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■■ Japan On the Globe(386)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

          人物探訪:救国の軍師・児玉源太郎(下)

                まさに児玉は国を救うために、天が遣わした軍師
              であった。
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■1.「誓って旅順を落としてごらんに入れます」■

         乃木と一緒に死ぬ覚悟で行って参ります。誓って旅順を
        落としてごらんに入れます。

     児玉が大山巌・満洲軍総司令官に言った。「乃木の手に余る
    ようじゃ。旅順の面倒をみてやってたもんせ」という大山に答
    えた言葉だった。「死ぬ覚悟」は本物だった。妻の松子に「きょ
    うまで尽くしてくれた御身に心から感謝す。子供たちのことを
    頼む」という短い遺書を書いた。

     このまま乃木の第3軍が旅順港を落とせなければ、そこに潜
    む太平洋艦隊は、やがてやってくるバルチック艦隊と合流する。
    そうすれば日本海軍の勝ち目はほとんどなくなる。日本海の制
    海権を奪われれば、陸軍も糧食・弾薬が尽きて、大陸で立ち枯
    れてしまう。それで日本は終わりである。

     明治37(1904)年11月27日、第3回の総攻撃も失敗する
    と、乃木司令官は、今まで言いなりになっていた参謀を初めて
    て抑え、正面からの攻撃を中止させて二〇三高地に的を絞った。
    旅順攻撃はようやく合理的な作戦を得た。28センチ砲18門
    が二〇三高地に巨弾を次々に撃ち込み、突撃隊がおびただしい
    死傷者を出しながら、山肌を登っていった。[a]

■2.「陛下の赤子をいたずらに死なせてきたのは誰か」■

     児玉は旅順に向かう途中の金州駅で、「二〇三高地が落ちた」
    という報告を聞き、随行の下士官たちとともに祝杯を挙げたが、
    翌朝大連のホテルで朝食をとっていると、「二〇三高地は今未
    明、敵に奪還された」という知らせが届いた。憤激した児玉は
    ナイフとフォークを投げ出し、立ち上がった。

     乃木軍司令部についた児玉は乃木と二人だけで話し合った。
    二人は明治初年の頃から、かれこれ30年以上もの親友である。
    明治10(1877)年の西南戦争で軍旗を奪われた乃木が自決しよ
    うとした際には、児玉が「死んで責任が果たせるか、卑怯者」
    と言って軍刀を奪ったこともあった。

     乃木は一時的に児玉に指揮権を預ける事に同意した。児玉は
    乃木司令部の幕僚たちを集め、「二〇三高地の占領を確実にす
    るために、二八センチ砲を15分ごとに1発発射し、一昼夜連
    続射撃して、敵の逆襲を阻止すべし」と命じた。

     幕僚の一人が、「そうすれば、味方を撃つ公算も大でありま
    す。陛下の赤子を、陛下の砲をもって撃つことはできません」
    と反論した。児玉は怒鳴った。その眼には涙があふれた。

         陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死な
        せてきたのは誰か。わしは、これ以上、兵の命を無益に失
        わせぬよう作戦を変更しろと言っているのだ。

         二〇三高地の西南の一角に、百名たらずの兵が昨夜から
        張りついているという。彼らは歩兵の増援どころか、砲兵
        の援護もなく、寒風にさらされて死守している。その姿を
        見てきた者がいるか。陛下の赤子の死が迫っているのに、
        それを救おうともせず、かれらの占領地域を拡大しようと
        もしないのは、どういうわけだ。参謀が前線を見に行きも
        せず、それで戦(いくさ)ができるか。

     一同は静まりかえった。児玉のひたすらに国家の勝利と兵の
    命を思う無私の一喝が、乃木司令部の幕僚たちを目覚ませた。

■3.「俺の用は済んだ」■

     12月5日、朝から28センチ砲ほか重砲数十門が、二〇三
    高地と隣接する山々を猛射し続けた。児玉は乃木とその幕僚達
    とともに、二〇三高地近くの丘に登り、双眼鏡で戦況を見た。
    西南の一角を守って奮戦する百人たらずの日本軍将兵たちの姿
    が見えた。「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」
    と児玉は言った。

     日本軍の数時間の猛射で、二〇三高地とその周辺からのロシ
    ア軍の砲火がめっきり衰えた。そこに第十四師団が、二〇三高
    地の西南山頂に突撃を開始し、ロシア軍と血みどろの死闘を演
    じて、10時半頃、ついに制圧した。数日間、山頂を死守して
    いた百人足らずの将兵がようやく救われた。第十四師団はさら
    に東北山頂にも突撃し、わずか30分で陥落させた。

