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■■ Japan On the Globe(555)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 稲塚権次郎とボーログ博士 〜 世界を変えた「農林10号」 一粒の種子が世界をかけめぐり、 世界を変えていった。 ■転送歓迎■ H20.07.06 ■ 38,294 Copies ■ 2,885,661 Views■ ■1.稲塚権次郎とボーログ博士■ 平成2(1990)年6月1日、富山県南西部の農村部・南砺(な んと)市にある南砺農業会館で一人の白髪長身の年老いた白人 が、500人ほどの聴衆に語りかけていた。 アメリカの農学者ノーマン・E・ボーログ博士である。博士 は収穫量が従来の2、3倍もある新しい小麦の品種を世界に広 め、それによって1960年代に予測されていた食糧危機から人類 を救った「緑の革命」の功労者として、1970年にノーベル平和 賞を受賞した人物である。 博士は微笑をたたえながら、いかにも学者らしいゆったりと した口ぶりで話し始めた。 今日この地で、私達は稲塚権次郎(いなづか・ごんじろ う)博士の生家を訪れるという素晴らしい経験をさせて頂 きました。先生の業績は、一人私のみならず全世界の人々 が、高く評価し心から感謝しているものであります。多く の国々で食糧問題の解決を可能にしてくださったのも、稲 塚博士の御貢献あればこそなのです。[1,p8] ボーログ博士の立つ演壇には、青々とした小麦の鉢が飾って あった。これこそ稲塚権次郎が昭和10(1935)年に世に送り出 した「小麦農林10号」であり、ボーログ博士はこれを改良し て世界に広めたのであった。 ■2.メンデルの遺伝学による食料増産■ この南砺の地で、稲塚権次郎は明治30(1897)年に生まれた。 高等小学校を卒業した後、富山県立農学校に入学。農学校まで は往復4時間の距離を歩いて通ったが、リュックを背負い、本 を開いて勉強しながら通う姿は、まさに二宮尊徳の子供時代そ のままの姿だった。稲塚は江戸時代に農村開発に力を尽くした 二宮尊徳の教え、報徳教の本を愛読していた。 大正3(1914)年3月、17歳の権次郎は農学校を首席で卒業 し、先生の勧めで東京帝国大学農科大学に進んだ。家は貧しかっ たが、先生や本家の当主に泣いて頼んで、両親を説得して貰っ た。 権次郎はここでメンデルの遺伝学を学んだ。メンデルの法則 はオランダ人ド・フリースによって1900年に再発見されたが、 その6年後には東京帝国大学の戸山亀太郎博士が蚕を使って、 メンデルの法則が動物にも当てはまることを明らかにした。さ らに1914年に世界で初めて、蚕のハイブリッド品種を作り出し た。メンデルの法則を応用した品種改良では、当時の日本は世 界の最先端を走っていた。 権次郎は、この戸山亀太郎博士からメンデルの実験遺伝学を 学び、さらに育種学や品種改良の技術を習得していった。 大正7(1918)年に卒業した権次郎は、農商務省の農事試験場 に就職した。この年はコメ騒動が全国に広がって寺内内閣が倒 れ、かわって誕生した原敬内閣は土地と品種の改良によって米 の増産を図ろうとした。権次郎が就職した農事試験場は、全国 数カ所の支場、各府県の農事試験場を統括して、品種改良の使 命を担っていた。 ■3.農家が一斉歓迎した「陸羽132号」■ 大正8(1919)年、22歳の権次郎は、秋田の陸羽子場に赴任 した。東北は稲作の北限にあり、単位面積当たりの収量は畿内 の6割程度に過ぎず、冷夏となれば凶作に見舞われていた。 秋田の陸羽子場はまさに米増産のフロンティアであった。 権次郎は、ここで前任者が交配を進めていた「陸羽132号」 というハイブリッド品種を数年かけて完成させた。冷害や稲熱 病に強く、収量も多かった。当時の地元紙は次のように伝えて いる。 「陸羽132号」の植付が急速に発展したには何人も驚か ざるを得ない。 聞く所によると同種は一昨年陸羽子場の発見に関わり、 中稲の「亀の尾」と晩種の「愛国」とを配合し、稲は強健 に収量も多くそれに栽培容易にして秋田の風土に堪ゆる点 に於いて無比なりと称せられているから、農家の一斉歓迎 したのも決して無理はない。[1,p91] 大正15(1926)年頃、盛岡高等農林学校の卒業生である宮沢 賢治は、岩手の地でまさに「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」と、 農家指導に奔走していた。賢治は陸羽132号を極力勧め、多 くの農家で2割方の増収を得て、喜ばれていた。ある詩では次 のように陸羽132号を詠っている。 