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■■ Japan On the Globe(559)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪: 大和言葉の世界観 「鼻」は「花」、「目」は「芽」。大和言葉に は古代日本人の世界観が息づいている。 ■転送歓迎■ H20.08.03 ■ 38,449 Copies ■ 2,906,730 Views■ ■1.目と芽、鼻と花、歯と葉■ 目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)。顔 と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれて いるのは、偶然だろうか? 万葉学者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通して いるからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように 見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のハーツも、 「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じ ようなものと考えていたようだ。 たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、 植物の枝先の先端に咲く。そして岬の端も「はな」と呼ぶ。薩 摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「かわりばな」 「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味も 持つ。 「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がつ いたものである。「から」が植物にも使われた例は、稲の茎の 「稻幹(いながら)」、芋の茎の「芋幹(いもがら)」などの 言葉に残っている。 古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」 と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。 もう明らかだろう。我々の先祖は、植物も人体も同じものだ と見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」な のだ。こうして古来の大和言葉の源を辿っていくと、古代日本 人の世界観が見えてくる。 ■2.咲く、幸い、盛り、岬、酒■ 花が「咲く」のと、人の「幸い」も同根である。「幸い」は 「さきはひ」で、「さく」と「はひ」に分かれる。 「さく」は「咲く」である。ものがそのピークの状態になるこ とを意味する。ちなみに「花盛り」の「盛り」も、「さか」+ 「り」で、花が咲きあふれているピークの状態を意味する。岬 も「み(美称)」+「さき」で、海や湖に突出した形状の土地 を指す。お酒の「さけ」も、酒を飲むことで、気持ちが高揚し、 幸福感を抱く。 「はひ」は「延ふ」で、ある状態が長く続くことを指す。「味 はひ」は、「あの人の言葉には味わいがある」と言うように、 「長く続く味」を意味する。 とすると、「さきはひ」とは「咲く」という花の満開状態が 「延ふ」、長く続く、ということになる。心が花開くような嬉 しさが、持続的に続く状態と考えれば、古代人がこの言葉に込 めた語感がよく伝わってくる。 現代人は「幸福」とは何か、などと抽象的に考えるから、訳 が分からなくなる。「さきはい」とは「心の中に花が咲きあふ れて、長く続く状態」と知れば、それはお金や地位などの外的 物質的なものに関わりなく、純粋に心の有り様であることが分 かるだろう。 ■3.人と草木の一生■ 草木が春に芽ぐむことを「萌える」と言う。「萌える」は 「燃える」と同じで、火が盛んに起こった状態を指す。「仕事 に燃える」「燃える恋」などと、人が心の中で情熱を燃やして いる状態にも使われる。 人が最も燃える時期が「青春」だが、同様に春に草木の生命 力が盛んに燃えて、新しい芽を出すのが「萌える」である。 この後に、前述の「花盛り」を過ぎて、実が「なる」時期が 到来する。「なる」は人にも使われて、現在でも「大人になる」 「人となり」などと使われる。「なる」とは、そのものの生命 力が発現された状態を指した。 やがて人も草木も老いて、生命力を失っていく。植物では水 分を失ってしおれる事を「しなゆ」と言った。「ゆ」は自然に そうなる事をいい、「しぬ」は「萎(しな)える」、水分を失っ て、くたっとなった状態を指す。「しぬ」は、人間の「死ぬ」 にも使われているが、本来の意味は命が絶えた状態ではない。 植物の命が絶えるのは「枯れる」である。完全に水分が失わ れた状態を指す。「枯れる」の古語は「離(か)る」と言い、 人間で言えば、魂が体から離れることを言った。 体から離れた死者の魂は、「ねのくに(根の国)」に戻ると 古代日本人は考えた。「ね」は母なる大地である。そこから、 人も草木もまた「たね」を育み、「め」を出し、「はな」を咲 かせていくのである。 ■4.