[トップページ][平成17年一覧][人物探訪][201.751 大東亜戦争:開戦への罠]
■■ Japan On the Globe(423)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 失意の報国、山本五十六 華々しい経歴の陰で、山本五十六はじっと 失意をこらえてきた。 ■転送歓迎■ H17.12.04 ■ 34,035 Copies ■ 1,866,308 Views■ ■1.失意■ 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で大東亜戦争が始 まった。帝国海軍は敵戦艦4隻沈没、3隻大破、1隻中破とい う大戦果をあげ、アメリカ太平洋艦隊の主力を一挙に撃滅した。 [a] しかし、その直後、連合艦隊司令長官・山本五十六は深く沈 んだ様子に見えた、という。華々しい戦果の陰に、日米開戦を なんとか阻止しようという志を果たなかった失意を山本は噛み しめていたのであろう。 真珠湾攻撃の約2ヶ月前、50人を超す各級司令官たちを集 めて、「異論もあろうが、私が長官である限りハワイ奇襲作戦 は必ずやる」と言い切ったその日、山本は親友・堀悌吉に、こ んな手紙を書いている。 個人としての意見と正確に反対の決意を固め其の方向に 一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なものなり。これも 命といふものか。 「個人としての意見」とは、海軍次官として、日米開戦を招く 三国同盟に命を掛けて反対してきた事を指す。今は、連合艦隊 司令長官として、それとは「正確に反対の決意」を固めざるを えなかった。 12月10日にはイギリス東洋艦隊の2隻の戦艦を航空攻撃 で沈めた[b]。「これは長官、男爵か元帥かということになっ て来ますね」と言う部下に、山本はこう答えた。 俺ァ、そんなものは要らないけどね。もし褒美をもらえ るなら、シンガポールあたりに土地を買って、僕に大きな バクチ場を経営させてくれないかナ。そうしたら、世界中 の金を、ごっそり日本へ集めて来てやるんだがな。 ブリッジの腕は東洋一と豪語する山本のそんな夢が、叶うは ずもなかった。 ■2.不本意のロンドン行き■ 山本が日本国内はもとより、アメリカや英国、ドイツの政府、 海軍上層部に知られるようになったのは、昭和9(1934)年のロ ンドン海軍軍縮会議予備交渉において、海軍側主席代表として 活躍した時であった。しかし、山本の失意はこの時から始まっ ている。 米・英・日の海軍軍備を5:5:3と取り決めたワシントン 条約は、昭和11(1936)年に有効期限が満了することになって いた。その後の新しい軍縮協定への地固めをしよう、というの が、このロンドン予備交渉の趣旨であった。 日本近海で日米艦隊決戦をするとすれば、対米7割が必要と いうのが海軍内の「艦隊派」の考えで、これはアメリカのある 軍事雑誌も同意見を述べていた。 一方、山本は、アメリカ駐在2度の経験から、 デトロイトの自動車工業と、テキサスの油田を見ただけ でも、アメリカを相手に無制限の建艦競争など始めて、日 本の国力で到底やり抜けるものではない。 と、考えていた。この頃までの海軍ではどんな強硬派でも、ア メリカと戦争して本当に勝てると考えるほど勇ましく無知な人 物はそういなかった。[1,p55] したがって、日本側の案は対英米6割というワシントン条約 をそのままの形で今後も認めることは到底できず、さりとて無 制限の建艦競争に入ったら国力が追いつかない。そこで各国平 等の海軍兵力制限を設け、それをできるだけ低い所に引いてお きたい、という都合の良いものであった。 山本としては「艦隊派」の考えとは溝があり、何度もロンド ン行きを辞退したが、結局、ほかに人がいない、という理由で 受けざるを得なかったのである。 交渉の場では日本政府は、山本に航空母艦の全廃を主張させ ている。今後は航空兵力が中心となると考えていた山本にとっ て、これはまさしく「個人としての意見と正確に反対」のもの であった。 ロンドンでの日本海軍側主席代表という立場も、そこでの主 張も、山本にとっては不本意なものであった。 ■3.鋭い舌鋒■ しかし、日本政府の代表として送り込まれた以上は、その意 見を主張しなければならない。 5対3は決して日本に対する脅威にならないはずだとアメリ カ側が言うと、山本は、 米国の5の勢力が、日本の3の勢力に対して脅威でない というなら、日本の5の勢力が米国の5の勢力に対して脅 威になるはずがないではないか と、言い返したりしている。山本の鋭い舌鋒に、アメリカ代表 は「ワシントンでは、アメリカが頭から抑えたものを、今度は 山本が逆に自分を抑えにかかってきた」と密かに舌を巻いた。 英国は日本の提案に好意的だったが、アメリカは冷淡だった。 無制限の建艦競争になれば、国力に勝るアメリカが優位となる。 日本を追い込んで、単独でワシントン条約廃棄の通告を出さざ るをえないようにすれば、軍縮不成功の責任はすべて日本に負 わせることができる。 