     二〇三高地からは港内のロシア艦隊が望めた。児玉は時を移
    さずに、西南山頂に派遣していた弾着観測将校に命じて、28
    センチ砲以下重砲群で巨弾の雨を降らせた。その後の3日間の
    砲撃で、ロシア艦隊はほとんどが沈められた。

    「俺の用は済んだ」と言って、児玉は満洲軍総司令部に帰って
    いった。乃木軍の幕僚たちには、今回の自分の言動が越権行為
    として悪い先例と誤解されないよう、堅く口止めをした。

     旅順艦隊の全滅によって、日本海軍はバルチック艦隊との決
    戦に備えて、艦船を日本に戻し補修に掛かることができた。乃
    木軍は北上して、ロシア陸軍との決戦を控える満洲軍に合流し
    た。

■4.日の出に国運を祈る■

     奉天(現在の瀋陽)は、満洲南部の交通の要衝である。ここ
    でロシア軍32万、日本軍の25万の日露戦争中最大の会戦が
    行われた。時に明治38(1905)年3月、今からちょうど100
    年前である。

     ロシア軍の総司令官はクロパトキン。ロシア皇帝に取り入っ
    たベゾラフゾフ一派に陸軍大臣からは更迭されたが、戦術家と
    しては欧州屈指と名高い。そのクロパトキンと児玉との戦いで
    あった。

     先の遼陽会戦ではロシア軍は優勢に攻撃しながら、黒木軍に
    よる3万人の大夜襲を受けて撤退した。しかし広大な土地を利
    用して、後退しながら敵の補給線が伸びきった所で一気に反撃
    に出るというのが、対ナポレオン戦争でも奏功したロシアの伝
    統的戦術である。奉天で体制を立て直し、日本軍を引きつけて
    叩こうというのが、クロパトキンの戦術であった。

     逆に、児玉はクロパトキンのこの慎重さが弱点だと読んでい
    た。完璧な戦術を追求するあまり、奇襲など予想外の事態が起
    こると弱気となり、撤退して体制を立て直そうとする。児玉は
    そこに唯一の勝機を窺っていた。

     決戦を前に、児玉は毎朝、一人で朝日を拝むようになった。
    その姿を見た人に、こう洩らした。

         わしはいままで宗教心がなかった。ところが倍に近い敵
        を迎え、決戦にのぞむと、勝敗が気がかりで、夜もおちお
        ち眠れなくなった。日一日、ロシアの兵はふえている。そ
        の間、考えるべき事、やるべきことはみなやった。それ以
        上は、われわれの力にあまることだ。人事を尽くしたのだ
        から、天命を待てばいい。しかしわしは心配で、何かに祈
        らずにはいられなくなった。遼陽戦のときに、兵が朝日を
        拝んでいる姿を見たが、あれが胸に沁みこんでいた。それ
        でわしも、毎朝ここにきて、日の出に国運を祈っているの
        だ。

■5.奉天会戦■

     3月1日、大山総司令官が総攻撃を命じた。兵力でも砲数で
    も劣勢な日本軍が、堅固な陣地に立て籠もるロシア軍を攻め立
    てるのである。猛攻をかけたが、損害も大きく、苦戦に陥った。

     同時に児玉の作戦で、旅順から合流した乃木率いる第三軍が
    奉天の西側から迂回して、ロシア軍の後背をつこうとした。乃
    木軍の先鋒3千の支隊は、10万のロシア軍右翼に向かって尺
    取り虫のように前進していった。

    「奉天北方20キロに、約6千の日本軍が進出中」という報告
    を聞いたクロパトキンは慌てた。あの難攻不落の旅順要塞を攻
    略した「ノギ軍」というだけで、兵は震え上がる。それが背後
    に回って、シベリア鉄道を遮断したら、ロシア軍は孤立する。
    6千が事実かどうか確認する余裕もなく、クロパトキンは全軍
    に退却を命じた。各地で日本軍の猛攻をはねのけて優勢に戦っ
    ていたロシア軍が堅固な陣地から不可解な退却を始めた。猛烈
    な烈風砂塵の中を、ロシア軍はひたすら退却し、日本軍は勢い
    に乗って追撃した。

     3月10日、日本軍は奉天を占領した。のちに戦勝を記念し
    てこの日が陸軍記念日とされた。日本軍の死傷者約7万。ロシ
    ア軍は約9万の死傷者と2万余の捕虜を出した。クロパトキン
    は降格され、ロシア軍はハルピンに退いて、そこで新たに50
    個師団を集結する作業にかかった。

