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■■ Japan On the Globe(418)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 福島安正・陸軍少佐のユーラシア単騎横断 迫り来るロシアとの戦争に備えるべく、 安正は1万4千キロの大偵察旅行を敢行した。 ■■■■ H17.10.30 ■■ 34,113 Copies ■■ 1,824,230 Views■ ■1.日本男児の意地■ 明治25(1892)年2月、ユーラシア単騎横断の計画がアメリ カの新聞にまで報道されると、福島安正・陸軍少佐は苦笑した。 できるだけ隠密に行動しようとしていたのだが、と。ドイツ皇 帝・ウィルヘルム2世からも赤鷲三等勲章を授与され、謁見を 賜った。出発前からすでに国際的な英雄となっていた。 2月11日、紀元節の朝10時、日本公使館前に集まった多 くの在留邦人が日の丸を振り、万歳を叫ぶなかを安正は騎馬で 出発した。 馬上で安正は一つの決心を固めていた。日本国のためにユー ラシア大陸横断という冒険に見せかけた偵察旅行を成功させる ことはもちろん重要だが、当時の白人優先、ヨーロッパ優越の 観念に一矢報いよう。日本男児としての意地であった。 成敗生死、共に天にあり。武運拙くんば、以て屍(かばね) を胡野(こや、異国の野)に曝(さら)さんのみ 出発の際に詠んだ詩である。 ■2.情報将校としての道■ 福島安正は嘉永(1852)年、長野・松本藩士の家に生まれ、大 学南校(後の東大)を経て、明治7(1874)年、英語力を買われ て陸軍省に採用された。西南戦争では長崎に集結した列強の艦 隊の動向を探り、異国の乗組員と酒を酌み交わしながら、特に どこかの国が西郷軍を支援する事はないだろう、という貴重な 情報を官軍の征討参軍・山県有朋にもたらした。ここから安正 は情報将校としての道を歩み出した。 明治12(1879)年、安正は約5ヶ月の北支、内蒙古の探索に 出発した。天津では苦力(クーリー、出稼ぎ労働者)に化けて、 中国語をマスターし、北京では漢方薬売りに扮して紫禁城内に 出入りし、清国の政情や軍備状況を調べた。帰国後、64巻に わたる『隣邦兵備略』をまとめて、山県を感動させた。 その後、朝鮮をめぐって日本と清国の間の緊張が高まると、 明治15(1882)年からは、北京の日本公使館付武官として、情 報収集を続けた。 その結果、得られた結論をこうだった。清国の宮廷は宦官の 巣窟となり、役人は腐敗して民衆を搾取し、軍備もさして強力 ではない。欧州では清国を「眠れる獅子」などと警戒している が、いまや獅子ではなく豚であり、眠りは醒めることはあるま い、と。こうして完成したのが65巻におよぶ『清国兵制類集』 で、これが10年後に、総理・伊藤博文が対清開戦を決意した 時に大いに役立った。 ■3.「いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう」■ 2年余りの滞在で、清国の調査を終えた安正は東京に戻り、 今度は東洋を侵略しつつある西洋列強の調査に取りかかった。 手始めはビルマとインドであった。英国軍が激戦の果てに占領 したばかりのビルマの首都ラングーンは砲撃で破壊されており、 「イギリスの奴、ここでもひどいことをしていやがる」と安正 は悲憤を感じた。いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう。 その時こそ、日本人が東洋の盟主として、有色人種のために戦 わなければならないのだ、その為の偵察旅行だぞ、と安正は決 意を新たにした。 約半年の偵察旅行の結果、安正は次のような結論を得た。 英国を初めとする欧州列強の東洋蚕食(さんしょく)は、 すでに相当エスカレートしており、このままでは中国もイ ンド(のように植民地)化される恐れがある。そうなれば 次にくるのは我が国に対する圧力である。そしてロシアは 中央アジア侵略の手を、アフガニスタンに伸ばして、英国 と衝突しかかっているが、この方面で英国が譲歩するとは 思えない(大事なインドを護るため)ので、次にくるのは 満洲、朝鮮を経て太平洋に出て、不凍港を入手しようとい う算段しかありますまい。 安正はその後のロシアの動きを正確に予測していたのである。 この報告も含めて、参謀本部では国防の重要性を訴える献言書 を明治天皇に提出した所、天皇も同感で、明治20年3月には 「海防に関する詔書」が下され、特に建艦費として宮廷費の1 割以上を下賜された。これをきっかけに海軍の増強が進んだ。 安正の情報がなければ、日本海海戦での大勝利もあり得なかっ たかもしれない。 ■4.シベリア鉄道■ 明治20(1887)年3月、安正はドイツ公使館付武官としてベ ルリン駐在を命ぜられた。この頃には安正の情報将校としての 実績は揺るぎないものになっていた。ベルリン駐在の目的の一 つにユーラシア大陸横断計画の下準備があった。 