陸羽132号のはうね あれはずゐぶん上手にいった 肥えも少しもむらがないし いかにも強く育っている 昭和6(1931)年からは東北地方は毎年のように深刻な冷害に おそわれたが、「陸羽132号」が開発されていなかったら、 凶作の被害は10倍近くにもなったろうと言われた。 ■4.戦後の食糧危機を救った「農林1号」■ 権次郎は「陸羽132号」をさらに改良する作業を進めた。 大正15(1926)年に新品種の第四世代まで育てたところで、岩 手県農事試験場に転勤となったが、その後、新潟県農事試験場 の並河成資・主任技師らがこれを引き継いで「水稲農林1号」 として完成させた。 「陸羽132号」の成功がきっかけとなって、国立と各府県の 農事試験場が全国的に連携し、そこから生まれた優秀な品種に は統一的な「農林番号」をつけて各府県で奨励するという制度 が生まれた。水稲としての第一号が「水稲農林1号」であった。 この「水稲農林1号」は、収量が多いだけでなく、収穫時期 が早いために裏作も可能で、生産性を高めた。戦争直後の食料 危機の際には、北陸、東北、関東地方で栽培された「水稲農林 1号」が早場米として都市部にどしどし送り込まれて、窮乏に 喘ぐ国民を救った。 この「水稲農林1号」は味も良く、それまで「まずい」と言 われていた越後米の汚名を一挙に返上した。そしておいしい越 後米の元祖として、今日のコシヒカリやササニシキなどの子孫 を生み出している。 ■5.「まるで当時の日本の農民のような小麦」■ 一方、岩手に移った権次郎は小麦の品種改良に取り組んでい た。当時の人口急増によって、小麦の消費量も急激に増加しつ つあった。しかし国内の自給率は50%程度であり、食糧不足 および、小麦輸入による貿易収支悪化の危機が迫っていた。権 次郎は、小麦の品種改良によって国内生産の大幅増加を実現し、 この危機を乗り越えようとしたのである。 権次郎は助手一人とともに、日曜日もほとんど休むことなく、 農事試験場で小麦の育成・観察・選別に取り組み、妻と子の三 人で麦畑で昼食の弁当を食べることも度々だった。 こうした努力の末に昭和4(1929)年に完成したのが、「小麦 農林1号」であった。権次郎はこれに満足することなく次々と 新品種開発を続け、昭和10(1935)年には「農林10号」を完 成させた。従来の小麦は人の肩ほども高さがあったが、「農林 10号」はわずか50センチほどで、大きな穂をたくさんつけ ても倒れることがなかった。 権次郎は、後に「農林10号」について、こう語っている。 そう、まるで当時の日本の農民のような小麦だったな。 背が低くて、頑丈で、骨太っていうのかな。とにかく、 いくら穂をつけても倒れないんだ、もともと雪の多い東北 地方むけに品種改良したものでね。半年ちかく雪の下で育っ ても腐らない強い小麦をめざしたんだ。[1,p182] この間、昭和7年に政府が立てた「第二次小麦増殖5カ年計 画」は着実に成果を上げ、当初の小麦輸入量4百万石は、昭和 11年には16万石に激減して、ほぼ国内産で自給できるよう になった。農林1号から10号までの改良品種が、この増産に 貢献した。 ■6.華北農民のために■ 昭和13(1938)年、権次郎は北京の華北産業科学研究所に転 任した。この研究所は外務省が義和団事件の賠償金の還元策と して、広く華北の産業発展を目指したもので、とりあえず農業 部を設置して、食糧増産および農民の福利増進のための試験研 究を行った。日本人職員も東大、北大、九大などから人材を集 め、326人にのぼっていた。 華北は洪水、日照り、イナゴの害など荒々しい自然環境の中 で、農民が原始的な農業を営んでいた。権次郎はここでも小麦 の品種改良に取り組み、在来種を収集し、そのうちの優良なも のを純系にして9つの奨励品種を作り、それを増殖して、華北 農民に配布していった。 やがて終戦となり、研究施設はすべて中国側に引き渡される ことになった。金陵大学で小麦の育種をしていた沈宗瀚博士が 接収に来た際に、こう言ったと伝えられている。 非常にいいものを作ってもらった。私も方々歩いたけれ ども、こんな立派な試験場は見たことがない。ほんとうに いいものをつくってもらった。あなた方が許すことなら長 くここに残って、この仕事を継続してやってもらいたい。 [1,p209] この言葉通り、権次郎は徴用されて、終戦後も2年間、研究 所に残り、指導を続けた。帰国したのは昭和22年だった。 ■7.「小麦農林10号」アメリカに渡る■ 昭和20(1945)年12月、権次郎がまだ中国にいた頃、アメ リカ人農学者S・C・サーモンが来日した。サーモン博士は占 領軍の農業顧問として日本の農業事情の調査を行い、その過程 で「小麦農林10号」の存在を知った。