     しかし、日本軍は、すでに第一線で戦う精強な将兵の多くを
    失い、弾薬も底をついた。もはや北上して、再度の会戦を行う
    力は残されていなかった。

■6.「火をつけたら消さなゃならんぞ」■

     実情を知らない東京の大本営は、退却するロシア軍をハルビ
    ンまで追撃し、さらにウラジオストックまで追いつめて殲滅せ
    よ、と督促してきた。児玉は急いで東京に戻った。新橋駅に出
    迎えた参謀本部次長の長岡外資少将を児玉はどやしつけた。

         長岡あ、バカあ、おまえ、何をぼやぼやしとる。火をつ
        けたら消さにゃならんぞ。消すのが肝心ちゅうに、何もし
        とらんのは、バカの証拠じゃないか。

     参謀本部も陸軍省も終戦工作を始めていないのに腹を立て、
    長岡に八つ当たりしたのである。児玉が山県・参謀総長と寺内
    陸相に実情を詳しく説明すると、二人は児玉に同意した。

     元老・伊藤博文を訪問して説くと、伊藤は「これ以上戦えな
    い、などと軍人としては言いにくいことを勇気をもってよく言っ
    てくれた。わしたちも君にならい勇気をふるって発言しよう」
    と、アメリカで世論工作を行っている金子堅太郎に打電し、ル
    ーズベルト大統領に対する働きかけを積極化するよう指示した。

     児玉の根回しで4月8日の閣議では、アメリカに仲介を頼ん
    で講和を急ぐ、という基本方針は固まったが、桂首相と小村外
    相は、ロシアからの賠償金をとるべきだと主張し、講和条件に
    ついてはまとまらなかった。

     児玉は「桂の馬鹿が賠償金を取るつもりでいる」と聞こえよ
    がしに言いながら、満洲に戻った。実際、後の講和会議では、
    ロシア皇帝は「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えて
    はならない」と命じている。外交面でも児玉の読みは誰よりも
    鋭かったと言える。

■7.ロシア皇帝をいかに講和のテーブルにつけるか■

     余力を残しているロシアを講和に追い込むためにも、児玉は
    手を打っていた。まず開戦時に明石元二郎大佐に百万円の工作
    資金を渡し、ロシアの後方を攪乱せよ、と命令していたのであ
    る。今日の貨幣価値で言えば数千億円の資金を投じて、ロシア
    帝政を倒そうとする革命勢力、独立を目指すフィンランドやポ
    ーランドの勢力を支援し、背後からロシア帝国を脅かそうとし
    た。[b]

     この年の一月、ペテルブルグの王宮に数万の労働者が待遇改
    善を要求してデモを行い、コザック騎兵が馬上から剣をふるっ
    て数百人の死傷者を出すという事件が起きた。「血の日曜日」
    事件である。これも明石が裏で糸を引いていた。これを機にロ
    シア全土に暴動やサボタージュが広がっていった。日本との戦
    争を続けている間に、ロシア帝政そのものが危なくなると、ロ
    シア皇帝は怯えた。

     もうひとつの手は、樺太占領である。児玉は「戦争継続は望
    まないが、今弱気を見せては講和もむつかしくなるので、陸軍
    としては樺太を占領して余力のあるところを誇示しておくこと
    が必要だ」と山県に吹き込んでおいた。

     児玉は、「ロシア皇帝が樺太を日本軍にとられるのではない
    か、と危惧している」という情報を得て、ロシアを講和のテー
    ブルにつかせるには、これが決め手となる、と思った。これま
    での戦いはロシアにとっては、自国領土外の戦いであり、そこ
    で戦闘に負けたと言っても、領土までとられた訳ではない。し
    かし、樺太を奪われたら、次は沿海州などロシアの領土も次々
    と奪われるかもしれない。

     この作戦は、講和会議の直前、7月に実施された。結局、講
    和条件として日本が勝ち取ったのは、占領した樺太の南半分だ
    けであった。もし樺太占領をしていなかったら、これすらも不
    可能であったろう。ここでも児玉の読みは当たっていた。

     革命勢力を支援して皇帝の足元を揺るがし、樺太を占領して
    先行きを脅かす。あの手この手で、勝っているうちに講和会議
    に持ち込もうと、軍師・児玉の政戦略はシベリアの向こう側の
    ロシア皇帝をゆさぶり続けていた。

