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■■ Japan On the Globe(583)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: C・W ニコル 〜 誇り高き日本人として 「私は、これからも誇り高き日本人として 精いっぱい生きていきたいと思っている」 ■転送歓迎■ H21.02.01 ■ 38,338 Copies ■ 3,047,668 Views■ ■1.「日本のどこがそんなにいいんですか」■ 英国生まれのC・Wニコルさんは、平成7(1995)年、日本国 籍を取得した。その理由を、こう語っている。 日本が私の家であり、もっとも愛する国だからだ。どの 国にもまして、私は日本でいちばん多くの時間を過ごして いる。家族も友人も世界中にいるけど、私のいちばん親し い人たちはほとんどが日本人だ。日本は私に衣食住を与え、 移動を許し、私を守ってくれる。[1,p201] こう言うと、よく「日本のどこがそんなにいいんですか」と 尋ねられる。そう聞くのは、いつも決まって日本人だという。 ニコルさんはケルト系日本人と自称する。ウェールズで生ま れたケルト人だからだ。これほどまでに日本を愛するケルト系 日本人に、「どこがそんなにいいんですか」と聞く日系日本人。 この光景に、現代日本人の精神的な問題が現れている。 ■2.「僕もニコルになりたいです」■ ニコルさんは1940(昭和15)年、英国西部のウェールズに生 まれた。実父は幼い頃に戦争で亡くなっている。 未亡人となった若く美しい母親に言い寄る男は多かったが、 5歳のニコル少年は客のミルクティーにミミズを入れたりして、 撃退した。 10歳になった時、母親は背の高い海軍軍人に出合った。ハ ンサムで男らしく、人を笑わせるのが得意な人で、その人の姓 がニコルだった。ニコル少年は「父親にするなら、この人だ」 と思った。母親が結婚した後、弁護士に呼ばれ、「お母さんの 名前がニコルに変わったのは知っている?」と聞かれた。父親 から「養子縁組をしたい」という申請が出ていたからだ。 少年は「知っていますとも。僕もニコルになりたいです」と 答えた。後にこれを聞いた父親は、男泣きしたという。 かくて私の苗字はニコルとなった。この名前は私の誇り だ。・・・私たちはたがいに選び会った親子だ。父が息子 を選び、息子も父を選んだのだ。[1,p12] 「父の自慢の息子になりたい」という一心で、シー・カデット (英国海軍の精神に基づいた青少年育成活動を行う慈善団体) に入った。将来は英国海軍に入隊するという野望を胸に秘めて。 学校は嫌いだったが、規律の厳しいシー・カデットの訓練は大 好きだった。 ■3.「日本人は残忍で恐ろしい国民なの」■ シー・カデットで柔道の手ほどきを受け、ニコル少年はYM CA柔道クラブに通うようになった。指導者は元コマンド、す なわち英国海兵隊特別奇襲部隊の隊員だった人物だった。茶帯 で柔道一級の資格を持っていた。 ニコル少年が熱心に柔道クラブに通う姿を見て、母親が言っ た。なぜおまえはそんなに「中国のレスリング」に熱中するの? ニコル少年が「柔道は中国ではなくて日本の格闘技だよ」と 答えると、母親は激怒した。 日本だって? おまえ、日本のスポーツをやっているの? 許しませんよ。いいかい、日本人は残忍で恐ろしい国民な の。戦時中、英国人捕虜にどれだけ残酷なことをしたか、 お前は知らないのかい? ニコル少年が「降参するからいけないんだ。日本の兵士は決 して降参しないよ。死ぬまで戦えと言っておくべきだったんだ」 と元コマンドの受け売りで口答えすると、母親は息子の頬を思 い切り平手で打った。 父親は泣き出した母親を抱きしめながら、ニコル少年にしば らく外に出ていろ、と顎で合図した。あとで、父親は「しばら くこの家で日本の話はしないことだな」とニコル少年を諭した。 ■4.