こういう立場では、山本としても、英国を頼って何とか妥協 点を見いだすよう粘るしかなかった。 ■4.失意のロンドン交渉■ ロンドン滞在中に、海軍兵学校の同期で親友の堀悌吉が予備 役に編入されたという知らせが届いた。艦隊派の策謀で、条約 存続派が次々と失脚させられており、その一環であった。山本 はすぐに堀に手紙を書いた。 爾来(じらい、それより後)、会商(交渉)に対する張 合も抜け、身を殺しても海軍の為などという意気込みはな くなってしまった ただあまりひどい喧嘩わかれとなっては日本全体に気の 毒だと思えばこそ少しでも体裁よくあとをにごそうと考へ て居る位に過ぎない その後も山本は真剣な交渉を続けたのだが、アメリカ代表は クリスマスを口実に帰国すると言い出した。山本は再開の期日 を約しておいた方が良いと食い下がったが、アメリカ代表は言 葉を濁して、引き揚げてしまった。 その後は日英の非公式な交渉が続き、英国の譲歩案に日本案 をかませ、それを英国を介してアメリカに了承させれば、なん とか妥協の道がつくのではないか、という所までこぎ着けた。 その案で東京に伺いの電報を打ったが、東京からは「余計なこ とをするな」と匂わせる返事が届いた。 山本が粘りに粘ったこの3ヶ月が軍縮の最後のチャンスだっ たが、それが失敗し、世界は無条約・無制限建艦競争の時代に 突入するのである。 ロンドン交渉で山本の名は国内外に高まったが、その結果は 山本にとって望みとは正反対のものであった。 ■5.「何がめでたいか」■ 昭和10(1935)年2月に帰国してから、山本はしばらく海軍 省内の薄暗い一室に憂鬱な顔をして燻っていた。中将だが、仕 事は何もない。何度も郷里の長岡に帰ったり、「俺は海軍やめ たら、モナコへ行って、博打打ちになるんだ」などと親しい友 人に言ったりしていた。 その年の暮れ、航空本部長に就任。かつては航空本部の技術 部長を3年務め、この間、海軍の航空は飛躍的な発展を遂げた と言われている。山本が技術部長時代に発案して、開発に着手 し、航空本部長となってから量産に入ったのが、長距離陸上攻 撃機「96式陸攻」だった。 昭和12(1937)年8月、日華事変の初頭に、96式陸攻の大 編隊が台北と高雄から暴風雨の東シナ海を渡って、中国の広徳 ・杭州の両飛行場を爆撃し、壊滅的な打撃を与えた。往復2千 キロの渡洋爆撃は、世界の航空専門家を驚かせた。これで日本 の航空技術は世界の最高水準に到達したと言われた。山本は陸 軍の始めた日華事変そのものは苦々しく思っていたが、96式 陸攻の活躍には、会心の笑みを浮かべたろう。 「航空本部長なら、いつまででもやってみたい」と語っていた が、これもわずか一年で海軍次官への転出を命ぜられた。「お めでとう」という人々に、「何がめでたいか。折角今まで、日 本の航空を育てようと一生懸命やってきたのに」と本気で怒っ た。 ■6.「至誠一貫俗論を排し」■ 昭和11(1936)年12月、海軍次官に就任し、ここから広田、 林、近衛(一次)、平沼の4内閣での2年9ヶ月に及ぶ苦闘が 始まる。林内閣で米内光政が海軍大臣として登場するが、その 担ぎ出しを最も強く主張したのが山本であった。 以後、米内海相、山本次官、井上成美軍務局長のトリオで、 陸軍の主張するドイツ、イタリアとの三国同盟を阻止しつづけ るのだが、その苦闘ぶりは弊誌407号に述べた。[c] 陸軍に操られた右翼がよく脅迫状を送ったり、海軍省に押し かけてきた。山本は休日には友人宅に潜伏して、麻雀をしたり して過ごした。 この頃の山本は暗殺を覚悟していたらしく、次のような遺書 をしたためて、海軍省次官室の金庫に納めていた。 勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し。 誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已(や)むの難(かた)き を知らむ 高遠なる哉(かな)君恩、悠久なるかな皇国。 思はざる可(べ)からず君国百年の計。 一身の栄辱生死、豈(あに)論ずる閑あらんや 三国同盟という「俗論を排し」、「君国百年の計」を思えば、 自らの栄誉や生命など、論ずるに足らない、という覚悟である。 昭和14(1939)年8月、独ソの突然の不可侵条約締結で、三 国同盟問題は棚上げとなり、平沼内閣は倒れた。米内が海軍大 臣を辞めると、山本も次官を辞めて、連合艦隊司令長官に転出 した。山本を後任の海軍大臣に、という声もかなりあったが、 米内は「山本を無理に持ってくると、殺される恐れがあるから ね」と答えた。 米内は昭和15(1940)年1月から首相となり、この間は三国 同盟論も下火となるが、その後に第二次近衛内閣が成立すると、 わずか2ヶ月余りで三国同盟が成立し、日本は戦争への道を一 気に走り始めた。 ■7.「長門」の艦上で討ち死にするだろう■ 同盟調印から2週間後、山本は非常な決心の様子でこう語っ ている。 実に言語道断だ。