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■■ Japan On the Globe(562)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 井上成美 〜 剛直、憂国の人生 毎年8月15日、井上は海に向かって瞠目し、 戦争を阻止できなかった事で、自らを責め続けた。 ■転送歓迎■ H20.08.31 ■ 38,495 Copies ■ 2,926,881 Views■ ■1.「殺されるのがこわくてこの職務がつとまるか」■ 「井上! 早く判を押さんか!」南雲は毎日、井上の部屋に来 ては、声を荒げた。昭和8(1933)年3月、東京の海軍省でのこ とである。 南雲とは、南雲忠一大佐・軍令部第2課長、後に第一航空艦 隊司令長官として、真珠湾攻撃を指揮する人物である。対する 井上成美(しげよし)大佐は海軍省軍務局第一課長。ブルドッ グのような精悍な顔つきをして、机を叩いて迫る南雲を、額の 広い知的な風貌の井上は、静かに見据えるだけであった。 南雲が承認を迫っているのは、軍の統帥、編成、人事など一 切の権限を海軍省から軍令部に移してしまう、という案だった。 海軍省は内閣の一員である海軍大臣の管轄であるが、軍令部は そうではない。そういう機関に大きな権力を持たせることは、 憲政政治の原則に反するし、また軍の独走の危険を生む、と井 上は危惧した。それで、一課長の身で、改正案に立ちはだかっ たのである。 「おいっ、井上! 貴様みたいなものわかりの悪い奴は殺して やるっ!」と南雲が詰め寄った。井上は怒鳴り返した。 殺されるのがこわくてこの職務がつとまるか。いつも覚 悟をしておる。脅しにもならんことを口にするな! 井上は静かに机の引き出しから、一通の白封筒を取り出し、 南雲の目の前に突きつけた。「井上成美遺書」と墨書してある。 さすがの南雲も、これにはたじろいだ。そこをすかさず、井上 は「南雲! よく聞け、おれを殺したとしてもおれの精神は枉 (ま)げられないぞ」と一喝した。 ■2.「軍人はああでなければならない」■ 軍令部は井上説得を諦めると、今度は伏見宮軍令部長を動か し、宮は大角(おおすみ)海軍大臣に「この案が通らなければ、 軍令部長を辞める」と迫った。ここに至って、海軍省は抵抗を 諦めた。井上は、寺島軍務局長に呼ばれて、「こんな馬鹿な改 正をやったという非難は局長である私が一身に受けるから、ど うかこの改正に同意して判を押してくれないか」と言われた。 井上は淡々と、しかし、きっぱりと自分の所信を述べた。 私は自分で正しくないと思うことにはどうしても同意で きません。この案を通す必要があるなら第一課長を更え、 この改正案に判を押す人を持ってきたらよいと思います。 ・・・こんな不正や理不尽が横行するような海軍になった のでは私も考えます。 井上は局長室を出ると、軍服から平服に着替え、これからは 平服の人生を歩む覚悟で海軍省を出た。 数日後、大角大臣が改正案を持って、昭和天皇にご裁可を仰 ぎに行くと、陛下は「こういうことは、よく考えてからにせよ」 と差し戻しにされた。これを聞いた井上は「陛下の大局を見据 えられたご判断が、必ず国を救って下さる」と思わず頭を垂れ て、感謝の黙祷をした。 事敗れた軍令部長の伏見宮は、海軍を辞めようとしている井 上に関して、人事局第一課長にこう命じた。 井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自 分の正しいと信じることに忠実な点は見上げたものである。 第一課長更迭は止むなしとしても、必ず井上は良いポスト に就けるように。 ■3.米内・山本・井上の名トリオ■ それから4年後の昭和12(1937)年2月、林銑十郎陸軍大将 を首班とする内閣で、米内光政大将が海軍大臣に任命された。 次官は山本五十六中将。米内は軍務局長に井上成美を抜擢した。 ここで世に言う、米内・山本・井上の名トリオが誕生した。 [a,b] 日支事変の動乱の中で、林内閣、近衛内閣、平沼内閣と目ま ぐるしく入れ替わったが、このトリオは留任を続けた。しかし この時期の3人の時間と精力のほとんどは、三国同盟阻止に費 やされた。 ドイツは日本を同盟に引き入れようと、ヒトラー・ユーゲン ト(青年団)30名を親善使節として送り込んだ。陸軍もそれ に乗ろうと、日独伊三国親善の夕べを東京の日比谷公会堂で開 いた。マスコミも同調して、さかんにドイツを持ち上げた。ヒ トラーの『我が闘争』が、ベストセラーとなった。 井上は『我が闘争』の原書を読んで、邦訳には、ヒトラーの 日本接近の真意と、日本民族への蔑視を現した一節が削除され ていることを知っていた。「日本人は、想像力のない劣った民 族だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」とい う一節である。日本の同盟推進論者たちは、こんな事も知らず に、ドイツを信頼に足る友邦だと考えていたのである。 イタリアについても、井上はかつて駐在部武官として2年滞 在したことがあり、その国民性から「友とするに足る」とは、 どうしても思えなかった。 日本を手足として使おうとするドイツや頼りにならないイタ リアと組んで、イギリス、フランスのみならずアメリカまで敵 に回してしまう危険性を持つ三国同盟案に、米内・山本・井上 は徹底して反対した。 ■4.「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」■ 右翼は連日海軍省に押しかけ、建物の外から三人を「国賊!、 腰抜け! イヌ!」などと罵った。三人の暗殺計画まで乱れ飛 んだ。 その中でも、井上は特に強硬で、陸軍を中心に不穏な動きが あることを百も承知しながら、火に油を注ぐような発言を敢え てした。 陸軍が脱線をくり返すかぎり、国を救うものは海軍を措い て外にはない。国を救うためならば、内閣なんか何回倒れ たってよいではないか。 三人が徹底して抵抗している間に、昭和14(1939)年8月、 独ソ不可侵条約の締結が公表された。ドイツは、ソ連を仮想敵 国とした同盟を提案していながら、その裏で日本を裏切ったの である。平沼内閣は総辞職し、三国同盟案は瓦解した。 4代に及ぶ内閣の海軍大臣を辞して、米内が8月30日に宮 中に離任の挨拶に伺った際、昭和天皇は「海軍がよくやってく れたおかげで、日本の国は救われた」と語られた。 その二日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵入して、第 2次大戦が勃発。この時点で、三国同盟を結んでいなかった日 本は、自動参戦を避けることができた。 米内は軍事参議官に退き、山本は連合艦隊司令長官、井上は 支那方面艦隊参謀長に転出し、ここに名トリオは解散した。 しかし、この3人がいなくなると、ドイツの快進撃に「バス に乗り遅れるな」との空気の中で、翌年9月27日には三国同 盟が調印されてしまった。 ■5.「これは明治、大正の軍備である」■ 調印の数日後、井上は海軍航空本部長に任ぜられた。山本五 十六がかねてから主張していた「空の連合艦隊」構想を井上が 引き継いだ。 昭和16(1941)年1月、軍令部が「第5次軍備充実計画案」 を提出した。戦艦の対米比率が5割以下となるため、「大和」 型の超大戦艦3隻建造、などと平時としては最大規模の軍備計 画だった。 海軍省、軍令部の首脳会議の席上で、井上はこの案を真っ向 から批判した。 これは明治、大正の軍備である。・・・アメリカの軍備 に追従して、各種艦艇をその何割かに持っていくだけの月 並みの計画だ。いったんアメリカと戦争になったら、どん ないくさをすることになるのか、何で勝つのか、何がどれ ほど必要なのか、その計画がない。・・・この要求は撤回 せよ。 井上の一喝で会議は流会となり、「第5次軍備充実計画案」 は撤回された。 ■6.井上の「新軍備計画論」■ 井上は反対するだけでなく、かねてからの自分の考え方を 「新軍備計画論」にまとめた。 