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■■ Japan On the Globe(599)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         人物探訪: 世界を駆ける「中小企業のおやじ」
                        〜 スズキ会長・鈴木修
                「心と心が通い合うことが重要だ」と、インドの
                国民車を育てた「中小企業のおやじ」は語る。
■転送歓迎■ H21.05.24 ■ 37,954 Copies ■ 3,121,911 Views■

    
■1.「鯨」と「蚊」■

     空前の不況に苦しむ自動車業界で、スズキの健闘が光ってい
    る。トヨタの営業利益が、前年の2.27兆円の黒字から一転
    して46百億円の赤字に転落。日産も14百億円近い赤字を出
    した。ホンダは2輪車の好調で、19百億円近い営業黒字を確
    保したものの、前期比では80%減。そんな中でスズキはさす
    がに対前期比では約半減だが、770億円の利益を出した。

     今から28年前の昭和56(1981)年、スズキはゼネラル
    ・モーターズ(GM)と提携した。世界一だったGMと、日本
    の「最後尾(1,p4)」にいたスズキの提携は、いかにも不釣り合
    いだった。新聞記者たちは「スズキは、GMに飲み込まれてし
    まうのではないか」と聞いた。

     その質問に、スズキ社長だった鈴木修は、こう答えた。

         GMは大きな鯨です。一方、スズキは、メダカよりも小
        さな蚊(のような存在)です。メダカなら鯨に飲み込まれ
        てしまうかもしれませんが、小さな蚊なら、いざという時
        には空高く舞い上がり、飛んでいくことができます。
        [1,p4]

     その鯨が、大嵐の中で海中深く沈み込み、浮上の様子さえ見
    せないのに、小さな蚊は強風の中でもなんとか飛び回っている。
    鯨が再浮上するには、スズキの持つ軽自動車を低価格で作る技
    術が不可欠だろう。「俺は、中小企業のおやじ」と自認するス
    ズキ会長兼社長、鈴木修のリーダーシップのなせる業である。

■2.掘っ立て小屋のオートバイ工場■

     鈴木修がスズキに入社したのは、昭和33(1958)年だった。
    大学卒業後、別の企業に勤めていたのだが、2代目社長の鈴木
    俊三の娘婿となるのと同時に、スズキに入社したのである。
    28歳だった。鈴木は入社した時の印象を、こう語っている。

         オートバイの生産工場に行って大変なショックを受けま
        した。工場といっても木造の平屋、いや、そんな立派なも
        のではなく、むしろ掘っ立て小屋といったほうが正確でしょ
        うか。・・・

         組み立てラインも、ベルトコンベアーではありません。
        工場では、オートバイを載せた手押しの台車を組長の笛の
        合図で従業員が押していました。「手動コンベヤー」で動
        いていたのです。[1,p72]

     当時は、日本全国に30社以上のオートバイメーカーがあり、
    その多くが浜松に集中していた。地元の浜松工業専門学校(現
    ・静岡大学工学部)の卒業生が、戦争からの復員後、ホンダに
    続けとばかり、次々に会社設立をしていたのである。スズキも
    その一つだった。

     ホンダの本田宗一郎もやはり作業服を着て、どう見ても町工
    場のおやじさんとしか見えないのに、「今にウチは世界一の二
    輪車メーカーになる」と事もなげに言っていた頃である[a]。
    日本の自動車業界の夢多き少年時代であった。

■3.「あると便利な」アルト■
    
     社長の娘婿だからといって、鈴木修は甘やかされたりはしな
    かった。逆に30歳の若さで新工場を建設するプロジェクトを
    任されたりして、苦労が続いた。しかし、同年配の同僚たちと
    力を合わせて、難関を乗り切っていった。

     昭和53(1978)年、社長に就任。低価格の軽自動車は、日本
    が貧しかった60年代には大きく伸びたが、高度成長が進むに
    つれて、本格的な乗用車が求められ、軽のシェアは新車市場の
    13%程度まで落ち込んでいた。軽自動車の市場がこのまま無
    くなってしまったら、スズキの商売の大半が消失してしまう。

    「本当に軽自動車の時代は終わってしまったのか」と考え続け
    ていたある日、かなり多くの人が「荷台のついた軽トラック」
    で通勤しているのに気がついた。「おい、なんでトラックなん
    かで通勤しているんだ」と聞くと、「そんなこと言ったって修
    さん、乗用車に乗れるような給料をくれんじゃないか」と答え
    る。このあたりは、まさに中小企業の社長と従業員のやりとり
    そのままである。

     よくよく聞いてみると、社員の多くは休日に畑で野菜を作り、
    出荷する時に軽トラックを使う、という。また奥さんが店をやっ
    ていて、仕入れを手伝うのに軽トラックが便利、との由。