■8.一生一度の男泣き■

     5月27日、地球を半周して、日本海にやってきたロシアの
    バルチック艦隊は、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊と遭遇
    し、日本海海戦が行われた。ロシア皇帝の最後の希望を担って
    いたバルチック艦隊のほとんどは撃沈または捕獲され、かろう
    じて数隻がウラジオストックに逃げ込んだのみであった。

     ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はロシア皇帝に、「いまやロシ
    アが日本に勝つか負けるかを問題にするときは過ぎた。ロシア
    そのものが亡くなるかどうかの岐路に立つときである」との親
    書を送った。

     ロシアは講和会議のテーブルについた。8月29日、アメリカ
    ・ポーツマスで行われていた講和会議で日本全権の小村外相が
    苦心惨憺の交渉の結果、なんとか講和の合意をとりつけた[c]。
    その報を奉天の総司令部で聞いた児玉は男泣きに泣いた。共に
    泣いた少将・福島安正は「児玉源太郎、一生一度の男泣きであっ
    た」と後に語っている。

■9.天が遣わした軍師■

     12月7日、大山巌元帥以下、満洲軍総司令部は東京に凱旋
    した。新橋駅から皇居に向かう沿道には数十万人の市民が出迎
    えた。「大山元帥、万歳」の声が響く中、児玉は大山の陰に静
    かに従っていた。

     翌明治39(1906)年7月23日朝、児玉がベッドの中で眠っ
    たような顔のまま、こときれているのを、家政婦が見つけた。
    駆けつけた医者は死因を脳溢血と診断した。

     児玉が参謀次長についたのは開戦のわずか4ヶ月前、前任者
    が肺炎で急死した後だった。そして苦心惨憺の末、大国ロシア
    相手になんとか辛勝を収めて、1年も経たないうちに忽然と世
    を去った。まさに児玉は国を救うために、天が遣わした軍師で
    あった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(218) Father Nogi
    アメリカ人青年は"Father Nogi"と父のごとくに慕っていた乃
   木大将をいかに描いたか?
b. JOG(176) 明石元二郎〜帝政ロシアからの解放者
    レーニンは「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」
   と言った。
c. JOG(365) ポーツマス講和会議
    国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会
   議に向かった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 生出寿『謀将 児玉源太郎』★★★、徳間文庫、H4
2. 古川薫『天辺の椅子 日露戦争と児玉源太郎』★★、文春文庫、H8

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「救国の軍師・児玉源太郎(下)」について

                                         「よこちゃん」より
     遇然、配信されてきて開き、なんだろうと読ませていただい
    た。通常、こういう場合、途中で終わるのだが、今回は興味津
    々。最後まで読みきって、最近にない高揚感を感じている。感
    謝の一言に尽きる読了感は久々。

     現在の日本がこういう人々のお陰であるともっともっとわれ
    ら自身が知るべきだと改めて思うこと切。

     日露戦争の意味付けは、或いは乃木将軍については、学校時
    代習っていたが、まさに影の人であった児玉元帥については、
    本日、目を開かれた面持ちでいる。

                                         「なかの」さんより
     日露戦争から100年、第二次世界大戦から60年目の今年。日
    本の諸外国との関係を思うと将来が大変不安になります。国家
    100年の計は教育にあり! 今回の児玉源太郎のような国を思
    う人たちを育てたいですね。このコラムが日本の常識になるよ
    う期待しております。

                                               tanaさんより
     昨年から、日露戦争100周年ということで、小説「坂の上
    の雲」や映画「二百三高地」で理解を深めてきました。

     いつも悔しく思う事は、一般的にこのように近代日本を命が
    けで、また想像を絶するであろう労苦をともないながら作り、
    我が国のみならず、世界中に影響を与えてきたという事実が、
    なんだか遠い昔話の、また歴史の単なる1ページということだ
    けで済ましている国民感情が殆どなのだという事です。

     また、戦後の自虐史観的な風潮がまだまだ蔓延しているこの
    日本ですが、日本には世界に誇れるような、外交手腕にたけ、
    国の存亡に関わる大仕事をやりのけた誇り高き・児玉源太郎の
    ような男達がいたという事実。古今東西変わらぬ日本人のDNA
    を、今この時代だからこそ改めて見直し、そして誇りをもち、
    先祖を敬うためにも、日露戦争から学ぶものは多大です。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     児玉源太郎の無私の心に根ざした愛国心が、当時の人びとの
    みならず、現代の我々にも訴えかけています。

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