井上の考えでは、まず「日本海軍はアメリカと戦うための軍 備ではない。アメリカをして、日本と戦をすれば生やさしい事 ではすまぬ、と思わせて理不尽の事をアメリカが日本に迫る事 のない様にするのが第一義である」 実際に米国が日本海軍を本当に恐れていたら、ルーズベルト 大統領が、ハル・ノートなど無理難題を突きつけて、日本を開 戦に追い込むような政策はとれなかったであろう。[c] その目的のためには、どんな軍備を持つべきか。今後は艦隊 決戦などは起こらず、航空兵力の闘いになる。だから金を食う 戦艦だと建造する必要はない。航空母艦は便利だが、極めて脆 弱である。 それよりも太平洋上に散在する島々を「不沈空母」として活 用すべきである。対米戦は、これらの島々の取り合いになるの で、その要塞化を進める。実際の日米戦はこの読み通り、島々 の取り合いとなった。そして要塞化された硫黄島が米軍に日本 軍以上の死傷被害を与えた[d]。 戦前から日本が島々の要塞化に本気で取り組んでいたら、太 平洋での戦争は大きく様相を変えたはずだ。井上の建白書は戦 後、日米双方の軍事研究家から高く評価された。現在でも、米 軍が沖縄やグアムに駐留しているのは、同じ発想であろう。 井上は及川海軍大臣に「新軍備計画論」を提出し、「これは 自分の海軍に対する遺書のつもりで書いたものです。私はこれ で海軍を辞めます。それは海軍という所がバカバカしい社会だ からです」と辞意を述べた。井上の才幹を知る及川は「辞めさ せもしないし、首も切らんよ」と言った。そして「新軍備計画 論」は海軍省の倉庫にしまいこまれた。 ■7.「だから君じゃなければ駄目なんだよ」■ 井上は「対米戦は亡国につながる」として、海軍内を支配し かけている反米熱を一掃しようと努めた。しかし、その努力も むなしく、ついに昭和16(1941)年12月8日、真珠湾攻撃を もって、対米戦が始まってしまった。 その頃、第4艦隊司令長官として南方にいた井上は、真珠湾 奇襲大成功の祝いの言葉を述べた若い参謀を、「馬鹿者!」と 怒鳴りつけた。 昭和17(1942)年10月、井上は海軍兵学校長に任ぜられた。 山本五十六から命ぜられた際に、井上が「冗談じゃありません。 近頃のような軍国主義教育はできませんよ」とむきになって抗 議すると、山本は「だから君じゃなければ駄目なんだよ」と軽 く受け流した。 戦争の行く末を読んでいた山本には、和平終戦を実現するた めに井上を温存しておこうという狙いがあったのだろう。同時 に、戦後の日本を支える青年たちの教育を井上に託そうとして いたのかも知れない。 ■8.戦後を見据えた人作り■ 井上は11月10日、広島は江田島の地を踏んだ。井上自身 が、明治42(1909)年20歳で兵学校を卒業して以来、33年 の星霜が流れていた。 当時、海軍兵学校は即戦力となる将校の大量速成のために、 教育年限の短縮と大幅な入学者増を図っていた。年限の短縮の ために、英語を廃止しようという案が出た。この案は、井上が 「とんでもない。自分の国の言葉しか話せない海軍士官が、世 界のどこにあるか」と切り捨てた。 さらに井上は、兵器に関する実技教育よりも、躾や一般教養 による人作りに力を入れた。口にこそ出さなかったが、敗戦後、 青年たちが社会に放り出された時に困らないようにという配慮 だった。 この配慮は実を結んだ。戦後、兵学校の生徒たちは実社会の 各方面で力を発揮し、四半世紀後も「校長、校長」と井上を慕っ て訪ねてくるようになった。 ■9.終戦工作■ 昭和19年7月、井上は海軍大臣に就いていた米内から呼び 出され、「おい、(次官を)やってくれよ」と言われた。井上 は「冗談じゃありませんよ」と抵抗したが、戦争の幕引きをす るにはお前が必要だ、という米内の心中はありありと窺えた。 やむなく次官となった井上は、戦況を分析し、「一刻も早く いくさを止める工作をする必要があります」と米内に直言して、 その研究に教育局長をしていた高木惣吉を当てることの了解を 得た。 陸軍が「一億玉砕・本土決戦」を叫んでいる中で、終戦工作 は極秘に進める必要があった。