     高度成長の頃には、乗用車があこがれの的で、商用車やトラッ
    クなどかっこ悪い、と思われていたのだが、この頃には、気軽
    に実用的なクルマを求めるニーズが広がっていたのである。

     そこで、ちょうど乗用車として開発されていたアルトを、後
    部に荷物を置くスペースをひろくとって「商用車」として売り
    出すことにした。当初の企画では、「アルト」という名は、
    「秀でた」という意味のイタリア語からとっていたが、鈴木は
    発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあ
    るときは買い物に使える、あると便利なクルマ。それがアルト
    です」とやって、会場を沸かせた。

     当時、軽自動車といっても60万円以上だったのが、47万
    円とし、それで利益がでるよう、徹底的にコストダウンをした。
    乗用車にかかる物品税15〜30%が商用車ならゼロになるの
    も効いた。47万円という価格は発表会で大歓声を呼んだ。

     アルトは大ヒットし、消えゆく運命にあると思われていた
    「軽自動車市場」を蘇らせた。軽自動車は今では日本の新車市
    場の3分の1を占めるまでになった。

■4.「1部品につき、1円コストを下げよう」■

     スズキの低コスト化への取り組みは、鈴木自ら、年に一回、
    国内外の工場を丸一日かけて隅々まで自分で歩き、ムダがない
    か、目を光らせる「工場監査」に表れている。本社の役員と幹
    部は原則全員出席なので、100人以上が鈴木について、現場
    をぞろぞろ回る。「監査」と言いながら、役員や幹部に、現場
    の苦労をわからせ、メーカーとしての原点を再確認するのも大
    きな目的の一つである。

     社長や役員・幹部がぞろぞろ回るといっても、決められたコ
    ースを歩く大名行列ではない。気になる生産ラインでは、現場
    の監督者の説明を聞き、それでも納得できなければ、そこの従
    業員をつかまえて話をする。天井を見上げて、「あの蛍光灯は
    必要なのか」と聞いて、灯りが必要なら天窓を開けて、日の光
    を取り入れるようにする。電動のコンベアがあれば、重力式の
    滑り台が使えないか、考えさせる。太陽光や重力はタダである。

    「製造業は1円の利益が生死を分ける」と言う。これは決して
    誇張ではない。スズキの売上を仮に300万台で3兆円、利益
    900億円とする。クルマ1台あたりの売上は100万円で、
    利益は3万円でしかない。仮に1台あたり2万点の部品からな
    るとすると、1部品あたりの利益はわずか1円50銭に過ぎな
    い。1円高くなれば、利益の2/3が吹っ飛ぶ。利益を少しで
    も多くする方法は、部品を1グラムでも軽くして、原材料の使
    用量を減らすことだ。

     スズキでは、こうしたことから「1部品につき、1グラム軽
    くしよう、1円コストを下げよう」という取り組みを行ってい
    る。これを単なる「ケチケチ」と考えるのは正しくない。ムダ
    を少なくして、価値ある商品を安く消費者に届けるのが、メー
    カーの使命だからだ。
    
■5.「真剣に話を聞いてくれたのはミスター・スズキだけだった」■
  
     こうした低コスト化への真剣な取り組みが、インド市場で花
    開くことになる。昭和57(1982)年、スズキはインドへの進出
    を決めたのだが、それはまさに「瓢箪から駒」から始まった。

     パキスタン出張中の社員が、帰りのエア・インディア機中で
    現地の新聞を読み、「インド政府が国民車構想のパートナーを
    募集」という記事を見つけた。その報告を聞いた鈴木は、「す
    ぐにインド政府に申し込んでこい」と指示した。日本では最後
    尾のメーカーだったので、「とにかく、どんな小さな市場でも
    いいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」とい
    う気持ちだった。

     ところがすでに募集は締め切りになっていて、スズキの申し
    込みは断られてしまった。鈴木は「いいか。セールスは断られ
    たときからだ勝負だ。あきらめずに掛け合ってこい」と再び、
    社員を現地に派遣した。その申し出も断られたが、3度目の掛
    け合いで、ようやく補欠で認められた。

     しばらくして、突然、インド政府の調査団がやってくる、と
    いう連絡が入った。運悪く、鈴木は前年に提携したばかりの
    GMとの話し合いで、アメリカに出張する直前だった。なんと
    か羽田に向かう際の時間をやりくりして、一行の泊まっている
    帝国ホテルに表敬訪問をした。

     30分程度のつもりだったが、先方が「作りかけの建物(工
    場)もすでにある」というので、細かなレイアウトを描きなが
    ら、3時間くらい話し込んだ。先方も熱心に耳を傾けていた。

     別れ際、いつまで日本にいるのか、と聞くと、「15日には
    インドに帰る」という。鈴木が米国出張から戻るのは16日だっ
    た。心残りだったが、「ぜひスズキの工場も見ていって下さい」
    と別れた。