そして自ら岩手県立農 事試験場に出向き、収穫前の「農林10号」を見た。 アメリカの小麦は通常15〜20センチ間隔で植えられてい るのに、「小麦農林10号」は50センチも離して植えてあっ た。それでもたわわな実をつけているので、地面が見えないほ どだった。さらに背丈がわずか60センチしかなく、倒れる事 もなかった。 博士は「農林10号」の種子をアメリカに持ち帰り、1年間 栽培して、全米各州に配布した。それを受け取った一人がワシ ントン州の農業試験場に勤めるO・A・フォーゲル博士だった。 フォーゲル博士は「農林10号」をアメリカの品種と交配して、 新品種「ゲインズ」を作り出した。「ゲインズ」が農家に配布 されると、各地で驚異的な出来高をあげた。 フォーゲル博士から種子を受け取った一人に、メキシコで小 麦の品種改良に取り組んでいたボーログ博士がいた。メキシコ では数年周期で小麦のサビ病が発生し、甚大な被害を受けてい た。ボーログ博士はサビ病に強く、収量も多い品種を開発して いた。 しかし収量があがるにつれて、小麦が倒れるようになり、生 産高の伸びに限界が生じてきた。ボーログ博士は、母国アメリ カでフォーゲル博士が背の低い品種を生み出している事を知り、 少量の種子を送って貰った。それらをメキシコの品種と交配し た新しい品種を作り出したところ、収量が2倍、3倍に伸びて、 メキシコの農家は熱狂的に喜んでくれた。 ■8.「緑の革命」■ ボーログ博士は国連農業機関の使節として、発展途上国の農 業を視察し、農業研究者が不足していることを知った。そこで 各国から研究者をメキシコに呼び寄せ、訓練をした後に、「農 林10号」から改良した種子を持ち帰らせる制度を始めた。 1965(昭和40)年から翌年にかけてインドとパキスタンが小 麦の大凶作に見舞われた。そこでボーログ博士は両国に数万ト ン単位の種子を送り込んだ。これらが両国の土地で実を結び、 インドでは小麦の収量が2倍となり、パキスタンでも自給自足 が可能なレベルに達した。 冒頭に紹介した平成2年の富山県での講演の中で、ボーログ 博士は「農林10号」の遺伝子を受け継いだ品種は500以上 生み出され、世界の小麦の3割を占めるに至ったと述べている。 1960年代は、貧しい国の食料増加率が人口増加率の半分にも 満たなかったことから、未曾有の食糧危機が予測されていた。 しかし「農林10号」の子孫たちが、2倍、3倍の小麦を生み 出して、食糧危機を回避したのである。これは「グリーン・レ ボリューション(緑の革命)」と呼ばれ、その功労者としてボ ーログ博士は1970(昭和45)年にノーベル平和賞を受賞した。 ■9.一つの「ゆめ」が世界を変えていった■ 昭和56(1981)年、日本育種学会の大会にボーログ博士と権 次郎が招かれて、それぞれ講演を行った。ボーログ博士は67 歳、権次郎は84歳であった。権次郎はボーログ博士に地元の 銘菓「水芭蕉」と、次の昭和天皇御製を送った。 水きよき池のほとりにわがゆめのかないたるかもみずばせ う(水芭蕉)さく 権次郎の生まれ故郷に近い縄ヶ池に自生する水芭蕉の大群生 を、昭和天皇が詠まれたお歌である。品種改良によって人々を 救いたいという権次郎の「ゆめ」も、多くの人々の努力を通じ て実現したのである。 この対面から7年後の昭和63(1988)年、91歳の権次郎は 亡くなる直前に残した回顧録の中で、次のように述べている。 農林10号は、さまざまな出会いを重ねながら世界の小 麦を変えていった。 種子と種子と、そして種子と人との出会いのなかで−− それは一粒の種子がもつ限りない可能性を実証しつつ世界 をかけめぐり、世界を変えていったのです。農林10号の 物語には、壮大なロマンを感ぜずにはおられないのです。 [1,p267] この「種子」を「ゆめ」という言葉に替えても良いだろう。 一つの「ゆめ」が多くの人々との出会いを通じて、世界をかけ めぐり、世界を変えていったのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(125) 蘇るアフリカの大地(上)〜笹川グローバル2000の開始〜 餓死者200万人のエチオピアの農業再建に笹川は立ち上がっ た b. JOG(126) 蘇るアフリカの大地(下) 〜緑の革命〜 「日本よ、ありがとう」蘇った緑の大地に感謝の声が湧き起こっ た ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 千田篤『世界の食糧危機を救った男―稲塚権次郎の生涯』★★、 家の光協会、H8© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.