井上は高木を健康上の理由で休 養処分とし、多額の機密費を与えて研究させた。 この高木が連絡役となって、和平勢力が結集し、東条内閣打 倒工作、終戦工作、そして昭和天皇による御聖断という歴史が 作られていく。[e] 終戦後、井上は一切の公職を断って、横須賀の海を見下ろす 断崖絶壁の上の洋館に隠棲した。食べ物にも事欠く貧窮生活だっ たが、見かねた近所の住民たちが、子供たちへの英語教育を頼 み、御礼にと野菜などを差し入れた。正規の月謝は頑として受 け取らなかったからだ。それでも日本の未来を担う子供たちの 教育に、井上は生き甲斐を感じた。 毎年8月15日になると、井上は海軍の礼服をまとい、終日、 海に向かって瞑目して過ごした。戦争で命を失った人びとを思 い、戦争を阻止できなかった事を自らを責め続けて、一日を過 ごした。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(407 米内光政(上) 〜 日独伊三国同盟の阻止 日本を三国同盟という戦争へのバスに乗せては ならない、と 海相・米内は戦った。 b. JOG(423) 失意の報国、山本五十六 華々しい経歴の陰に、山本五十六にはじっとこらえてきた事 があった。 c. JOG(096) ルーズベルトの愚行 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。 d. JOG(191) 栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人 「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」と、中将 は36日間の死闘を戦い抜いた。 e. JOG(408) 米内光政(下)〜 終戦への道 昭和天皇の平和への意思を体して、 米内は立ち上がった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』★★★、文春文庫、S57 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「井上成美 〜 剛直、憂国の人生」に寄せられたおたより 「田舎で暮らす3児の父」さんより 私自身、日本の将来が危惧される若者?に入るのかもしれま せんが、子を育てる親となって初めて一生勉強することの大切 さをしみじみと感じています。 育ててもらった両親には、もっと本、教養の溢れる家にして 欲しかったなど今更言えませんが、わが子にはせめて同じ思い をさせぬよう、自分自身でお手本となれるようせっせと読書な ど励んでいます。 やはり、私達(30歳台前半ですが)が受けてきた教育、特に 戦争、日本の歴史には、日本人として恥じるような内容こそあ れ、誇りを持てる部分はほとんど無かったように思います。はっ きり言って流れや内容無視の受験暗記用のみの年表でしかあり ませんでした。 私が大学生時に、韓国と香港の留学生と話したことがあるの ですが、「日本の大学生は、大学で何をしたいのですか?」と 言われたことがあります。大学に行く為に高校で勉強してきた だけの私には、何も答えられませんでした。 今号の「井上成美 〜 剛直、憂国の人生」を読み、さらにリ ンクをたどり、米内・山本・井上の3氏と昭和天皇の号へと遡 り、歴史の流れをよく理解できぬところもありながら読ませて いただきました。これまでの日本の戦争史と昭和天皇の認識が 完全に間違っていることに気づきました。また将来の事を思い 日本を遺された方々の姿に、何度も目頭が熱くなりました。や はり教育だ!と再認識いたしました。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 先人に感謝し、子孫のための使命感を抱くことが、「歴史に 学ぶ」ことの大切さだと思います。© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.