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■■ Japan On the Globe(410)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪: 名歌でたどる日本女性の心 〜 愛と自己犠牲と 歴史の陰に、母として妻として生きた日本女性 の生き様を偲ぶ。 ■■■■ H17.09.04 ■■ 33,286 Copies ■■ 1,752,734 Views■ ■1.木の葉さやぎぬ風吹かむとす■ 狭井河(さいかは)よ雲立ち渡り畝火山(うねびやま)木 の葉さやぎぬ風吹かむとす (狭井河の方から雲が立ちのぼって、いま私のいる畝傍山 の木の葉が激しくざわめいている。嵐が迫っている。) 初代・神武天皇の皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ) のお歌である。自然の描写に託して、雲、木の葉、風と「カ行」 の音を短く畳みかける緊迫の調べが、迫りつつある危機を暗示 する。 神武天皇は伊須気余理比売を皇后にお立てになる前に、 日向の国に妃がおられたが、その妃との間のみ子、當藝志 美々命(たぎしみみのみこと)は、天皇崩御のあと、継母、 伊須気余理比売を妻とし、すでに神武天皇との間にお生ま れになって天皇のあとをお継ぎになるはずのお子さま方、 三人の義弟を殺そうと企んだ。それを知られた皇后が、建 国直後に起きたこの国家の重大危機をお子さま方に知らせ るためにお詠みになった歌。[1,p23] このみ歌の知らせに驚いたみ子の一人、神沼河耳命(かむ ぬなかはみみのみこと)が、當藝志美々命を討って第二代・ 綏靖天皇となられる。 自らが生んだ子たちの危機に、母の心はまさに「木の葉さ やぎぬ」状態であったろう。 ギリシャ悲劇、あるいはシェークスピアを思わせるドラマが、 我が国の建国直後にあったのである。このようなドラマがさま ざまに繰り広げられつつ、日本の歴史は開展していくのである が、その過程で泣き、笑い、喜び、悲しむ人々の思いがあった。 最近、出版された『名歌でたどる日本の心』[1]は、こうした わが先人の思いを、歌を通じてありありと示してくれる。 今回は、その中でも歴史の陰に母として妻として生きた日本 女性の歌をいくつかご紹介しよう。 ■2.火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも■ 弟橘姫(おとたちばなひめ) さねさし相模(さがむ)の小野(おぬ)に燃ゆる火の火 中(ほなか)に立ちて問ひし君はも 遠く九州に赴き熊襲(くまそ)を征伐した古代の英雄、 倭建命(やまとたけるのみこと、第十二代・景行天皇の皇 子)は、帰京後さらに東国へ軍を進められたが、そのとき、 走水海(はしりみずのうみ、現在の東京湾・浦賀水道)の 神が暴波(あらなみ)を立てて命の船をはばもうとしたの で、その神の怒りをしずめるために、妃、弟橘姫は身を翻 して海にお入りになった。 この歌はそのとき、姫がお詠みになった歌である。命が 相模の国(神奈川県)でその地の豪族によって火攻めにあ われたとき、燃えさかる炎の中で、私の身を案じて呼びか けてくださったあなたよ、の意。[1,p24] 燃えさかる炎の中で、倭建命はご自身のことなどを顧みず、 弟橘姫の名を呼んで、助けようとした。その愛に応えて、今、 弟橘姫は自らを海神の生け贄として捧げるのである。 なお、弟橘姫については、皇后陛下が平成十年、その御 著『橋をかける』の中で、幼い日、このお話をお読みになっ たとき、子供ながらに「愛と犠牲という二つのものが一つ に感じられた」という忘れがたい経験をお述べになってい る。[1,p25][a] ■3.わが子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)■ 遣唐使の母 旅人の宿りせむ野に霜ふらばわが子羽ぐくめ天(あめ)の 鶴群(たづむら) 天平五年(733)、遣唐使が難波を旅立ったときに、使節 の一行の母親が、わが子に贈った長歌に添えられた反歌で ある。「旅人が一夜を過ごす野に霜が下りるなら、わが子 を羽で包んで守ってくれよ、大空の鶴の群れよ」と旅行く わが子を思う母親の至情が詠まれている。 舒明天皇2年(630)から平安時代の寛平6年(894)まで続 けられた遣唐使派遣、それは大陸文化摂取のための、世界 に比類のない壮大な国家事業であったが、その営みの陰に このような歌が詠まれていたことも忘れてはならないと思 う。