初めて出合った日本人■ 柔道クラブでは、みなでお金を出し合って、ロンドンから黒 帯の先生を招き、3日間の特別講習をしてもらうことになった。 「小泉先生」という日本人の中でも一流の黒帯が来てくれると いう。 ニコル少年は小泉先生の姿を想像してみた。戦後の映画には 日本人の悪役がよく出ていた。それから察するに、ずんぐりと した体型で、太い首が肩につながっていて、脚は太くガニマタ、 目は細くつり上がっている。声はうなり声に近いだろう。 皆で駅まで迎えに行って、汽車から出てきた人物を見たとき、 これは何かの間違いだと思った。中背で、背筋がしゃんと伸び た引き締まった体つき、よく手入れされた口ひげと洗練された 服装、物腰。口から出てくる英語は、この上なく丁寧で非の打 ち所がなかった。こんな紳士が本当に黒帯の柔道家なのか。 小泉先生は、第二次大戦のはるか以前、日英同盟があった時 代に、講道館から英国に派遣された柔道5段の人物だった。 稽古の第一日目は、正しい並び方やお辞儀の仕方について、 たっぷりと講義を受けた。この人は本当に強い柔道家なのか、 と皆怪しんだ。 最後に、小泉先生は元コマンド教師に向かって、「見本に軽 く乱取りをやってみせましょう。お相手願いできませんか」と 丁寧な口調で頼んだ。そしていざ乱取りを始めると、小泉先生 は元コマンドの巨体を人形か何かのように易々と投げ飛ばした。 10分の間に、彼は何度も投げ飛ばされ、顔は真っ赤、全身汗 まみれ、息も絶え絶えっという有様になった。 この一部始終を見ていた、ニコル少年は、思わず唸った。柔 道に対する畏敬の念がふつふつと湧き上がってきた。そして、 小泉先生という初めて出合った日本人に対しても。この出会い を機に、ニコル少年は、いつか日本に行って武道を学ぼうと決 意を固めていった。 ■5.母親の日本人への反感を拭い去った金沢先生■ ニコルさんは、22歳で初めて日本を訪れた。母親は日本行 きを止めてもムダだと分かってくれたが、反日感情はなかなか 捨てなかった。 日本では空手を学んだが、その教師・金沢ヒロカズ先生が、 英国を訪問し、両親の住む町の空手クラブで指導をすることに なった。ニコルさんはぜひ両親の家に泊まるようにと勧め、金 沢先生は喜んでその申し出を受け入れた。 日本人への偏見とは無縁の父親は、ハンサムで礼儀正しい金 沢先生とすっかり仲良くなり、わしの「ヒーロー」と呼び始め た。さらに金沢先生の人間的魅力は、母親の心をほぐし、日本 人への反感を拭い去った。母親は、自分が今までとんだ誤解を していたと、周囲の人に言うまでになった。 戦争が生み出した憎しみを、一人の日本人が個人的なつきあ いを通じて、拭い去ったのであった。 武道のほかに、ニコルさんは日本にいる間に、もう一つ、心 動かされる経験をした。鬱蒼としたブナの森を歩いた時のこと である。 樹木の霊気に包まれた私の胸に、かつて経験したことの ない不思議な感動がこみあげてきた。私はその場に立ちつ くしたまま、頬を伝う涙をぬぐうことも忘れていた。ここ はエデンの園なのか。はるか昔のブリテン島で、ケルト人 の心を熱くしたのはこの感動だったのだろうか。[1,p212] ■6.「心から愛する日本のために力を尽くそう」■ ニコルさんが、日本で二度目の長期滞在を始めたのは、昭和 45(1970)年のことだった。そして昭和55(1980)年に、自然 豊かな長野県の黒姫に家を建てて定住した。 しかし、時あたかもバブル期の絶頂で、黒姫でも古い森林は 伐採され、川はコンクリートで固められ、湿地はゴミで埋め立 てられ、人びとは金儲けに目の色を変えていた。 山、川、野尻湖、それに澄んだ空気が気に入ってこの地 に住み着いた私は、この環境の変化に戸惑い、あれほど大 好きだった日本がなぜこのようになってしまったのか、あ れほど大好きだった日本人がなぜこの馬鹿げた騒ぎの愚か しさに気づかないのかと大いに悩み、落ち込んだ。 [1,p161] そんな時、生まれ故郷のウェールズから便りが届いた。