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■■ Japan On the Globe(522)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 岡田資中将の「法戦」 米軍の日本空襲は戦争犯罪であることを、 岡田中将は自らの戦犯裁判で認めさせた。 ■転送歓迎■ H19.11.11 ■ 35,676 Copies ■ 2,681,586 Views■ ■1.「私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ」■ 戦争末期に米軍はB29によって本土各地を爆撃したが、そ の中には日本軍によって撃墜され、パラシュート降下した搭乗 員が少なからずいた。岡田資(たすく)元陸軍中将は、東海軍 管区司令官として降下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦 争犯罪人」として処刑した。 連合軍側はこれを「捕虜の不法処刑」とし、昭和23(1948) 年1月、岡田中将以下の責任を問う裁判が、横浜の連合軍軍事 裁判所において始まった。 岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に 雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝 ち抜き得るものである」と判断した。そしてこの裁判を「法戦」 と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを 続ける、という覚悟である。 「法戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんこと を」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、 一緒に起訴された19名の部下たちを救おうとした。さらに、 搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置と して正当であったことを立証して「軍の最後を飾らん」ことを 願ったのである。岡田中将は、次のように家族への手紙に認め ている。 私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之 は米軍にても都合のある事ゆゑ。[1,p151] ■2.フェザーストン博士■ 法戦に立ち向かう岡田中将に、力強い味方が現れた。主任弁 護人を務めるフェザーストン法学博士であった。博士は50歳 近い、恰幅の良い巨躯をダブルの背広に包み、穏やかな笑顔で 話す紳士だった。博士は弁護人として、敵味方とは無関係に、 被告を弁護することに全力を傾けた。その公正な姿勢は日本人 に深い感銘を与えた。 フェザーストン博士は、まず米軍の爆撃が民間人に対する無 差別攻撃として戦争犯罪にあたることを立証しようとした。 検察側は、名古屋の軍需産業の70パーセントは市内に散在 する下請け工場であり、名古屋市の爆撃はそれらに対する正当 な攻撃で、民間人への無差別攻撃には当たらない、と主張した。 フェザーストン博士は「証拠無しにものを言うのはやめて貰 いたい」として、当時の軍需管理局の管理者二人を呼んで、証 言をさせた。二人は、下請け工場は住宅地区とは別の工場地帯 にあったこと、市内の家内工業では軍需生産は一切行われてい なかったことを明らかにした。 ■3.逃げまどう女子どもたちを狙った米機■ 次いでフェザーストン博士は、空襲の被害者を何人も法廷に 呼んで、それが無差別攻撃だった事を明らかにした。そのうち の一人に神戸市で孤児院の院長をしていたの水谷愛子さんがい た。水谷さんは、昭和20(1945)年3月17日夜の神戸空襲の 模様を次のように語った。 夜11時頃に警戒警報が鳴り、照明弾が落ちて、あたりは真 昼のように明るくなった。他の機が焼夷弾を落とし、孤児院の 建物にも火がついた。子どもたちを連れて、水谷さんは近くの 親和女学院に避難した。 しかし山から降りて来た人が、「ここ、危ないで」と言 います。そこで子どもたちを下の宇治川の宇治橋に連れて 行きました。みなを橋の下に入れましたが、人で一杯です。 ・・・焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わ らわでした。幾組かの母子が焼死しました。[1,p100] 照明弾で真昼のように明るくなれば、逃げまどう子どもたち の姿もはっきり見えたはずである。米機が女子どもと知りつつ、 焼夷弾を落としたのは明らかだった。 日本人弁護人の記録によれば、この時、法廷は「しーん」と 静まりかえったらしい。 ■4.大量殺戮を狙う爆撃の残虐性■ フェザーストン博士は、無差別爆撃について、岡田中将の意 見を聞いた。中将は、軍人らしく爆撃の具体的な方法を詳しく 論じた。 まず爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさら に幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さ ないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の 方法をとった。その残虐性を、岡田中将は指摘した。 この方法は、昭和20(1945)年3月10日、東京の江東地区 で行われ、一晩で10万人近い死者を出した。名古屋市でも同 じ方法がとられ、5月14日の最大規模の爆撃では、市の北部 80パーセントが焼失し、死傷者948名、全焼2万3千余軒、 罹災者は6万5千人近くに及んでいる。 フェザーストン博士は、岡田中将への尋問で、こう聞いた。 問: すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆 撃の違法性について、どうお考えですか。 答: 彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけ がありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行っ たのであるから、その行為において、非合法である。 