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■■ Japan On the Globe(397)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪:ブラジルの大地に根付いた日本人(下) ブラジルの大地に残した「ジャポネース・ ガランチード」(日本人は保証付き)の足跡 ■■■■ H17.06.05 ■■ 33,132 Copies ■■ 1,636,601 Views■ ■1.妻の死■ ブラジルは広い泥沼のようなもんじゃ。歩きを止めれば、 沼に沈んでいく。そうかと思えば、どんなに必死に、どこ まで歩いてもぬかるみじゃ。 マラリアによって「死の島」と化したイーリャ・グランデを 出て、峯夫たちは50キロほど東に移動した。このあたりも米 作の有望地で、入植した日本人移民は千五百人にも上っていた。 しかし、第一次大戦後の不況で米価が下がり、かろうじて食べ ていくことはできたが、金を貯めて故郷に錦を飾るどころか、 送金すらできなかった。 働いても働いても、どこまでもつづく泥沼が広がっていた。 歩みを止めれば沼に引きずり込まれるだけだ。ただ歩き続ける しかなかった。時だけが過ぎ去っていき、峯夫・テルコ夫婦に は、2男3女が生まれていた。 1928(昭和3)年10月、テルコは6人目の子供を産んだ。初 めての難産だった。生まれてきた子供はすでに死んでいた。そ して出産後も出血が止まらなかった。長年の過酷な労働でテル コの健康は蝕まれていたのだ。峯夫は無我夢中でトラックを借 り、近くの病院に運び込んだが、一週間の昏睡が続いた後、そ のまま息絶えてしまった。 峯夫はテルコの遺体に付き添いながら思った。テルコの人生 はいったい何だったのか。彼女も峯夫と同様に貧しい農家に生 まれ、一旗揚げようとはるばるブラジルまでやってきた。峯夫 と結婚して、5人の子供をもうけ、農作業と子育てに追われる 毎日だった。テルコに幸せな時間があったとしたら、それは故 郷に帰る日を夢見た、そんな瞬間だけだったのではないか。そ う思うと、峯夫の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。 ■2.カノの決意■ この日から、峯夫は酒浸りの毎日となった。田畑に出ても、 そこにテルコの汗が染みこんでいるかと思うと、働く気は萎え てしまった。苦労するためだけに生まれてきたテルコの人生を 思うと、自責とも悔恨ともつかぬ気持ちがこみ上げてくる。今 までは家族を連れて故郷に錦を飾ることだけを夢見て、どんな 苦労にも耐えてきたが、最愛の伴侶を失って張りつめた糸が切 れてしまった。 繁行は何度も兄を諫めたが、あいかわらず酒浸りの姿に、ま た新しい土地に移るしかない、と決心した。今度は東南20キ ロほどの新しい土地に移った。 近くには熊本県天草から入植した古賀久次郎一家とその妹カ ノが済んでいた。カノも幼いときに実母を亡くしていて、峯夫 の幼い子供たちを見ると、他人事とは思えなかった。毎日のよ うにやってきては、酔いつぶれている峯夫に一言二言、声をか けた。 あんたがそげん様子じゃったら、テルコさんな成仏でき んと思わんか。 やがて峯夫は田畑に出るようになった。一生懸命、汗を流す ことだけが、寂しさを紛らわす道だった。一方、子供たちはカ ノになつき、彼女がいる時には笑顔を浮かべるようになった。 繁行はカノに兄の嫁になってくれないか、と頼んだ。自らも 養母に育てられたカノは、今度は自分が継母となって、5人の 子供を育てることが自分の運命だと思った。 ■3.根を張り始める■ 峯夫がカノと再婚したのは、1933(昭和8)年8月の事だった。 家庭の安定を得て、それからはまるで別人のように峯夫は働き だした。 米は作れば、良い値で売れた。日本移民がブラジルに上陸し た20世紀初頭には、米は不足して、輸入している状態だった。 しかし、日系移民によって米の生産量は年々増加し、1920年代 初期からは輸出に転ずるようになった。