そこ では、かつて炭坑の町として栄えて、すっかり木々のなくなっ た谷と丘に新しい森を作ろうという運動が展開されているとい う。ニコルさんは驚いて、自分の目で見ようと故郷を訪れた。 そして私は喜びと希望に満ちあふれた。そこには確かに 若い森があったのだ。人々がボタ山にバケツ一杯の土と苗 木を持ち寄り、森を作ったのだ。 このような土地に森がつくれるならば、私も日本ででき ることがある。もう文句ばかりいうのはやめよう、私も彼 らにならって心から愛する日本のために力を尽くそう、と 心に決めた。[1,p162] こうしてニコルさんは黒姫で、見捨てられた田畑や荒れ果て た林などを次々と買い集め、もともとそこにあったはずの木を 植え、丹念に手入れをして、森を育てていった。 ■7.「森を守るには手をかけなければならない」■ 森を守るには、手をかけなければならない、とニコルさんは 言う。 まず下草をはらい間伐を行って発育不全の木をとり除く。 これで土壌の養分がすみずみの木々に行き渡るし、地面に も太陽の光が届く。その結果、丈夫でまっすぐな若木の生 育が期待できる。草花にも生い茂る場所が与えられ、ラン、 ユリ、アネモネ、リンドウ、スミレ、その他さまざまな野 生植物が咲き乱れるようになる。 ただし、心がけたいことがある。下草狩りの際、小鳥た ちが巣をつくれそうな茂みを残してやることだ。木に絡み つくツル性食物を切る時も、クマや鳥が好きなヤマブドウ、 アケビ、サルナシなど実をつける植物は残しておく。 ・・・ その他の作業としては、池掘りと詰まった水路の清掃。 この作業の目的は、カエル、イモリ、水生植物に水生昆虫、 さらにサギ、カモ、カワセミといった水鳥の生息環境を整 えることにある。また、シジュウカラ、フクロウにように 木の開いた大きな「うろ穴」に営巣する鳥のために巣箱を 設置し、鳥たちが使っているかどうか常時、観察している。 [1,p217] 森とは、かくも多種多様な動植物が共生する場なのである。 ■8.「この一人の異邦人はやっと帰るべき故郷を得た」■ ニコルさんは「日本の原生林は日本の国の大切な宝です」と 言う。北海道の北の端から南の西表島まで、森の動植物の生息 地域がきわめて広い範囲にわたっている。生物学的に素晴らし い多様性をそなえ、まさに遺伝子の宝庫である。日本はそうし た遺伝子から得られた情報を医学や農業、工業に生かしながら、 日本の森のわずか2パーセントに過ぎない原生林を保つ先見の 明も持てないのか、と主張する。 それどころか、林野庁は天然混交林をつぶして単一種の針葉 樹を植える人員への給与支払いに、多額の税金を投入している。 その一方で、安価な外国産木材の輸入に反対し、国家一丸となっ て将来のために、健全な森を育てよう、という熱意がないこと を、ニコルさんは非難した。 また、森を保護するには、レンジャー(監視員)が必要だ。 密猟者を取り締まり、見学者を案内し、さらに遭難者の捜索救 助活動を担当する。カナダには4千人、アメリカにはその倍の レンジャーがいるが、日本には200人ほどしかいない。ニコ ルさんはレンジャー養成のための学校創設を環境庁に提案し、 実際に有志が設立した学校で、学生たちのフィールドワークを 指導するようになった。ニコルさんの育てた森がフィールドワ ークの現場として活用されている。 ケルト系日本人の年老いたアカオニにとって、森から貰っ た最高のプレゼントは森との一体感だ。私の死後も森は生 き続けてくれる。この一人の異邦人はやっと帰るべき故郷 を得た。正真正銘の日本の国民になれたのだ。[1,p220] ■9.「誇り高き日本人として」■ 「正真正銘の日本の国民」になれたニコルさんから見ると、現 代の日本人は「大切にすべき自らのアイデンティティーをいと も簡単に投げ捨てているように見える」。 日本人が最も大切にすべきものの一つに森がある。日本 は国土の70パーセントを木に覆われた世界に冠たる森の 国である。