翌1888年、安正はロシアが東洋進出のためにシベリア鉄道建 設を企画しつつある、という情報を得た。この鉄道の軍事的な 意味は明らかだった。今までのロシアは欧州の兵力を極東に運 ぶ効率的な手段を持っていなかった。海路では非常な時間と費 用がかかり、また列強の領海を通過せねばならないので、英国 などから干渉される恐れがあった。しかし、自国の大陸内を鉄 道で運ぶなら、誰も口出しできない。極東侵略のための兵力も 物資も、効率的に送り込むことができるのである。 1891(明治24)年1月、安正はユーラシア大陸横断の計画を 立て、参謀本部に旅行申請を提出した。ちょうどこの月に、ロ シア政府はシベリア鉄道の建設を正式に宣言した。 それから間もなく、ロシア政府から日本政府に、ウラジオス トクにおけるシベリア鉄道起工式に皇太子ニコライを派遣する ので、その序でに日本を訪問させたい、という通報があった。 このニコライは大津で警護の巡査に斬りつけられて負傷し、 一時は日露開戦かと、日本中をおののかせる事件が起きた。大 津事件である[a]。参謀本部からの計画認可がおりたのは、こ の後であった。 このニコライは3年後にロシア皇帝となって日清戦争後の三 国干渉を主導し、日露戦争敗北後のポーツマス会議[b]では 「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えてはならない」 と指示して、日本を窮地に追い込んだ。そして明石大佐[c]が 莫大な資金で援助した革命派によって殺害され、最後のロシア 皇帝となってしまう。日本との因縁浅からぬ人物であった。 ■5.独立を失った国々■ こうして1893(明治26)年の紀元節にベルリンを出発した安 正は、3日目に旧ポーランド領に入る。かつての強国ポーラン ドは18世紀にドイツ(プロイセン)、ロシア、オーストリア に分割されていた。 淋しき里に出たれば、 ここは何処と尋ねしに、 聞くも哀れや、その昔、 亡ぼされたるポーランド 明治時代の歌人・落合直文の作であるが、「福島少佐のシベ リア横断の歌」として愛唱された。国を失ったポーランドへの 同情が、後にシベリアに流刑となったポーランド人革命家たち の孤児765名を救出する大きな動機となったのかもしれない。 [d,e] ワルシャワを経て、2月の後半はリトワニア、ラトビア、エ ストニアのバルト3国を通過する。かつては独立国として繁栄 していたが、今はロシア領となっていた。今も弾圧に耐えなが ら、地下で独立運動が続けられている。安正は、日露間に戦端 が開かれたら、これらの独立革命家を支援、扇動して、帝政ロ シアを西から攪乱する手もあるな、と考えた。後に明石元二郎 大佐が、この戦略を実行して大きな成果を上げる。[c] ■6.ペテルブルグにて■ 3月24日、安正はロシアの首都ペテルブルクに入った。 42日間で1850キロ、日本で言えば鹿児島−仙台間を走破 したのである。ロシア側は安正の動きをつかんでいたと見えて、 市の南門の10キロ手前で騎兵将校が出迎え、騎兵学校の貴賓 室に案内され、賓客として扱われた。 広大な大陸に育ったロシア人ですら、ユーラシア大陸の単騎 横断などという大行軍を成し遂げた騎兵はいない。その勇壮な る企てに、彼らは感激したのである。 安正はここで半月ほど過ごして、情報収集にあたった。ロシ ア陸軍の総兵力、編成が明らかになった。それは日本の14倍 という規模であった。さすがにロシア陸軍の華とされる騎兵隊 は、軍紀粛正で訓練に熱心な精鋭ぞろいであった。日露戦争で は、この騎兵に苦しめられることになる。 しかし、歩兵や砲兵の練度はムラがあり、ロシア王朝の頽廃 に影響されてか、軍紀も弛緩し、皇帝への忠誠心にも疑問があっ た。 3月30日、安正は皇帝アレクサンドル3世への拝謁を仰せ つかった。皇帝は安正のユーラシア横断に非常な興味を抱いて いた。「少佐は何語を話すのか?」とまず聞かれたが、「ドイ ツ語でもフランス語でも、英語、ロシア語でも、陛下のお宜し い方で結構でございます」と答えた。そこでフランス語の会話 となったが、安正が中国語も出来ると知ると、皇帝は驚いて、 語学談義に花が咲いた。 ■7.「西はヨーロッパ、東はアジア」■ 4月9日、ペテルブルクを出発し、720キロを16日間で 走破して、4月23日にモスクワ着。モスクワではシベリア鉄 道に関する情報を集めた。東西両端から建設工事を始め、現在 の未完成の線路は約7千キロ。今まで工事スピードは年間70 0キロなので、あと10年、1904年には完成するだろうと安正 は予測した。実際の開通は、安正の予測通り、1904年、日露戦 争開戦の年であった。 5月6日、モスクワを出発し、7月9日、ウラル山脈の頂上 に到達、かねて聞いていた「頂上の碑」を発見した。高さ3メ ートルほどの石碑に、「西はヨーロッパ、東はアジア」とロシ ア語で記されていた。安正は空に向かって大声で叫んだ。 思えば欧州に勤務すること5年有半。この間、夢にも見 た懐かしい故郷の空、これからがアジアの空だぞ。 