1930年代になると、国 内需要に回される米の80%は日系移民によって生産されると 言われるまでになった。 峯夫が17歳でブラジルに来て、はや20年が過ぎていた。 子供たちも成長し、農作業を手伝うようになった。それが収入 増大の一因ともなった。どこまでも続く泥沼と思って必死に歩 き続けてきたが、ようやく大地にしっかりと根を張りだした。 多少の蓄えもできたので、カノの勧めもあって、峯夫は一度、 広島に戻り、ある程度まとまったお金を置いてくる事にした。 実家を楽にさせるという目的でブラジルまで来たのに、今まで ほとんど仕送りもできていなかった。長男としての責任を何一 つ果たしていない、という思いがあった。 峯夫は1937(昭和12)年6月に、24年ぶりに帰郷した。日 本に帰ってみると、海外発展の目的地は朝鮮半島や満洲に向け られていて、ブラジルのことなどすっかり忘れ去られたようだっ た。峯夫が年老いた母親に金を差し出すと、母親は拝むように 受け取って、亡き父を祀る仏壇に供えた。 ■4.国交断絶■ 日米開戦のニュースが日本からの短波ラジオ放送でブラジル に伝わったのは、真珠湾攻撃の2日後、1941年12月9日の事 だった。日系人たちは真珠湾攻撃の戦果に湧きに湧くとともに、 祖国の非常時に異国で暮らして、何の手助けもできないという 現実に歯痒さを感じないわけにはいかなかった。 年が明けて1月、リオデジャネイロで開かれた汎米外相会議 でブラジルはアメリカを支持し、日本に国交断絶を通告した。 同時に日本・ドイツ・イタリアからの移民の資産は凍結され、 不動産の売買も禁止された。日本語の使用も禁じられ、サンパ ウロでは日本語学校の教師が逮捕されたりもした。 日本語の書籍や雑誌も押収され、日本語新聞の発行も禁止さ れた。日本との音信も禁じられ、日本移民たちは情報途絶の環 境に置かれた。残された唯一の情報源が日本からの短波放送だっ た。そのラジオ放送を聞くことも禁じられていたが、日系移民 たちは警察に見つからないようラジオを持つ家に集まって、隠 れて祖国からの放送に耳を傾けた。 ある日の放送では日本政府が「在留日本人を無法に圧迫する なら、日本はブラジルに対して強硬措置をとるかもしれない」 とブラジル政府に警告した。祖国が自分たちの事を思ってくれ ていると知って、25万の日系移民は勇気づけられた。しかし、 実際には地球の裏側のブラジルに対して、日本政府が打てる手 はほとんどなかった。 ただ、峯夫の周囲のブラジル人たちは、ほとんどが以前と変 わらぬ付き合いをしてくれた。日系移民たちが見捨てられてい たマラリアの蔓延する土地を命がけで開墾し、豊かな米作地に 変えていった事実をよく知っていたからである。 ■5.「日本が戦争に勝った」■ 1945(昭和20)年8月7日、ブラジルの有力各紙は、広島に 原爆が投下されたことを報じた。広島は焦土と化し、多数の死 亡者が出たという。峯夫は"Hiroshima"の文字を見て、郷里の 実家や親戚の安否を気遣った。 8月15日、日本からの短波放送が玉音放送を伝えた。雑音 混じりの中で、日本が降伏をしたように聞こえた。しかし、今 までの大本営発表では、日本陸海軍は連戦連勝のはずである。 その日本がなぜ降伏しなければならないのか? 翌日のラジオ放送では、いつもの大本営発表はなく、ラジオ からは雑音しか聞こえなかった。雑音だけの放送が終わった後、 一人の老移民が「微かだが、大本営が日本の勝利といっていた ように、わしには聞こえたような気がする」と言った。「そう だ。日本が負けるはずがない。日本が勝っているんだ」と別の 男が応えた。 こうして「日本が戦争に勝った」と信ずる「勝組(かちぐ み)」と呼ばれるグループが生まれた。それは情報が遮断され たブラジルの地で、祖国の存在を心の支えにしている日系移民 たちの「日本に勝って欲しい」という切実な思いから生まれた ものであった。サンパウロでは一部の過激な勝組が、負組を襲 う事件までしばしば起こった。 ■6.祖国への救援物資■ 日本からの手紙が届くようになったのは、終戦後1年半以上 も経って1947年の年が明けた頃だった。峯夫の一番下の妹から の手紙が着いた。