[1,p59] 遣唐使と言っても、おそらくはまだ二十歳前の青年であろう。 広大な大陸に渡り、長安の都に着くまでにどれほどの長旅をし なければならないのか。西の空の方に飛んでいく鶴の一群をみ て、母親はかなう事なら自分も一緒に飛んでいって、霜降る野 に旅寝するわが子を自らの羽で暖めてやりたいと思ったことで あろう。 ■4.もろともに消え果つるこそうれしけれ■ 別府長治の妻 照子 もろともに消え果つるこそうれしけれおくれ先立つならひ なる世に 天正7年(1579)、播磨の三木城(兵庫県三木市)は織田 信長の配下、羽柴秀吉の猛攻にさらされたが、城主別府長 治は容易に降伏せず、ここに後世に語り伝えられた「三木 の干殺し(ひごろし、兵糧攻め)が始まった。そのため長 治はついに降伏を決意。城内の兵士の助命と、荒廃した城 下の復興のための租税の減免などを約束せしめたうえで、 別府一族はすべて自害、武士としての見事な最期を飾った。 [1,p123] 「夫婦とはいえ、遅れ、先立つのが世の常なのに、こうしてあ なたと一緒にあの世に旅立つのが嬉しい」という妻の歌である。 冒頭から「もろともに」と詠い出す調べに、いかにも夫と一緒 に旅立つ喜びが感じられる。生死を超えた愛である。 ■5.身は武蔵野の露と消ゆとも■ 和宮(静寛院宮) 惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆと も 和宮は第120代・仁孝天皇の皇女、孝明天皇の妹君。幕府 はペリー来航で失墜した権威を再興しようと、公武合体を唱え、 13歳の和宮の将軍家茂への降嫁を画策した。和宮は文久元年 (1861)年、江戸に下向して、翌年婚儀をあげられた。 しかし、そのわずか5年後、家茂は急逝し、宮は仏門に入っ て静寛院と称せられた。官軍が江戸に迫ったときは、亡き将軍 家茂の妻として、徳川の家門を保つべく、難局を収められた。 この歌は、和宮が江戸に向かう途中で詠まれた歌とされてい る。「惜しむまい。兄・孝明天皇と民とのためならば、身は武 蔵野の露と消えても」という、自己犠牲のお歌である。「惜し まじな」という最初の一句の、いかにもごつごつとした調べが、 宮の一途な、堅い決意を物語っている。 当時の人々はこのお歌を口から口へと語り伝えて、宮のお心 をお偲びしたと言われている。 ■6.たわまぬ節はありとこそきけ■ 西郷千重子 なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ きけ 西郷千重子は会津藩家老・西郷頼母(たのも)の妻。新政府 軍が会津城下に攻め込んだとき、西郷家では家を守る妻・千重 子が子女に向かって、「お城に入って殿様に従いたいが、子連 れではかえって足手まといになるやもしれぬ。むしろ自刃して 国難に殉じたい」と言い、長子のみを城に向かわせ、残るすべ ての家族ともども自刃した。その千重子の辞世の歌である。 「なよ竹のように吹く風にゆれ揺れ動く女の身だが、そのなよ 竹にも曲がらない節があると聞く」という意。「ありとこそき け」という断固たる調べが、武士の妻らしい毅然とした心根を 表している。 ■7.はるけき空をわたるかりがね■ 昭憲皇太后 広島の行宮(かりみや)さしていそぐらむはるけき空をわ たるかりがね 明治27年、日清戦争勃発に伴い、大本営が広島に移され、 明治天皇も広島を御座所とされた。行宮とは天皇が旅先で設け られる借りの宮の意。東京の空を西に飛んでいく雁の姿に、広 島での明治天皇をお偲びになったお歌である。 前出の鶴の群れに遣唐使として旅行くわが子を思う母の歌と よく似ている。夫を思い続ける妻、子を思い続ける母の心は、 飛び行く鳥の姿にも、愛する者の所に向かうと思えてしまうの であろう。 ■8.つはものに召し出(いだ)されし我せこは■ 大須賀松江 つはものに召し出(いだ)されし我せこはいづくの山に年 迎ふらむ 日露戦争中の明治38年(1905)の歌御会始(現在の歌会始) で、1万余首の詠進歌の中から選ばれた一首。「山梨県、陸軍 歩兵二等卒妻、大須賀松江」と作者名が披露されたとき、参会 者一同、ハッとしたという。二等卒といえば、軍人の中でももっ とも位の低い妻である。そういう者の歌も、まごころがこもっ ていれば、天皇の大御歌と同じ場で朗唱される。まさに「和歌 の前の平等」を具現した出来事であった。[b] 「つはもの」とは兵士、「せこ」とは妻が夫を親しんで呼ぶ言 葉。出征した我が夫は、いづこかの山で無事に新年を迎えてい るのだろうか、と案ずる妻のあるがままの気持ちをそのままに 歌った歌である。