問: 彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か 言うことはありませんか。 答: 降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として 扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実情 を見て、正しいと信じました。 ■5.脅迫の宣伝ビラ■ 岡田中将は、米空軍がその非人道性を自覚しながら爆撃を行っ ていた証拠として、米軍が投下した宣伝ビラを挙げた。検事と の間で次のような尋問が展開された。 問: 証人(岡田中将)は・・・航空機がばらまいた宣伝 ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだ と言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告では ないのか。 答: ・・・ビラのあるものには、焔を吹く家や、子供が 右往左往して親を捜し求める絵がかいてあった。「こ わければ戦争をやめろ」と文句がついていた。ほかの ものには、もっと口汚い諷刺が書いてあった。これは 避難警告ではなく脅迫である。 問: このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯し たと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か。 問: そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくは サイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本へ の爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただ ろう、という意味だ。 問: 搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本 で撒いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作っ て撒いたとでも思ったのか。 ■6.「人道に反するのを自覚していたかどうか」■ 検事は、爆撃が非人道・非合法であった事については、もは や争うことを諦めてしまったようだ。しかし、その責任は無差 別爆撃を命令したアメリカ空軍にあり、実行した搭乗員にはな い、その搭乗員を戦争犯罪者として処刑したのは不法であると する論法をとった。この論法を岡田中将は、次のように一蹴し た。 答: ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまって いた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描か れていることが、人道に反するのを自覚していたかどうか ということである。そして事実、その行為を犯した。問題 は爆撃を実行したということだ。 搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実 行したのなら、「単に命令に従っただけだから無罪」とは言え なくなる。 無差別爆撃が戦争犯罪であると追求する岡田中将と、命令を 実行しただけの搭乗員は無罪だと弁護する検事の論戦は、あた かも原告と被告の立場が逆転したような趣となった。 こうした尋問を通じて、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪 を犯したのだ、という事実は法廷の前で明らかにされていった。 岡田中将の法戦は勝ちつつあった。 ■7.すべての責任をとる■ 岡田中将の法戦には、もう一つの目的があった。部下たちを 救うことである。処刑の命令を誰が出したか、が問題になった 時、フェザーストン博士は岡田中将にこう尋問した。 問: 6月28日頃、11人の搭乗員が略式手続きで処刑 された時、あなたが命令を出した憶えがありますか。 答: 覚えています。 フェザーストン博士は「命令書か、口頭か」と問い、中将が 「口頭です」と答えると、さらに「その時、使った言葉を覚え ていますか」と聞いた。ここではっきり「処刑を命じた」と答 えられては、中将の責任は逃れられなくなる。弁護人としては、 曖昧な答えを期待していた。ところが、岡田中将はこう断言し た。 私は大西(大佐)に言った。(略式手続きを取るという 大西大佐の)説明はよくわかった。処刑するよりしようが ないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。「なるべく 早く」という言葉を使った、と思う。[1,p130] また処刑は、軍刀による斬首で行われた。それを立案した伊 藤少佐と、その実行を命じた米丸副官を救うべく、岡田中将は こう弁護した。 私は職務上、結論だけを命ずる。実行の具体的手段は、 部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍 刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命じ、という ことになる。・・・従って、軍刀使用の命令が米丸から出 たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同 じである。 こうした態度から、岡田中将がすべての責任を取ろうとして いることが、誰の目にも明らかになってきた。 ■8.法廷への感謝■ 部下をかばうために、すべての責任を負ってしまう岡田中将 の態度は、検察側の心も動かしていた。中将の尋問の終わりに、 次のような質問をして、刑を軽減する最後のチャンスを与えた。 問: さて6月26日に伊藤少佐が(調書を持って)あな たの部屋に来たときに、搭乗員が有罪で、死刑に処す べきだ、とのヒントを出したのはどっちですか。伊藤 があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒン トを得たか。 