夫が原爆で亡くなったこと、老母は健在で、 朝鮮から引き揚げてきた上の妹が面倒を見ていること、食糧難 とインフレで大変なこと、などが綴られていた。 祖国へ救援物資を送ろうという動きが始まった。「日本戦災 同胞救済会」が組織され、募金活動が行われた。峯夫たちも郷 里に食料品や衣料を送った。日本では入手できない高価なスト レプトマイシンなどの医薬も、郷里の親戚が必要としていと判 るとすぐに送った。母校の小学校にも消しゴム付き鉛筆を7百 本ほども送った。 今まで苦労して貯めた貯金だったが、それを費やすことは少 しも惜しくなかった。日本に帰りたいという思いが峯夫の心に 渦巻いていたが、原爆で何もかも破壊され、インフレと食糧難 で苦しい生活を強いられている肉親や親戚にしてやれることは、 物資を送ることだけだった。 ■7.帰郷をあきらめる■ そんなある日、峯夫がカノに相談を持ちかけた。「わしはも う年齢だし、百姓をやめて町に出ようと思っているんじゃが。」 峯夫も50を数え、長男の覚と嫁のヒサエとの間にはすでに 二人の孫娘が生まれていた。長男一家は日本に帰ろうという気 はなく、ブラジルで暮らすことを決意していた。峯夫とカノの 二人に残された選択は、このままブラジルに骨を埋めるか、あ るいは全財産を処分して焼け野原になった広島に帰るか、どち らかしかなかった。 できることなら、帰国して年老いた母親や苦しい実家を助け てやりたと思ったが、それだけの資力はなかった。 広島に帰れたとしても、わしには何もしてやることはで きん。ブラジルから手助けをしてやるのが一番なんじゃ。 それは帰郷をあきらめようと自分自身に言い聞かせている言 葉でもあった。町に出て商売でもすれば、年老いた身でも多少 の現金も入り、日本に送金する事もできるかもしれない。どう 考えても、それ以外に残された道はなかった。 峯夫が町に出ようと決心した理由はもう一つあった。5人の 子供たちには、教育らしい教育を受けさせてやれなかった。い ずれ日本に帰るからとブラジルの教育も受けさせておらず、ま た奥地のため日本語学校に通わせることもできなかった。子供 たちは、自分の夢の犠牲になったようなものだ、という思いが 峯夫にはあった。 しかし、今や5人の子供たちはそれぞれ、日系移民と結婚し て、孫たちが生まれつつあった。孫たちはそんな目に遭わせて はいけない。自分が町に出れば、孫たちには、そこから学校に 通わせることもできる。峯夫の決意にカノは反対しなかった。 ■8.「真っ直ぐに日本に帰るとよ」■ 1947(昭和22)年、峯夫はミゲロポリスという町に出て、雑 貨屋を開いた。やがて覚一家がよりよい耕地を求めて、奥地に 移ったのを契機に、二人の孫、エレーナとマグダレーナの二人 を預かって、学校に通わせた。他にも奥地に住む日系人の子供 たちを預かった。 峯夫とカノが孫たちを預かったのには、もう一つの思惑があっ た。ブラジルの教育を受けさせるのと同時に、自分たちの手元 で少しでも孫たちの世代に日本人としての躾をしたいと思った のだ。このまま孫たちがブラジルの一員として生きて行くにし ても、日本人の美徳とされる正直、勤勉、親切さまでが失われ ていくことには耐えられなかったのである。 1968(昭和43)年、峯夫はしばらく寝たきりの状態を続けた 後、静かに息を引き取った。医師が死を確認すると、カノは大 声で泣きながら叫んだ。 真っ直ぐにお母さんのところに行きなさいよ。真っ直ぐに 日本に帰るとよ。 17歳の時に、ほんの数年の出稼ぎのつもりでブラジルまで やってきた峯夫は、そのまま異国で72歳の生涯を閉じた。一 度だけ、数ヶ月の帰国をしたが、あとは地球の裏側から、残し てきた家族を思い、故国を想う一生だった。 ■9.「ジャポネース・ガランチード」■ 11月1日からの3日間はディア・デ・フィナードス(死者 の日)と呼ばれ、日本のお盆に相当する期間である。この日に は峯夫・カノの曾孫にあたる四世たちが、花束を抱えて墓参り に集まる。日本人そのものの容貌を持った曾孫もいれば、黒い 肌の子や金髪の子もいる。