「生きる」「息」「命」■ 「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」は、どれも「い」 で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これ は息(いき)と同根である。息をすることが、生きることであ る。だからこそ、息をする器官である「鼻」が、顔の中心だと 考えられたのである。 「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほ かにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢れを避けること)」 「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を 持つ。 「いのち」の「ち」は不思議な力を持つもの、すなわち霊格を 表す言葉で、「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち (父)」などに使われている。生けるものの体内を流れる「血」 も、不思議な力の最たるものであった。この「ち」に「から (そのもの)」を合わせた言葉が「ちから(力)」である。 「ちち(乳)」も、生命を育む不思議なちからを持った存在で ある。 したがって、「いのち」は「忌(い)の霊(ち)」とでも言 うべき、忌み尊ぶべき霊力である。そのような尊厳ある「いの ち」が、草木や人間に宿っていると、古代の日本人は考えたの である。 ■5.「たまきはる命に向う」■ 『万葉集』の相聞歌に、中臣女郎(なかとみのいらつめ)が大 伴家持に贈った、次のような歌がある。 直(ただ)に逢(あ)ひて見てばのみこそたまきはる命に 向うわが恋止(や)まめ お便りだけでなく、じかにお会いしてこそ、「たまきはる命 に向う」私の恋心も安らぐでしょう、という意味である。 「命に向う恋」とは、諸説あるが、ここでは、自分の生命力の 根源である「いのち」に相対して、それを苦しめている恋心で ある、とする説をとる。「いのち」が人を生かしめている不可 思議な力である、とすればこそ、それをすら苦しめる恋心の強 さが感じ取れる。 「たまきはる」とは何か。「たま」とは霊魂である。「きはる」 は「きわめる」の古語「きはむ」で、極限(きは)を求めるこ とを意味する。わが魂の根源にある「いのち」、それが「たま きはるいのち」だと考えられる。 「命に向かうわが恋」を「命を賭けた恋」とする解釈もあるが、 それでは「成就しなければ命を捨てよう」という、迷いも苦し みもない意志的な生き方となる。「魂の根源にある生きる力を 苦しめている恋」に比べれば、きわめて平板な人間観になって しまう。 ■6.「恋ふ」「思ふ」「悲し」■ 「恋い」とは、「魂乞(たまご)い」であり、恋人の魂を乞う ことだ、というのが、国文学者で歌人であった折口信夫の説で ある。「恋い」と「乞い」は、古代の発音は多少異なっている が、だからこそわずかな意味の違いを持つ仲間語だとも言える。 「乞ふ」とは離ればなれとなっている恋人同士が、互いの魂を 呼び合うことだった。魂の結合こそが、恋の成就だったが、そ れがなかなか実現しない切なさ、それこそが「こひ」だった。 そう考えれば、「わが恋止(や)まめ」とは、「あなたの魂 を乞う思いが、ようやく止まるだろう」という切なさが伝わっ てくる。 「恋ふ」と同様な言葉に「思ふ」がある。現代語でも「あの人 を思っている」と言う。「おもふ」の「おも」は、「重い」の 「おも」であり、心の中に重いものを感じとることが「思ふ」 である。「あの人を思ふ」「国の行く末を思ふ」とは、大切な ものの重みを心の中に感じながら、あれこれと考えることであ る。 「悲し」という言葉もある。「妻子(めこ)見れば かなしく めぐし」とは大伴家持の長歌の一節である。「かなし」の語源 は「かぬ」で、今日でも「その仕事はできかねる」というよう に、力が及ばなくて、果たすことができない、という意味であ る。「会いたいのに会えない」「幸せにしてやりたいのにでき ない」、そのような愛するものに対する、切なる悲哀を表す言 葉が「悲し」であった。 ■7.「ねがふ」「いはふ」「のろふ」■ 求婚することを古代の日本語では「よばふ」と言った。「よ ばふ」とは「呼ぶ」+「ふ」で、「ふ」は継続を意味する。 恋人の魂を「呼び続ける」ことである。 同様に「妻子の幸せを願う」などと言う時の「願う」は「ね ぐ」に「ふ」がついた言葉で、「ねぐ」とは「和らげる」とい う意味。神様の心を和らげて、何度もその加護を願うことだっ た。神職の一つに「禰宜(ねぎ)」があるが、これは神の心を 和ませて、その加護を願う仕事を指す。 同様に、「いはふ」は「言う」を続けること。神様を大切に する気持ちを繰り返し言うことで、これが「斎ふ」という言葉 になった。 「のろふ」は、「のる」+「ふ」で、「のる」を続けることで ある。「のる」は「祝詞(のりと)」、「名のり」などに、残っ ているように、「重大なことを告げること」を意味する。転じ て、神様の力を借りて、相手にわざわいをもたらそうとするの が「のろふ」である。 日本の神様は、それぞれに支配する範囲が決まっていて、時 おり、その地に降りてきて、人間の「ねがひ」「いはひ」「の ろひ」などを聞いてくれる。その神様に出てきて貰うために、 笛を吹いたり、囃したりして、「待つ」ことが「まつり」だっ た。その動詞形が「まつる」である。 古代日本人にとって、神様とはそのような身近な具象的な存 在であった。 ■8.