[c] ■9.つれづれの友ともなりてなぐさめよ■ 貞明皇后 つれづれの友ともなりてなぐさめよゆくことかたきわれに かはりて 貞明皇后は大正天皇のお后。このお歌は昭和7年、「癩(ら い)患者を慰めて」と題して詠まれた5首のうちの1首。貞明 皇后は癩病(ハンセン病)患者へのご同情が深く、毎年、救済 事業に御下賜金を下される傍ら、御所の庭の楓(かえで)の苗 を全国の療養所にお送りになって、苦しむ患者をお慰めになっ た。「楓よ。見舞いに行くことが難しい私に代わって、するこ ともなく寂しい患者等の友となって慰めよ」という、慈愛あふ れるお歌である。[d] 皇后はまた「国母」とも言われる。それは歴代の皇后が、母 がわが子を思う気持ちで、国民の幸せを念ぜられた事による。 ■10.み軍(いくさ)に征く猛(たけ)く戦へ■ 与謝野晶子 水軍の大尉となりてわが四郎み軍(いくさ)に征く猛(た け)く戦へ 与謝野晶子と言えば、日露戦争中に「君死にたまふことなか れ」の反戦歌を詠んだ歌人として、歴史教科書などに紹介され ているが、それは偏向教科書によく見られる「つまみ食い」で ある。その与謝野晶子が、大東亜戦争中にこういう歌を詠んで いたことをあわせて紹介しなければ、その心は伝わらない。 この歌は与謝野晶子の4男・c(いく)が東京帝国大学工学 部から海軍に入り、大東亜戦争に赴いた時の歌である。「四郎」 とは四男の意。「海軍の大尉となって出生するわが子よ。猛々 しく戦え」という歌である。 「水軍」も「みいくさ」も日本古来からの言葉で、九州の防備 につく防人を送るかのような万葉調の歌である。祖国の危機に 際して、名誉ある「水軍の大尉」となった「わが四郎」に武人 の誇りをかけて存分に戦って欲しいという思いであろう。 ■11.嵐のあとの庭さびしけれ■ 松尾まつ枝 君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ 昭和17(1942)年5月、特殊潜行艇3隻による特別攻撃隊が オーストラリア・シドニー軍港を急襲し、軍艦1隻を撃沈する も、すべて戦死を遂げた。 この歌はそのうちの一隻の艇長・松尾敬宇(けいう)大尉の 母、まつ枝が一周忌に詠んだもの。「天皇陛下のためには命を 投げ出せと育てたわが子だが、その通りに命を散らした後は寂 しい」という武人の母の覚悟と哀しみが詠われている。 豪州海軍は、松尾大尉らの愛国心と勇気を称え、戦時中の敵 国軍人にもかかわらず、海軍葬をもって手厚く弔った。 戦後、まつ枝は、その答礼のために84歳の高齢でオースト ラリアに赴いたが、敵味方の区別なく戦いに命を捧げた将兵の 御霊に和歌と祈りを捧げるその姿に、豪州国民は深く共感し、 行く先々であたたかく出迎えた。[e] -------------------------------------------------------- 以上、11首の日本女性の短歌をたどってみたが、いずれも 夫や子への深い愛情を詠んだものである。これらの歌からは、 皇后陛下が子供時代に「愛と犠牲という二つのものが一つに感 じられた」と言われたお言葉で、すべてが言い尽くされている ように思われる。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(069) 平和の架け橋 他者との間に橋をかけるためには、「根っこ」と「翼」を持 たねばならない。皇后さまのご講演。 b. JOG(023) 和歌の前の平等 歌会始で女子高生が宿題で詠んだ歌が、選ばれるというのは、 「和歌の前の平等」の伝統が現代にも息づいている証拠。 c. JOG(048) 「公」と「私」と 私情を吐露しつつ公の為に立上がった日露戦争当時の国民 d. JOG(200) 暗き夜を照らしたまひし后ありて ライ救済事業に尽くした人々の陰に、患者たちの苦しみを共 に泣く貞明皇后の支えがあった。 e. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心 慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生 者が受け止め、継承する儀式である。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 小柳陽太郎他編著『名歌でたどる日本の心』★★★★、草思社、 H17© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.