飢饉と米価の急騰で、餓死寸前の町民、農民2千人が、夜陰に まぎれて立ち入り御法度の卯辰山に登り、空腹を訴えた。「泣 き一揆」と呼ばれた。 藩主の御典医・高峰元陸は、4歳になったばかりの息子・譲 吉を背負って卯辰山に向かった。医者の子として、今夜のこと を見せておかねばならない、と思いたったからである。松明を 振りかざし、幽鬼のように泣き叫ぶ人々の姿を見ながら、その 声に消されないような大声で、元陸は背負った息子に言った。 ええか、わが家は代々医者じゃ。医術の前には、貧富の 差はない。おまえは大きゅうなったら、今夜のような人た ちを救える医者になれ。 この夜の光景は、生涯忘れることのできない出来事として、 譲吉の心に焼きついた。 ■2.大勢の飢えた人々を一度に救える道■ 元陸は若い頃、医学だけでなく、当時は「舎密(セイミ)」 と呼ばれた化学の勉強もしていた。セイミとは英語で言えば、 ケミストリー(化学)である。その知識を使って、元陸は加賀 藩に大きな貢献をなした。時あたかも幕末、海防の必要性が叫 ばれるなか、火薬の主成分である硝石の大量生産方法を考え出 したのである。 養蚕農家で不要となった蚕のサナギを切り刻んで、草にまぜ あわせ、数ヶ月放置しておく。発酵が進んで、サナギに含まれ ている窒素が酸化し、硝酸塩類に変化する。これに灰汁をまぜ あわせて大釜で煮立て、ふたたび数ヶ月おくと、底の方にキラ キラした結晶ができる。これが硝石である。 譲吉は、茶褐色の汁を棄てたあとに出てきた氷のように光る 結晶を見て驚いた。「父上、なぜ、あのサナギの腐ったものが、 こんなキラキラしたものに化けるのですか?」 元陸は、これ が「舎密」という学問であると譲吉に教えた。 元陸は硝石の量産の目処が立つと、これを山間部の農家の副 業とすべく、年貢の米の代わりに硝石を納めても良いように藩 にかけあった。山間部の貧しい農家は喜んで硝石の生産に励ん だ。 「泣き一揆」で見た飢えた人々を思い浮かべながら、譲吉は考 えた。大勢の飢えた人々を一度に救える道があるとしたら、そ れは「舎密」なのではないか。 ■3.鉄の文明■ 明治6(1873)年、日本で最初の工科大学として、「工部大学 校」が設立された。後の東京大学工学部である。第一期の合格 者わずかに32名。その中に金沢から上京した高峰譲吉がいた。 明治13(1880)年、卒業する第一期生の中から、さらに11 名が選ばれて、英国留学に派遣された。留学生は鉱山、冶金、 鉄道、電気などの専攻分野から選抜されたが、応用化学の分野 からは譲吉が選ばれた。 譲吉は、かつて加賀藩で英語を教えていたオズボーン先生か ら聞いたことがある。英国も日本と同様小さな国なのに、自分 ははるばる日本にやってくる事ができた。その差は何か。英国 には、石炭で水を湧かし、その力で大勢の人や物を運ぶ、鉄で できた大きな車が走っている。これが化学工業の力で、この力 がイギリスと日本の国の力の差だと。 その機関車を譲吉はロンドンで実際に見て驚いた。機関車ば かりか、橋もガス灯も下水管も鉄ばかりである。この「鉄の文 明」を成り立たせているのが化学工業の力だと、譲吉は実感し た。 譲吉は工業都市グラスゴーに赴き、当時英国でも応用化学で は第一人者と言われたミルス博士のもとで研究を続けた。3年 という短い留学期間にできるだけ多くの知識と技術を学んで帰 ろうと、春や夏の休暇のあいだ、他の学生がバカンスを楽しん でいるときに、譲吉は工業の盛んなリバプールやマンチェスタ ーに出かけて、ソーダ製造工場や人造肥料工場で働いた。 ■4.「肥料の研究をやってみたい」■ 明治16(1883)年3月、譲吉は3年間の留学を終えて帰国し、 大阪のソーダ製造所に行くように命ぜられた。しかし、譲吉は それを断った。 欧米に興った化学工業を、日本にも興そうというなら、 それは真似事に過ぎません。真似事なら外国人技術者から 学べば良いのです。 せっかく留学して学んできた知識と技術を、欧米の真似 事ではなく、日本固有の化学工業のために応用したいので す。たしかに真似事も必要ではありますが、日本の将来を 考えたとき、固有の化学工業を発展させることのほうが、 より大切だと思うからです。 「それでは何をやりたいのかね」と聞かれた譲吉は「真っ先に、 肥料の研究をやってみたいと思います」と答えた。まだはっき りした考えがあっての事ではなかったが、まず人々が飢えない よう化学者として何か役に立ちたい、という突き上げるような 思いがあった。譲吉の心底には、あの「泣き一揆」で飢えに苦 しむ人々の哀しい叫び声が、こだましていた。 ■5.「日本の農民を救うものは農業でなくて工業である」■ 譲吉の願いは聞き入れられ、農商務省で、日常的な役所業務 などしなくて良いから、化学工業に役立ちそうなものは何でも 研究してよい、という地位を与えられた。このあたりは明治新 政府の型破りなところである。 譲吉は精力的に農村を歩いて回って、その実情を調べた。当 時、政府では「農業も欧米に倣って大規模化、機械化すべし」 という議論が罷り通っていたが、譲吉が足で得た結論は別だっ た。 我が国の農業の問題は、人間や牛馬の糞、あるいは落ち葉や 枯れ草を腐らせた堆肥など、旧態依然とした肥料だけに頼って きた所に問題がある。欧米で使われている燐酸肥料を使えば、 土壌を強くし、収穫を飛躍的に伸ばすことができるだろう、と 考えた。そして、こう説いて回った。 日本の農民を救うものは農業でなくて工業である、とい うのが私の信念です。工業の力で人造肥料を作り、田畑か らの収穫を、2倍、3倍に増やしたい、、、 ■6.二つの出会い■ 翌・明治17(1884)年、30歳になったばかりの譲吉に大き な転機が訪れた。その年の秋に米国南部のニューオーリンズで 開かれる万国工業博覧会に日本も参加することとなり、譲吉が 農商務省を代表する事務官として派遣されることになったので ある。近代国家に仲間入りした日本を、欧米列強にアピールす るには、またとない機会であった。 譲吉は熱心に展示の準備に取り組み、特に展示品の解説や、 実演の説明、会場案内など、英文の解説を担当した。そして迎 えた博覧会の初日、急ぎ足で各国の展示館を見て回った。「こ れなら、日本館はどこの展示場にもまけないぞ」と自信と安心 感を抱いた。 順路の途中に、サウスカロライナ州の粗末なテント会場があっ た。その片隅にある白っぽい灰色の小さな石ころに、譲吉の目 は吸い寄せられた。それは燐酸肥料を作るのに必要な燐酸鉱石 であった。そこの責任者に聞いて、それがサウスカロライナの チャールストン近くの鉱石場で採掘されていることが分かった。 譲吉は博覧会の終了後、その採掘の現場や精錬工場を見学でき るように依頼した。 この博覧会で、譲吉はもう一つの大きな出会いを経験した。 南部の名門ヒッチ家の娘キャロラインである。その母が茶の湯 に興味を持って、日本館を毎日のように訪ねてきては、譲吉が 応対した。その縁で、ヒッチ家に夕食の招待を受け、そこでキャ ロラインに出会ったのである。 博覧会の閉幕まぎわに、譲吉はヒッチ家を訪問し、キャロラ インとの結婚を申し入れた。父親はやや渋い顔をしたが、母親 はすぐに賛成して「愛情を感じ合っていれば、国の違いなど関 係ありません」と押し切った。記録に残された日本人と米国人 の結婚としては、最初のものであった。 ■7.「日本農家の革命」■ 譲吉はアメリカで自分の貯金をすべてはたいて持ち帰った燐 酸肥料10トンを、全国の篤農家に配って試して貰うことにし た。「畑を耕すのに石ころを取り除くことはありますが、わざ わざ石ころを畑に持ち込んだことはありません」と、農民たち は尻込みしたが、譲吉は自ら人造肥料の効能を分かりやすく説 いて回った。 「東京から偉い役人が来て、あそこまで言うのだから、まあ試 しに使ってみるか」と使い始めると、麦の収穫が3割から7割 も増えた。 「これは大変な成績だ。日本農家の革命だ。全国の農村に一日 も早く普及させるためには、官営の人造肥料工場を設立すべき だ」という声が、農商務省の中で起こった。しかし、当時は官 営工場を次々に民間に払い下げている時代だった。 官営が無理なら、自分でやるしかない。譲吉は実業界の大立 て者・渋沢栄一の許に紹介もなく飛び込んで、人造肥料の製造 の必要性を説いた。渋沢も農民出身である。真剣に日本の農業 の将来を憂える譲吉の言葉に、渋沢の胸は熱くなった。[a] この後、渋沢は譲吉の話が事業として成り立つか、自分なり に調べてみた。そして人造肥料による増産のデータも得て、譲 吉の主張が化学者としての冷静な分析の上になりたっているこ とを知った。さらに譲吉が自費でアメリカから10トンもの人 造肥料を買ってきた、という話を聞いて、胸を打たれた。「あ の青年にだけ、農業のことを任せておくのでは、経済人として 恥ずかしい限りだ」 渋沢は譲吉の説く人造肥料会社設立に手 を貸すことを決意した。 ■8.日本で最初の人造肥料■ 渋沢や三井財閥の大番頭・益田孝の力を借りて、明治20 (1887)年2月、日本で最初の人造肥料会社が設立された。