「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」■ そうした神様の元祖が「天之御中主神(あめのみなかぬしの かみ)」である。「天(あめ)」の「御中(みなか)」にいる 「主(ぬし)」である。 「天(あめ)」は「海(あめ)」でもあった。「天」は「海」 のように青く、そこからときおり「雨(あめ)」が降ってくる。 そんなことから、古代日本人は天には海と同じような水域があ ると考えたようだ。 水が大量にある所を「海(うみ)」と言う。「うみ」は、昔 は「み」とも言った。「みず」の古語は「みづ」だが、これも 同じく「み」と言った。一面にあふれることを「みつ(満つ)」 と言う。 この「みつ」から「みづみづし」という言葉も生まれた。 「瑞穂(みずほ)の国」とはわが国の古代の自称であるが、水 を張った水田に青々とした稲穂が頭を垂れている姿は、古代日 本人のふるさとの原景なのだろう。 ■9.和歌は日本人の固有な韻文に対する自負と誇り■ 以上のような大和言葉で歌われるのが、和歌、すなわち「日 本の歌」である。和歌は神様を褒め称えたり、恋人に思いを伝 える時に使われる特別な形式であった。 「いのち」という言葉に根源的な生命力を感じたり、また「恋」 という言葉に、相手の魂を乞う、そのような濃密な語感を込め て、和歌は神や恋人に思いを伝えるものであった。 そのような和歌を集めた歌集として、現存する最古のものが 万葉集である。雄略天皇(第21代、5世紀後半)の御歌から始 まり、農民や兵士など一般庶民の歌まで収められたまさに「国 民歌集」であるが、その中に使われた外来語は16語くらいし かない。 当時の語彙の数は、「古代語辞典」で解説されているものだ けでも8千5百語ほどあるが、そのうちのわずか16語である。 それもこれらのほとんどは、「法師」「餓鬼」「香」などの仏 教用語で、巻16の戯れの歌などに使われているのみである。 万葉集は、歌い手としては天皇から一般庶民に至るまで区別 なく登場させているが、外来語は排除し、「大和言葉」で表現 された思いを集めようとする意図が徹底されているのである。 現存する日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』は、 万葉集とほぼ同時期に編纂されている。その時期に我が先人た ちは中国から入ってきた漢詩に対抗して、外来語を排して大和 言葉だけの和歌集を編んだ。この点について、中西進氏はこう 語る。 このいきさつを考えると、和歌は日本人の固有な韻文に 対する自負と誇りを示すものと思われる。漢詩とあい対立 せしめつつ、わが国の韻文を対等に位置づけようとしたも のであった。[2,p116] 日本語は歴史的に中国や西洋の概念用語も積極的に取り入れ つつ、最先端の科学技術論文にも使われている現代的な論理的 言語となっている。と同時に、その根源にある大和言葉は太古 の日本人の世界観・人生観をそのままに伝える詩的言語である。 これは世界最古の皇室を戴きながら、世界の経済大国・技術 大国であるというわが国の姿に良く似ている。言葉と国柄とは、 お互いに支えあうもののようだ。「祖国とは国語」という言葉 が改めて思い起こされる[a]。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(318) 国語の地下水脈 日本人の感性を磨いてきた名文を暗誦すれば、生きる力が湧 いてくる。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』★★★、新潮文庫、H20 2. 中西進『日本語の力』★★★、集英社文庫、H18 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「大和言葉の世界観」に寄せられたおたより ヤマトさんより 今回の記事内容で思い出されるのが、ここで以前取り上げら れた上智大学のトーマス・インモース教授の言葉です。 「深い泉 この國(日本)の過去の泉は深い」は今回の内容と 相まって理解しやすくなった。虫の鳴き声を雑音として処理す る外国語脳に比べ、虫の鳴き声を“生き物”の声として聞き分 ける日本語に秘めたる不思議な力。この不思議な力の一片をか いま見たように思います。 「けんいち」さんより 生まれついて以降、日頃無意識に用いている日本語に、こん な深い意味合があるとは知りませんでした。 小学校時代は無条件に大和魂を強要され、英語排斥、日本語 使用優先でした。権力にしたがわず情緒に訴えず、このような 説明を基にして同じ事をしたなら、自発的に行なえて今の時代 にも残った事でしょうに、残念です。 いつも無意識に見ているお宮のしめ縄も謂れがあることを最 近知りました。あの宮沢賢治は教え子に以下のように語ったそ うです。 しめ縄は雲を表現し、下がりの藁は雨、折れた紙は雷光を表 現している。雷の放電で空中の窒素が固定されて雨に溶け、田 畑に降り注ぎ肥料となる。だから雷の多い年は豊作になる。 この科学的な裏づけはともかく…神社で私たちがしめ縄の下で 参拝するのは、豊作を祈り自然に感謝する姿に他ならず、幸い を願う理屈あるきわめて自然な姿ということになります。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 「稲妻」は、「稲」の「伴侶」という意味だそうです。© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.