ここからがいよいよシベリアである。帝政ロシアはシベリア 開発のために多くの労働力を必要とし、犯罪者や政治犯を多い ときには年間2百万人も送り込んでいた。 貧しいシベリアではコレラが流行しており、安正が通過する 町々では広場に死体の山が築かれ、「死の町」のような静かさ に覆われていた。 ■8.「ロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう」■ 安正は夏の間に一気にシベリアを横断し、9月24日、日本 人として初めてアルタイ山脈を越えて、外蒙に入った。かつて 草原を支配した蒙古民族も、今は清国の支配下にあるが、眠れ るが如き清国政府はかかる辺境には無関心で、国防の配慮も乏 しい。帝政ロシアの経済的、軍事的影響が強まっていた。 東進するロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう、 と安正は考えた。(実際に20年後の辛亥革命で清朝が崩壊す ると、ロシアは外蒙を勢力下に収めている。) その次は満洲、 朝鮮、そして我が日本である。寒さの厳しい高原を、馬の背に ゆられながら、安正は祖国の行方を案じていた。 約2ヶ月かかって外蒙を横断すると、安正は再び北上してロ シア領に入り、バイカル湖畔にたどり着いた。シベリア鉄道の 工事が、まだここまでは達していなかった事が確認できた。 1893(明治26)年の元旦を、安正はバイカル湖畔から東へ1 10キロの町で迎えた。零下30度の寒さで風邪を引き、ホテ ルで3日間の寝正月を決め込んだ。 2月11日の紀元節。ベルリンを出発してちょうど1年が経 過した。安正は今までの旅が無事であった事を神に感謝した。 しかし、この日、安正は馬から氷上に転落し、頭部に深い傷を 負った。5日間、農家で療養した後、また東に向かい、3月 20日、氷結しているアムール河を渡って、満洲に入った。 4月18日、吉林の手前で、この地方の風土病にかかり、 18日間も田舎の宿で昏睡状態が続いた。祖国まであと千キロ あまりのところまで来たのに、こんな満洲の田舎で果てるのか、 と無念に思った。しかし、なんとか元気を回復し、5月7日に ようやく出発。 ■9.「おう、海が見えるぞ!」■ 6月1日、満洲と朝鮮を隔てる険しい山を越えると、安正は 思わず、声を上げた。「おう、海が見えるぞ!」 前方遠くに 見える青い海、日本海である。安正の両眼から涙が滴り落ちた。 祖国、、、あの青い海の向こうに祖国があり、皇居のある 東京もあるのだ、、、陛下、臣安正は今、祖国を望む地点 まで帰ってきましたぞ。 そこからは再びロシア領に入り、6月12日、安正はついに ウラジオストクに到着した。ちょうど1年4ヶ月で1万4千キ ロを踏破し、見事に任務を遂行したのである。 大勢の日本人が万歳で出迎えた。到着の知らせは国内外に伝 わり、世界中の新聞が世紀の壮挙と大きく報道した。 安正はウラジオストクから3頭の愛馬とともに、東京丸で日 本に向かった。6月29日午後、横浜港に着くと、児玉源太郎 陸軍次官や家族が出迎えていた。さらに安正を驚かせたのは、 明治天皇から差し遣わされた侍従が「天皇陛下より賜る」といっ て、暖かいねぎらいの言葉とともに勲三等旭日重光章を授与し た事だった。 7月7日には皇居で明治天皇に御陪食を賜った。乗馬を好ま れる陛下は、安正が3頭の馬を東京まで連れ帰った事を聞かれ ると、「それはよいことをした。安正はまことの騎兵将校じゃ」 と喜ばれた。明治天皇のご沙汰で、3頭の馬は上野動物園で余 生を送ることとなった。 この11年後に日露戦争が始まった。安正は児玉源太郎・総 参謀長のもとで、情報収集・背後工作を続けた。日露戦争は薄 氷を踏むような勝利だっただけに、安正のもたらした情報がな ければ、戦局はどう転んだか分からない。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(161) 国難・大津事件 来日中のロシア皇太子が凶漢に襲われた。戦争になって植民 地に転落するか、亡国の危機迫る。 b. JOG(365) ポーツマス講和会議 国民の怒りを買うことを覚悟して、小村寿太郎は日露講和会 議に向かった。 c. JOG(176) 明石元二郎〜帝政ロシアからの解放者 レーニンは「日本の明石大佐には、感謝状を出したいほどだ」 と言った。 d. JOG(142) 大和心とポーランド魂 20世紀初頭、765名の孤児をシベリアから救出した日本 の恩をポーランド人は今も忘れない。 e. JOG(323) 日本・ポーランド友好小史 遠く離れた両国だが、温かい善意と友好の関係が百年も続い てきた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 豊田穣『福島安正 情報将校の先駆―ユーラシア大陸単騎横断』 ★★★、H5、講談社© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.