・・・自分の考えでは、アメリカと戦 争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもり にならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約 を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもん じゃない。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守っ てうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証 するか。結局自分は、もうこうなった以上は、最善を尽く して奮闘する。そうして「長門」(連合艦隊旗艦)の艦上 で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度ぐら いまる焼きにされて、非常なみじめな目に会うだろう。 [1,p382] 東京の空襲もソヴィエトの侵略も、山本にはお見通しであっ た。 昭和16(1941)年秋、日米の対立が決定的になりつつある最 中に、第三次近衛内閣から東条内閣に替わった。この時に米内 光政らが中心となって、山本を海軍大臣に担ぎ出そうとした。 もしこれが実現していたら、12月の開戦は少なくとも先に 延ばされ、山本が腰抜けとか、親英米とか言われて時を稼いで いるうちに、ドイツの退勢があきらかとなって、日本はヒット ラーのバスには乗らなかったろう、とも言われている。 おそらく、それは山本の本意でもあったに違いない。しかし、 東条内閣の海相となった嶋田繁太郎は、自分の地位を脅かされ るのを嫌ったのか、「連合艦隊司令長官には、山本以外には人 がいない」との一点張りでついに承知しなかった。 こうして、連合艦隊司令長官は2年までという海軍の不文律 にも関わらず、山本はその職に留まり、「個人としての意見と 正確に反対の決意を固め」て、真珠湾攻撃を敢行したのである。 そして、その結果、山本が正確に予見したとおり、自らも昭 和18年4月、ソロモン群島方面での最前線視察のために空路 移動中、敵機に襲われて戦死し、東京も空襲で丸焼けになった。 ■8.「苦しいこともあるだろう」■ 山本の残した言葉に次のようなものがある。 苦しいこともあるだろう。言い度いこともあるだろう。 不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣 き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくの が男の修行である。 日本海軍主席代表、航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長 官という華々しい経歴の裏で、山本はこの言葉通り、苦しいこ と、言いたいこと、不満なこと、腹の立つこと、泣きたいこと を、じっとこらえて、失意の人生を生き抜いてきたのである。 許されることなら、モナコあたりで博打に打ち込んでいたか もしれない。あるいは、飛行機屋としてひたむきな日々を送っ ていたかもしれない。そういう生き方を許さなかったのは、山 本自身の報国の志であった。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(168) 日米開戦のシナリオ・ライター 対独参戦のために、日本を追いつめて真珠湾を攻撃させようと いうシナリオの原作者が見つかった。 b. JOG(270) もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲 いかかった。 c. JOG(407) 米内光政(上) 〜 日独伊三国同盟の阻止 日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せては ならない、と海 相・米内は戦った。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 阿川弘之『山本五十六 上、下』★★★、新潮文庫、S48_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「失意の報国、山本五十六」に寄せられたおたより 「海風」さんより NHK「その時歴史が動いた・山本五十六(前・後編)」を観 てやっと、山本五十六氏の全体像が輪郭をもって、掴めた感が しました。「そうだったんですか」という感じです。 早速来年の手帳に、氏の「ひととせをかへりみすれば亡き友 の数へかたくもなりにけるかも」を書留めました。昭和を生き た軍人とは、かくも重責を忍耐を引き受けねばならなかったの か、と驚嘆と敬意を捧げて止みません。昨今、この国は拉致問 題等、隙間だらけの感に、先人の遺徳から、せめて自分の責任 と忍耐を確かめようと、おもっています。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 「責任と忍耐」を持って、国を支えていく人物が一人でも多く、 求められています。© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.