答: ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分 で考えて、自分にヒントを与えたのです。 岡田中将は検察から与えられたチャンスも返上した。そして 最後に自ら発言の許可を求めた。 市ヶ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における 他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分 の感情を述べる機会を与えられなかった。米空軍の内地爆 撃問題に就いては、被告から十分に言う機会が与えられな かった。この点において極めて寛大な処置を執ってくれた のは、此の法廷が初めてであると思う。・・・ 日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞く でしょう。そして感謝の気持ちを持つであろう。その感謝 の気持ちは、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心か らの結合に非常なる役割をするものであると思う。 [1,p178} ■9.静かな微笑■ 昭和23(1948)年5月19日、判決が下された。岡田中将は 死刑の判決を、頷きながら聞いた。「判決は御勝手にだ、之は 米軍にても都合のある事ゆゑ」と言ったように、本国の手前、 有罪判決を行い、後はケース毎に減刑処置を行う、というのが、 「米軍の都合」だった。 果たして岡田中将の助命嘆願が殺到した。かつて宮付武官と して仕えた秩父宮や、その他の身内や関係者ばかりでなく、フェ ザーストン博士や、検事、そして判決を下した5人の裁判委員 のうちの2人までから嘆願書が寄せられた。岡田中将は、人々 の厚意に感謝しつつも、「日本軍人らしく日本軍隊らしく終始 せる」事を祈っており、情けをかけられる事を好まなかった。 一方、部下たち19名は大西大佐の終身刑から、最も軽い者 でも10年の刑が宣告された。岡田中将はスガモ・プリズンで 処刑を待つ間にも、「部下には罪はない、刑を軽減してほしい」 との請願を続けた。結局、10年の刑を受けた13名は、翌年 3月に釈放され、他の人々も大西大佐の昭和33年釈放を最後 に、すべて社会復帰が許された。「部下を救う」という岡田中 将の第2の目的も果たされたのである。 スガモ・プリズンでは、岡田中将は30人ほどの青年死刑囚 を相手に「必ず減刑になるから」と励まし、将来の日本を背負っ て立つよう、自らの信仰する日蓮宗をもって教育した。 昭和24(1949)年9月15日夜10時、死刑執行のための呼 び出し人が岡田中将の独房にやってきた。すべてを自分の責任 と証言した中将には、減刑の余地がなかったようだ 青年死刑囚たちは連れ出される岡田中将の姿を見て、「アッ」 と声をあげた。中将は一言「君達は来なさんなよ」と言った。 「閣下、後は御心配なく」の声に「うむ」。中将の静かな微笑 に無限の慈悲を感じたという。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(059) パール博士の戦い 東京裁判で全員無罪を主張 b. JOG(121) 笹川良一(上) 獄中の東条英機に命をあきらめて国家を弁護せよと叱咤した 男 c. JOG(122) 笹川良一(下) 東京裁判での罪なきBC級戦犯釈放に奔走 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1.大岡昇平『ながい坂』★★、新潮社、S57 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「岡田資中将の『法戦』」に寄せられたおたより Gorillaさんより 今号をを拝見し、頭に浮かんだのは、私の母親の事でした。 私の母親は、昭和12年に現在の岩手県釜石市に産まれまし た。母親が満8歳を迎える一月前の7月4日(及び8月9日) に製鉄所があった釜石は、連合軍の空襲と艦砲射撃を受けまし た。 その時、母親は家の裏山の開けた峰に居たところ、艦載機の 機銃掃射を浴びたのです。機銃弾が頭上をかすめる「ヒューン ヒューン」という恐ろしい飛翔音は、戦後60年を過ぎた今で も忘れられないそうです。(幸い命中せずには済みました。) 製鉄所とは数十キロも離れた住宅地の裏山、10歳にも満たな い幼児に機銃掃射を浴びせた米軍兵は、何を想っていたのでしょ うか。母は私に言いました。「余った弾を持って帰るのが面倒 だったんだろう。」 あの時代、間違っていたのは日本人ばかりでは無かったので す。このような話は幾らでもあったはずです。なぜ、日本人の 行為のみが非難され、戦勝国の蛮行には目をつむるのでしょう か。それでは『戦争』の本当の恐ろしさ/悲惨さを子供達に教 える事はできません。 少なくとも、この体験談を語り継ぐとともに、伊勢さまのメ ルマガも活用させて頂きながら、我が子らにはしっかりした教 育をしなくてはと、改めて考えてさせられました。 富士山2000さんより 岡田資中将の責任の取り方に感銘を受けました。今の企業 の不祥事、それに対する責任の擦り合いを見て、嫌気がさし ておりましたが、「ここに日本人あり」と心打つものがあり ました。 今後、知られざる歴史の事実、後世に伝えたい真実の報道 を期待します。 栄舟さんより 今回の内容を見ても、世界に正義が存在するのか疑問に思 います。東京裁判では、被告(所謂戦犯)は真実を述べている にも関らず、それに正対しない裁判が横行ました。検事と裁 判長が同一人物という裁判にもならない事態が平然と正式に 進み、それが事実として定着しています。国際政治の理想と 現実のギャップは、いつ解決するのでしょうか? なお、「岡田資氏」をテーマにした映画が2008年3月 1日に公開されます。公式オフィシャルサイトは、次の通り です。 http://ashitahenoyuigon.jp/ ■ 編集長・伊勢雅臣より 岡田中将の映画が製作されているとは知りませんでした。 楽しみに公開を待ちたいと思います。© 平成19年 [伊勢雅臣]. 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