・・・私は、縄文時代以来、日本の文化的基層 は、森との関わりの中で築かれたものだと思っている。 ・・・人は死んで皆お山、すなわち森に還るというのが、 仏教が日本に伝わる以前から人々に根強くある死生観だと 思う。・・・ その森に対する意識が全く希薄になり、森を愛さぬばか りか、平気で原生林を破壊したりする日本人が出現してい ることが私には不可解でならない。[1,p224] 日本人が忘れ去りつつある、もう一つのアイデンティティー が武士道精神である。 私は日本の武士道に憧れる一方、父や父祖からは騎士道 精神を叩き込まれて育った。この二つに共通するものは、 自己犠牲の精神と勇気であり、それは私自身の願っている 生き方である。それにしても、日本人のモラル・バックボ ーンであり続けた武士道的精神がどこかに消え失せてしまっ たのはなぜだろう。[1,p225] ニコルさんが愛する日本人とは、森と心を通わせ、自己犠牲 と勇気の精神を持って生きる人々なのだ。 私は、これからも誇り高き日本人として精いっぱい生き ていきたいと思っている。[1,p226] (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(070) フランスからの日本待望論 現代人をして守銭奴以外の何者かたらしめるためには世界は 日本を必要としている。 b. JOG(582) 愛国心で経済再生 消費者と企業が、その消費と生産にささやかな愛国心を込め れば、日本経済は再生する。 c. JOG(390) 「鎮守の森」を世界へ 鎮守の森から学んだ最新生態学理論で宮脇昭は 国内外のふる さとの森づくりを進めている。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. C・W. ニコル『誇り高き日本人でいたい』★★★、アートデイズ、H16 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「C・W ニコル 〜 誇り高き日本人として」に寄せられたおたより 純夫さんより この記事の中では簡単にしか触れられていませんが,C. W. ニコルさんの実父は英国陸軍軍人で,第二次世界大戦の時シン ガポールで日本陸軍に処刑されています。ですからニコルさん の母上が日本人に対して嫌悪感を示すのは当然でしたでしょう。 しかしながら,C. W. ニコルさんが子どものころ,まだ第二 次世界大戦の傷跡が強く残っている頃ですら,日本人の本質を 正しく理解していた英国人が彼の周囲にいたということが,幸 運だったと思います。その代表的な人物が義理の父上であり, 小泉先生を招いた英国海兵隊特別奇襲部隊の元コマンドでしょ う。すなわち,英国海軍関係者には日本に対して好意的だった 人達が大勢いたということであり,それはとにもかくにも日英 同盟の時に地中海に派遣された日本帝国海軍第二特務艦隊の獅 子奮迅の働きによるものが大であると思っております。 以前にも投書しましたが,わたしの祖父はその第二特務艦隊 の駆逐艦榊の乗務員として地中海に赴き,ドイツのUボートに 撃沈された輸送船トランシルバニア号から1800人もの英国陸軍 将兵を救助しております。その1か月後に今度はオーストリア 海軍のUボートの攻撃により駆逐艦榊は大破し,艦長を筆頭に 58名が殉職しましたが,祖父は間一髪命拾いしております。 その記憶が英国海軍の中に残っているのでしょう。 この祖父の活躍が縁でC. W. ニコルさんの知己を得,彼の小 説「特務艦隊」(文藝春秋)には祖父が実名で登場しておりま す。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 実際に日本軍と戦った英軍将兵が反日感情を持っていなかっ たというのも、騎士道と武士道でつながっている処があるから でしょう。© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.