3月 から譲吉は製造に必要な機械類の購入と燐鉱石の買い付けのた めに、欧州から米国へと回り、11月にキャロラインを連れて、 帰国した。 本所深川の汚い農家の離れを借りて住み込み、譲吉は朝から 晩まで工場建設に没頭した。キャロラインは甲斐甲斐しくその 世話をやいた。 明治21(1888)年3月、日本で最初の人造肥料が発売された。 譲吉は各地で人造肥料普及のための講演会に飛び回った。特に 火山灰による地層の多い関東地方では、燐酸肥料は絶大な効果 を発揮し、収穫が4、5倍へと飛躍的に伸びた。年老いた農民 の中には、譲吉の講演会を待ちかまえて、手を合わせる者もい た。 ■9.「日本人ここにあり」と、世界に示してほしい■ 譲吉の超人的な所は、こうした大車輪の活動の陰に、すでに 次の研究を進めていた事だ。その一つとして、古来から酒造り に使われていた麹(こうじ)を安価大量に生成できる方法の開 発に成功していた。「高峰式元麹改良法」として、譲吉が特許 をとった最初のものであった。 その特許を知ったアメリカ最大手のウイスキー・トラストが、 ウイスキーの製造にこの新しい醸造法を試してみたいので、技 術指導にぜひアメリカに来て欲しいと依頼してきた。 しかし、ようやく軌道に乗り始めた人造肥料会社を、どうす るのか? 迷いに迷って、譲吉は渋沢に相談した。 渋沢さん。これまで我々日本人は、欧米人の発明したも のを数多く使わせてもらって、ここまでやってきました。 そんな状況の中で、これは自慢するわけじゃありませんが、 アメリカから日本の特許を使いたいと、辞を低くして頼み にきたのは、これが初めてでしょう。 たとえ、失敗して倒れるとしても、私は、日本人として、 また一人の化学者として、世界を相手に倒れたい。私の開 発したものが、世界という舞台で、どこまで通用するか、 文字通り、根限り試してみたいのです。[1,p261] 話を聞いた渋沢は、きっぱりと言った。 高峰さん。あなたの進むべき道はひとつです。もちろん、 アメリカに行くのです。行って日本人の化学者として大い に実力を振るってほしいのです。人造肥料会社の経営も、 ようやくここにきて軌道に乗りました。技術的なことは、 あなたのおかげですでに完成しております。あとは経営的 なことですから、これは、私や益田さんでやっていけます。 だから、安心してあなたは、アメリカに行きなさい。な にしろ、日本人のあなたが研究した開発が、世界に認めら れたのです。これほどの快挙はありません。大いに「日本 人ここにあり」というところを、世界に示してほしいので す。 幕末には勤王の志士として活躍していた渋沢である。話の終 わり頃は、叫ぶようになっていた。 明治23年秋、譲吉は妻キャロラインと二人の子供を連れて、 横浜からアメリカに向かった。 (続く、文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢に よって、明治日本の産業近代化が進められた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 真鍋繁樹『堂々たる夢』★★★、講談社、H11 2. 山嶋哲盛『日本化学の先駆者 高峰譲吉』★★★、 岩波ジュニア新書、H13 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「サムライ化学者、高峰譲吉(上)」について 郷さんより No.383 サムライ科学者 高峰譲吉さんの無私なベンチャー 魂に圧倒されました。起業の原点はここにあり、と思いました。 国富んで消えるものがあるとすれば、世の中のため、困って いる人のために働くという意識です。ひたすらIPOで長者に なるために働く輩や、マネー・フィクションの錬金術で買収合 戦を繰り広げる輩が増える。そればかりか、それを囃して愉し む大衆だらけの世の中になる。 「儲かりそうだからやる事業」「金銭の計算から入る事業」そ ういう考えでは失敗をすると言われます。まず「それをやると 誰がどれだけ助かるか」「それはお金をはらってもらえる価値 があるか」、高峰氏のこういう純粋な視点が必要なのでしょう。 事業を興すという一大事でなくても、日常の仕事であっても自 分だけの利益を考える人は直ぐに底が割れますから。 純粋なサムライの後編をお待ちしております。 ■ 編集長・伊勢雅臣より これほどの偉人が現代日本ではほとんど知られていない事に、 戦後教育の後遺症を感じます。© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.