それでも一緒に遊んでいる彼らには、 肌の色や髪の毛の色を気にしている様子はまったくない。その ような混血の果てに、峯夫たち日系一世の苦難の足跡はやがて 失われていってしまうのだろうか。 ブラジルには「ジャポネース・ガランチード」という言葉が ある。「日本人は保証付き」という意味である。約束はかなら ず守る、借りた金は返す、会社でもきちんと役目を果たす。日 系人なら間違いはない。そういう絶大な信用をブラジル国内で 築き上げてきたのである。ブラジルほど日本人が尊敬されてい る国は他にはないだろう。それも峯夫やカノのような一世たち が、必死の思いでブラジルの大地に根を張ってきた、その姿勢 が二世、三世、四世と受け継がれているからであろう。 混血の四世たちにも容貌は白人や黒人そのもので、日本語が まったく話せなくとも、日本人の美点とされた勤勉さ、正直さ を受け継いでいる人々がいる。 ブラジルは豊富な資源と国土を持ち、物質的には21世紀の 大国になりうる条件を備えている。しかし、一国の政治経済が 健全に発展するためには、正直や勤勉といった精神的バックボ ーンが不可欠である。そのためにも峯夫たち日系一世が残した 「ジャポネーズ・ガランチード」の精神は、ブラジル社会全体 にとっての貴重な財産となるだろう。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(016) 国際親善をそこなうマスコミ報道 ブラジルの日系紙を怒らせた日本の報道陣 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 高橋幸春『蒼氓の大地』★★★、講談社文庫、H6 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「ブラジルの大地に根付いた日本人(下)」について yamさんより 「無意識での積み重ねが人の美しさを作りあげていく」 toshioさんの投稿(395号)に思わずうなずいてしまいました。 ジャポネース・ガランチード=「日本人は保証付き」。信用 とは本人一代では築くことはできません。それは、田舎であれ ばなおさらです。私の生まれ育った土地でも本人がどんなにまっ とうな正直な人間でも「あれの親がなー」と言われてしまいま す。同窓会でも、子供たちのために無体な行いは慎まねばなら ない。それが親の務めだと、悪たれだった同級生が真顔で言っ てました。 そのような中で、仕付け・・しつけ・・・躾というのが確実 に浸透していると思うのです。10数年前の映画で「しこ踏ん じゃった」というのがありました。当時、私もしこはふんでい ませんでしたけど学生・・・丁度入社しての頃でした。最近、 ウォーターボーイズという映画が放映されTVでも放送されまし た。彼ら役者さんとエキストラさんは数ヶ月合宿してシンクロ ナイズド・スイミングを会得したと聞きました。そして、今日 DVDで観たスウィングガールズ。彼女ら+aボーイも同じよう に素人が数ヶ月合宿してビックバンドジャズの名曲を素敵に演 奏できるようになりました。 大人世代に、いまの若い者は・・・と批判されるニート世代 ですが、道を示せば成せるのです。ゆとり教育という売国政策 のもとで教育を受けた若者でも成せるのです。それが、日本人 に脈々と受け継がれている人としてのありようを示すDNAだ と思います。 私はそのことを誇りたい。そして両親に親戚に近所の方々に、 ありがとうと言いたい。人は一人では生きられない、親から始 まる集団のなかで育まれて真っ当なひとになります。それの最 終形が「くに」と思うのです。くにを成す人々の無意識の意識 が今まさに封印から解き放たれようとしている...そんな時代 の分水嶺に生きている事をうれしく思います。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 日本人のDNAをフルに発言することが、立派な人づくり、 国づくりへの近道ですね。© 平成16年 [伊勢雅臣]. 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