     米国から帰ると、インドの調査団が帰国を伸ばして、鈴木を
    待っていた。彼らは、当然、他の日本メーカーとも話し合って
    いたが、「われわれと直接向かい合って、真剣に話を聞いてく
    れた社長は、ミスター・スズキだけだった。だから、もう一度、
    浜松に来たのです」と言った。当時は、日米自動車摩擦が深刻
    化していて、日本の大手メーカーはインドのことまで本気で考
    えているところはなかったのである。
    
■6.「個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは認めない」■
  
     調査団が帰国してから、2週間ほどで「基本合意書を交わし
    たいから、インドに来られたし」という連絡が入った。社内は
    騒然とした。「誰かインドに行った者はいるか」と聞いても、
    誰もいない。「そんなところでクルマがつくれるんですか」と
    いう疑問も出た。それでも乗りかかった船で、鈴木はインドに
    行って、調印した。

     インド側の責任者クリシュナムーティは「日本的な経営で構
    わない。全面的に任せる」と言った。ところが、実際にできか
    けの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってある。「事務
    所のレイアウトは日本流でやるはずだ。こんな個室で、社員と
    幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、できあがっ
    ていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。まさに日本の中
    小企業のおやじそのままのやり方である。

     昼食も労働者たちと一緒の食堂でとるという鈴木に、インド
    人幹部たちは非常な抵抗を示した。鈴木は率先垂範で、毎月イ
    ンドに行っては、昼食は社員食堂に行って、従業員と一緒に並
    んで順番待ちをした。幹部たちは冷ややかな目で見ていたが、
    半年もすると一緒に並ぶようになった。

     スズキ流では、幹部も作業服を着て、掃除もやる。幹部たち
    は「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と、言うことを
    聞かなかった。鈴木は「ふざけるな」と怒って、「工場運営は
    スズキの主導でやることになっている。それができないなら、
    インドにおさらばして日本に引き揚げる」と言った。

     クリシュナムーティが「ミスター・スズキがそこまで言うの
    なら、従おうじゃないか」と仲裁してくれた。そのうちに、リ
    ーダー格の人々が作業服を着て、現場のラインに出て行くよう
    になった。日本流が浸透し始めた。
    
■7.「息子の悲願が、ようやく今日、実りました」■

     実際に、車の生産を始めるにあたっては、従業員向けに15
    分ほどの短編映画『共に前進しよう』を作った。鈴木自身のシ
    ナリオで、最初に戦争直後の日本の焼け野原を映し、それから
    発展した日本の姿を映す。「ひとりひとりが一生懸命働いたか
    ら、日本もここまで復興できた」というメッセージである。

     また、社員食堂で管理職と従業員が一緒に席を並べて食事し
    ながら談笑している場面、従業員が病気で仕事を休むと班長が
    夜、自宅まで見舞いに行く場面などを映して、日本流の工場運
    営とは、どんなものかを伝えた。

     1983(昭和58)年12月14日、工場のオープニング・セレ
    モニーには、インデラ・ガンジー首相も駆けつけた。首相は
    「スズキがインドに日本の労働文化を移植してくれた」と称賛
    した。

     また、この日は首相の亡き次男の誕生日だった。次男は大の
    車好きで、国民車構想をぶちあげ、自ら工場建設を始めたのだ
    が、飛行機事故で不慮の死を遂げていた。この工場を引き継い
    だのが、スズキのプロジェクトだったのである。

     ガンジー首相は「息子の悲願が、ようやく今日、実りました。
    息子が生きていてくれたら、さぞかし喜んでくれたでしょう」
    と語った。子供を思う母親の気持ちは、どの国でも同じである。
    
■8.「心と心が通い合うことが重要だ」■

     アルトをベースにした車を売り出すと、作るそばから売れて
    いった。当時のインドでは、車は高関税もあって、普通の市民
    には手が届かない存在だった。現地で「マルチ800」と呼ば
    れている車は、2代目アルトを持ち込んだものだ。累計生産台
    数は270万台余に達していて、いまや「インドの国民車」と
    言っても過言ではない。

     新車販売におけるシェアも、多目的車を除けばスズキが50
    %を超えている。インドに行った日本人は、右を見ても左を見
    ても、日本で見慣れたスズキの「S」のマークのついた車を見
    て驚かされる。

     鈴木会長は、インド・プロジェクトの基本契約を提携したと
    き、インドでの記者会見で「人間は皆同じ。言語、風俗、習慣、
    環境が違っても、心と心が通い合うことが重要だ」と述べた。
    [1,p262]

     現場を歩き回って、1円でも安くしようという「中小企業の
    おやじ」だからこそ、良いクルマを一般大衆に手が届く値段で
    提供したいという相手国と、心が通い合うのである。日本国内
    に安住して「世界は一つ」などと夢想を語るのとは、本質的に
    異なる姿勢である。

     2007(平成19)年は、インド独立60周年だった。それを記
    念して『ザ・タイムズ・オブ・インディア』という大手新聞が
    「今日のインドをつくった人、育てた人」という特集を組んで、
    100人を選んだ。外国人はわずか3人だったが、その一人に
    鈴木が選ばれた。[1,p208]
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(283) 本田宗一郎と藤沢武夫の「夢追い人生」
   「世界一の二輪車メーカーになる」との夢を追い続けて二人は
   幸福な職業人生を生き抜いた。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 鈴木修『俺は、中小企業のおやじ』★★★、日本経済新聞社、H21

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「世界を駆ける『中小企業のおやじ』〜 スズキ会長・鈴木修」
  に寄せられたおたより

                                               エルさんより
     やはり、スズキの社長の中にも日本のよきものが生きていた
    からこそ、ここまでこれたのだと思います・・・彼がインドに
    目をつけたのは正解でした。

     これから日本とインドは大事な関係を構築すべきでしょうね。
    よき意思と、実行力・・自分から姿勢を示す生き方・・・これ
    が人を育てます・・・そういう人材最近すくなくなりましたね。

     でもまだまだ日本の中にも埋もれた宝がたくさんあるような
    気がします。

     私たちもよきものを見つけ出す目を養いたいものです。

     本当にアジアの時代になりました。日本の存在感を何をもっ
    て示すか?考えどころです。


                                                 豊さんより
     長年重工業メーカーに勤務し、直接間接にモノづくりの現場
    と関係してきた私にとってスズキのようなモノづくりに対する
    真摯な姿勢こそが日本の宝だと感じます。資源に恵まれず国土
    も狭隘な日本が世界の中で生き残って行くためにはやはりまじ
    めに物をつくること以外にはないのではないでしょうか?

     今回の世界同時不況の引き金を引いたのは凡そ常人では理解
    できないようなあやしげな金融システムの行き詰まりがその元
    凶でした。無から有を生むようなトリッキーなビジネスが世界
    経済の中心であると言うのは如何にも不自然かつ不健康な状態
    だと思います。金融は本来モノづくり等のための資金の調達・
    運用がメインであるべきで、所謂マネーゲームにうつつを抜か
    すことは金融業界自らがいずれは自分の首を絞める結果になる
    と知るべきでしょう。マスコミでは製造業のように実業の世界
    とは縁遠い業界でのし上がった成金をもてはやしていますが、
    これも苦々しい限りです。

     本当の意味で付加価値を加えユーザーのニーズにこたえる業
    種が産業の基本であるべきです。現在の金融業のように特定の
    しかも少数の投資家の利益のみを追求するような事業のやり方
    はビジネスの基本的な倫理に反するのではないでしょうか。話
    題になったホリエモンも本業ではなくマネーゲーム的センスで
    利益を上げ時代の寵児となりました。しかしどれだけ利益を上
    げたように装ってもそれは所詮アブク銭をつかんだだけで、ゲ
    ームの勝者ではあってもビジネスの勝者とは呼べないと考えま
    す。

     わが国が生き延びるためには地道なモノづくりが如何に大切
    かを再認識し、次代を担う若い世代がモノづくりの世界にどん
    どん入って来ることを希望します。


                                           朝雲学人さんより
     英語の勉強と、海外に向けて日本の良さを訴えるべく、英語
    でブログを書いております。世界中から届くメールやコメント
    を楽しみにしているのですが、アジアではスリランカとアフガ
    ニスタンからはまだメールが届いたことがありません。「スリ
    ランカ」をキーワードにして検索したときにブログの記事が出
    てくるように、いくつか記事を書きたいと思っていた矢先に内
    戦が終わり、貴メルマガにもスリランカの話題が載りました。

     そこで、これを大筋として翻訳し、ブログにUPしておりま
    す。また和訳ページを用意し、そこに貴メルマガへのリンクを
    書き込んでおります。8つに分割し、5月16日から書いてい
    ます。カテゴリーの選択でopinion(和訳)を選んでいただくと
    読みやすくなると思います。これから最終話を書いて終了です。
    推敲してUPするのは31日くらいになると思います。

     いろいろなテーマについて貴メルマガを通して知識を広めて
    いきたいと思っています。これからのご活躍をお祈りいたしま
    す。

    ブログURL:
    http://kumo.typepad.jp/weblog/opinion/index.html

■ 編集長・伊勢雅臣より

     朝雲学人さんのように英語で世界に発信いただけるのは、大
    変ありがたいことです。なお、弊誌の記事のいくつかは、
    PHP社の英語誌"JAPAN CLOSE-UP"に英訳転載されており、以
    下のホームページでもお読みいただけます。
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_ed.htm
 

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